子どものように澄んだ瞳には美しい花が相応しい。
君は何も知らないままでいい
ただ腕の中で安らかに夢をみていればいい。
H市に向かって電車に揺られると窓の景色がどんどん緑が多くなる。
志摩子さんの実家の小寓寺という御寺はバス停の行き先にもなるほど大きい。千尋は都会の喧騒から離れた、この長閑な土地が昔から好きだった。
緑が爽やかだった山は紅葉してすっかり衣替えをした。
赤と黄色の鮮やかな季節。
花より団子な千尋も志摩子さんも帰り道には紅葉をみて、千尋の髪のようだと笑いあった。
参道を掃き掃除する寺男さんに挨拶をして、本堂でお参りする。熱心な信徒ではないけれど仏様に挨拶もしないでお寺に入るのは気が引ける。マリア様には手を合わせるのを億劫に思うのに、こういうところが我ながら日本人だと思う。
自宅のほうにまわると丁度出かけようとしていたおじ様に会った。大きな寺の住職らしく大柄の豪快な印象の方だ。
「おかえりなさい、志摩子、千尋ちゃん。」
「ただいま帰りました。お父様。」
「ただいま帰りました、おじさま。」
おじ様は、
「わしはこれからお経をあげにいかなくちゃならんから。」
と忙しそうに出ていった。
「藤堂」の表札を横に玄関にはいると、和装の美人が奥から出迎えてくれた。
「ただいま帰りました。お母様。」
「ただいま帰りました。おばさま。」
「おかえりなさい、二人とも。」
お手伝いさんも通っているからか、自宅と云ってもお寺のつづきのようなもので、冷んやりした黒光りする木の廊下は年期を感じさせる。千尋の部屋は2階にある。志摩子さんの部屋はそのすぐ隣。
「千尋さん。今夜、一緒に寝てもいいですか」と志摩子ちゃんが尋ねてきた。いいよ、と頷くと着替えたらあとで伺いますと自分の部屋に引っ込んだ。もしかして、今日の「ちゃん」づけで思うところがあったのだろうか。
藤堂家の夕飯はお寺だから精進料理、というわけでもなく一般的な家庭料理と変わらないものだった。住職のおじさまも、今は修行の期間じゃないからということで一緒にご飯を食べている。
今日の食卓には千尋特製の茶わん蒸しも並んでいる。蓋のついた湯呑みをあけるとお出汁のいい香りがした。横目で志摩子ちゃんをみると一口一口を噛みしめるように食べている。その表情は心底幸せそうだ。
「この茶碗蒸しに入っている銀杏はね。千尋ちゃんと志摩子が拾ってきたものよ。」
「ほう。リリアン産か。」
おじ様とおば様も笑いながら食べている。
和やかな食卓に、なんだかいいなぁと千尋は思った。この時間がいつまでも続いてくれればいいのに、と思う反面、これも一年後には終わるのかと感傷的になってしまう。
「千尋ちゃんが志摩子のお姉さまになってくれるなんてな。この際、ウチの娘になるか?」
「はしゃぎすぎです。お父様。」
食後はお皿洗いを断られたので、志摩子ちゃんがいれてくれたお茶を飲んでのんびりしていた。
「檀家さんたちは千尋ちゃんが藤堂家の一員になると思っているみたいだぞ。」
「そうなんですか。」
おじさまの言葉に千尋は驚いた表情をした。
「うむ。あとは千尋ちゃんを男だと勘違いした連中が、婿候補ですか?なんて聞いてきてな。うっかり、わしもそうだと嬉しい、なーんて言ったり。」
「え。」
婿だなんて。私は周りからそういう風にみえていたのか。
「お父様。」
あ、この声はやばい。
おじさまと揃って志摩子ちゃんのほうをむくと、微笑んでいるが目は笑っていなかった。志摩子ちゃんは普段はマリア様かと思うほど温厚で柔和な人物だから、本気で怒ると肝が冷える。
「千尋さんに失礼でしょ?」
「はい。」
「志摩子ちゃん。私は別に気にしていないから、」
「そういう問題ではありません。」
お人形さんのように可愛らしい美少女の眼力にスキンヘッドの強面の男性が縮こまっている光景。どこの家庭もお父さんという存在は娘に弱いらしい。リリアン生の父親方は皆こうなのだろうか、なんて。
「あら、どうしたの?」
「仲のいい父娘の言い争いです。」
台所からやってきたおばさまが「珍しいわね」と呑気そうにお茶を飲んでいる。賢文さんがおじ様と喧嘩ををするのはいつものことだけど、志摩子ちゃんがおじ様に何か言うってことはあまりない。
「そうそう。お風呂を沸かし直したから志摩子と千尋ちゃんも入ってらっしゃい。今日は大きい方に入っていいわよ。」
「はい。」
「ありがとうございます。」
タオルや着替えなどを取りに部屋にもどる。
今日はお寺の大きい方のお風呂を使わせてくれるそうで、冷えた廊下を志摩子ちゃんと並んで歩く。
外はすっかり暗くて夜空には月がでていた。雲がないせいか肌寒かったけど、それがかえってわざさびを感じさせる。こういう暮らしをしていたら、青い目のお人形さんも自然と好みが和によるってものだ。
風呂場は他の人がつかったあとなのか、暖かかった。前の人の石鹸やシャンプーの匂いがまだ漂っている。木造の湯船は檜のいい匂いがして、これぞ日本の風呂、という感じがする。
「千尋さん、広いですから。」
そういって志摩子ちゃんが手を差し伸べた。
「ありがとう。」
ぼんやりした視界のなかで、右手をだすと志摩子ちゃんが掴んで洗い場に連れて行ってくれた。普段はいるお風呂だったら一人ではいっても問題ないのだけど、広い方のお風呂はあまり入る機会がないからか動作も自然とゆっくりになる。
「あー、いいお湯。」
手足をのばしてお湯に浸かると指先からしみじみとあたたまる。肩までつかってのんびりしていると、隣に志摩子ちゃんもはいってきた。ふう、と息をついて心地よさそうだ。
千尋は天井を見上げた。ポツリと額に落ちた雫がツッと米神に流れた。
学校のことも、家族のことも横において、ぼうっとお湯の揺らぎに身を委ねる。湯気があとから、あとから立ち上ぼり、白くたてこめている。
「お姉さまは、私が寺の娘だと周りに言った方がいいと思いますか。」
水面が大きくゆれた。
二の腕になめらかな柔らかい肌が軽くふれた。
「言っても兎角いう人はいないでしょう。」
「ですが、」
「決心はまだつかない?」
「だって、私の家のことを話したらお姉さまの事情も周りにばれてしまうかもしれませんもの。」
だから、と志摩子ちゃんが肩に頭をのせてきた。ふわりと石鹸の匂いがする。濡れた髪が素肌に張り付いてくすぐったかった。
「気遣いは嬉しいけれど、志摩子ちゃんは自分のことだけを考えればいいんだよ。」
「そういうと思いました。」
ふっと志摩子ちゃんが困ったように笑った気がした。
「たかが1年か2年の付き合いだもの。卒業すればそこまでよ。」
千尋はそれに気づかないふりをして呟いた。
「私は千尋さんのことが心配で......、」
「あがろうか。のぼせちゃいそう。」
その先の言葉を遮るように湯船からあがった。私の妹は優しい。そして危険な子だ。油断するとあッという間に絡めとられて抜け出せなくなりそう。
脱衣所でTシャツの上から紺色の浴衣を羽織っていると志摩子ちゃんもあがってきた。志摩子ちゃんの浴衣は白地に水色の花柄のはいったものだった。日焼けの跡もない、白いキメの細かい肌が薄紅色にそまっている。いまだに火照りやすいらしい。
しっかり身体の芯まであたたまったおかげか、帰りはそれほど寒いとは感じなかった。羽織の紐を玩びながら、ひたひた歩く。
「志摩子ちゃん、頭から湯気が出てる。」
「千尋ちゃんだって髪の色とあいまって燃えているようです。」
山の奥の境内はひっそりと静まり返っていて、二人分の足音だけが響く。それがどことなく、物悲しい。
「秋風にたなびく雲の絶え間より洩れいづる月の影のさやけさ、なんてね。」
口ずさむと「左京大夫顕輔ですね」と返事がかえってきた。月は先ほどよりも高い位置にのぼっている。随分長湯をしてしまったようだ。
「めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに雲隠れにし夜半の月かな。」
「もしかして根にもってる?」
「いいえ。ただ月にまつわる和歌で思い浮かんだのがこの歌だったんです。」
志摩子ちゃんは天使のように微笑んでいるが本当だろうか。月が綺麗だと言った後に、月が隠れる歌を持ってくるのは勘ぐってもしかたないと思う。
「私の帰る家はここだよ。」
「知っています。」
その声は普段の志摩子ちゃんよりも幼く聞こえた。
「今日の志摩子ちゃんはよく拗ねるね。」
「申し訳ございません。」
「いや、いいんだよ。妹は姉に甘えるもの。姉はどっしり迎えるもの。」
可愛い妹に愛しさをおぼえて、ほら、と手を広げると志摩子ちゃんはもじもじした後、ここでは人目につくので、と足早に歩いていってしまった。
「志摩子は相変わらずのようだな。」
「おじさま。」
物陰から感心した様子のおじさまが現れた。
「志摩子が我儘をいうなんて珍しい。どうしたら、わしらにも甘えてくれるようになるのかね。ひとつご教授いただきたい。」
「どうしたら、と言っても。充分おじさまたちに甘えているように見えますが。」
千尋は苦笑して答えた。
「千尋ちゃんの前だと志摩子も年相応の子供にみえる。あの子は小っちゃい時から千尋ちゃん、千尋ちゃんと私らよりも千尋ちゃんにべったりで。おまけに賢文にも懐いているし。」
はあ、とため息をつくおじさま。見かけによらず子煩悩な父親は娘にもっと遠慮なく甘えてほしいのだろう。実は志摩子ちゃんのいないところで、結構な頻度で愚痴られている。
「まあ、でも。先日、やっと相談してもらえたことがあってな。」
「そうなんですか。」
「なんでも、リリアンを卒業したらお姉さまが一人暮らしだから心配だ、と。」
頚を掻きながら悪戯な笑みを浮かべておじさまは千尋に教えた。悪い予感がする。
「何て答えたんですか?」
「卒業してもウチに住まわせたらいいといいました。」
「いつまでも御厄介になるわけにはいきませんよ。」
千尋が苦笑するとおじさまは豪快に笑った。
「ハハ。それだけ千尋ちゃんのことが大切なんだ。もちろんわしらも大切に思ってる。それこそ娘のようにな。」
「そのお気持ちだけで嬉しいです。」
むず痒さを誤魔化すように千尋は呟いた。
「それじゃ、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
おじさまは去った。
「あ、準備してくれたの。ごめんね」
「ふふ、ただ布団を出しただけですよ。」
「ありがとう。」
部屋に戻ると志摩子ちゃんがふたつ分の布団をしいて待っていた。並べると千尋の布団が大きくみえる。
「父か母に捕まりましたか。」
「おじさまのほうにね。」
やっぱり、と志摩子ちゃんは可笑しそうに笑った。
「何のお話をされたんですか?」
「貴女が卒業後も、私の下宿先の根回しをお願いしていたっていう話。」
「あら、バレてしまいました。」
志摩子ちゃんはコロコロ笑った。眼鏡をはずして掛け布団の上に寝っ転がると、志摩子ちゃんが顔を覗き込んできたのか視界が暗くなった。
「それで、どうして今日は一緒に寝ようと?」
文句ならいくらでも受けとめる準備はできている。
「とくに理由はありません。ただ懐かしくなっただけです。」
志摩子ちゃんは布団の上に座ると、浴衣の衿を整えながら呟いた。
「昔は部屋も同じでしたから、久しぶりに。」
「そう。」
部屋の電気を消して、布団の中にはいる。干したのか、ふかふかであったかい。まぶたが重たくなってウトウトしていると隣から「あの」と声がかかった。
「起きていますか。」
「うん。どうした?」
「あの、先ほどの廊下での、」
語尾が小さくフェードアウトした。廊下というと妹は姉に甘えるもの、というくだりだろうか。
「いいよ。志摩子ちゃんがしたいことなら何だって。」
「......一緒の布団で寝てもいいですか。」
暗くて表情は見えないけれど、声が恥ずかしがっている。撤回される前に、「ほら」と掛け布団を持ち上げた。
「失礼します。」
自分とは異なる体温が布団の中にはいってくる。志摩子ちゃんのほうが若干体温が低いかな。
「でかくてごめんね。」
「近くて落ち着きます。」
平均値を大幅に越えている自分とスラッとした体格の志摩子ちゃんが一つの布団に寝るとなかなかの密着具合だ。白薔薇様は知らないだろうな。うちの末っ子の抱き心地は祐巳さんにも劣らないってこと。祐巳さんを抱きしめたことがないから、わからないけれど。
「懐かしいついでに『お姉ちゃん』って呼んでみる?」
「いいえ、学校で間違えて呼んでしまったら困りますもの。」
「由乃さんの令ちゃんみたいに?」
向い合わせで、お互いの吐息も聞こえる距離。お互いの胸の柔らかさが薄い浴衣越しにつたわってくる。志摩子ちゃんの耳が心臓の上にピ卜とくっつけられた。私も片腕を志摩子さんの背中にまわした。
「私の心臓、ちゃんと仕事している?」
「はい。持ち主と同じで働き者です。」
洗ったばかりの髪は心なしかいつもよりも、ふわふわしていて指を漉くとスッと通る。感触が心地よくて何度も撫でていると腕の中からクスクス笑い声がした。
「こら、早く寝なさい。」
「だってお姉さまが撫でてくださるから。」
手を止めると、志摩子ちゃんがギュッと浴衣をつかむ。
「眠りにつくまで、どうか。」
「わかった。」
「おやすみなさい。お姉さま。」
甘い華やかな香りがする。暗闇に慣れた目が、胸元で安心しきった妹の表情をぼんやりと映した。おじさまの顔から考えると志摩子ちゃんは母親に似た顔立ちなのかもしれない。きっと、優しい方だったのだろう。生きていたら、志摩子ちゃんを置いてゆくようなことなんてしないはずだ。お父様だって、病気にかからなければここではないどこかで志摩子ちゃんを育てたはず。
志摩子ちゃんと私は似ている。
けれど、同じではない。
私の首には、「 」という「しるし」がかかっている。外せようにも外せない。ずっとついてまわる。人々は目ざとく「しるし」に気がついて指をさす。何が「 」なのか。
父が神父だったこと?
赤ん坊をおいていく母だったこと?
主は私を救ってはくれない。
いつだって私に試練をお与えになる。
まるで私が根をあげるのを待っているかのように。
「ううん。」
声にならない空気が腕の中から聞こえる。起こさないように気をつけながら、抱き直した。私と違って愛されている少女。恨めしいと思ったことがないとは言い切れない。だけれど、勘当してくれというほどに信仰心と家族への愛に挟まれて悩む、馬鹿真面目な姿はひたすら愛おしかった。
純粋で清らかな可愛い妹。
今はただ、いつか呪縛から解き放たれて自由になってくれることを願っている。新しい未来を描くほどの出会いがこの子に訪れることを待っている。
あと1年経てば、私は楽園から旅立つ。
おそらく、志摩子ちゃんは泣いてくれるだろう。
その時に涙をぬぐってくれる人がこの子の側についていてほしい。
腕の中で穏やかな寝息をたてるこの子はどんな夢をみているのだろう。楽しい夢をみているといいな。
川端康成の「眠れる美女」を思い出す。主人公が追憶と回想のなかに眠ったように、私の意識も遠のいていった。その夜にみた夢は春の花畑で志摩子ちゃんと昼寝をする夢だった。夢の中でも寝ているなんて、可笑しい話だ。でも、いい夢だった。
目が覚めると私はまだお姉さまの腕の中にいた。窓の外はまだ暗くて日の出前のようだ。お姉さまは寝ていらっしゃる。時計をみると、普段起きる時間まで1時間ある。
毎朝、膨らむ志摩子の癖っ毛と違いサラサラした真っ直ぐな髪が顔にかかっていた。起こさないように気をつけて前髪をあげると、安らかな表情だった。
お姉さまは普段は柑橘系の爽やかな匂いがする。でも、今は果物のような甘い匂い。胸元に潜り込んでスウっと吸い込むとひどく落ち着いた。大きな手が志摩子の頭を撫でた。起きたのかと思って様子を伺うと、まだ夢の中から完全に抜け出せてはいないよう。寝惚けただけみたい。
しっかり者のお姉さまの珍しい一面。あどけない無防備な表情をさらしてくれることが、志摩子への信頼の証のようで嬉しい。
お姉さまは物心ついたときから藤堂家に住んでいた。だから、はじめは千尋さんのことを本当の姉だと思っていた。血のつながりが一切ないと聞いたときは、驚きと悲しみで大泣きしてしまってお母様を困らせてしまった。
志摩子はなんだか、急にお姉さまの顔が見たくなって、肘をついて上体を起こした。普段は隠されているお顔。それは父親の生き写しらしい。髪も顔の形も、全て父から受け継いだと言っていた。
(こんなにも綺麗なのに)
しばらくの間、眺めていたらしい。白雪のような肌に朝日があたって輝くようだった。昭和のブロマイドみたいな濃い陰影が面におちる。
「学校でも顔を出したらいいのに。」
お姉さまが顔を隠している理由を直接聞いたことはないけれど、一つ確かなことは罪の意識があること。お姉さまは幼いころから自分は両親の神さまへの裏切りだと思いこんでいる。
起こさないようにお姉さまを包み込むように抱きしめる。
無意識か、志摩子のことも抱きしめかえしてくれた。浴衣をギュッと握り、胸に顔をうずめる千尋さんはまるで子どものように幼い。
お姉さまはクリスチャンではないというけれど、心の底では信じているからこそ、頑なに救いを求めることを禁じているのではないか。
差しのべられた手を握ることができない臆病なお姉さま。他人より別れが多かったばかりに、愛されることを恐れる人。
私たちはよく似ている。
でも、似ていない。
そんな不思議な存在。
まるで鏡合わせの虚像と実像。
相手を通して、恥じる我が身を見てしまう。
でも、根本的なものが違うから。私たちはどれだけ近づいても重なることはない。
私にあって千尋さんにないもの。
一つは信仰心。
だけれど、他にもたくさんある。
千尋さんにあって私にはないもの
それは言葉なんかでは言い表せられない。
いえ、言ってはいけないこと。
口にだしたら、私は千尋さんから離れられなくなる。
目を覚ました千尋さんは寒かったのかなと照れながら布団をたたんでいた。