楽しいお茶会も、自己嫌悪でいっぱいの祐巳にはそれどころではなかった。噂のことを尋ねたり探ったりせず、あっさりと納得した紅薔薇様と黄薔薇様の様子。
自分が教室で噂話をしていたクラスメイトや生活指導員室の周りに集まっていた野次馬の生徒と変わらないことに気づいて、恥ずかしくなった。白薔薇様のためと言いながら、好奇心から動いていたことを否定できない。申し訳なくて、白薔薇様や千尋さまのほうをみることができなかった。
(結局、私も白薔薇様の背後霊の一人だった)
志摩子さんも同じクラスにいながら、祐巳と違って噂に踊らされることはなかった。祥子さまも、令さまも、この件に関して積極的にならないのは、興味本位でうごいていないからだとしたら。そう考えるとかなり落ち込んだ。
「祥子ー、祐巳ちゃん貸して。」
お茶会がお開きになると同時に、白薔薇様が祐巳の首に腕をまわしながら叫んだ。
「それは別に構いませんけれど。」
「心配しなすんなって。制服脱がせて遊んだりはしないから。」
「ふざけたことをおっしゃっていると、お断りいたしましてよ。」
白薔薇様の挑発に慣れたのか、祥子さまは冷ややかにかわした。
「OK。残念だけど約束しましょ。令、由乃ちゃんも借りるわよ。」
「由乃さえよければ。」
令さまは快く承諾した。
「というわけで。後片付けは三人でやりますので、皆さんどうぞお先に。」
言葉は丁寧なものの、「皆さん」を厄介払いしようという強引さがあった。じゃ、よろしく、と声を残して次々に部屋をでていく。すると。千尋さまが志摩子さんの背中に手をそえて、白薔薇様のほうに差し出すように押し出した。
「よければ志摩子さんもいいですか。」
「志摩子がいいのなら。」
祐巳には白薔薇様が祐巳と由乃さんを残した意味はまだピンときていないのに、千尋さまはわかっているようだった。
「志摩子さん。せっかくだから白薔薇様のお話を聞かせていただきなさい。きっとあなたのためになる。」
何のためになるのか志摩子さんもよくわからない様子だけど、お姉さまから言われたことならと頷く。
「ごきげんよう。」
千尋さまも退場してしまった。ひるがえったスカートの裾が、今日はなぜか目に焼き付いている。
それにしても、志摩子さんって白薔薇様が千尋さまを抜きにして並んでいるのはなかなかレアだ。仲は悪くないと思うのだけど。かと言って良いかと思うと、それも違うみたいで。考えれば考えるほどわからなくなってくる。
「ところで由乃ちゃんでも、祐巳ちゃんでもどっちでもいいんだけどさ。『いばらの森』を持っていたら貸してくれない?」
祐巳と由乃さんは同時に鞄の中を開いた。目配せして祐巳が本をとりだすと、白薔薇様は由乃さんに「志摩子のぶんもお願い」と言った。
「私たちは例の本を読むから、その間に二人は腹ごしらえでもしておいで。」
食券を取り出して読み終わるまで食堂に行っておいで、と祐巳と由乃さんに渡した。その食券は裏にゴム印が押されている、大学の食堂でつかえる特別なものだった。
「いつだったか、担任の手伝いで夕方まで手伝い残業したときにもらったんだけど、一緒にいく人がいなくてねー。丁度いいから。」
「だったら、千尋さまと一緒に行けばよかったんじゃありませんか。」
呆れたように由乃さんが言った。彼女の中では『二』という数字は=姉妹という答えが出るのだろう。食券が二枚あるなら、後輩に渡さずに姉妹で行けばいいのに、というのが由乃さんの考えだ。
「千尋と?食堂は目立つから嫌だって、行きたがらないから無理よ。」
「白薔薇様に誘われたら行くかもしれませんよ。」
「そうね。でも、無理させてまで一緒に行きたくないわ。」
「でも、試しに声をかけるくらい。」
「これがいいのよ。私たちは。」
白薔薇さまは柔らかい口振りで語った。
まだ今ひとつ納得していない由乃さんを無理やり引っ張って、大学の食堂へ行くことにした。志摩子さんをひとり置いていくのが心配だったけれど、仮にも孫なのだし白薔薇様も悪いようにはなさらないだろう。
「悪いけど、帰りに缶コーヒー買ってきてね。君らのぶんも買っていいから。」
小銭入れを投げながら「ブラックね」と念押しする白薔薇様は、小説のセイとはやっぱり重ならなかった。志摩子さんは申し訳なさそうな顔で甘いミルクティーがあればと言った。うーん。こういうところも対照的。
「白薔薇様って。」
「計り知れないね。」
空腹のせいではないけれど、何かどっと疲れてしまって。ほとんど無言で遠くの食堂まで歩いて行った。白薔薇様は浅い付き合いでは、「普通にいい先輩」かもしれないけれど、深くお付き合いするにはとても難しい人なのかもしれない。
お姉さまもけっこう読めないところがある。だけど、直球だから一度パターンがわかればそれほど難しくないのだ。白薔薇様の場合は、巧妙に誤魔化していて奥の奥に本質が隠されているような気がする。
「一筋縄ではいかないっていうのは、千尋さまもそうなのだけど。でも、ちょっと違うよね。」
「うん。私もそう思う。」
山百合会に出入りするようになってから、千尋さまの印象は大きく変わった。以前の祐巳は千尋さまと云えば、目を惹く赤い髪と、男性の先生にも劣らないほど高い背に学年でトップの学力の持ち主ということしか知らなかった。それに、クールな雰囲気を漂わせていたから近寄りがたさを感じていた。
だけど、祥子さまの妹になることに悩んでいた祐巳に「逃げてもいい」と言ってくれたり、妹の志摩子さんには弱かったりと、お堅いイメージとは裏腹に親しみやすい人なのだと思った。そういう意味では正反対の姉妹だ。
「行こうか。」
「うん。」
お昼も大分過ぎていたし、大学も休み前で休講が多いらしくて、食堂は人気がなく、がらんとしていた。
「ねえ、白薔薇様は何のために私たちを残したのかな。」
「ん?」
ラーメンを食べていると由乃さんが尋ねてきた。湯気の向こうで眉間にしわをよせて考えている。
ちなみに由乃さんは味噌ラーメン、祐巳は醤油ラーメンを頼んだ。具材は共通でチャーシューとメンマが乗っていて、醤油のほうにだけワカメがプラスされている。
「本を借りるだけだったら、私たちを残す必要はないでしょう?志摩子さんにも読ませたかったなら千尋さま経由でもいいわけだし。」
「うーん。」
そう言われると気になる。白薔薇様の意図を考えようとして、祐巳はやめた。
「気にしないでいいと思うよ。だって、もどったら分かると思うし。」
「もう、祐巳さんは楽観的すぎ。」
「ほら、食べるのが遅いと麺が伸びちゃうよ。」
白薔薇様は話題になった『いばらの森』を読むと言っていた。だとしたら、このまま薔薇の館にもどって本を返してもらうだけで何もなくても、それでいいと思う。当事者である白薔薇様が、問題の本を読んで納得されたのなら、部外者である自分たちは何も気にしなくていいと思った。
「珈琲あった?」
薔薇の館に戻った祐巳たちを出迎えたのは、「おかえり」ではなくて「珈琲」のことだった。お茶会の片づけはすでに志摩子さんがしてくれたらしく、テーブルの上は綺麗になっていた。
「ありましたよ。」
わざわざ椅子から立ち上がってにじり寄ってくる白薔薇様に、祐巳はリクエスト通りのブラックの缶コーヒーと小銭入れを渡した。
「そんなにコーヒーが飲みたかったのなら、インスタントを作ればよかったのに。」
「インスタントっていう気分じゃなかったのよね。本当のところ、千尋の淹れたフレンチプレスの一杯がよかったわ。」
「白薔薇様は千尋さまが淹れた珈琲がお好きなんですね。」
「そうよ。美味しいもの。」
白薔薇さまは缶のプルトップを引き上げて、寒い外のせいでぬるくなった珈琲をゴクゴク喉に流し込んだ。
「千尋さまが聞いたらきっと喜びますよ。」
志摩子さんが由乃さんからもらったミルクティーの缶を両手で持ちながら言う。
「家でたくさん練習したと言っていましたから。」
白薔薇さまのためにおいしい珈琲を淹れようと練習するなんて健気だ。初めて聞く、千尋さまの妹らしいエピソードに祐巳と由乃さんがわきたつ一方で、白薔薇さまは目をぱちくりさせて志摩子さんに確認していた。
「千尋が家で練習した?私のために?」
「はい。聖さまは珈琲がお好きだからと。」
これは白薔薇さまも初耳だったらしい。嬉しそうな意表を突かれたような微妙な表情をされている。
「由乃さんたちは何を選んだのかしら?」
思わぬ妹からの愛情を知ってフリーズしている白薔薇さまをそっとしておくことにしたのか志摩子さんが尋ねた。
「私はミルクたっぷりの珈琲よ。」
由乃さんは甘さ控えめの缶入りカフェオレを顔の横で揺らして「ごちそうさまです」と笑った。
「祐巳さんは?」
「えっと。」
それを買ったとき、由乃さんにさんざん笑われたのであまり言いたくない。いや、志摩子さんは笑わないと思うけれど。
「祐巳ちゃんは何を買ってきたのかなー?」
隠していると、ニヤニヤしながら復活した白薔薇様が追いかけてくる。
「その飲み物は誰のお金で買ってきた?」
何処の世界でもスポンサー様は強い。観念して後ろに持っていた缶をみせると「ぶぁっはっはっは」と予想通りの豪快な笑い声が薔薇の館に轟いた。
「何、千尋のマネ?あの子以外に買ってるの初めてみた!」
目尻に涙を浮かべながらヒーヒー笑っている。「これをねー」と缶をまじまじと見つめて手の中で転がしている。
「白薔薇様も一口飲んでみますか?」
「いらない、甘すぎるから。」
白薔薇様が使っていた窓辺の椅子の側に、祐巳と由乃さんも椅子を持ってきて四人は向かい合うように座った。窓を通った火の光が白薔薇様の茶髪にあたって金髪のようになった。
「読んだよ、『いばらの森』。志摩子はどこまで読めた?」
「私もかいつまんでですが、最後まで読み終えました。」
「そう。」
髪をかきあげて気怠そうに笑った白薔薇様はちょっと雰囲気がちがう気がした。ほんとに微妙な差なのだけど、もしかしたらこっちのほうがより素に近いのかもしれない。
「最初に『私が書いた』って説を言った人、いい勘をしているかもしれない。名前から連想したっていうのも面白いと思う。」
缶コーヒーの残りを飲み干すと、律儀に中身を洗ってからゴミ箱に捨てた。
「書いたのは私じゃない。もちろん、千尋も違う。さっき言った通り、私には私生活を書いて他人様に見せられるほど強い精神力はないよ。」
「でも、いい勘っておっしゃいましたよね?」
白薔薇様は由乃さんの言葉にうなずいた。
「だって似ているじゃない。私に。」
ストライク。
隣で志摩子さんが息をのむ音が聞こえた。白薔薇様の言葉は真っすぐに祐巳の胸に届いて、返す言葉が見つからないほど納得させられた。
「二人は薄々察しているはずよね。あの小説を書いたのが私だってことになってしまった理由が名前だけじゃないって。」
その通りだったので黙ってしまう。白薔薇様の過去について知りたいっていう気持ちは確かにあった。そのことを反省しているけれど、本人にもバレていたなんてやっぱり最低。
「そんな顔させたくて残したんじゃないんだけどなー。」
白薔薇様は椅子にどっかり座り直して、腕を組んで笑った。その困ったような表情がなぜか志摩子さんに重なって見えた。
「話したくない部分は話さないけれど、それでよければ知りたいことを教えてあげようと思って。」
「どうしてですか。」
「だって、何となくでも君たちが知らないのは不公平でしょ?」
その理屈が正しいのかどうかは置いといて、そんなふうに言ってしまう白薔薇様は凄いと思った。
「二、三年生たちが説明をしないのは、私たちのことを思いやってくれているんだと思う。一年前の私はね。そのことに触れられるのすごく厳しかったの。蓉子も江利子も、それから祥子や令も何となく知っている人たちだからね。」
未だに過敏なんだと思う、って白薔薇様は優しい顔で言った。「私たち」と云うからには当時、蕾の妹だった千尋さまにも関わる出来事だったなのだと思う。だったら、やっぱり「いばらの森」は自伝的な小説ではない。千尋さまがただ黙って見ているだけなんてするはずがないから。
「私ね。すごく仲のいい友達がいたのよ。それこそ親や兄弟よりも大切で、その人さえいれば他に何もいらないくらい好きだった。将来はシスターになろうなんて言う純粋な人で。でも、去年のクリスマスにいなくなった。」
「それじゃ、小説と同じじゃないですか!?」
相手が将来のシスターで、同じクリスマスに帰らぬ人となってしまったところまで一緒って。そんな偶然あるんだろうか。
「そうでもないよ。睡眠薬を飲むなんて経験はしたことないもの。旅にも出ていないし。それに、千尋が出ていないと私たちの物語は成り立たない。」
やっぱり、千尋さまも関わっていたんだ。
「じゃあ、生きているんですね。カホリさん。」
「カホリじゃないよ。彼女の名前は久保栞。」
噛みしめるように名前を呟かれると、白薔薇さまは「いばらの森」の「セイ」ではなくても、同じような経験をしたのだなぁとしみじみと思うしかない。
「ちょっと待ってください。これって自伝的小説を謳っていますよね。白薔薇さまじゃないとしたら誰が。」
「さあね。似たことが偶然起こったこともあるからね。」
「ただの偶然にしては、小説に出てくる学園がリリアンにそっくりだとしても?」
「なるほど。確かに似ているね。」
段々と口調に熱が帯びていく由乃さんに対して、白薔薇さまはどこまでも凪いでいる。
「悔しくないんですか。ご自分のことを勝手に書かれて、そのために作者に間違われて呼び出しまでされたんですよ。」
「別に。生活指導室は初めてじゃないし。」
「そういうことを言っているんじゃありません!!」
由乃さんは、とうとう白薔薇様の代わりに怒りだしてた。
「白薔薇様の大切な、大切な、過去をそんな、」
怒りながら泣いていた。祐巳には涙を流す由乃さんの気持ちが痛いほどわかる。根も葉もない噂だったとしても、白薔薇様は触れられたくない過去を掘り起こされて、晒されてしまったことにはかわりない。直接口に出すことは白薔薇様のプライドを傷つけることだから言えないけれど。
「あのねぇ。私は世界中の人たちにわかってもらわなくていいの。大切な人たちにわかってもらえればそれでいいの。」
胸がキュンとなった。椅子の上で斜に構えて言う白薔薇様は格好良かった。
「......転校したお友達は今どうしているんですか?」
静かに志摩子さんが尋ねた。
「さあ、どうしているかな。」
白薔薇様は窓の外を見つめた。
「会いたいですか。」
由乃さんの問いかけに白薔薇様は「会わないほうがいいから」と答えた。「会いたい」とか「会いたくない」とかじゃない。白薔薇様とその人の間に何が起ったのか知らないけれど、少なくとも白薔薇様はまだその人を好きなんだってわかった。
好きだけど、近くにいてはいけない。まるで焔のように激しい感情。だから、好きな人を火傷させないように遠ざけているのかもしれないと思った。
「あの、では先ほど千尋さまがいないと、とおっしゃっていましたが、千尋さまは白薔薇様と栞さまとどのような関係だったのでしょうか。」
「千尋かー。まあ、当然そこも気になるよね。」
白薔薇様は、以前、自分と千尋さまの姉妹関係を政略結婚に例えていた。もともと山百合会のお手伝いとして出入りしていて、たまたま空いていた白薔薇様の妹に落ち着いたのだと。まさか、その場では言えなかっただけで、もっと深い理由があるのかもしれない。
「ぶっちゃけあまり関わっていない、と思う。」
ズコっと由乃さんがコケた。
「矛盾していませんか?」
「だって、そうなんだもの。千尋は先代の白薔薇様が連れてきたお手伝いで、妹にしたのも千尋が薔薇の館で気兼ねなく仕事ができるようにしたかったからだし。」
「じゃあ、栞さんとのことは。」
「二人は二人で仲が良かったみたいだけど。それに千尋が、私と誰かが特別仲がいいからって嫉妬するような人にみえる?」
「見えません。」
「見えません。」
白薔薇様と千尋さまの関係は他の幹部姉妹に比べて仕事の上司と部下みたいな感じにみえる。リリアンでいうところの部活の上下で結ばれるような姉妹関係に近い。なんというかビジネスライク?
由乃さんからもそう見えるみたい。
「あの子は、ただ真面目に働いていただけ。ちょっと仕事が多かったかもしれないけど。」
「やっぱり小説とは全く違うんですね。」
「そうよ。」
セイとカホリは誰にも理解されずに孤立していったけれど、白薔薇様と栞さまには千尋さまがいた。千尋さまのことを話される白薔薇様の表情は柔らかくて、これが白薔薇様の「姉」の顔なのかなと思った。
「白薔薇さま。」
「何、志摩子?」
志摩子さんは真剣な顔で白薔薇様に尋ねた。
「白薔薇様はどうやって別れを乗り越えたのですか。」
「乗り越えられてないよ。」
あまりにあっけらかんとした答えに祐巳たちは呆気にとられた。
「いまだに時々、思い出すことはあるよ。でもね。それだけ栞の存在は私にとって大きなものだった。だから、この痛みも私には大事なものなの。」
穏やかに微笑む白薔薇様は、祐巳よりも同年代の少女よりもずっと大人びていて。やっぱり、この方は計り知れない方だと思った。