父は神父で、母は敬虔なクリスチャン。
二人は駆け落ちして、そして亡くなった。
私は恋は危ないものだと考えていた。神職者であった父親さえも破滅させた罪深い欲。それが「恋」なのだと思った。そして、臆病な自分は人に「恋」することはないだろうと思っていた。
でも、中等部にあがって、私は「恋」を知った。
「あなたの髪は素敵ね。」
梅雨の時期の珍しく晴れた日のこと。
薔薇が咲く温室で私はあなたに会った。
挨拶したこともなければ名前も知らない上級生。
私はあなたの言葉を信じていなかった。。
父親ゆずりの赤い髪が嫌いだった。黒髪黒目の日本人の中で浮いてみえる容姿がコンプレックスだった。母親の面影を残さない自分の容姿の全てが大嫌いだった。
それなのに何故あなたが褒めるのかわからなかった。
「私はこんな髪、嫌ですけどね。」
「どうして?こんなに綺麗な髪は初めてみた。」
あなたは疑い深い私に「外を見てみなさい」と陽が沈む西の空を指さした。
暮れなずむ温室を茜色に染める強烈な西日。
「陽の光を浴びるとより際立つわね。夕焼けを切りとったみたい。」
おはじきを陽にかざして喜ぶ無邪気な子どもみたいな笑顔。その姿が美しくて美しくて堪らないで見てた。
「私は好きよ。」
素敵だと臆面もなく言える純粋な心。
あなたの世界はなんて美しいのだろう。
この世の汚ないものから、最も遠いところにいる人だと思った。
私は簡単に「恋」に落ちた。
憧れ、尊敬、真心をすべて捧げたいと思った。詩にあるように「愛」が薔薇の形をしているなら、私の胸の中に咲く、全ての薔薇を残らず摘み取って送りたい。
叶わぬ「恋」であることを察しても、あなたに薔薇を差し上げたいという気持ちは変わらなかった。同じ気持ちを返されないからといって、嘆いたり臆する必要はないと思っていた。
私は「恋」を知って「愛」を知った。
怪人が誕生するまで1
千尋は普段よりも早く起きた。
隣の部屋で寝ている子を起こさないように急いでベルが鳴る前に五つの時計を手探りで止めていく。
時刻は本来の起床時間の一時間前。
部活動の朝練のためではない。
千尋は「山百合会」の幹部だから、秋の学園祭に向けた会合に参加しなくてはならないのだ。
さて、余裕を持って起きたとはいえ、あまり悠長に準備していると遅刻してしまう。かといって、身だしなみを整えるのを忘れてはならない。学園中で目を光らせているシスターや風紀に厳しい同級生に怒られてしまう。
千尋は深い色の制服に着替えて洗面所の鏡の前に立った。
父親譲りの赤い髪と灰色の目。黒髪黒目の同級生と文字通り毛色が違う。しかも一目で外の血が入っているとわかる派手な顔。
臭い物に蓋をするように、長い前髪を垂らし分厚い眼鏡をかけた。
いつもより数本早い電車とバスは普段よりも人が少なかった。
リリアン女学園の停留所にバスが止まると、千尋は参考書を鞄にいれながら下車した。
早朝の学園は生徒の数も少なく、静謐な空気に満ちている。
千尋は二股のマリア像でお祈りをする生徒たちの後ろを通り過ぎて、二階建ての小さな木造の建物、通称「薔薇の館」に向かった。
「ごきげんよう。令さん。」
「ごきげんよう。千尋さん。」
老齢の階段をいたわるように音をたてないように上り、年季の入った扉を開けると部屋の中にはすでに黄薔薇の蕾の妹、支倉令さんがいた。
「今日は朝の部活はないの?」
「いいえ。ここに来る前に素振りだけは参加してきたわ。」
彼女は剣道部のエースで宝塚の男役のように凛々しい美少女だ。私服だと美少年に間違えられることもあるという。面倒見のいい性格でいい人だ。令さんと話していると残る一年がやってきた。
「ごきげんよう。令、千尋さん。」
紅薔薇の蕾の妹、小笠原祥子さん。
祥子さんはあの小笠原グループの本家のお嬢様、いやお姫様といっても過言ではない。腰まであろうかという黒髪と麗しい容姿、堂々とした立ち振る舞いは全校生徒の憧れの的である。
祥子さんは千尋のタイをみて顔をしかめた。
「千尋さん、タイが曲がっていてよ。」
「お手洗いでちょっと直してくる。」
「いいわよ。やってあげる。」
抜けていることの多い千尋は風紀に厳しい祥子さんによく注意される。鞄をおいて手早く結んでもらったタイは千尋が10分かけた結び目より美しい。祥子さんのファンに羨ましがられるだろうなと思った。
「さて、祥子も来たことだしお姉さま方が来る前に掃除しようか。」
「そうね。」
令さんの音頭で窓を開け、朝の掃除を始める。
「千尋さん、悪いのだけれどこの箱をそこの棚の上にお願いできるかしら。」
「OK。」
「こういうとき、千尋さんの身長が羨ましいね。」
そういう令さんだって女性にしては高い方なんだけど。驚くなかれ。私の身長は入学前の健康診断では180に届いた。他の人よりも頭一つ分どころか二つ分高い身長は脚立のいらない優れもの。
「ごきげんよう。早いわね。」
あらかた片付いたころに蓉子さまと江利子さまがいらっしゃった。
「千尋ちゃん。聖は来ると思う?」
「流石に来るでしょう。」
聖さまは悪い人ではないのだけれど少々気難しくて生徒会業務はサボりがちだ。
「また遅刻かしら。」
千尋が答えると蓉子さまは頬に手をあててため息をついた。まるで女優のような仕草だけど、違和感ないのが流石だ。
「千尋ちゃん。私が許すから今度、聖の首に縄を引っかけて連れてきなさいな。」
江利子さまは「ふふ」と笑いながら恐ろしいことを言った。
「......頑張ります。」
「あらぁ、頑張ってくれるの?」
笑みを深めて江利子さまが圧をかけてくる。
江利子さまは形のいい額がかわいらしい、すっと引かれた眉が怜悧な和風の美人。彼女に見つめられるのは熱をあげている同級生の方にとっては夢のようかもしれないけれど、千尋にとっては蛇ににらまれた蛙のような気持ちだった。
「お姉さま。千尋さんが困っています。」
令さんが同級生のよしみで助け舟をだしてくれた。
「聖を引っ張ってくるのは貴女でもいいのよ。」
「え。」
轟沈。船は泥舟だったみたいだ。
「江利子、下級生を揶揄うのもそこまでにしなさい。仲間思いの祥子がそろそろ爆発しそうだから。」
「爆発なんてしません!」
「ほらね。」
ヒステリックに叫ぶ祥子さんをどうどうと宥める蓉子さま。すると祥子さんが「馬ではありません!」とさらに噛みつく。
「いなないていないで落ち着きなさい。」
「い、いな。」
「ん?なにが『いいな』なの。」
「いいなって言ったのではありません!」
キーッといい出しそうな祥子さんを見て楽しそうな蓉子さま。祥子さんは元から山百合会入りを期待されていた優秀な方だけれど蓉子さまから熱烈な勧誘があったと聞く。これは蓉子さまなりの可愛がりなのだ。
千尋が山百合会のお手伝いになった理由は単純で学業の成績がよかったから。あとは白薔薇さまとも面識があったことも大きい。
あれはリリアン女学園高等部に進学してから幾日か経ち、新しい制服にも慣れた頃。
夕暮れ時。
図書館帰りに小雨に降られた千尋は近くの温室に逃げ込んだ。視聴覚室よりも少しだけ広いかなっていうくらいのこじんまりとした所だけれど、ガラス張りだから窮屈だとは思わない。
比較的きれいなところを探して、膝ぐらいの高さの花壇のへりに腰を下ろした。
(ひさかたの雨の降る日をただ独り山辺に居ればいふせかりけり)
こんなことを言うと「千尋さんって陰気ね」と笑われそうだから言わないけれど。
ふと視線を下ろして、目についたのは無機質なネームプレート。
「野いばら」
置かれたところで逞しく育ち、秋には赤い木の実をつける。華やかなものが多い薔薇の中で親しみやすい素朴な薔薇。
「シューベルトの薔薇は『ばら、ばら、紅き』だったっけ。」
あれも同じ野薔薇だけれど、あちらは「イヌバラ」。薄紅色の可愛らしい花をつける。まだ蕾もついていない薔薇の枝を指先でつつきながら、戯れに歌う。
>>>
童はみたり 荒野の薔薇
朝とく清く 嬉しや見んと
走り寄りぬ 薔薇 薔薇 白き
荒野のばら
>>>
少しだけ歌詞を変えた。
誰も聞いていないのだからいいだろう。
温室には他にもたくさんの花が植えられていた。一説によればこの温室には妖精さんたちが住んでいて夜中にせっせとお世話をしてくれているらしい。年頃の娘の多い女学園らしいお伽話だ。花が好きな生徒が善意で手入れしてくれるのがもとだろう。
リリアン学園高等部には薔薇様方と呼ばれる生徒がいる。麗しい薔薇の名はリリアンを象徴するもので、その下に芽吹く蕾たちも全校生徒の憧れの的だった。
紅薔薇
黄薔薇
白薔薇
リリアン女学園に咲き誇る三つの薔薇たち。
皆に愛され、尊敬される三人の薔薇様方は今頃、温室の外で何をしているのだろうか。
仄暗い空の下では物思いに耽ると、うっかりセンチメンタルになる。
(あの方の薔薇もまだみたい)
千尋には憧れの人がいる。
切っ掛けは単純で、赤い髪を褒めてくれたから。ただそれだけ。フラッとあらわれて欲しい言葉をくれたから好きになるなんて、惚れっぽい性格だと思う。だけれど、嫌いだった赤い髪が「普通」にまで変化した。
(そろそろ避難しようかな)
雨足は次第に強くなり、遠くから雷鳴も聞こえてきた。だんだん暗くなってきて、心細さに近くの高等部の校舎まで走ろうかと思ったときだった。
足音が近づいてきた。
「あら、野いばら。」
ネームプレートを見つけて笑う白薔薇さまは眩しいほど美しい。
自分が見つめられているみたいに心臓がドキドキする。
「千尋の花ね。」
「......一時期は貴女にそう呼ばれていたこともありますね。」
「だって、千尋ったらなかなか名前を教えてくれないんですもの。だから代わりの名前をつけなくちゃ呼べないじゃない。」
そう言って白薔薇様は「私もお邪魔させてもらうわ」と言って千尋の隣に腰をかけた。ふわりと風に交じって爽やかな柑橘の香りがする。
「香水をつけていますか?」
「千尋は鼻がよくきくのね。でも残念。外れよ。」
ヘアオイルの香りらしい。
いい匂いですねって言ったらどこのメーカーか教えてくれた。
「こうしてゆっくり話すのも久しぶりね。そう言えば今日はギターを弾いていないのね。」
「合唱部がつかっていたので、取り出せなかったんです。」
「サッと入ってサッと取ればいいだけなのに。千尋の小心者。」
白薔薇さまはカラカラ笑うと足元に鞄を置いて楽譜を取り出した。
「少し歌ってもいい?」
「はい。是非聞きたいです。」
千尋は勢いよく頷いた。白薔薇様は合唱部にはいっていなかったけれど、週末になると外部で歌を習いに出掛けていた。将来は音大に通うかイタリアへ留学したいのだと聞いた。大好きな歌に一直線の彼女らしい進路だと思った。
のびやかな歌声が温室に響く。
目を閉じると子どものころ、大きな腕の中に包まれて安らいだ気持ちを思い出す。母親が歌う子守歌もこんなに優しい歌なのだろうか。
「せっかくだから千尋も歌いましょうよ。」
「プロを目指している方の後に歌うのは気が引けるのですが。」
「お遊びなのだからいいでしょ。それに私、千尋の歌好きよ。」
この人は本当に私の扱いが上手だ。おだてられて調子にのった私には断ることはできなかった。
「わかりました。リクエストは?」
「それなら千尋の好きな曲を。」
そういう答えが一番困るとわかっているうえで言っているのが質が悪い。そして、本当に好きな歌を聞かせてほしいと思っているからこそ尚更に。
>>>
白い花、白い花
彼女は月の光がみせた幻か
夢の中の淑やかな乙女よ
夜の庭にただよう深い霧
たちこめるような薔薇の香りは
愛しい彼女の香り
白い花、白い花
窓の下では最愛の人がお前にふれる
ケガレを知らぬ月の乙女よ
白い花弁は彼女のうなじ
やわらかなひとひらは
清らかな彼女のこころ
白い花は彼女の花
いつまでも私のこころに咲きつづけて
彼女の愛した白い花よ
彼女の愛した白い花よ
>>>
伴奏なしで歌うのは少しだけ照れるけど楽しかった。
「歌詞を変えたのは私に合わせて?」
「はい。白薔薇さま就任おめでとうございます、という気持ちを込めて。」
「気障ね。ふふ、ありがとう。」
一緒に歌ったり、交互に歌ったり、気づいたときには日が暮れていた。雨もすっかりやんでいて、西の空は綺麗な茜色に染まっていた。
「もう帰らないとね。そう言えば千尋は部活どうするのかしら。」
「変わらず無所属の予定です。」
「そう。なら、生徒会のお手伝いをしない?うちの子がサボりがちで。」
白薔薇の蕾の彫刻のような冷たい横顔を思い出して、確かにあの方が熱心に山百合会の仕事に励んでいる姿が想像できないなと思った。
「他の子を連れて行ったら、あの子、妹候補を連れてきたのかと逃げ出しそうだし。」
クスクス笑う白薔薇様は姉の顔をしていた。
聞くところによれば紅薔薇の蕾と黄薔薇の蕾には、すでにロックオンしている新入生がいるらしい。
「私で穴埋めになるでしょうか。」
「試験の結果でいえば千尋はドラフト一位指名よ。」
「頭でっかちで人望がないのに?」
「人望なんてあとからついてくるわ。で、返事は?」
務まるかはわからないけれど、白薔薇さまからの頼みなら答えは決まっている。
「謹んでお受けいたします。」
「そ、じゃ決まりね。」
白薔薇さまは「楽しみにしているわ」と華やかに笑って去った。そうして千尋は薔薇の館に出入りするようになった。そして空いていた席に千尋はちゃっかり座った。
現状は厳しく令さんと祥子さんと違って千尋への風当たりは強い。なにしろ薔薇の館に出入りするような生徒は、顔採用かと疑うほど美しい少女ばかりだ。祥子さんは、いるだけで場の空気を変えるような迫力のある美人だし、令さんは凛とした美しさと真っすぐな気性が格好いいと人気である。
もさっとした前髪と分厚い眼鏡の陰気な姿でウロチョロする赤髪は目障りなのだろう。
「身の程を弁えなさい。」
「内申目当てなの?」
「あんたみたいなどてシャンは山百合会に相応しくないわ。」
影でも日向でも色々言ってくる人は多い。「どてシャン」なんて古臭い言葉をつかう生徒がいることからわかるように、リリアンにある独特の校風が追風となって千尋を責める。
だけど、千尋にはもう自分からやめることはできなくなっていた。生まれて初めて見つけた居心地のいい場所。つかの間の夢だけど。自分から手放すことはしたくない。
「ごきげんよう。あら、蓉子ったらまた祥子ちゃんで遊んでいるのね。」
「ごきげんよう。賑やかでいいわね。」
「ごきげんよう。紅薔薇さま、黄薔薇さま。」
紅薔薇さまと黄薔薇さまがいらっしゃった。紅薔薇様は自分の妹の蓉子さまとそのまた妹の祥子さんを微笑ましそうに笑った。
三年のお姉さまの登場に無意識に一年生たちの背筋がのびる。アイコンタクトでお姉さま方のお茶をいれる作業に取り掛かった。
「ごきげんよう。」
「ごきげんよう。白薔薇さま。」
白薔薇さまは少し遅れて部屋にはいってきた。
急いできたのか息が若干あがっている。それでも優雅さを失わないのは生まれ持った品なのだろうか。それは紅薔薇さまと黄薔薇さまも同じだけれど、千尋には二年後にこの方々のような三年生になれる自信はない。
「聖は来ていないみたいね。」
白薔薇さまは部屋を一回り見て、残念そうに言った。
紅薔薇さまが長い前髪をかき上げながら返事をした。
「いつものことでしょう。」
「子どもでもあるまいし。そんなに心配することでもないでしょう。」
「まあ、そうね。」
お姉さま方のお話を遮らないように湯気のたつカップをテーブルに置く。
白薔薇さまは紅いお茶を嗅いで笑った。
「もう私の好みを覚えたのね。」
千尋がいれた紅茶はアールグレイ。
爽やかな柑橘の香りがするフレーバーティー。
一口飲んで、白薔薇さまは「いい香り」と表情をやわらげた。
「ありがとう。千尋。」
白薔薇さまはやはりすごい方だ。
だって「ありがとう」の一言だけで、千尋の胸が喜びで溢れるのだから。
今日は幸先がいいぞと嬉しくなる千尋が単純なだけなのかもしれないけれど。その後、周知事項を確認して朝の会合は終った。
午前の授業が終わって昼休み。
千尋は晴れていたので外で食べることにした。普段だったら教室か適当なベンチでサッと済ませて図書館に行くけれど、今日は中等部のガイダンスで使用するとかで忙しいと聞いていた。
お気に入りの場所を目指して歩いていると野良猫と戯れている白薔薇の蕾がいた。
「ごきげんよう。白薔薇の蕾。」
「ごきげんよう。千尋。」
白薔薇の蕾こと、佐藤聖さま。
頬に影の落ちる長い睫毛に、彫りの深い端整な顔。見慣れているけれど、こうしてつくづく眺めると彫刻のように美しい人だなと思う。近寄りがたい人、と言われているけれど美麗な聖さまに憧れている下級生は多い。
「何か用?」
「いいえ。お見かけしたので声をかけただけです。」
「そう。」
側に購買部の白い紙袋が置かれているところをみると、聖さまはここでお昼を食べるみたい。会釈をして離れた。
表向きは千尋は聖様の妹ということになっているけれど、実際は少々違う。私たちはお互いに姉妹であることを望んでいない。だから、これは形式だけの関係。でも、それなりに上手くいっていた。
中庭から中等部の敷地に向かって進んでいくと開けた場所に出る。此処は千尋の秘密基地。持ってきたレジャーシートを敷いて寝っ転がった。
(いい天気だなぁ)
昔、天が落っこちってしまったらと不安になってしまった人が見上げた空は今日みたいな空だったのかもしれない。雲一つない空は青い硝子の一枚板みたいで、あまりに美しいので恐ろしくなる。
「不来方のお城の草に寝転びて空に吸われし十五の心。」
石川啄木の歌を呟いてみた。
ここに千尋以外の人が訪れたことはない。一人になりたくなるときによくここに来る。集団生活を送る生粋のリリアンっ子なら、誰しも一つくらい安息地を持っているのが嗜み。それは空間のことだけではない。熱中できる趣味だったり、クリスチャンなら聖書やロザリオ、仏教徒ならお寺と仏像といった心の拠り所のことだ。
千尋は昔からそういう居場所を見つけるのが上手かった。
人付き合いが苦手だと逃げ回った結果なのかもしれない。けれど、色々考えすぎてしまう性質の千尋には得るべくして得た能力といえる。
胸の上で手を組んで、目を閉じた。
耳元の草が揺れる音、不規則な鳥の舌打ち。
頬に吹きつける風に混じった甘い花の香り。
このまま身体の輪郭がおぼろになって、そのまま空に溶け込んでいけたら素敵だな、と思う。何も残さず、誰にも知られず、春の雪解けの水のように限りなく透明な存在になってしまいたいと思う。そして、土に染み込んで、川にながれて、やがて大海原へと下って行くのだ。
千尋はゆっくりと目を開けた。
澄んだ青空の中に月をみつけた。
たなびく煙のようにおぼろげな頼りない月だった。
午後の授業が終わって、校内の清掃が終わると生徒たちは下校する。
部活動や委員会がある者や、そのまま帰寮する者など過ごし方は人によってさまざま。千尋はお手伝いということで連日、薔薇の館に通っていた。
「じゃあ、この資料を祥子ちゃんと千尋ちゃんで各部活に届けてきて。」
「かしこまりました。」
令さんは剣道部に顔を出しているので、千尋と祥子さんが外回りをお願いされた。交渉は祥子さんが前に出てくれるので、千尋は荷物持ちとしてついて行く感じだ。
形のいい頭を見下ろしながら、上級生相手にも委縮する様子のない同級生を尊敬の目で眺めていた。
(将来、薔薇さまに相応しいのは祥子さんみたいな人なんだろうな。)
「祥子さん?」
祥子さんに声をかけたら大袈裟なほど肩が揺れた。
「少し、ぼうっとしていたわ。」
「疲れているの?」
「いいえ。」
「次の部活なんだけど部室じゃなくてグラウンドに行けばいいかな?」
「ええ、この時間だと外にいるでしょうね。」
次に回収するのは陸上部だから、グラウンドに行くことに決まった。並んで歩いているとふいに祥子さんが眉をしかめた。
「やだ、銀杏並木を通らないといけないの?」
「嫌なの?」
「実が嫌いなの。臭くて。」
「まだ春なのに。」
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってことか。祥子さんの想像力はとても豊かなようだ。
「千尋さんは嫌ではないのかしら?」
「別に。むしろ、知り合いの子の好物だから秋になったら拾おうかなって考えていた。」
千尋の言葉に、祥子さんは信じられないと目を丸くしていた。そこまで嫌がらなくてもいいじゃない。好きな人は好きなんだし。
「そのときは絶対にあなたに近寄らないようにするわ。」
「そうして。あと、この事は他の人に言わないでね。」
「言われなくても、言わないわよ。」
銀杏の実はどうせ掃き掃除のときに捨てるものだから、拾っても問題はないと思うけれど、学園でわざわざ集めるような生徒はそんなにというよりも、全くいないのではないかと思う。
「ねえ。あなたは中等部のときのこと覚えているかしら?」
ふいに祥子さんが尋ねた。
「中等部?」
何かあったっけ?
「あ、もしかして初対面のときのこと?」
「そう。あのとき、千尋さんは私に「優しい人だね」と言ったのだけど。あれはどういう意味かしら。」
どういう意味って今更言われても、たぶんそう思ったから言っただけだと思うけど。
「ああ、言葉のまんまだよ。祥子さんは困っている人をみたら、助ける人なんだなって。それだけで深い意味はないと思う。」
「そうなの?」
「祥子さんって案外気にしい?」
「違うわよ!」
「ふふふ、わかった。」
数年前のことを掘り返すなんて、相当気にしていたのではないかと思う。誤解されるようなことをして申し訳なかったと思うと同時に、気にしていた祥子さんが可愛らしい。つい笑ってしまうと祥子さんが「笑わないで!」とさらに怒る。
「千尋さんがそんなに表情豊かだとは思わなかったわ。」
「こんなに自分が笑い上戸だったなんて、私も驚いているよ。」
頬を膨らませてツンっとそっぽをむく祥子さん。微笑ましいけれど、ここで笑ったさらに拗ねてしまいそうだ。
「ねえ、千尋さんは日舞の経験はある?」
話題を変えたかったのか祥子さんが尋ねてきた。
「少しだけなら。小さいころに辞めたからほとんど覚えていないけどね。」
「そう。」
「どうしてそんなことを聞いたの?」
逆に祥子さんに尋ねてみる。
「昔、どこかの家の発表会で貴女みたいな髪の色をした子を見かけたのよ。」
「ふうん。私みたいな、ねえ。」
連獅子を地毛でできるような子供ってそうそういないと思うから、祥子さんがみたのは私だったのではないだろうか。なんてね。
「もしかしたら、私たち小さいころに会っていたのかもね。発表会に観に行くことは結構あったから。」
「そう。」
また調子に乗ったのが悪かったのだろうか。
祥子さんは空返事を返すと黙ってしまった。
「まだ、さっきのことを気にしている?」
千尋は空気を変えようと慌てて目についた葉桜を指さした。
「私、桜には苦い思い出があるんだ。」
「どういうものかしら?」
「ほら、サクランボってあるじゃない?小さい頃はあれが桜の実のことだと思っていて。」
「もしかして、食べたの?」
「Exactly」
お茶を何倍のんでも口の中は渋いし、青臭くて大変だった。一緒に食べた幼馴染も涙目になっていたっけ。
「ふっ、それは災難だったわね。」
溜飲が下がったのか、祥子さんの表情がやわらかくなった。
「私も桜が嫌いよ。花の味が苦手だから。春になるとあちらこちらで咲くから憂鬱になるの。」
「私はそこまで嫌ってはいないよ。春は好きだし。」
秋の銀杏を嫌うどころか、春の桜まで嫌いだとは。祥子さんが心地よく過ごせる季節ってかなり限られてくるのではないか。
「そうなの?あなたはお花見が好きな人なのかしら?」
「そうだよ。といっても花見をするのは桜ではないけれど。」
もちろん桜も好きだけど、それよりも好きな花がある。
「何かしら?」
「山吹。」
「好きなの?」
「春の花と言われたら桜よりも山吹を思い浮かべるぐらい。」
桜の盛りに少し遅れて咲く春の花。
緑の葉に鮮やかに映える黄色い花があるときから一番好きな花になった。
「薔薇の館に戻る途中でよる?」
珍しい花でもないからリリアンの敷地にも咲いている。祥子さんに聞いてみると、少しだけ逡巡して呟いた。
「咲けりとも、知らずしあらば。」
どうやら祥子さんは本当にお姫さまのようだ。
「わかったよ。」
「本当かしら?」
「大伴家持でしょ?この場合は聞かせつつになるのかな?」
まさか和歌で答えてくるなんて。
祥子さんが呟いたのは家持が病床で詠んだものの一節。祥子さんも真っ直ぐ帰るのが残念だと思ってくれたらしい
「さすが、お嬢様だね。咄嗟に和歌が出てくるなんて。」
「それがわかるあなたも同じよ。」
「私は育ちが悪いから。」
「リリアンに通っている時点でそれは嘘よ。」
嘘ではないんだけどな。内心、苦笑いするけれど言葉にしたら面倒だから飲み込む。
「そうかな?」
「そうよ。」
お道化ながら、軽口をたたきながら、山吹の花を目指して歩いていく。
「もう終わりだね。」
春も終わりに近づいてきたから散りかけのものばかりだった。せっかくなら鈴なりに咲く山吹の花でしなる枝をひとつでも見せたかったのだけど。
でも、祥子さんは風情があって綺麗だといった。
「私は桜が嫌いなの。だから春になると憂鬱になるのだけど今度から山吹の花を思い浮かべようかしら。」
「......いいんじゃない。嫌いな物より好きな物を思い出すほうが楽しそう。」
山吹の花を優しく愛でながら祥子さんは独り言のように呟いた。その光景はお伽噺に登場するような美しいお姫様のようで、千尋は見惚れて返事が遅れた。
「戻ろうか。」
「ええ。」