学園祭が終わって、周囲の評価はすっかり変わっていた。
以前と同じ、長い髪に分厚い眼鏡の不審者のような恰好をしているのに、蔑むどころかキラキラとした目で私を見る。
「ねえ、千尋さん。今度、新聞部で特集を組まない?」
「私なんかの特集を誰が読むの?」
とくに新聞部の一年、三奈子さんは取材したいとつきまとってきて、言葉を選ばずにいえば鬱陶しかった。
慣れない賞賛が居心地悪くて、薔薇の館に入り浸る時間が増えた。
受験の大詰めを迎える薔薇様方はいないことのほうが多いけれど、行けば誰かしらいた。花札で遊んだり、令さんの作ってきたお菓子を食べたり(薄々察していたけど、令さんは乙女だった)、蓉子さまと祥子さんの取扱説明書のようなものをノートに書いて本人に見つかった時は怪獣大戦争が起きるかと思ったっけ。
聖さまはいらっしゃらない。
栞にも会わないから、それとなく、蓉子さまに様子を尋ねてみたけれど曖昧に笑ってこたえてくれなかった。
そして、あっという間に冬になった。
学期末試験の最終日、偶然、栞が学園長室から出てくる姿を見つけた。頼りない足取りにいやな胸騒ぎがして静かに後をつけた。栞は御聖堂の一番前の中央寄りの席に座っていた。
「聖さま。」
十字架の前にいた彼女が勢いよく振り返った。ふわりと舞い上がった黒髪がステンドグラスから射し込む青色の光りに輝いていた。
「ごめん、お姉さまでなくて。」
「千尋。」
栞は私の姿を見て落胆し、そして取り繕うような微笑みを浮かべた。千尋はその一瞬の変化に栞の聖さまへの想いの深さを突きつけられたような気がした。
「ごきげんよう。学園祭の舞台、素晴らしかったわ。言うのが遅くなってごめんなさい。」
「見てくれたんだ。」
「ええ。」
顔を合わせるのは久しぶりだった。
世間でややこしい関係の私たちは学園祭が終わってから、さらに注目を浴びていた。
「ごめんなさい。千尋には色々迷惑をかけて。」
「いいんだよ。それを込みで姉妹になると決めたんだから。」
栞は聖さまの特別な人で、聖さまは栞の大切な人。普通そういう上級生と下級生が姉妹になる。
しかし、姉妹になったのは千尋だった。
「こんなことを言ってはいけないと思うのだけれど、私、千尋さんが聖さまの妹になってくれてよかったと思ってる。」
栞はそういって俯いた。
「とられる心配がないから?」
「そういうことではなく、」
「わかってる。信頼してくれているんだよね。」
「悪い冗談はよしてよ。私、貴女にまで嫌われたくないの。」
栞の言葉と真剣な表情に、胸の奥にやさしい灯がついたような気がした。
(ああ、私はちゃんと栞が好きなんだ)
栞から信頼されていると誇らしくなる。青空の下で交わした言葉と、積み重ねてきた日々は嘘ではない。
「厳かに誓います。太陽と月のあらん限り、腹心の友、久保栞に忠実であることを。」
「ふふ、何それ。」
「知らない?赤毛のアン。」
千尋の冗談に栞は笑った。
「太陽と月というのがいいわね。お日さまみたいにあたたかく、月のように静かなあなたにぴったり。」
けれど、どこか寂しげだった。
「ごめんなさい。」
「それは何たいしての謝罪?」
「貴女を置いていくことへの。」
栞は私に背中を向け、十字架に磔にされたイエス・キリスト像を見上げた。
「今度ね。叔父がこちらにやってきて今後のことについて話しあうことになったの。」
話しあう、と言っているけれど既に答えが決まっているかのような口ぶりだった。
「そのことをお姉さまは?」
栞は首をふった。
「言っていないわ。伝えないつもり。」
「聖さま、悲しむよ。」
というよりも荒れるだろう。
千尋も栞にならって十字架を見上げた。
苦悶の表情を浮かべて私たちを見下ろすイエス様。彼は私たちのぶんも罰を受けている。身体に打たれた釘から流れる血が私たちの罪も一緒に清めてくださる。市民から石を投げられ、最後は弟子でさえ見捨てたのにどうして人間を愛することができるのだろう。
千尋がクリスチャンでないのは、イエス様がなぜ自らが苦しんでまで人間を救おうとするのかわからないからだ。
「そこで、」
栞は千尋が立っているところを指さした。
「聖さまにキスされたの。でも、叩いちゃった。マリアさまが見ているからって。」
突然、告白された秘密に動揺を隠せなかった。
「そうしたら、聖さま、黙って出て行っちゃった。たぶん、愛想が尽きたのね。」
なんと声をかければいいのかわからなかった。この時だけ千尋は言葉を忘れてしまったような気がした。
「ねえ、千尋。」
彼女の顔は苦痛に満ちていた。
黙れ。
その先を言うな。
口に出すほど心が痛むなら何も言うな。
しかし、栞は止まらなかった。
「私は
白い頬に一筋の雫がつたった。
十字架の前で悩む栞は、私に救いを求めていた。
「......私は何を間違えたのかしら。ただ人を愛しただけなのに。神様を疑ったことなんてないのに。」
恋と信仰を秤にかけ、釣り合うことの悲しみを訴える親友に、私はふと亡くなった両親のことを思い出した。
(両親も同じ苦しみを味わっていたのだろうか。身も心も捧げると神様に誓った場所で、恋に落ちた。その罪深さを嘆いたことはあったのだろうか)
十字架の前で悩む栞は、私に救いを求めていた。
私を見上げる瞳は冬の海のように真っ黒だ。提示された未来の暗いところばかりを見てしまう閉ざされた瞳をしていた。それはもしかしたら、心中しようとした母の最期の瞳と同じなのかもしれない。
私は栞さんを透して両親に思いを馳せた。。
以前の私ならこんな風に落ち着いて考えることはできなかっただろう。取り乱して寄り添うことはできなかったと思う。けれど、今の私は泰然と受け入れることができた。
「千尋?」
私は栞の真正面に立った。
「私は栞の味方だよ。」
栞を救うことは同時に両親を許すことだった。
また、哀れむことだった
「栞、あなたがシスターを目指しても、目指さなくてもいい。ただ、その先で生きてくれたらいい。」
栞がどんな道を選ぶかは自由だ。
でも、待ち受けているのが破滅と知りながら進むことがあれば引き戻す。それが友人である私の役割。そのためなら、恨まれても構わない。
クリスマスの朝、千尋はご聖堂の分厚い扉を開けた。
「栞は無事に旅立ちました。」
「それはよかったです。」
私の報告に学園長はホッとした表情をした。
私は栞とご聖堂で会った後、学園長のもとを訪れた。
そして、栞がまだ聖様への恋心を捨てきれないでいることを密告した。それから私は栞が長崎に行くまでの間、伝書鳩のように二人の周りを飛び交い、学園長に報告した。
駆け落ちしようとする聖様を見つけることができたのは、偶然ではなく見張っていたから。お姉さまを裏切るなんて妹失格だろう。頬に一発で済んだのが軽いくらいだ。
「学園長は二人の関係をどう思っていましたか?」
「そうですね。若いと思いました。」
抽象的な答えだと思った。学園長はそれ以上応えず「あなたは?」と千尋に問いかけてきた。
「私は、父と母の姿を、栞と聖さまに重ねました。」
学園長は憂いを帯びた顔で頷いた。
「あなたには大変な役を押し付けてしまいましたね。」
「そんなことはありません。」
栞はすでに自分で決めて旅立っていったし、聖様のアフターケアは白薔薇様と蓉子さまに任せてしまったし。私がしたことと言えば伝言をわたすくらいだったのに、それさえも聖様の神経を逆なでしてしまうという体たらく。
「こうして貴女とふたりだけでご聖堂にいるのは久しぶりですね。」
しみじみと昔を懐かしむように学園長は言った。
「はい。私がまだ中等部に通っていたときでした。」
私がまだリリアンに入りたて頃。
父の命日にご聖堂でお祈りしていると、当時まだシスターだった学園長が話しかけてきた。シスター志望でもないのに、わざわざご聖堂まで来る外部生が珍しかったのだろう。
「何をお祈りしていたのですか。」
「両親のことを。」
私の言葉に学園長は暗い表情になった。すでに両親のことをご存じだったのだろう。
「シスター、聞きたいことがあります。」
「何でしょう?」
シスターは私の失礼な質問を遮らず、先を促した。
「髪も顔も罪人にそっくりな人間でも、神は受け入れてくれるでしょうか。」
私は父と同じ髪色と容姿をしていると知った日から教会に出入りすることを心のどこかで後ろめたく思っていた。
十字架の前で懺悔するように身の上を語った。
どうして話したのかはわからない。
誰でもいいから聞いてほしかっただけかもしれない。
千尋の父は仏蘭西人だった。もっと厳密に言えば北欧から渡ってきた一族の末裔らしい、らしいというのは教えてくれた人も又聞きでよく知らなかったから。
父は神父として聖書を片手に日本を訪れた。そして、教会に通っていた母と出会った。
母は日本人のカトリック信者で、当時は高校生だった。シスターに憧れて修道院に入る準備をしていたときに、父に恋をしてしまった。年の差はなんと二十歳以上。
逆境があるほど恋は燃えあがるとはよく言ったもので、両親は周囲に何も言わずに駆け落ちを知った。桜の花をみてくると祖父母に行って家を出ていったきり、帰ってこなかった。
祖父母は父との仲を薄々察していたから、心配はしたけれど、いつかひょっこり戻ってくるかもしれない。そうしたら、あたたかく迎えよう。周りの目は厳しいかもしれないけれど、家族として支えよう。そう信じて待っていた。だけれど、その期待は裏切られた。
父も母は戻らなかった。
2年後の冬の朝、黒電話がなった。
連絡したのは警察。
母が海で心中を図ったという連絡だった。
「母は私を生んだ後、海に身を投げて心中しようとしました。赤ん坊に名前を書いた紙をそえて、父がいる世界に逃げました。」
病院のベットに横たわる母は酷く衰弱していて、父は交通事故で既に死に、家に赤ん坊だけがいると今際の際で祖母に打ち明け、息を引き取ったらしい。
祖母が急いで教えられた住所に行くと、年期のはいったアパートの狭い一室には薬が散乱していた。祖母は娘が心を病んでいたことを知って、どうしてもっと必死に探さなかったのだろうと後悔したそうだ。
壁にかけられた十字架が母に残った唯一の良心のようだった。
以上のことが、私が生まれるまでの経緯。
「私は母にとって生きる意味にはなれなかったのだな、と思いました。父こそが母の人生の光でした。人間はいつまでも暗闇の中で生きていけない。私は母の新しい光にはなれなかった。」
母は父を選んだ。
それは理解している。
そのうえで知りたい。
「私を置いて行ったのは聖書の教えに従っただけですか。それとも私を愛していたから置いていったのですか。それとも、」
なによりも父を愛していたからですか。
「答えのない問いの答えを知り、あなたはどうしたいのですか。」
「さあ、わかりません。」
「あなたは母親を愛していますか。」
「いいえ。」
「父親は?」
「父は、悪い人だと思います。神父様なのに母と結婚したから。」
学園長は椅子に座り、私を隣に呼び寄せた。
「私に答えることはできません。それはあなたが見つけなければならない。」
そう言って、辛そうな顔をして私の手を握った。
「あなたは愛情深い子です。きっとわかる日がきます。」
愛情深い?私が?
シスターは熱心に話してくださったけれど、私には何もピンとくるものがなかった。
「どうすればわかりますか?」
「人を愛しなさい。そうすればあなたにもご両親の気持ちがわかります。」
「そうですか。」
あれから五年経つ。
人に恋をして、人を愛して、答えはわからないままだけど、納得できるようなものは見つかった。
「学園長は恋をしたことがありますか。」
「......ええ、ありますよ。ちょうど貴女ぐらいの年に。」
学園長は深く頷いた。
しかし、学園長が此処にいるということはそういうことなのだろう。
「私もあります。」
恐らく、学園長はあの劇をご覧になっていた。その証拠に老いた瞳には理解の色が宿っている。
「私は拗ねていたんですね。どうして母が自分を選んでくれなかったのか怒っていた。今なら置いていった母も、母を連れていった父も、まだ全てを受け入れることはできませんが仕方ないと思うことができそうです。」
父は身重の妻を残してしまって無念だったと思う。
母は最期まで父と子どもの間で苦しんでいたと思う。
「怒りを覚えるのも貴女がご両親を愛しているからですよ。」
学園長の言葉に素直に頷くことができた。
私が両親に向ける愛には色んな気持ちが混ざっている。なかには恨みや憎しみのような汚い想いだってあるだろう。
親子の縁、血のつながり。
目を背けていたものに、千尋はようやく向き合うことが出来るようになった。
白薔薇様、あなたは私を変えてくれました。
暗闇を見てばかりの私の目を覚ましてくれた。
あなたに逢えたことは私の幸福です。