1問間違い。
わからなかったのは好きな花。
志摩子は山吹と答えた。春に咲く黄色い花。前の白薔薇さまと同じ名前の花だ。祥子もそうだろうなと思った。けれど、千尋の答えは違った。
千尋は野茨と答えた。
聖なる夜に1
白薔薇様から去年の話を聞いた祐巳と志摩子さんはとくに会話もせずに帰りのバスにゆられていた。窓際の席に座る志摩子さんは心ここにあらずといった様子で、ぼんやりと外を眺めている。
志摩子さんは祐巳や由乃さんとは違い、千尋さまが白薔薇様に頼む形で残った口だ。「あなたのためになる」と言われただけに、何か深く感じるものがあったのだろう。
(そういえば志摩子さんもシスターになりたいんだっけ)
白薔薇様の大切な人だったという久保栞さん。
彼女は千尋さまの友人でもあったという。千尋さまの思惑は祐巳にはわからないけれど、栞さんもシスターになりたがっていたというのも関係しているのではないかしら。
バスを降りても会話らしい会話もなく駅の階段を登っていると、誰かに名前を呼ばれたような気がした。
「志摩子さん。今、私のこと呼んだ?」
「いいえ。私ではないわよ。」
志摩子さんにも聞こえたらしく小首をかしげている。おかしいな。祥子さまの声で呼ばれたような気がするのだけど。
「志摩子さん!」
「え?」
今度は志摩子さんが呼ばれた。呼び声は千尋さまに似ている。
二人できょろきょろしていると、もう一度「祐巳、ここよ!」と先ほどよりもはっきりした声で呼ばれた。
(祥子さま?)
登りかけていた階段を下りて、来た道を戻ろうとすると見慣れた赤い髪の女性が、見慣れない服装で駆け寄ってきた。
「千尋さま!?」
「追いついてよかった」
笑う千尋さまは普段通りのご様子なのだけど、リリアンの制服でもなく、ジャージでもなく、スラックスにワイシャツを着ている。いったいどこで着替えたのだろうと尋ねようとしたところで、少し離れたところに停まった黒塗りの車から祥子さまがひらひらと手をふっているのを見つけた。
「お、お姉さま!」
慌てて祐巳が駆け寄ると、窓が閉まり今度は扉が自動で開いた。
(うわっ。)
祥子さまもリリアンの制服姿ではなかった。
「お姉さまはいつも素敵ですけれど、着物も似合うんですね!華やかでとっても綺麗。」
祥子さまは紺色の地に花や蝶を描いた豪奢な着物をお召しになっていた。髪も結い上げて、お化粧までしている。志摩子さんや千尋さまもいるのを忘れて、はしゃいでしまった。祥子さまに怒られるかなって思ったけれど、そんなことはなく「早くお乗りなさい」と手招いた。恐る恐る乗り込むと外から千尋さまが扉を閉めた。
「色々ありがとう、祥子。服は試験明けに返す。」
「別に返さなくていいわよ。ジャージ姿で返すのが寒そうで見ていられなかっただけだから。」
どうやら今、千尋さまが着ている服は祥子さまが貸したものらしい。身長が違うから祥子さまのご家族のものなのか。
「お仕着せといっても、小笠原の家のことだからいいもの使っているでしょう?もらえないよ。」
パリッとしたシャツや折り目が綺麗なスラックスは確かに作りがしっかりしている。千尋さまが足が長くてすらっとしているから、シンプルな恰好なのに品がある。
「わかったわ。試験明けに学校でね。」
「ええ。ごきげんよう。」
結局、服は返すことで話がまとまったみたい。姉妹ごとに「ごきげんよう」と別れの挨拶をして、黒塗りの車は滑らかに走り出した。
「あの、祥子さまはどうして千尋さまと一緒にいたんですか?それにその着物は?」
「一つずつ答えるから落ち着きなさい。」
思わず身を乗り出して尋ねる祐巳を窘めると、祥子さまは薔薇の館をでてからのことを説明した。
「もともと今日は父と交流のある日本画の先生の個展に挨拶をする予定だったのだけど、千尋がこんなに寒いのにコートも着ずに帰ろうとするから一緒に家に連れて行ったの。」
確かにジャージ姿だと上からリリアンの指定の黒コートを羽織ることはできない。長袖とはいえ生地は薄いし、確かに寒そう。
「白薔薇様のことも気になったし、千尋に挨拶まわりに付き合ってもらって、そのまま祐巳たちを待つことにしたのよ。」
「千尋さまも個展に行かれたのですか?」
「そうよ。一人で家に残すわけにもいかないでしょう。」
祥子さまが正装して、ご挨拶までにいく個展ってどういうものだろう。突然連れていかれた千尋さまの心情を想像して、心の中で合掌した。祥子さまと一緒というのは大変魅力的だけど、緊張で幸せを噛みしめるどころではなさそう。
「いつも澄ました顔をしているのが、借りてきた猫みたいになって面白かったわ。」
そのときの千尋さまの様子を思い出したのか、祥子さまは口元に手をあてて上品に笑った。そして、祐巳に薔薇の館で何があったのか尋ねた。
「そう。白薔薇様はあなたたちに話したのね。」
こうなることを見越していたのか、帰りがけに白薔薇様から聞かれたら話していいと許可が出ていたので、祐巳は何の憂いなく祥子さまに説明した。
「栞さんはクラスメイトだったから、白薔薇様と親しくしていたのは知っていたし、去年の今頃に何かあったのもうすうす感じていた。」
祥子さまは肩で大きく息をついて呟いた。そっか。同じ場所で過ごしていたら直接かかわりがなくても気づくよね。
「三学期が始まると栞さんは転校していたし、白薔薇様はまともに見ていられないくらい痩せて、やつれていたわ。」
「千尋さまは?」
「千尋は......見た目はなにも変わらないようにみえたわ。でも、内心はどうだったでしょうね。なにせ千尋の表情はリリアン一読みづらいから。」
栞さんとの別れは白薔薇様だけでなく、千尋さまの心にも濃い影を残したらしい。祥子さまは、祥子さまこそ体験した本人のように辛い表情をして語った。
「志摩子が妹になってからよ。千尋の笑顔がもどったのは。」
「そうなんですか?」
祥子さまは「ええ」と微笑みながら頷いた。
「志摩子と一緒にいる千尋はいい顔をしているわ。」
その笑顔があまりにも優しいものだったので、思わず祐巳もどきりしてしまう。
「薔薇の館で千尋さまと話すようになってからイメージが変わりました。」
連獅子のような真っ赤な髪に雪のような灰色の瞳。薄い唇は冷淡な印象を与える。
例えるなら厳しい寒さで生き物の命を脅かす、無慈悲で美しい冬の世界。おだやかな妹や陽気な姉とは異なる空気をまとう人。祐巳も最初はそんな印象を千尋さまに抱いていた。
もっとも他の人も大なり小なり想像していた人となりとは異なるけれどね。
「千尋って背が高いから目立つでしょう、愛想をふりむく人でもないから冷淡な印象を抱かれやすいの。だから、周りの誤解も受けやすい。厄介なことに本人はそれでいいと思っているから余計に冷たい人だと言われるの。」
(冷たい人、か。)
「以前、千尋さまは志摩子さんからの申し出を一度断ったと聞きました。」
勇気をだして申し出をして、そのうえで断られたらとても落ち込むだろう。脈のありなしに関わらず、引きずってしまうかもしれない。それって冷たいところがあると言われても仕方ないのではないだろうか。
「それも彼女の優しさなのよ。自分から遠ざけることで相手を守ろうとするの。」
「えー。」
うーん。優しさと言われてもなぁ。表情にでてしまったのだろう。祥子さまは不服そうねと祐巳の頬を指でつついた。
「だって、なんか独りよがりな感じだなぁって。」
白薔薇様の話を聞いて、お互いに好きあっていても一緒にはいられないんだなって学んだけど、どうしても断られた志摩子さんに同情してしまう。
「そこが千尋の難しいところね。私も最近気づいたのだけど、千尋と仲良くなるには彼女を困らせるぐらいのお節介が丁度いいのよ。本人が嫌と言っても引いちゃだめ。」
近所の保育園の朝の風景を思い出した。行きたくないと駄々をこねる子どもとあの手この手をつかってなんとか登園させようとする母親。もちろん、千尋さまは高等部だから聞き分けはよさそうだけど。
「志摩子は強かったわ。素っ気なくされても、連れなくされてもあきらめなくて......。」
そこら辺は私と令に足りなかったところね、と祥子さまは笑った。そういえば、千尋さまがお二人を呼び捨てにしたのってつい最近の話だったっけ。
「祐巳、私ね。志摩子が千尋の妹になって本当によかったと思っているわ。姉が妹を教育する本来の姉妹制度から外れているかもしれない。けれど、あの二人はそれでいいのよ。」
祥子さまも志摩子さんに一度は申し出をしたと聞く。でも、志摩子さんによれば、そのときすでに志摩子さんの心が誰に向いているのか気づいていたらしい。そして後押しまでしていたと。
「お姉さまって紅薔薇様に似ていますね。」
「なに藪から棒に?」
訝しげに尋ねられたけれど、祐巳はそれ以上言わなかった。お姉さまは千尋さまのことが大好きなのだろうなと思う。そうでなければ、自らフラれてまで発破をかけたりしないもの。
話しているうちに家の近くまできた。
お父さんが設計した我が家は、住み心地もいいし外見もお気に入りなのだけど、祥子さまみたいな超がつくお嬢様からみたらどうだろうか。
「すてきなお宅ね。」
祥子さまは福沢家の家をみると微笑みながら褒めた。おべっかとか嫌いな方だから本心で素敵だと感じたのだろう。どんな高名な建築家に評価されるよりも誇らしかったっていったら大袈裟かな。
「じゃ、終業式に。」
送ってもらったお礼を言ってもらおうと母を呼びに行こうとしたら、また今度落ち着いたときにねと止められた。
「送っていただいてありがとうございました。」
「どういたしまして。ごきげんよう。」
黒い車が角を曲がって見えなくなるまで、祐巳は玄関から眺めていた。「終業式に」っていわれたから、お出かけの誘いなんてできなかった。祥子さまはお嬢様だから休みの日も忙しいみたい。試験休みのどこかで遊びにいけたらなと考えていたからちょっと、いやかなり残念だった。
「一緒に帰るのは久しぶりだね。」
「そうですね。先ほどのお菓子、美味しかったです。」
「それはよかった。向こうの人たちも喜ぶ。」
持ってきたお菓子は父方の親戚の一人が経営するお店のものだった。黄薔薇様がご存じだったとは思わなかったけれど、他の人にも好評で嬉しかった。
「志摩子さんは白薔薇様の話を聞いてどう思った?」
今回の騒動も冬休みを挟めばすぐに収まるとしても、白薔薇ファミリーである志摩子さんにも事情を知ってもらうほうがいい。何しろ、姉妹制度のことが絡んだ繊細な人間関係のもつれだから、誰かの口から耳に入るより直接聞いてもらったほうがいいと思った。
それに栞の選択と聖さまの悲しみは、シスターを目指す志摩子さんにとって進路を考えるためになると思った。
千尋だって去年のことを思い出すと、まだ心が切なくなる。もっと、上手く立ち回れたのではないかと思う。私が潔く身を引いていたら、白薔薇様に拘らなければ、2人が幸せな姉妹になる未来もあったのではないかと、今でも考えてしまうのだ。
志摩子さんがシスターを目指すことを悩んでいる姿をみるたびに、リリアンに栞が残っていてくれればと思った。彼女だったら志摩子さんを苦しみから救うことができるのではないかと思っていた。
だけれど、それは夢でしかない。
栞が聖様に別れをつげる後押しをしたのは、他でもない千尋なのだから。
「おーい。」
「……。」
「どうしたの?」
電車を降りると志摩子さんはだんまりで、表情はどこか浮かない印象だった。彼女は遠くをみつめてぼんやりしていた。このまま徐々に輪郭がぼやけて、風船のようにふわふわと、暗い空に吸い込まれるのではないかと思われた。
「もしかして、どこか体調が悪い?」
「いいえ。ただ、自分の心が醜いと思って。」
志摩子さんの心が醜い?
そんなことはないと思うけれど。
「どうして醜いだなんて思ったの?」
うつむく志摩子さんにできるだけ、優しい声で尋ねる。
「私はいつか修道院の門をくぐる日のために出来るだけ身軽でいようと思っていました。それは人間関係においてもです。ですが、今日、想像してしまったのです。千尋さまの側に私がいない未来を。そうしたら急に淋しくなりました。」
志摩子さんは何かを悔いる表情をしていた。
「理由はそれだけではないよね。」
志摩子さんと千尋の付き合いは別れを前提としたものだった。そのことは随分前からわかっていたはず。
「あのお菓子は、お姉さまの父方のご実家のものですよね。」
「......そうだよ。」
私が肯定すると、志摩子さんの顔がわかりやすく歪んだ。
「お姉さまは、フランスのご家族に会いたいですか?」
「会いにいかないと、とは考えてる。」
クリスチャンだった母と父のために細田家のものとは別に小さなお墓がある。お墓は持っていけないけれど、父の遺品は持って行ってあげたいと思っている。
「私はお姉さまを送り出せそうにありません。」
どうして、と言いかけて言い直した。
「なあに、もしかして、私がフランスに行ったきり帰ってこないんじゃないかって心配している?」
深刻にならないように軽い口調で聞いてみた。
そうしたら、志摩子さんは黙って頷いた。
「考えすぎだよ。私が志摩子さんを置いて遠くに行ってしまうはずがないじゃない。」
「でも、お姉さまは会いたいのですよね。試験期間もずっとそのことを考えていたのではないですか?」
そう言って志摩子さんは千尋の頬に触れた。手のひらは温かいのに、指先は冷たかった。
「頬が少しこけています。」
「暗いから電灯の明かりでそう見えるだけだよ。」
「鼻血がでたのも心労が重なったからではないですか。」
「考えすぎだよ。」
詰め寄る志摩子さんは分かりやすいほど動揺していた。
「本当に?」
「本当に。」
何をそこまで不安になるのかわからないけれど。言わせてもらえば気を抜いたら置いて行かれそうになるのは千尋のほうだ。まだ千尋自身も胸をはって志摩子さんに釣り合えているとは思えないけれど、この素敵な女の子の助けになりたいと努めている。
「志摩子さんは何も心配しなくていい。」
「お姉さま。」
志摩子さんの大きな碧い瞳が雨の日のステンドグラスのように濡れて輝いている。
「私はね。志摩子さんがいるだけで満たされているの。それなのに、自分から離れていくわけないでしょう?」
柔らかな白い頬に手をそえて、人差し指で目尻に残る雫をぬぐう。青灰色の瞳は相変わらず澄んでいて。この瞳を見ることにどれだけ千尋が救われているのか、彼女は知らないだろう。
「でも......。」
「志摩子さんが不安に思うことなんてないのよ。」
亜麻色の頭をゆっくりと撫でる。甘い花の香りがする波打つ髪の下から、兎のような真っ赤目をした志摩子さんが現れた。
「大丈夫だから。志摩子さんは気にしなくていいの。あなたが普段通りに過ごしていることが何よりなのよ。」
私はスキンシップを好まない。触れた温もりを忘れられなくて、独りになったときに寂しくなるから。だけれど、志摩子さんにたいしては、いくらでも触れたいと思う。だって志摩子さんは妹だから。波止場で船を繋ぎ止める杭のように、疲れた彼女を癒す拠り所でありたい。
「お姉さま。」
「何?」
志摩子さんは私の胸を軽くおして、腕の中から逃れた。
「私は甘えるだけのままではいたくありません。」
「志摩子さん?」
「お姉さまはいつも大事なことを話してくださらない。私が知りたいのは千尋さまの本心なのに。」
これは誰だろう?
責めるような目で、まっすぐに切り込んでくる少女は知らない娘だ。
空いた距離をつめようとすると「申し訳ございません」と謝られた。
「それは何に対する謝罪?」
手をのばすことはできなかった。
のばした手を振り払われたらと思うと怖くてできなかった。
「申し訳ございません。少し距離を起きたいです。」
そういって志摩子さんは立ち去ってしまった。
どうして離れたのか。
どうして泣いたのか。
どうして謝ったのか。
私にはわけがわからない。
志摩子さんは私が遠くに行ってしまうかも、と思って不安になったのではなかったか。だから、どこにも行かないと言ったのに。どうして志摩子さんは離れていってしまったのだろう。
誰もいないホームで私はしばらく呆然と立ちすくんでいた。