二学期の学期末テストは惨憺たる結果だった。
中間テストとのあまりの落差に生活指導室に保護者同伴で叱られるという始末。保身のためだろう。担任は私の成績が落ちた理由が栞にあると騒ぎ、由々しき問題であると母親に告げた。
「何かの間違いよ!聖ちゃんがそんな!?」
「もちろんですとも、お母さん。佐藤はもともと模範的な生徒です。」
ヒステリックに叫ぶ親に、担任は私のことを褒め始めた。来年度の生徒会を纏めていく人物だとか、優等生の友達が多いとか、秀才の妹を指導しているとか。成績が悪くなったのはあくまでも栞のせいだと主張することを忘れなかった。まるで私の成績の低下が自分のせいではないかのようにペラペラと断言口調で語る。
なんて軽い言葉だろう。
それらが私の耳から耳へと通り過ぎていく。
私は学園長に向かって言った。
「私の成績が落ちたことは事実です。しかし、どうして栞と結びつけるのですか。悪いのは私です。栞に何も悪くない。」
「久保栞も、そう言いましたよ。あなたは悪くない。自分が悪いと。」
学園長はすべてご存じのようだった。それでもあえて私と母を呼んだのだ。
「学園生活は勉強だけがすべてではないけれど、ひとつのことにのめりこんで周りが見えなくなることは淋しいことではないかしら。」
母もその場の他の先生も気づくことのなかった、私の栞への本当の想いを、学園長だけは見抜いていた。哀れみを宿した瞳に、私はやるせなさを抱いていた。
こんなことなら、栞と喧嘩してからも学校生活をきちんと過ごしていればよかった。そうしていれば、担任や親が栞を悪く言うこともなかったのに。
帰宅してから、私は母の目を盗んで栞の寮に電話をかけた。「佐藤聖」と名乗ったら取り次ぎすらしてくれないような気がして千尋の名前を借りた。
ただ、栞に謝りたかった。きっと彼女のほうが責められていたに違いないから。私のために冷たい仕打ちを受けたであろう彼女に詫びをいれて、声が聴ければ、冷たくあしらわれても満足だった。
しかし、寮に栞はいなかった。
外泊届を出したまま、帰っていないという。
リリアン女学園内の修道院にかけても同じだった。
毎日、毎日、隙をみては電話を掛けた。
けれど、電話どころか、彼女の所在さえ突き止めることもできず、終業式をむかえてしまった。
私は最後の望みにかけて、イブのミサに出席した。
学校に来てさえいれば、彼女は必ずミサに現れるはずだった。
(いた)
彼女は前のほうの席で、静かな表情を見せていた。真剣に神父さまのお話しを聞いていた。栞の心にはまだ聖の居場所はあるだろうか。もう神さまに追い出されてしまったのだろうか。
自分でも驚くほど臆病になっていた。
また栞に迷惑をかけてしまうことへの危惧が、奔放だった私をがんじがらめに縛り付けてしまったようだった。
ミサが終わった後、私はお聖堂の裏手の外壁にもたれて栞を待っていた。約束はしていない。だけど、一縷の希望にかけて待っていた。
「聖。」
私を見つけた栞が驚くほど自然に胸の中に飛び込んできた。栞が顔をあげると、どちらからともなく口づけを交わした。彼女の唇はやわらかだった。
「お祈りしても、あなたの顔が頭から離れないの。突き放したのは、わたしからなのに、情けなくて、」
「栞、また会えて嬉しい。」
泣きそうな栞の唇にもう一度口づけた。
「試験休み中どこにいたの?」
「学園長の部屋で過ごしていたの。学園長は熱心に話してくださったわ。その話に共感して、やっぱりあなたとは一緒にいてはいけないと思って。もう会わないって約束したのに......、」
今度は栞のほうから唇をよせた。
「でも、だめだった。」
しがみつくようにギュッと制服を握る栞を抱きしめながら、相手の体温を、鼓動を、身体で確認した。昔、ギリシャのゼウスが人をふたつの身体に割いて以来、人はかつての半身を生涯をかけて求めるようになったという。その話が本当なら、欠けていた片割れがこんなにも近くにいる。
もう私たちは離れられない。
「栞、一緒に逃げよう。」
「え、」
「大丈夫、私たちはきっと上手くやっていける。遠くへいって、誰にも邪魔されずに生きていこう。」
「生きて、」
私は抱きしめていた身体をはなして、手を差し出した。神をとるか私をとるか、判断を栞に委ねた。
「でも、そんなこと。」
「できるよ。」
「......わかった。」
栞は私の手をとった。
神よりも私を信じた。
「お姉さま。」
栞と駅で落ち合う約束をして最低限の準備のために、急いで家に帰ろうとしたその時、背後から声をかけられた。
「クリスマスパーティーにはいかないのですか?」
「千尋。」
妹の千尋が不思議そうな顔をしている。ここで初めて妹のことを思い出すなんて私はなんて薄情なのだろう。やはり蓉子の云う通り、視野が狭くなっているのかもしれない。
「時間がないから単刀直入に言うわ。私は栞と駆け落ちする。」
「え。」
千尋の目が丸くなる。
「後のことは任せたわ。それとこのことは内緒よ。」
返事も聞かずに走り去った。なんて酷い姉だろう。いや、姉と名乗るのも烏滸がましい。でも、千尋なら私の気持ちをわかってくれると思った。
私は約束の時間よりも四十分も早く、待ち合わせ場所のМ駅についていた。栞はまだ来ていなかった。
大学生らしき若者。
じゃれ合う中学生。
ちいさな子供連れの親子。
オレンジ色の電車が何度も止まり、深呼吸のように乗客を入れ替えて、また走っていく。
大荷物の高校生。
スーツを着たサラリーマン。
派手な格好のお姉さん。
時々、白い箱を大事そうに運ぶサラリーマンが目の前を横切った。そういえば、今日はクリスマスイブ。
私はふと妹のことを思い出した。
あの子は誰とクリスマスケーキを食べるのだろうか。身を寄せている家の人と一緒に食べるのだろうか。それとも......。
約束の五時四十分になった。
栞はまだこない。
念のため、私はホームの端から端まで歩いた。
だけれど、栞らしき少女の影は探せなかった。
七時になった。
もう、彼女はこないことはわかっていた。
しかし、帰ることはできなかった。
もはや意地だった。
私は目を固く閉じた。
夢でも、栞に会いたかった。
「風邪をひくわよ。」
うとうとしていたらしい。顔をあげるとお姉さまが呆れたような微笑みを浮かべていた。隣には千尋もいた。露わになった雪のような灰色の瞳は聖には薄情に思えるほど冷たくて。私はお姉さまの前ということも忘れて千尋の胸倉を掴んだ。
「あなた約束を破ったのね!」
身長の高い彼女の顔がグッと近づく。
なんの感情も読み取れない無表情だった。
「栞は?」
「栞は来ません。」
硬質な声がホームに響いて聞こえる。
「嘘よ。栞はどこ?」
「栞は遠いところに行きました。」
千尋は淡々と告げる。
「どうして、あなたがそれを言うのよ。」
「すでに栞は電車に乗って遠くに行ったからです。」
「見送ったっていうの?私が駅で待っているのを知りながら!?」
「申し訳ございません。」
「この!」
悪びれない態度が頭にきて、衝動のままに彼女の頬を張った。赤い髪が乱れて揺れた。けれど千尋はよろめきもせず、ただ真っすぐ私を見る。
「逃げたところで、その先に幸せがあるとは思いません。」
「あなたに何がわかるっていうのよ。」
「あなただって本当にわかっていたんですか!」
千尋は厳しい口調で言った。
「信仰心を捨てることが、神様に背くことが、栞にとってどれほどのことなのか!」
初めてみる千尋の怒り。
でも、わかっていないのは千尋のほうだ。
「私にとっては栞が神様なのよ。栞が隣にいるとぼんやりとしていた世界が朝もやの中に浮かび上がるようにはっきりする。あの子に会って、私は初めてこの世に生まれたことを感謝できた。」
かつての千尋も、いや今だって千尋は白薔薇様を愛している。それなのに、なぜ彼女は私の気持ちをわかってくれないのか。千尋が白薔薇様に向ける気持ちと、私が栞に向ける気持ちは同じでしょう?
長い前髪の隙間ごしに雪のような瞳をにらみつけると、目線を外された。
「彼女は人間です。」
千尋は弱々しく答えた。
「あなたなんて、妹にしなければよかった。」
千尋は味方になってくれると期待していたのに。
私は千尋に仲間だと信じていた。
だからこそ、栞との仲を邪魔されて、私は逆恨みにも似た感情をむけてしまった。
「あなただって、いつか知る日が来る。」
千尋はそう言うとポケットから折りたたまれた紙を取り出して私にわたした。そして「失礼いたしました」と言って帰った。かじかむ手で紙を開くと、そこには几帳面な字で栞が自分の意志で私と決別することが書かれていた。
「千尋を責めないで。彼女はパーティーに出ずに栞さんにずっと付き添っていた。」
それまで黙っていたお姉さまが呟いた。その静かな声が私の中で堪えていた何かを決壊させ、私は両手で顔を覆ってその場で泣き崩れた。
「どうして直接私に言ってくれないの。」
どうして私ではなく、千尋に。
「会ったら、決心が鈍るからでしょうね。」
「鈍る?」
「当り前でしょう?あの子はまだ高校一年生なの。揺れて当然の年齢なの。それは貴女もよ。」
お姉さまは私の手をとって、「帰りましょう」と言った。冷えた手には熱いぐらいの体温だった。私はその手を振り払ってお姉さまに尋ねた。
「私のせいなの?私に会いさえしなければ栞は......。」
私たちの出会いは間違いだったのだろうか。栞を愛したのが過ちだったなんて思いたくない。でも、実際には栞はリリアンを追い出されて遠くに行ってしまった。自問自答を繰り返す私にお姉さまは呟いた。
「いいえ。会ってよかったのよ。会ってよかったと思える未来にすればそれでいいの。」
私はお姉さまの腕に抱かれて駅を出た。
「それにあなたには私たちがいるじゃない。」
「私たち?」
指さした先をみるとイルミネーションで光る街路樹の下に蓉子がいた。蓉子は近寄ってきたものの、なにも言葉が出てこないらしく私を睨みつけていた。
「心配かけてごめんなさい。」
今度は、私は素直に告げることができた。
「本当よ。」
「千尋は?」
「帰ったわ。最終便が来るからって。」
数時間前、私はあの子の頬を怒りにまかせて叩いてしまったのだ。
「痛かっただろうな。」
冷静になるにつれ、後悔の念が募った。
思い出せば、髪の間からは、赤くなった鼻がみえた。
お姉さまの話では千尋は栞とずっと一緒にいたという話だけど、どれくらいの間外にいたのだろうか。
「申し訳ないと思うなら、これからの態度で示しなさい。」
お姉さまはその言葉通り、新学期が始まるとそれまでサボっていた分を取り返させるかのように山百合会の仕事をどんどん任せてきた。あまりの忙しさに落ち込む暇なんてなかったぐらい。
でも、全く元通りとはいかなかった。
千尋は私のことを「お姉さま」と呼ばなくなった。
それも当然なのかもしれない。
月日がたって冷静に俯瞰してみることができると、千尋の気遣いに気づいた。山百合会をサボっていた私の穴埋めは、仕事だけでない。
「あなたは果報者ね。」
ある二人だけの時、お姉さまがそんなことを言った。
「なぜ沈黙は金というのかわかる?」
千尋は姉妹のことを何も言わなかった。
彼女は仮の契約を普通の姉妹にみえるように取り繕ってくれた。
私はあの子に何を返しただろうか。
栞を愛し、栞を独占しようとする激しい恋が過去のものとなったとき。千尋に対する不平や苛々する心が消えて、労りたいと思うようになった。
それからちょっとずつ機会を伺ってはいるものの著しい結果は得られない。だけど、最近は冷え切った私たちの仲にも雪解けの気配がし始めた。
以前、千尋に自分が卒業するまでに「文句を言え」と命じた。期限はまだ先だけれど、千尋なら答えを出してくれるはずという予感がした。
賢い彼女は先読みが上手いからか、本音を隠すことに慣れている。聖もそんな千尋の優しさに助けられた人間だけど、「姉」としてそれだけではいけないと常々考えていた。
そこで目を付けていたのが志摩子だ。
遁世的なところがある千尋が珍しく関心をもった下級生。
蓉子たちは気づいていなかったけれど、聖には二人が惹かれていく様子が手に取るように分かっていた。人を愛することはできても、愛されることに慣れていない千尋を志摩子なら変えてくれるのではないかと期待していた。
でも期待の下級生はひどく晩生なようで辛抱できずに聖が動き出してしまったが、今日のお茶会の様子をみていると諦めるには早計だったかなと思う。
千尋の親戚の話が出て動揺した志摩子が紅茶をこぼしてしまったとき、聖は机の下で千尋が志摩子の手を握るところを目撃していた。それだけだったら、姉が妹を慰めているだけでとくに気にすることじゃない。でも、そのとき志摩子の雰囲気が変わったことを聖は感じ取った。
(本当に志摩子は私によく似ている)
凪いだ水面に波紋がひろがった。
小さなさざ波はやがて荒波となって、心の垣根なんて軽々と越えてしまうだろう。
「そうじゃなきゃ困るんだけどね。」
獅子のように大胆で、ネズミのように臆病な聖の妹。
彼女を捕まえるには勇気では足りない。
蛮勇と絶対に仕留めてやるという強い欲が必要なのだ。