学期末試験の休み時間。
福沢祐巳は愛するお姉さまの顔に泥をぬらないよう必死に最後の追い込みをしていた。ミス・平凡な祐巳だけれど、成績に関しては油断しているとあっという間に平均を下回ってしまう。
リリアン女学園の生徒会である山百合会の幹部や連なる姉妹はおしなべて優秀だ。ただでさえ、浮いていると思うのにこれ以上劣っている部分を増やすのは避けたい。
お姉さまは、授業をしっかり受けていれば問題ないと豪語するけれど、それは祐巳の頭には当てはまらない。ありがたい姉の言葉だけど無視する。
(でも、お姉さまだって一番をとるために陰で努力をしているのを知っているんだから)
お姉さまの同級生、白薔薇の蕾の千尋さまはさほど注目されていなかったときでも、お手伝いとして(少しは)納得できると言われていた方なのだ。この「少しは」っていうのは熱狂的な薔薇様方のファンからの嫉妬や羨望。
でも、学園祭で千尋さまの「怪人」をみてからはそういう方はぐんっと減ったらしい。一説によると、薔薇様方に折檻並みに詰められていた千尋さまへの同情票と言われているが本当なのだろうか。
(いけないいけない。集中しなくちゃ)
移ろいやすい思考を目の前の試験に照準を合わせる。祐巳だって千尋さまのようにお姉さまに相応しい人間だって証明しないと。教科書を机の上において、シャーペンを手に持った。
「——白薔薇様が、」
「千尋さまも——」
しかし、流石にクラスメイトの話に身近な人の名前が出ると耳が自然と傾いてしまう。白薔薇様は下級生に人気で何かと話題にのぼりやすい人だから、もともと噂の対象に祭り上げられやすい方だ。だけど、千尋さまが話題にあがるのは珍しい。それに、今の話している雰囲気は好きなアイドルについて語る温度というより、もっとこう密やかな秘密めいた響きを感じたから気になった。
後ろの方で話している集団に顔をむけると、一冊の本を手にした桂さん中心にコソコソ話をしているようだ。どうやら、文庫本の内容について話をしているみたいなのだけど、さっぱりわからなかった。祐巳は教科書の内容が頭にはいってこなくて、どうして文庫本と白薔薇姉妹が関係するのだろうと考えていた。
(聖さまそっくりの登場人物とか?それとも赤毛のヒロインが出てきたりして。)
自分で考えて否定した。
(いや、それだったらもっと明るいテンションになるはず。)
現実的に考えて、白薔薇様たちがその本を読んでいた、というほうがあり得るかもしれない。それで憧れの方に近づきたくて読んでみたら中身がとんでもないものだった、っていくら何でもそれはないか。
白薔薇家の末っ子である志摩子さんの席を見ると、彼女は雑誌でも眺めるように大学ノートを優雅にめくっていた。確か、以前、薔薇の館で勉強会したときに使っていたものだ。読むのに熱中しているのか、クラスメイトの様子には気づいていないようだ。
(って、志摩子さんより私のほうが集中しないと!)
あわてて、教科書に意識を戻す祐巳。クラスで1、2を争う志摩子さんだって、それに甘んじることなく勉強しているのに。
でも、白薔薇様と千尋さまのことが頭にちらついて、「日本史捨てちゃおうかな」なんて弱気になってしまうのであった。
「私もまだ掴んでいないのよね、それ。」
蔦子さんは腕組みをしながら「うんうん」とうなずいた。
今日の試験が終わったあと、祐巳はやっぱりどうにも気になって、蔦子さんを捕まえて意見を聞いた。クラスメイトたちは、祐巳と志摩子さんを避けるように下校しちゃうし、志摩子さんも気づいたら教室にいないし。話せる相手が蔦子さんしかいなかったというのもある。
「今のところ、クラスの中の一部だけで内緒話をしている程度だと思うんだな。他所のクラスはどうか知らないけれど、うちのクラスより盛り上がっていることはないはず。いくらなんでも、そこまで広まっていたら新聞部が大人しくしているはずがないでしょ?」
「そうね。」
「そういうこと、じゃあね。」
「待って。私も一緒に帰る。」
蔦子さんは噂よりも試験のほうが大事らしくて、祐巳もあわててスクールコートを着て後を追った。試験期間中は部活動も自粛している部が多いので、蔦子さんだけに限らず多くの生徒が早めに帰る。
昇降口で上履きを履き替えて外にでたとき。ふと、どこからかギターの音色が聞こえるような気がした。耳をすませると、うっすらと歌声も聞こえてきた。
空に吸い込まれるような、透き通った優しい声で、地上のリリアンは試験期間中でピりついているというのに、その人の周りだけ春風が吹いているようだ。
(何しているんですか!千尋さま!!)
聞き覚えのある声だった。
歌ってしまうくらい試験の手ごたえがよかったのだろうか。
「誰かは知らないけど余裕綽々ね。」
蔦子さんも祐巳と同じように校舎のほうを見上げた。
「フォークソング部かな。」
「さ、さあ。勉強に疲れた生徒が現実逃避しているんじゃない?」
お店やテレビで聞いたことがあるような曲なのだけど、題名が思い出せない。確か、英語だったような気がするのだけど。
一曲終わると、それ以降は聞こえなくなった。
「蔦子さんはこの曲知っている?」
「知ってるも何も、授業で歌ったでしょ。」
「え、そうだっけ?英語なのはわかるのだけど。」
「いやねぇ。祐巳さん。シューベルトの野薔薇よ。」
英語とドイツ語を間違えていたのか。
恥ずかしい。
「で、さっきの噂の件なのだけど、桂さんが持っていた本には当たりがついているわ。」
「知っているの?」
「表紙見てわからなかったんだ。ふーん。祐巳さん、そういうの読まないのね。」
「そういうのって。」
「ちょうどいい。寄り道しましょう。」
そういって蔦子さんは祐巳の腕をとって、道を斜めに横断した。おいおい、試験勉強はいいのか。
「と、図書館?」
「そ。」
「どうして?」
「口で説明するより、現物を見せたほうが手っ取り早いでしょ?この場に黄薔薇の蕾でもいたら、図書館に寄る必要はないんだけどね。」
なんで、そこで令さまが出てくるのだろう。もしもし、蔦子さん。確か話題の人は黄色ではなくて白じゃありませんでした?
頭の中がこんがらがって収集つかなくなっている祐巳とは違い、蔦子さんは堂々と曇りガラスの扉を押すと、怪訝な表情の祐巳を無理やり図書館の中に押し込んだ。
「こっちよ。」
蔦子さんと祐巳は司書の先生に一礼すると、中等部・高等部の閲覧室に入った。むあっとした暖かい部屋の空気が冷えた手足に心地よい。
「ええっと。どこだったかな?」
目的の書棚に向かって蔦子さんはどんどんどんどん進んでいく。試験期間中だから、机では多くの生徒たちが勉強していた。反対に書棚や貸出カウンターなどの側はガラガラだった。
「ここだ。」
蔦子さんが突然止まったのは文庫が沢山つまった棚の前だった。
「祐巳さんが目撃した本ってこんな感じだったでしょ?」
「すごい蔦子さん!タイトル見えていたの?」
無造作に取り出された一冊をみて、祐巳は大きくうなずいた。淡いピンクの花模様が印象的なとても綺麗な表紙。
「そんなわけないでしょ。私は一寸先もわからない近視よ。祐巳さん、こっちの本も見てみて。」
蔦子さんは一冊分空いた隣からもう二冊抜き取って「ほら」と祐巳に手渡した。
「あれ?」
同じ表紙なのに作者が違う。祐巳も棚からもう一冊抜き取って確認すると、やはりタイトルも作者も違うのに表紙が同じだ。
「全部一緒なの?」
「色違いで四色くらいあるんじゃなかったかな。本当に知らないんだ。」
「うん。」
「コスモス文庫。平均的な女子高生である祐巳さんがご存じないとは、ちょっと意外だわ。」
「仕方ないじゃない。最近、お姉さまの影響で本を読むようになってきたけれど、『そういうの』はお姉さまが選ばないのだから。」
「姉馬鹿もほどほどにね。」
聞けば、「コスモス文庫」っていうのは、宮廷社という出版社の少女小説を専門に扱った文庫の種類であるらしい。正確にはすべての表紙が全く同じというわけでなく、ピンクの他に黄色や青や白といった色でジャンル別に色分けされているという。
「ということは話題になっていた本の出版社はわかっても、題名まではわからないということ?」
「そうね。」
コスモス文庫の特徴から、表紙のデザインだけでは判定できないのだ。
「白薔薇様たちが読んでいた本をクラスメイトの方も買ったのかと考えていたのだけど。」
「白薔薇様はないわね。あの方、小説は読まないから。」
「白薔薇様が小説を読まないってどうして知ってるの?」
「今年の5月くらいだったかな。『リリアンかわら版』にインタビュー記事が載っていたわよ。あまり小説とか漫画は読まないんだって。」
「ふうん。」
難しい言い回しもよく知っているし、口も達者だから本をたくさん読んでいるのかと思ったら違うんだ。それじゃあ千尋さまが読んでいた本を白薔薇様も読みだしたっていう線はどうだろう。
「それも可能性は低いわね。」
「どうして?」
妹が好きな本を姉も読むのは自然な動機だと思うのだけど。そう思って尋ねると蔦子さんは声をひそめて答えた。
「白薔薇姉妹は特殊な姉妹だからよ。」
「特殊?」
特別ではなく特殊。なぜそう表現したのか疑問に思ったけれど、蔦子さんはそれ以上は教えてくれなくて、知りたかったら過去のかわら版を読んでと言った。
(時間を置いたら忘れちゃうんだろうな。)
今年のかわら版もろくに目を通していないのに、バックナンバーを引っ張り出して読むことなんてしたことない。そういえば、今年発行されたかわら版にしっかり載っていたという令さまと由乃さんが従姉妹だって事実も知らなかったのだから、自分のことながらおめでたい性格だと思う。
(ん?かわら版、令さま、少女小説。)
「あ。」
そこまできて、ようやく話がつながった。
「だからさっき令さまがでてきたんだ。」
「そういうこと。」
令さまはボーイッシュな外見に反して、中身が女の子女の子している。愛読書が少女小説というのだから、コスモス文庫にも詳しいだろう。
「黄薔薇の蕾だったらもしかしたら、推測できるかもしれないけれど。人の噂話とかに弱そうにみえるからどうかな。」
蔦子さんは人のことをよく写真で撮るからか、見る目が肥えている。確かに祐巳も一本気な令さまに噂の真相を尋ねるのは荷が重いな、と思っていたところだったのだ。
つまり、すぐに答えのでない噂を追うより、明日の試験勉強に力をいれたほうが有意義だということだ。