夫に先立たれてから、老人ホームで暮らしている。娘の葉子が探してくれた施設は隣に大きな公園があって部屋からの景色もいい。今年も変わらず薄紅色の桜が咲き誇っている。
静かな部屋の中で車椅子に座りながら、私はただ、風に舞う花びらを眺めていた。もう人生を振り返る頃は過ぎ、終わりを待つだけの私だけれど、あの数十年前の記憶だけは、色褪せるどころか、年を経るごとに明瞭になっていく気がする。
全ては美しい桜の季節から始まった。
娘が「お花見に行く」と出掛けたきり帰ってこなかった。
日も暮れて、8時になるというのに電話の一つもよこさない。私は心配になって夫に警察に連絡したほうがいいのではないかと相談しようとしたときだった。
インターホンが鳴った。
玄関の戸を開けると、息を切らし、青ざめた顔の神父さまが立っていた。彼は沈痛な面持ちで話し始めた。
「本当に申し訳ございません。私の同僚の部屋から、書置きが見つかりました。恐らく、お嬢さんと一緒に……駆け落ちを、したのだと思います。」
駆け落ち。
その古風な響きに夫が絶句し、私も目を開くのがわかった。
「きっと彼が唆したのでしょう。本当に申し訳ない。」
神父さまは、身内の行動を何度も何度も頭を下げて謝罪している。けれど、私の胸の中にあったのは、怒りでも、失望でもなかった。ただ、ストンと腑に落ちるような納得だけだった。
「顔を上げてください。」
夫も同じ気持ちだったのだろう。石の上に膝をつけて謝ろうとする神父さまを止めた。
「彼だけが悪い、ということはないでしょう。あの子も彼を好いていることを私たちは知っておりました。」
夫の声は穏やかだった。神父さまは驚いたように夫を見た。
「私たちも……いえ、少なくとも私は、こうなることを薄々察しておりました。」
「あなた。私たちであっているわよ。」
あの子の変化。
娘は私たちに何も打ち明けてくれなかったけれど、親の目は欺けない。
あの子の視線の先にはいつも、ある男がいた。
仏蘭西からやってきたその人は、静謐な冬の夜空を思わせる人だった。
すらりと伸びた長身痩躯の体躯に燃えるような赤い髪。透き通るような白い肌は、彼の持つ粛々とした美しさをいっそう際立てせていた。
器用に愛想を振りまく人ではなく、教会を訪れる若い女性達に騒がれても、はにかみもせず、峻厳な灰色の瞳を向けていた。けれど、その堅物なまでの誠実さが彼という人間の輪郭をより気高くみせていた。
いつからか、娘が自分の身の回りを丁寧に整えるようになり背筋もすっと伸ばすようになった。娘の中には初めての恋に戸惑う少女の危うさと、一人の男を想う大人の女性の強さがあった。
その人を見上げるあの子は、母親の私でさえもみたことがないほど優しい横顔をしていた。娘の言葉ひとつひとつに耳を傾ける彼の表情は、まるで世界で一番素敵な贈り物を受け取るかのように柔らかく綻んだ。
雪のような灰色の瞳と、ひたむきな眼差しが交わるとき。そこは親であっても踏み込めない聖域だった。誰かを愛することは、こんなにも人を綺麗に成長させるのかと思った。
「娘たちのしたことは、決して褒められたことではありません。周囲を巻き込み、心配をかける、本当に身勝手な行動です。でも……」
桜が舞い散るの闇の中、あの鮮やかな髪をゆらして娘の手を引く男と、健気についていく娘の姿が目に浮かぶ。
「許しましょう。そして、帰ってきた二人を笑顔で迎えましょう。」
私はそう言って、涙ぐむ神父さまの背中をさすった。私たちはお互いに励まし合い、二人は帰ってくると信じ続けた。
翌日。
私たちはお腹が空いていないだろうか、と言った。
二日後。
私たちはよほど遠くまで行ったようだ、と言った。
三日後。
私たちは無口になった。
四日後。
電話があった。
間が悪いことに誰もいないときにかかったその電話は「ごめんなさい。探さないで」と言って切られていた。夫は留守番電話の音声を消えないように保存して、さらにカセットテープにまで焼いていた。
一か月、三か月、半年、一年。
いつの間にか、季節を一廻りしていた。
下の娘の葉子は兼ねてからの希望どおり、都内の女子校に入学した。姉が駆け落ちしたせいで一番割を喰っていたのは葉子だったから、おおらかな校風の中で大好きな勉学に励んでいると聞いて私たちも安心した。神父さまは本国に帰った。
あの日以来、音信不通のままだった娘から突然の電話がかかってきたのは、2月のことだった。受話器から聞こえてきたのは、酷く掠れた、でも懐かしい娘の声だった。
「三枝子!?」
「母さん……私ね。赤ちゃんを産んだの。でも、その子は今、施設にいるの。」
衝撃の告白に私の心臓は跳ね上がった。赤ちゃんがいる。しかも施設に預けている。すぐに飲み込むことはできなかった。けれど、それ以上に受話器の向こうから絶え間なく聞こえてくる波の音が気になった。
「貴女はどこにいるの? 今どこからかけているの!?」
必死に問いかけても何も答えない。
様子がおかしいことに気づいた夫が、「落ち着け」と肩に手を置いたが振り払った。
「あの人は……彼はどうしたの?」
せめて近況を知りたいとそう尋ねると、娘はぽつりと、
「おいてかれた。」
とだけ言い残し、電話を切った。
ツーツーツーとなる受話器を見つめながら、娘の背後から聞こえた不気味な波の音に不穏な予感を感じられずにはいられなかった。すぐに警察に駆け込み、乱れた髪をそのままに娘を探してほしいと縋りついた。
どうか娘を返してください。
娘を。
私の大事な娘を。
胸元にコサージュをつけた高校生の集団を見かけた。三枝子が通っていた高校の卒業式だったらしい。彼らの明日への希望に充ちた瞳がとても眩しくて、私は背中を丸めて逃げるように去った。
娘は帰ってきた。
けれど、もう二度と目を覚まさない冷たい身体になっていた。制止する警察の手を振り払ってどけたブルーシートの下には、親の私でさえ恐怖を覚えるような凄惨な光景が広がっていたような気がする。気がするというのは、その辺の記憶が抜けているから。いつの間にか、あの子は小さな骨壺に入っていた。
あの波の音は、あの子の命を刈り取る死神の鎌の音だったのだ。
茫然自失のまま、娘が借りていた小さなアパートの遺品整理をしているとき、私は日記を見つけた。悪いと思いながら頁をめくると、あの男が駆け落ちしてから一年も経たずに交通事故で亡くなったことを知った。その頃、すでに娘は妊娠していたららしい。頼る人もなく、ひとりでお産に立ち向かった娘を想って、私は日記を強く抱きしめながら泣いた。
「おいてかれた。」
あの子が電話で言った言葉の意味を、その時初めて理解した。彼はあの世にいってしまったのだ。あの美しい男が娘を置いて逝ってしまった。そして、娘もまた彼の後を追うように海へ消えた。
赤ん坊を探すのは難航した。
施設を見つけた頃は、夏になっていた。小さなベットでうたた寝をしていたその子は、私が見下ろすとゆっくりと大きな目を開いた。
一瞬、息が止まった。
そこにあったのは、あの男の面影そのものだった。真っ赤な髪に凛々しい眉。私を真っすぐ見つめる灰色の瞳。一目見ただけでこの子だとわかった。
「おいで。」
腕の中に抱き上げると、柔らかくてあたたかくて、とても軽かった。赤ん坊には名前がなかった。私は夫に「千尋」というのはどうかと訊いた。ひとりで生まれたこの子が、広い世界でたくさんのことを知って欲しいという意味を込めた。夫は賛成してくれた。
娘の忘れ形見を大切に育てていこうと思っていた。
けれど、駄目だった。その赤い髪を、雪の瞳を見ると胸の奥から黒い感情がせりあがってくるのを抑えられなかった。娘を連れ去り、そして独りぼっちにして逝ったあの男への憎悪がわいてくる。
なぜ、死んでしまったの。なぜ、あの子を一人にしたの。あなたと出会わなければ、娘は今も私のそばで笑っていたかもしれないのに。
分かっている。
彼が死んだのも、娘が死んだのも、この子が仕組んだことではない。むしろ哀れな子だ。この子に罪はないと何度も自分に言い聞かせ、自分の手で育てようとした。しかし、成長するにつれて父親に似ていく孫に、娘を失った怒りの矛先が向きそうになる。
私には心から愛することはできなかった。
愛おしさを抱けずに激しい怨みだけを感じる自分は夜叉なのかもしれない。我が身の冷酷さに絶望しながら、私はこれ以上この子を傷つけないために夫に誰かにこの子を預けたいと言った。夫は一週間だけ考える時間が欲しいと言った。
そして、和尚さんを連れてきた。夫が相談に行った方が紹介してくれたのだと言う。和尚さんは私たちの事情を一切承知のうえで快く引き受けてくださった。
夫があの子を連れて寺に出かけた時、それが今生の別れと知っていても私は泣かなかった。重荷から解放されたような気持ちになった。なってしまった。それは夫も同じ。帰った後に仏壇の前で「これでいいんだ」と呟いたのを私は聞き逃さなかった。
娘の葉子だけは私と夫を責めるような目で睨んでいた。私たちと違い、葉子は赤ん坊のことを愛していた。赤い髪も雪のような瞳も気にならないと言い。寝ている姪の安らかな表情を見ては「姉さんに似ている」と笑った。葉子は帰省する度に、赤ん坊に会いに行った。
「あの子はどうなったのかしら。」
机のよこで花をかえてくれる少女に声をかける。あの仏蘭西人の男に似た髪にどきっとするけれど、そんなことで葉子の後輩を嫌っては可哀そうだ。
「あの子って誰のことですか?」
「孫よ。まだ赤ん坊なのだけど、お寺にいるの。」
(あれ? 夫が預けに行ったのはいつだったかしら)
何か違和感があるけれど、まあいいか。最近の私の頭はボケてきて正確なことはわからないのだから。
「気になるなら、今度様子をみてきましょうか。」
「ボランティアで来てくれているのにそこまでお世話になれないわ。」
葉子も着ていたリリアン女学園の制服の裾をつかむ。
「いいんですよ。」
「なら、お言葉に甘えようかしら。」
「ええ。どうか甘えてください。」
優しい少女の声を聴いていると、安心してだんだん眠くなってくる。
【気にかけてくれてありがとう】
囁き声が聞こえた。
「何かいったかしら?」
「いいえ。隙間風の音でしょう。」
「そう。」
あの子が夜桜の闇に消えてから、私の夢はあの頃の繰り返し。今日はその先もみられるだろうか。
「おやすみなさい。おばあさま。」
1秒、2秒、3秒が。
一寸先がもう見えぬ。
過行く「今」が砂のようにさらさら記憶から抜けている。
嬉しいことがあったけれど。
悲しいことがあったけれど。
苦しいことがあったけれど。
なんだかすべてがおぼつかない。
不安は絶えず付きまとう。
しかし、思い悩んでも仕方ない。
開き直って今日を大事にいきるだけ。
ところで、お嬢さん。
赤い髪の素敵なお嬢さん。
貴女の名前はなんだったかしら。