あの子は顔も可愛らしく。
心も清らかでした。
私は心の底からあの子を愛しています。
甘すぎると思うほど、あの子を愛しています。
あの子は自慢の妹分でした。
けれど、心の底にはいくぶんか、ねたみの心がありました。
あの子には家族がいる。
私は真底うらやましかった。
『行かないで』
叔母と一緒に家を出た日。
思い出の中のあの子はまだ幼くて。
すがりつくあの子の顔が忘れられません。
このままバス停に行けば、志摩子ちゃんと鉢合わせするだろう。そう考えた千尋は停留所をひとつぶん歩くことにした。山を背にした農道を歩きながら、考えるのは志摩子ちゃんのこと。思えば千尋の人生の大半は志摩子ちゃんと一緒に過ごした。
「この花はつゆ草、そっちは仏の座、たくさん咲いている白い花はシロツメクサというの。」
裏山のひらけたお花畑は私たちのなじみ深い遊び場だった。 賢文兄さんが家を出ても、私たちはよくこの場所で遊んでいた。
「ちひろちゃんはすごい。しまこの知らないお花も知っている。」
「賢文お兄ちゃんのほうがもっと知っているんだよ。」
「でも、ちひろちゃんは花冠をつくるのが上手よ。」
毬のようにころんとしたシロツメクサの花を摘んで冠をつくる遊びが志摩子ちゃんのお気に入りだった。
「ほら、これあげる。」
「ありがとう!」
ふわふわの髪に花冠をのせると絵本の中のお姫様みたいにかわいい。さらに満面の笑みを浮かべるものだから、千尋は志摩子ちゃんを喜ばせたくてよくみていた。おっとりしているようにみえて好奇心旺盛だったり、儚げな印象に反して忍耐強かったり。
あの子、志摩子ちゃんは気が付くと千尋のそばにいた。
口さがない近所の噂話に疲れたり、自分の生まれを恨めしく思ったりするときにも、志摩子ちゃんは千尋を見ていた。
『千尋ちゃん。』
あの澄んだ青い目で。ただじっとまるで私が素晴らしい人のように、姉を慕う妹のような瞳で見つめていた。その目の前では惰弱も弱音も許されなかった。
表では聞き分けのよい手のかからないよい子としてふるまっていたけれど、心の底では理不尽さに腹が立ってしまうことがあった。興味本位で噂する同級生に腹が立つこともあった。けれど、志摩子ちゃんの目には汚いものを映したくなかったから、私は素知らぬ顔で封じ込めていた。
志摩子ちゃんは私の枷であり軛であった。
それに気づいたのは叔母と暮らし始めてから。
私は血のつながった親類との生活に期待していた。2歳まで居た細田の家は今は叔母夫婦が暮らしていた。全く記憶にないけれど「赤ちゃんのころはこの座布団が布団がわりだったのよ」と言われても覚えていないから困ったけれど。気恥ずかしさと隠しきれない嬉しさに擽ったさを覚えた。
室生犀星の故郷は遠きにありておもうもの、とは悲しいけれどその通りだった。地元には母の影がいまだに色濃く残っていた、人々の記憶には父の面影が深く刻まれていた。千尋だけが言われるならまだよかった。
しかし、噂の的になったのは叔母たちもだった。公民館の図書館に本を借りにいったとき、ロビーのベンチで井戸端会議をしている老人たちの声が聞こえた。
「細田さんのところ、新婚なのに姉の子を引き取って偉いわね。」
「でも、自分の子が生まれたらどうするのかしら。」
「名字も違うでしょう。養子にするんじゃない。」
幸いなことに老人たちはおしゃべりに夢中で千尋には気づかなかった。窓口のお兄さんの気の毒そうな顔にかえって惨めな気持ちになった。
志摩子ちゃんがいなくてよかったと思った。他人の噂話を聞いてこそこそと立ち去るような姿を見せたくないと思った。彼女の前では頼れる『千尋ちゃん』でいたかった。私は志摩子ちゃんがいないときも、あの青い瞳を感じていた。
「私、リリアンに通いたい。」
小学6年生の春。
私は叔母にリリアンに進学したいと告げた。
どうしてリリアンを選んだかといえば名門校として有名だったから。どんな過去や噂があっても、リリアン女学園の威光の前には消されるのではないかと思った。叔母がOGだったから世間受けもいいのではないかと下心があった。
私は学校の先生に頼んでパンフレットを手に入れ、特待生制度を使えば学費が免除になること、取り分け優秀な生徒には奨学金もあるから経済的な負担は公立の学校と同等くらいにする道もあると説明して受験の許しをこうた。
「お金の心配はしなくていいのよ。」
「僕たちは千尋ちゃんの保護者なんだからね。」
叔母は自分の母校に姪が入るのを喜んだ。旦那さんはどうだろうと思ったら、彼も賛成してくれた。リリアン女学園の名前は千尋が思うよりも有名らしく、姪が通うなんて鼻が高いって出願届けも書いていないのに気が早い。
1度学校の様子を見に行ったほうが、本番に緊張せずに済むだろうと叔母が気を利かせてくれて学校説明会に申込んでくれた。
「さすがお嬢様学校。立派な門。」
正面入り口にある高い大きな門は古めかしく歴史を感じさせる。学園はぐるりと塀で囲まれて、中の様子は伺えない。校舎の屋根すらみえないのだから敷地も相当広そう。
「懐かしいわ。昔はこの門を毎日通っていたのよ。」
「葉子さんはいつからリリアンだったの。」
「幼稚舎からよ。そのまま高等部までずっとリリアン。」
葉子さん、というのは叔母の名前だった。叔母さんと呼んでも誤りではないのだけど、葉子さんは若いお姉さんだから葉子さんと呼ぶ。
「あなたのお母さんも初等科まで通っていたわ。」
「そうなの?」
初耳だった。
「ええ。姉さんは頭がよかったから中学からは別の私立を受けたの。」
母がリリアンの卒業生だった。ということはこの学園にも両親の駆け落ちを知っている人がいるのではないか。
「大丈夫よ。」
千尋の頭を見透かすように葉子さんは言った。
「言ったでしょう。姉さんが通っていたのは初等科までだって。それにここの先生方はいい人ばかりだから。」
葉子さんは千尋が怖じ気づく前に腕を掴んでさっさと学園の中に入った。
夏の日差しをうけて鮮やかな緑色の葉をゆらす銀杏並木を通って、立て看板を頼りに奥に奥に進んでいく。保護者と生徒に分かれて席に着くらしく、講堂の前で葉子さんと分かれた。
周りの同い年の子たちは、皆、品がよくて育ちのよさそうな雰囲気を共通して持っていた。
「ここ、空いているわよ。」
「ありがとうございます。」
今だって席を探していたら、知らない子が教えてくれた。もちろん制服は千尋と異なる。
(間違えたかな。)
女子だけの環境は小説の影響からかどろどろしたものを想像していたけれど、途中ですれ違った在校生の先輩方や校舎の雰囲気も、ここだけ俗世から切り離されたゆったりした時間の中に存在しているようだ。
受験生でさえ親切で他人に声をかけるのに躊躇わない。普通、人気の私立校だったらお互いに競争意識の働くものではなかろうか。千尋は落ちるなと思った。彼女たちのように清らかな心が入学の条件なら、私はひねくれすぎている。
面接でシスターに尋ねられた。
『あなたはお祈りの言葉がいえますか。』
私は「覚えています」と答えて、その場で諳じた。先生方は驚いて「クリスチャンなのか」と聞いた。
「いいえ。」
私は首をふった。
「あなたにその言葉を教えたのは誰ですか。」
「聖書です。」
それも町の小さな図書館にある。子ども向けのもの。
「では、なぜあなたはその言葉を覚えたのですか。」
「知りたかったからです。」
まだ純粋で神さまを信じていたころ。両親への好奇心から、関係しているものは調べた。
「あなたに信仰心はありますか。」
目つきの鋭い若いシスターが尋ねた。
「わかりませんでした。」
「わからない?」
「はい。例え話が多くて、イエスさまの言っていることの意味がわからないのです。だから、信仰しているのかと言われたら、肯定できません。」
若いシスターがさらに質問をしようとしたところで、最初に尋ねた年配のシスターが言った。
「もういいでしょう。」
その言葉を聞いて、落ちたなと思った。
しかし、予想は外れて受験の1週間後に分厚い封筒が届いた。中には合格通知と入学手続きの書類が入っていた。葉子さんも旦那さんもお祝いだと喜んでくれた。
「随分、背が伸びたなぁ。千尋ちゃん。」
「またお世話になります。おじさま。」
私にはまだ知らされていなかったことだけど、叔母夫婦は出産を機に旦那さんの実家がある茨城に引っ越そうと考えていたそう。中学生でも入れる学生寮があったけれど、叔母はまだ早いと思ったらしく千尋に内緒で藤堂のおじさまを頼った。そうして千尋は2年ぶりに藤堂の家に戻った。
リリアンでも赤い髪ヘの奇異の目は相変わらずだった。意外なことに好意的な目が多かった。けれど、すれ違う生徒の好奇心丸出しの視線が煩わしかった。女子校という環境のせいか授業中も注目が途切れることがない。野茨と呼んでくる変な上級生も現れて、千尋の周りは過去一番で賑やかだった
「ごきげんよう。千尋さん」
不規則動詞をぶつぶつ呟きながら図書館に向かう途中で、呼び止められた。振り返ると同級生の3人が並んでいた。そのうちの真ん中の生徒は見覚えがあった。千尋のクラスメイトのやす子さんという方だ。
「こんにちは。どうしたの?」
千尋が尋ねると、やす子さんは「やっぱりね」と納得したような顔をした。
「千尋さん、リリアンではごきげんようと挨拶をされたらごきげんようと返すのよ。」
「いきなり用件にはいるのは無粋よ。」
無粋と言われても使い慣れていないのだから咄嗟に出てこない。まあ、リリアンでは「ごきげんよう」がコミュニケーションの枕詞だって葉子さんから教えてもらったけれど、一般家庭出身の身でつかうのは恥ずかしい。
「次から気をつけるよ。」
「そのほうがいいわ。今朝もおはようと言ったのは千尋さん1人だったのよ。」
クスクスと笑うやす子さんたちには悪気はないのだろうけれど、あらためて注目されていることを思い出してうんざりする。婉曲で親し気な口調が逆に心を逆撫でした。
「で、何のよう?まさか挨拶をなおすために呼び止めたわけではないでしょう。」
図書館に行っても勉強するだけだけど、だらだらと目的のないお喋りをつづけるよりはノートを読み返すほうが有意義なように感じる。
「千尋さんは中等部からの外部生だから慣れないことも多いでしょう。」
「だから、リリアンの伝統を教えて差し上げようと思って。」
伝統とは大きくでたな。
私は片手に持っていた英単語帳を鞄の中に滑り込ませた。
「例えば千尋さんは登下校のときにマリア様にお祈りをしていないでしょう。」
「そうね。」
「私たちは毎朝毎夕、マリア様にお祈りをしてるのよ。」
リリアンはカトリックの教えを取り入れているから、いつかは指摘されると思った。
「ごめんなさい。私はクリスチャンではないからお祈りをしないの。」
「え? ならどうしてリリアンに来たの?」
意味が分からないと不思議そうな顔をしているやす子さんたち。千尋は苦笑しながら説明した。
「リリアンに入学したのは叔母がここのOGだったからなの。叔母から聞いた学生時代の話があまりにも素敵だったから受けたの。」
我ながらよくも心に思っていないことを言えるなと思う。平気で嘘をつける千尋と違って、やす子さんたちは純粋だった。
「そうなのね。でも、それとお祈りをしないことに関係はあるの?」
「あなた達は小さいときからお祈りをしてきたから自然なことかもしれないけれど、私には違うのよ。だから形だけのお祈りを捧げるのが失礼ではないかと思って。」
「千尋さんってとっても真面目なのね。」
やす子さんたちは事情を知らずにごめんなさいね、と申し訳なさそうな顔をして立ち去った。
叫びそうになった。
だけど、声にはならなかった。
自分の手がしたが動くよりも早く口を押えていた。私は口を押えたまま三人の後姿を見送っていた。閉じた口の中で何度も「許してください」と繰り返していた。
(悪いのは私のほう)
祈ることに罪悪感を感じる。
けれど、それだけなのだから親切を受け取って並んでお祈りすることが咎められているわけではない。しかし、千尋は十字架の前に立つことが怖かった。
神さまが全てをご存知なら、両親のこともご存知のはず。1匹の羊が迷子になれば、神さまは他の99匹の羊をおいて探しに行くという。
だが、その羊が他の羊も誘って出ていったら。神さまだってきっと愛想を尽かして、戻ってきても迎えてくれないかもしれない。本人だけでなく、その子どものことも。暗い気持ちは家に帰るまでつづいた。
「お帰りなさい。千尋さん。」
出迎えてくれた志摩子ちゃんの瞳は幼い時と同じ澄んだ色をしている、この子の視線を感じるたびに千尋の悪い心はしゅんと萎れて恥ずかしさに隠れようとする。
「ただいま。」
久しぶりに再会した志摩子ちゃんは背がのびていて手足も長く、お姉さんっぽくなった。もちろん変化していたのは外見だけではなかった。
「志摩子ちゃんがシスターに?」
納屋で母親の形見のロザリオを見つけた志摩子ちゃんは、それが切っ掛けか神様への信仰心に目覚めたそう。いくらお寺の娘とはいえ、そんな早くから自分の道を決めてしまってもよいのだろうか。千尋が表情には出さずにそう考えていると、おじさまに志摩子と話してやってほしいとお願いされた。
「千尋ちゃんの両親の話を志摩子に話してやってもらえないだろうか。」
千尋を気遣うような声だった。
志摩子ちゃんは千尋が他所の家の子だと知っているけれど、どうして両親が亡くなったのかは知らない。おじさまは安堵の息をついてタイミングは千尋に任せると言った。ありがたいけれど、こういうのは時間が経つにつれて億劫になるもの。千尋はその日の晩に志摩子ちゃんの部屋を訪ねた。
「ねえ、志摩子ちゃん。」
軽く戸を叩くと、寝間着姿の志摩子ちゃんが出てきた。
「どうしましたか。」
「ちょっと話したいことがあるのだけどいい?」
机の上には開いたままの教科書があった。
勤勉な彼女は寝る前に今日の予習か明日の復習をしていたみたい。
「この部屋に入るのも久しぶりだね。」
「ここは千尋さんの部屋でもあるんですから、いつでもはいっていいんですよ。」
志摩子ちゃんの部屋は、千尋も一緒につかっていた子供部屋をそのままつかっているようだった。本棚には見覚えのある絵本やアルバムも並んでいる。
「昔は布団並べて寝ていましたよね。」
「冬は寒いからって同じ布団で寝てたっけ。」
私と志摩子ちゃんは机を挟んで向かい合っていた。
「シスターになりたいんだってね。」
「どうしてそれを......父に聞いたのですか。」
「うん。」
困ったような顔をして、志摩子ちゃんは千尋に尋ねた。
「それで千尋さまは父から説得するようにお願いしたのですか。」
「私が言ったところで簡単に考えを変える子ではないでしょう?」
ふんわりした見た目に反してこの子は頑固なのだ。いや、普段は素直なのだけどたまにこれと決めたらテコでも動かないことがある。
「千尋さんは私のことは何でもお見通しですね。」
「そうでもないよ。どうして急にクリスチャンに目覚めたのか、その理由まではわからない。」
たった2年。されど2年。
志摩子ちゃんは千尋のことを「ちゃん」ではなく「さん」づけで呼ぶようになった。
「切っ掛けは些細なことだったんです。納屋で遊んでいたら母のロザリオを見つけて、それがあまりにも美しかったので......。」
志摩子ちゃんは立ち上がると棚からあずき色の袱紗に包んだ小箱を取り出した。蓋をあけると紅サンゴの装飾がされた銀の十字架が臙脂色のビロードのうえで輝いていた。
「母との記憶がないせいでしょうか。写真を見たよりも、このロザリオを手に取ったときのほうが母を近くに感じたのです。」
十字架を丁寧に箱から取り出して、志摩子ちゃんは千尋に差し出した。
「どうぞ。」
クリスチャンではない千尋には、その十字架はただのシンボル。けれど、それが志摩子ちゃんの亡くなったご母堂のものだと思うと触れるのは躊躇われた。
「千尋さん?」
「志摩子ちゃんに話さないといけないことがあるの。」
不思議そうな顔をする志摩子ちゃんに、十字架を箱に戻すようにうながした。
「私の両親のことよ。」
「千尋さんのご両親ですか。」
志摩子ちゃんの顔が曇った。
「そうよ。おじさまに志摩子ちゃんにも話してあげてとお願いされたの。」
「父が。」
「前置きだけれど、これを聞かせて志摩子ちゃんにクリスチャンをやめてもらおうなんて私もおじ様も考えていない。ただ、あなたが選ぶ道にはこういうこともあるということを知ってほしいだけ。」
私は言葉を選びながら、なるべく深刻に聞こえないように話した。神父の父とシスター志望だった母の駆け落ち。そして、結婚の喜びを味わってすぐに亡くなった父と現実に耐え切れずに父のもとへ逃げた母のことも、感情をこめないように淡々と話した。
両親の最後は幸せなものではなかった。
それを聞いて、思い浮かんだのは天罰。
神の背いた父と母を天は見逃さずに罰を与えた。
「私の顔はね。父の生き写しなんだって。神父さまなのに母を選んだ、神様を裏切った人にそっくりなの。」
父と同じ髪色と容姿をしていると知った日から二人の罪の証である私も、神は厭うのではないかと考えるようになった。髪も顔も罪人にそっくりな人間でも神さまは受け入れてくれるだろうか。
(わからない)
わからないからこそ怖い。
「志摩子ちゃん。私はクリスチャンではないけれど、信仰に殉じたいと願う貴女の気持ちは尊いものだと思っている。貴女がシスターになりたいと思うのなら、そうすればいい。」
たとえ、寺の娘でも神さまを信じる純粋な女の子はマリアさまだって可愛く思うはず。
「千尋さん。」
「リリアンはカトリックの学校だから。貴女には息のしやすい環境かもね。」
おじさまたちのことを想えば、修道院に入るなと言う方がいいのかもしれない。けれど千尋にはできない。胸の奥に家族をおいていく志摩子ちゃんを非難しようとする私がいるから。
「どうして、千尋さんはリリアンを選んだのですか。」
青い目は相変わらず澄んだきれいな目をしている。
以前はこの目に映るのが誇らしくあった。
「秘密。」
もっと強くなりたい。もっと優しくなりたい。もっときれいな私になって、この子の目に映りたい。なのに、年を重ねるごとに卑屈になっていくような気がする。
「千尋さん。」
「何。」
「私、リリアンを受けたいと父にお願いします。」
「そう。」
思い立ったらすぐに行動するのは志摩子ちゃんも同じなようで、次の日におじさまに進路を告げに言った。おじさまとおばさまは志摩子が決めたことならと反対しなかった。多分、こうなることを予想していたのではないかと思う。
「志摩子ちゃん。私たちは学園では全くの他人として過ごしましょう。」
「どうしてですか?」
「志摩子ちゃんまで変な目でみられるよ。」
学校では勉強しているか、本を読んでいるか。人に関わることを厭う、こんな寂しい人間と一緒にいたら志摩子ちゃんまで孤立してしまう。
こんなに素敵な女の子は人の輪にいるのが相応しい。志摩子ちゃんは優しい子だから、千尋が気にかけなくても、たくさんの人が自然と手をかしたくなるはず。
「私は他の方に変な目でみられても構いません。」
私が構うんだけどな。
そういったらますます志摩子ちゃんは意地っ張りになるだろうから。その場は引いた。けれど、志摩子ちゃんがリリアンに入学して三年間。千尋は学園で志摩子ちゃんと話すことはなかった。
「意地っ張りなのは私もか。」
気が付くと次の停留所がみえてきて、ちかちか点滅する街灯からジーと音が鳴っている。こんな時間にバスに乗る人はあまりいない。おそらく次が最終便だろう。
冬の夜はどんな冷酷無残もセンチメンタルにさせる。幼いころに教えてもらった童謡が何の脈絡もなく耳の奥に流れる。
あの人だったら、こういうときどうしただろう。
『帰れ帰れも一度、忘れられぬあの日を』
あの人にあった春にもどりたい、とは言わない。
でも、あの春は懐かしい。
『帰れ帰れも一度、優しかったあの人』
山吹さまに会えたら。
山吹さまに会えたらと思った。
『帰れ帰れも一度、命かけたあの夢』
あの頃の私は自分のことで精一杯で、まさか妹のことでこんなにも悩むだなんて想像もしていなかった。志摩子ちゃんを傷つけて、泣かしてしまったことに自分の変化を感じるなんて。
『帰れ帰れも一度、忘れられぬあの日を』
頭上の星はいつもよりも煌めいてみえた。
あの子はもう家に着いただろうか。