これから一週間は試験休みに入るかと思うと、これからの予定を思い浮かべて楽しくなる。ホームルームが終わった直後に祐巳さんが話しかけてきた。
「ねえ、志摩子さん。薔薇の館に行く前に千尋さまのところによらない?」
「どうして?」
祐巳さんは千尋さまに何かご用があるのかしら。すると、祐巳さんはじれったそうに答えた。
「あの噂、知っているでしょう?私、直接聞こうと思って。」
学園に流れている噂なら志摩子も知っている。家で千尋さまから気にしないようにと言われたばかりなのだから。
「私も祥子さまや令さまみたいになかったことにするのがいいのかもしれない。けれど、私は知らないふりして自然にふるまうなんて器用なことはできないから。」
腫物に触れるあつかいになるよりも、潔く正面からぶつかったほうがいいのではないかということだ。人にたいして真っすぐなところは祐巳さんの好ましいところ。
「そういう祐巳さんの強いところは素敵だと思うわ。」
悩んでいる背中を後押しするように志摩子は言った。
「じゃあ、志摩子さんも一緒に行こうよ。」
「私はいいわ。」
「ど、どうして。」
祐巳さんが驚いて志摩子に詰め寄る。
「実は千尋さまから噂について聞いたの。そして白薔薇様やお姉さまとは関係ないと仰っていた。だから、私の場合はそこで終わっているの。」
表情を暗くした祐巳さんに誤解を与えないように言葉を続ける。
「祐巳さんが千尋さまのことを知りたいと思うのはいいことだと思うから、遠慮せずに尋ねに行った方がいいと思う。お姉さまも嫌な気持ちはされないと思うわ。」
千尋さまと正面からぶつかるなんて志摩子にはできないことだから。
「わかった。」
祐巳さんが神妙な顔をして頷いたとき、校内放送が流れた。
『三年藤組、佐藤聖さん。二年藤組、細田千尋さん。至急、生活指導室まで来てください。繰り返します——』
(あら?)
噂をすれば影とはまさにこのこと。話題のお二人が生活指導室に呼び出された。
「志摩子さん......!」
反射的にだろう。すでに一歩踏み出したところで固まった祐巳さんが急かすように志摩子を呼ぶ。
「祐巳さん。お姉さまのことで何か行動を起こすにあたって、妹である私にいちいち断る必要はないわよ。だから、祐巳さんがそうしたいのならそうすべきよ。」
「気にならないの?」
「ええ。」
志摩子が即答すると祐巳さんは絶句した。
「早く行った方がよくはなくて?」
「え?」
「祐巳さんが尋ねにいくなんて知らないから、早くしないと生活指導室に行ってしまうわよ。」
今度は志摩子が急かすと、祐巳さんはあわてて鞄を抱えて教室を出て行った。名残惜し気に何度も振り返りながら。
(この違いはなんだろう)
すぐに千尋さまのもとに行こうとした祐巳さんと動かなかった志摩子。
千尋さまが「気にしなくていい」と言ったから、それを充実に守っているといったらそうなのだけど。
一歩。
踏み出せなかった自分に疑問を抱いてしまった。
「ごきげんよう。あら、志摩子は来ているのね。」
紅茶の準備のためにお台所でお湯の沸かしていると、紅薔薇様が志摩子に尋ねた。
「お姉さまが呼ばれたというのに落ち着いているわね。」
「あの噂のことでしたら、千尋さまから気にしなくていいと言われましたから。」
「さすが千尋。手を回すのが早いこと。」
黄薔薇様は笑うと令さまや祥子さまにも尋ねた。
「令たちは読んだのよね。あなたたちは聖が書いたと思った?」
「いいえ。似ているところはあると思いましたが書いたとは思っていません。」
つづけて祥子さまも答えた。
「今回の噂は似ていると思った方々が騒いだことが事情を知らない下級生に悪い形で広まってしまったと考えています。」
「そう。なら、動かないほうがいいでしょう。聖たちが呼ばれた件がその事ならすぐに嘘だってわかるもの。」
紅茶を蕾の方々に前に置くと、下から登ってくる足音が三人分聞こえた。
「ごきげんよー。」
白薔薇様だ。両脇に祐巳さんと由乃さんを抱えながら悠々としたご登場。千尋さまは後ろから呆れた様子でついてきている。
「どうしたんですか、お姉さま。」
「ちょっと、ね。」
お姉さまはなぜかジャージ姿だった。
手には見慣れない紙袋を二つ持っている。
(久しぶりに顔を見た気がするわ)
今朝は図書館で勉強をしたいからと、先に千尋さまが家を出たから顔も見ずに1日を過ごした。
お姉さまはこんなに痩せていただろうか。
家では部屋にこもって試験勉強に没頭していたせいか、心なしか頬も青白くみえる。お姉さまは勉強がお好きなのはいいけれど、熱中して徹夜することがあるので困ってしまう。
「ごきげんよう。あら、どうして千尋はジャージなの?」
「ごきげんよう。何があったの?」
紅薔薇さまと黄薔薇さまも運動部でもないのに、制服を着ていないことに驚いている。お姉さまは持ってきた焼き菓子を紙袋から取り出して、包装紙を開きながら答えた。
(いつ用意したのだろう)
母が千尋さまに頼んだのだろうか。それなら後から家を出る志摩子に頼むほうが自然ではないか。
「気が抜けたのか試験終わり間際に鼻血がでてしまって、アイボリーのところに垂らしてしまったんです。そして、目立つからとクラスメイトたちが部活の運動着を貸してくれました。」
「血の汚れはもう落としたの?」
「いえ、下手に擦るより家に帰ってからにしようかと考えています。」
志摩子がお菓子の出どころを考えていると、千尋さまはお話ししながら箱をつぶしている。お菓子は戸棚にあった籠に盛られていた。
「派手に呼び出されていたじゃない。」
「個人的には呼ばれたことがないから、ちょっと羨ましかったりして。」
「それはどうも。」
白薔薇さまは紅薔薇様と黄薔薇さまの揶揄いに手をふりながら、軽快に部屋に入ってきて空いている席に優雅に腰をかけた。呼び出しがどうなったのか気になるけれども、お姉さまが尋ねない以上、志摩子はそれに倣う。
「全員いることだし、ちょっと報告させて。由乃ちゃんや祐巳ちゃんには話したことなんだけれど、噂になっている小説の作者ね。あれ、私じゃないから。それに千尋も全く関係なし。以上。」
「それが呼び出しの理由なの?」
皆を代表して紅薔薇様が尋ねた。
「それで?」
つづいて黄薔薇様も尋ねた。
「私じゃない、ってはっきり言ったら解放してくれた。それだけ。私自身現物を読んでいないし、実際そういう噂が流れていること自体さっき知ったばかりだし。何か聞かれても答えようがなかったと思うのだけどね。」
先生方も、一応噂が流れているから確認しておこう、ぐらいの感じで尋ねてきたみたい。詰問みたいなことをされていないようで安心した。
「じゃ、この話はおしまいにしましょう。いかが、黄薔薇様?」
「異議なしですわ。紅薔薇様。」
薔薇様同士でも結論が出て、そんな風に話は終わりになった。
「千尋が鼻血ブーしてたおかげで、簡単に終わったよ。」
「お役に立てたのなら幸いです。。」
げんなりするお姉さまを笑いながら、白薔薇様は私が淹れた紅茶を「上品でいい」と褒めながら、優雅に飲んでいる。
「志摩子さんのいれてくれた紅茶は美味しいね。ホッとする。」
「ありがとうございます。」
お姉さまも紅茶を一口飲んで褒めてくれた。外は冬だけど心はポカポカで春みたい。お菓子のことは一旦、角に置いておくことにした。
久々のお茶会は試験の解放感もあって、噂のことでドタバタしたものの和気藹々とした雰囲気だった。机の上には紅茶の他に各自が持参した市販のお菓子が広げられている。
「あら、これ巴里のお店のものだわ。日本にもまだ出店していないのに。」
黄薔薇さまがお菓子の包み紙のお店の名前が書いてあるところを指差した。それはお姉さまが持ってきた焼き菓子だった。
「親戚から空輸で送られたものです。」
カチャっと手元で陶器ぶつかる音がした。
「志摩子さん、大丈夫?」
お姉さまの言葉に動揺して紅茶をこぼしてしまった。スカートにもかかってしまったようで、うっすら色が変わっているところがある。
「申し訳ございません」
「火傷していない?」
「はい、ぬるくなっていたので。」
ハンカチを出して広がる前に拭き取る。幸い、量が多くなかったので隣のお姉さまと白薔薇様には被害はなかった。
「祐巳ちゃんや由乃ならともかく、志摩子がこぼすなんて珍しいわね。」
「黄薔薇様、それってどういう意味ですか?」
黄薔薇様の言葉に由乃さんが食いついた。
「まあまあ、試験が終わって気が緩んだんでしょ。千尋の鼻血に比べたら可愛いもんじゃない。」
「今日の白薔薇家は賑やかね。」
白薔薇様の言葉を紅薔薇様が揶揄う。
話題はクリスマスのパーティーの軽い打ち合わせになり、お菓子のことは誰も気にしていなかった。だけど、志摩子の目は個包装の焼き菓子に釘付けだ。
「ほら、志摩子。遠慮せずに食べな。」
「ありがとうございます。白薔薇様。」
物欲しげにみえたのか、白薔薇様が箱の中から一個を志摩子のほうに放る。紅薔薇様が「はしたない」というけれどどこ吹く風だ。包装を開けてマドレーヌを一口噛ると濃厚なバターの風味と蜂蜜の味がした。
(お兄さまのものとはやっぱり違う)
箱の中を見ると淡い紅色のリーフレットがマドレーヌやフィナンシェの上にポツンとのっていた。何気なくを装って手に取る。光に反射する金色のアルファベットと十字のはいったロゴマーク。志摩子の予想が正しければ、これはお姉さまのお父様の生家のものなのだろう。
「気にいった?」
「はい。」
「よかった。」
お姉さまは笑っていた。
けれど、どうしてお菓子が送られてきたのかは教えてくれない。
お姉さまのご両親が既に亡くなっていることは知っている。そして、物心つく前に志摩子の家に預けられた。お祖父さまが亡くなって、お祖母さまが施設に入ってから、頼りになる親戚は叔母さま家族だけだと言っていた。
だから、長らく音信不通だった家族からの贈り物はお姉さまにとって喜ばしいもの。これを機にお手紙のやり取りも始まるかもしれない。
だけど、お姉さまに新しい拠り所ができたことを素直に喜べない自分がいる。志摩子はそのことにショックを受けてしまった。
(お姉さま)
机の下で私の右手を、千尋さまの左手が握った。
横目で見ると何とも思っていない顔で前をみている。恐らく、紅茶を零したことをまだ引きずっていると思われているのだろうか。
乾燥した手は志摩子の心も一緒に包み込むかのように大きい。泣きたくなるほど心地よい温もりだった。掌を上にして指を絡めて握ると、控えめに握り返してくれる。
(放さないで。ずっと、このままがいい)
お姉さまが先にご卒業されるのだから、いつか別れが訪れるのはわかっていた。志摩子も卒業後は修道院にはいる予定だから、会えなくなる覚悟ができていたつもりだった。そう、「つもり」だったのだ。
両親にシスターになりたいと告げた日から、何もかも置いて去っていく自分の姿を想像していた。だから、未練を残さないように、迷いが生まれないように、身軽であろうと思っていた。けれど、所詮は無理みたい。
『志摩子さん』
あの春風のように優しい声で呼ばれたら、雑踏の中でも聞き分けられる。そうして脇目もふらずに温かい大きな腕の中に飛び込むだろう。知らないうちに志摩子の中で千尋さまの存在は大きくなっていた。
出会ってから今日まで、千尋さまは志摩子の一番の理解者だった。シスターを目指すと宣言した志摩子を引き留めても、否定はしなかった。信仰に殉じたいという気持ちを尊いものだと言ってくれた。
『いつ繋いでもいい、いつ放してもいい。常に片手をあけておくから、独りになろうとしないで。』
お姉さまはこわくなるほど優しい。
振り返ればいつでもお姉さまの温かい眼差しを感じていた。それが心地よくて、いつの間にか離れられなくなっていた。
私はどうしようもないほど千尋さまに惹かれている。
右手にこめる力が強くなっていった。
許されるなら、片手だけでなく、両手を繋ぎたい。そんな胸のうちをご存知ないお姉さまは、志摩子に合わせて握る力を強くした。