リリアン女学園高等部の文化祭は、各クラスの他にも部活ごとに企画があって賑やかだ。父兄の他に、OGが訪れて同窓会のようなグループを何人も見かける。
山百合会の幹部による発表にも、多くの人が足を運んでいる。聖の両親も、期待とざわめきで浮き足立つ客席のどこかにいるだろう。公演前に千尋のことを紹介したけれど、派手な見た目にはとくに何も言わず(娘がそうだからだろう)、礼儀正しい優等生然とした雰囲気を気にいったようだった。
「令ちゃん、大丈夫よ。」
「令、剣道の試合と同じと考えればいいのよ。」
黄薔薇さん家の令ちゃんはすっかり緊張しているようだった。紅薔薇さん家のところは流石というか全員落ち着いた様子だ。
白薔薇さん家の末っ子は、鏡の前で仮面の最終調整をしている。今日の千尋はジェルで髪を固めているようで、怜悧な美しい顔が惜しげもなくさらされている。舞台付きの生徒たちは見慣れない千尋の姿にチラチラと視線をおくるが気にしていないよう。
まだ一年だというのに肝が太い末っ子様だ。
お姉さまは板付きなのでこの場にはいない。
「ガツンとかましてきなさい。」
紅薔薇様が、千尋の背中(腰)を叩いた。
千尋は黙って頷きマイクの前に立つ。
客電が落ち、場内はしいんと静まりかえった。
『さあ、クリスティーヌ・ダーエ。天上の音楽を皆さんに聞かせてやりなさい。』
怪人の囁き声を合図に幕が上がった。
煌びやかなオペラ座に渦巻く愛憎劇。
内容は純粋なミュージカル版ではなく、原作を参考にしたもの。美しい物語と怪奇的な妖しさが講堂を包み込む。
若い恋人たちの甘く切ないデュエットと、歌姫に言い寄る麗しい怪人の姿に、感嘆の声も聞こえて観客の反応は上々だ。
とくに千尋が白薔薇様を後ろから抱きしめた瞬間、客席からどよめきが起こった。
(あれだけ恥ずかしがっていたのに、まさか本番でやるとはね)
舞台袖も、大盛あがりだった。監督の中年の先生は眉を顰めていたけれど。
『よく来たな。結婚式に参列してくれるのか?』
『彼女は僕のフィアンセだ。』
舞台の上では、歌姫を取り合って最後の決闘が繰り広げられていた。
『ラウル!』
『僕の愛しい妻!』
縄で縛りつけられた花寺の会長が痛みに喘ぎながら、必死に恋人へ手をのばす。大丈夫だよね。千尋のやつ、ちゃんと手加減して縛っているよね?
そう心配してしまうのは、千尋が白薔薇様のことを本当に愛しているから。同類だからこそ鼻がきくもので、仮説だったものは瞬く間に確信に変わった。
袖に控えていた聖は、アレと戦う羽目になったら嫌だなと怖くなった。もし、歌姫が栞だったらやはり助けにいくと思うけど。
『やめて、エリック。』
『なら、私と結婚しろ。そんなことはできないだろうがな。』
冷たく吐き捨てて、怪人はどんどん縄を強く引き絞っていく。
『クリスティーヌ、ごめん。君を助けられなかった。』
ラウルが涙ながらに自らの不甲斐なさを謝った。
死の際まで恋人を気遣う健気さが観客の胸を打つ。
『エリック!!』
『なんだい?お嬢さん。』
怪人は不気味なほど陽気に返事をした。
『私の魂にかけて、あなたの妻になります。』
その言葉を怪人は嘲笑うものの、手を止める。
『この醜い死体の妻になると言うのかね?』
『ええ。』
『両親でさえ忌み嫌い、恐れた私の?』
『はい。』
怪人はゆっくりと近づくクリスティーヌをじっと見つめていた。まるで瞳から言葉の真意を探るようにじっくりと。ラウルを痛めつける縄を柱にくくりつけると、おそるおそるといったように歩みよる。
『本当に?』
『本当よ。』
クリスティーヌは頷いた。
それどころか、怪人の手をとって頬にあてた。怪人は熱いものを触れたように手をふりほどき、後ろに下がった。その顔は驚愕に染まっている。
『なぜ、さわれる。』
『あなたを愛しているから。』
怪人は戸惑っていた。
『私はおふくろに、さわらせてもらったことがない。愚かで哀れなおふくろは、私の顔に悲鳴をあげ、仮面を投げつけた。』
今度は怪人からクリスティーヌの頬に触れる。彼女は顔を背けたり、引っ込めたりしなかった。むしろ、頬に触れる震えた手に自分の手を添えた。
『逃げない。』
怪人の目から涙がこぼれた。
『本当に、お前は私を愛するのだね?』
怪人はしゃくりあげ、手で胸をおさえて崩れ落ちた。乱れた赤い髪が、一節、歪んだ顔に落ちた。
『お前ほど醜いやつはいないと、檻にいれられて、見世物にされた。それがとても辛かった。そんな私を憐れんで、私を愛すというなんて、私の花嫁になるなんて。ああ、胸がこんなに痛いから、やっぱり夢ではないんだね?』
あえぎ、震える身体をクリスティーヌは抱きしめた。
『可哀想なエリック。』
白い手が額にかかる髪を整えた。
それはまるで母親が幼い子どもにするような優しい手つきだった。
『君は優しい私のお嫁さん。』
『ええ、そうよ。』
怪人は泣きながら、クリスティーヌの手にキスをした。そして、キスを許されたことにまた涙を流した。
『キスを、私がキスできる女性がいるなんて。』
クリスティーヌも怪人の額にキスを落とした。
ついに彼はクリスティーヌから手を放し、イエスに香油を塗ったマグダラのマリアのようにクリスティーヌの足元にひれ伏した。怪人の身体は歓喜に震えていた。
『もう充分だ。もう、泣くのはおよし。』
クリスティーヌも涙を流していた
エリックは指先で瞳からこぼれた雫を拭うと、指輪を握らせる。
『お前があの青年を愛していることは知っている。彼と結婚するがいい。さあ、これが私の結婚祝いだ。可哀想なエリックからのプレゼントだ。』
エリックはラウルを縛る縄をといた。
それは怪人が愛を獲得した瞬間だった。
暗転した舞台が再び明るくなると、客席からは嵐のような拍手喝采が送られた。
お姉さまは涙に咽びながら、微笑んでいる。傍らにいる花寺の生徒会長は客席に自分のところの生徒を見つけたのか、手をふっていた。
怪人はぼんやりしていた。
仮面を片手に焦点のあわない目で遠くをみている。
私は視線を外した。
精も根も尽き果てて、死人のように佇む千尋が独りだけ取り残されているようで見ていられなかった。
彼女は真面目だし打たれ強くて、ついつい頼ってしまうけれど、本性は純粋で臆病な女の子だ。傍からみれば些細なことだと笑ってしまうような問題にも真剣に悩むほど馬鹿真面目で。だからこそ、千尋の姿は見ていられなかった。
私はカーテンコールが終わる前に講堂をぬけだした。千尋に会ったら、人目もはばからず、泣いてしまいそうだった。
学園祭も無事におわり、片付けも終わった。
「皆にカップをいきとどいているかしら?」
紅薔薇さまの音頭で集まった9人の乙女がカップを持つ。
「学園祭が無事に終わったことを祝して。乾杯。」
豪快に飲み干すような人はここにはいない。
お茶を飲みながら歓談と洒落混む。
話題はもちろん学園祭について。
振り返ると、学園祭の準備と会合への参加は思ったより退屈なものではなかった。
つんと澄ました小笠原祥子が負けず嫌いだったり、美少年のような江利子の妹は見た目と正反対に女らしい内面をもっていたり。千尋のギャップも凄まじい。前評判に負けず、本番では舞台の上で美しく咲いていた。
そういう一年生の素顔に触れるのが、楽しかった。
「白薔薇様も千尋ちゃんも主役お疲れさま。」
「今年は白薔薇の年だったわね。」
「白薔薇ファミリーの一員として、姉と妹の劇のご感想は?」
紅薔薇さまがからかうように私に尋ねる。
「わざわざ言わなくてもいいでしょう。」
「そうですよ。お姉さまが素直におっしゃるわけがないでしょう?」
「千尋。お代わり。」
「はいはい。」
私の言葉に千尋が席を立つ。
「千尋、白チビのこと甘やかしすぎ。」
「そうですか?」
紅薔薇さまの言葉に首をかしげながら、千尋はお湯を沸かしなおしている。
「私としては淡白な対応で申し訳ないと思っているのですが。」
「千尋って世話のしすぎでお花を枯らしそう。」
令が小生意気にも言う。
そうなると私は植木か?
「大丈夫よ、令ちゃん。千尋が世話している花は手間をかけないとすぐに枯れるから。」
「お姉さまぁ。」
理由があったとはいえ学園祭で千尋のことをほったらかしたせいで、お姉さまも千尋の肩を持つらしい。
「お姉さまばかり責めないでください。私もお姉さまからいただいているものがありますから。」
「あら、それは何かしら?」
「ここにいる大義名分です。」
「......姉も姉なら、妹も妹ね。」
紅薔薇さまは呆れた顔で紅茶を飲んだ。
動機こそ不純だったけれど、私と千尋も随分と打ち解けたと思う。私の妹になれるのは千尋だけ。千尋の姉になれるのも私だけ。
「どうぞ。」
「ありがとう。」
それに千尋が淹れる珈琲は美味しい。
豆からいれた一杯は、聖の好みにあっていた。
放課後。
栞のもとに行こうとする私を、蓉子が廊下で待ち伏せていた。
「何?」
「そんな顔しないで、まるで私が疫病神みたいじゃない。」
まさにそう思うけれど言わぬが花だ。
「以前、私が言ったこと覚えている?」
「また、お説教?」
人気のないのを確認し、中庭へ移動した。以前もこうして栞について言われたことがある。
「距離をおいて、って言ったんだけど。私。」
「そうだったかしら。」
「私、今でもそう思っている。いいえ、ますますそう思うようになった。あなたが千尋を出迎えず、栞さんのところに行ったと聞いてね。可哀相に、舞台が終わったあと1人でどこかに行っちゃったのよ。」
たぶん、聖が声をかけても千尋は1人になりたがったと思う。蓉子は千尋が白薔薇さまにどんな感情を抱いているか知らない。だから、そんなことが言えるのだ。
「その事だったら、すでにお姉さまや栞から怒られているよ。」
私は不快だった。
「大きなお世話だと思うけれど、聞いて。あなたはあまり、栞さんに深入りしないほうがいいと思う。」
「ほんと、大きなお世話ね。」
「だって。あなたが傷つくところをみたくないから。」
その言葉から、蓉子が何を聞いて忠告にきたのか薄々分かった。
「栞がシスターになるから?」
蓉子の顔に動揺が浮かんだ。
「知っているならなおさら、」
「話がそれだけだったら、もういくわ。」
「ちょっと、聖!」
引き留める言葉を無視して、栞との待ち合わせ場所へ走った。
私は怪人のように置いてきぼりにはならない。
栞が私を置いていくはずがない。
「栞。」
御聖堂の中に入るなり、きつい口調で彼女を呼んだ。蓉子の言葉に私も動揺していたみたい。御祈りの最中だった彼女はゆっくりと椅子から立ち上がり、振り返った。
「どうしたの?」
「私がシスターになるのをやめてと言ったら、どうする?」
直接聞くのは初めてだった。
「......知っていたのね。」
「それで、答えは?」
「やめないわ。」
私は否定してほしかった。嘘でもいい、この場しのぎの答えでいいから、「いいえ」と言ってほしかった。神様よりも私を選んでほしかった。普段なら愛おしく感じる彼女の誠実さが、私の心を深く傷つける。
「ごめんなさい。私が臆病なばかりに、あなたに切り出させてしまって。」
「卒業したら、どうするつもりだったの?」
「この学校に入る前から、卒業したら修道院に入るって決めていたわ。シスターになるのは私の希望なの。両親が死んだとき、はっきり決めたの。」
「それは変えられないの?」
私は栞の全てが好き。清らかな心も。やわらかな透き通るような声も。神秘的な雰囲気も。亡くなったご両親のことも愛せるだろう。でも、彼女が離れていくことを喜ぶなんて私にはできやしない。
痛みを知って、強くなれるなら。
私は一生弱いままでいい。
深い悲しみがもたらすものは成長ではなく傷だけだ。
「やめるって言って。」
「言わないわ。」
「じゃあ、どうして私の目をみて言えないの?」
栞は芯のある人だから。決心したからには身も心も全てを神様に捧げる覚悟で、修道院の門をたたくはずだ。そうしたら、栞は二度と私に会わないだろう。それくらい愛されている自覚があった。
「迷っているんじゃないの?」
「違、」
少し身構えて、後ずさりする栞が憎らしくて、私は追いかけて捕まえた。
神さまになんかわたさない。
わたしたくない。
だから、栞も神さまよりも私を選んで。
「栞。」
好きよ、と言って。私は栞の唇に自分の唇を寄せた。
「嫌っ」
パンッと乾いた音が響いた。
微かに触れ合った瞬間に、頬に痛みが走った。どうやら私は抵抗した栞に叩かれたらしい。
「マリア様がみているから。」
栞のちょうど後ろには、聖母マリア像が慈悲深い微笑みをたたえて私たちを見下ろしていた。
「それが栞の、答え?」
栞は何も言わなかった。肩で息したまま、私を真っすぐに見つめ返していた。潤んだ瞳が今にも泣き出しそうだった。
「わかった。」
私はマリア様に負けた。
(私も所詮、怪人だったか)
恋敵は二千年前の幽霊。
ただの作り物の像。
可笑しくて涙もでやしない。
御聖堂を出て行く私を栞は引き留めなかった。
私も振り返らなかった。