父親に瓜二つなこの容姿を、祖母は酷く嫌っている。
祖母の頭はすっかり若返ってしまって会話から察するに母が生まれたばかりの記憶の中で生きている。千尋の存在は消えてしまった。けれど赤毛には反応する。
祖母が完全に千尋のことを忘れたとき、私は祖母が父を恨んでいたことを初めて知った。
あれは何が切っ掛けだったのか、一緒に見ていたテレビに記憶の扉を開く一因があったのか。それが個室で起こった出来事で本当によかったと思う。油断したら人目も憚らず、施設から逃げるように帰っていたと思うから。
若い母を破滅に誘った父は祖母からしてみれば山賊と変わらなかった。ありとあらゆる罵詈雑言を並べ立ててもなお足りないと言う祖母。
仇をみる目つきで、私を見る。
何も言わないと祖母には千尋が父親に見えるらしい。
優しかった祖母に「出てけ」と言われたときは、悲しくて悲しくて、2度と行くまいと思った。けれど、やっぱり恋しくなって会いに行った。
5度目くらいからは欺くのにも慣れた。制服を着ていると納得しやすいのか、落ち着くのだ。さらに着物を着ていると全くの別人に思うのか、「珍しい外人さんだねぇ」と言って気軽に話してくれるようになった。
千尋はときどき考える。
もしも、自分が生まれてこなければ、母は祖父母のもとに帰ることができたのではないかと。
『チッ、チチッ』
外から鳥の舌打ちが聞こえた。
ハッとして窓をみると青紫の空がすり硝子の向こうに透けてみえた。
夜明けになったらしい。
放課後の被服室で、山百合会のメンバーは衣装合わせをしていた。
祥子さんは祐巳さんとシンデレラと義姉のドレスを着ているようで、賑やかな歓声が聞こえる。
「あちらは華やかそうだね。」
「令さんもドレスが着たかった?」
千尋は隅の方で令さんと舞踏会できる礼服の試着をしていた。
女子校の背が高い女子の宿命というべきか、2人の配役はすべて男役だった。
「さて、千尋。一年ぶりの男装の着心地はどうですか?」
「うーん、しっくりくるのが怖いところ。」
襟を整えながら雑談をしていると、令さんの妹の由乃さんが写真部の蔦子さんをともなって近づいてきた。
「あの、千尋さま。ひとつお願いしたことがあるのですが......。」
「どうしたの、由乃。千尋に何か用かしら。」
千尋が話しかけられたのに、なぜか令さんが答える。
「れ、お姉さま。私は、今、千尋さまに話しかけていますの。」
名前で呼びかけたな。
そういえば、この二人は従姉妹だっけ。
「どうしたのかな。由乃さん。」
「不躾で申し訳ございませんが、衣装を着たままお写真を撮らせてほしいんです。」
「なんだそんなこと。」
ただ写真を撮るのはいいのだけど、他の人が着替えているところで撮るのは避けたいなと考えていると、蔦子さんが「壁際はいかがでしょうか」と提案した。撮った写真を新聞部に渡さないことを念押しして、千尋は頷いた。
「そうしようか。行くよ、令さん。」
「えっ。」
由乃さんに軽く怒られてショックを受けている令さんの腕を引っ張って、壁際に並ぶ。騒ぎに気付いたのか、いつの間にか白薔薇様もニヤニヤ笑いながらこちらを眺めていた。
「では、まずはお好きなポーズで。」
どうやら写真は複数撮るらしい。
「千尋、二枚目みたいなポーズして。」
「えぇ。」
「私がプロデュースするからその通りに動けばいいのよ。」
「はあ。」
ピースサインしかレパートリーのない千尋は白薔薇様のヤジに従って、タイに指を引っかけたり、腕を組んだりした。
「私だけ仲間外れにするつもりかしら。」
「祥子。」
三枚目を取り終わった直後に、義姉の衣装を着た祥子さんが拗ねた様子で近づいてきた。こういうところが、祥子さんの可愛いところだと思う。
「こんなに綺麗なお姫様を仲間外れにするものですか。」
「お姫様、私たちと一枚どうですか?」
千尋と令さんの間に祥子さんを立たせると、黄薔薇様が目を細めながら呟いた。
「去年に引き続き、ドレスを着るのは祥子ひとり。」
「おかしいわね。ここにいるのは女の子だけのはずなのに。」
「あら、それ去年も同じことを言っていたわよ。」
「本当?」
去年の学園祭の衣装を合わせを思い出しているのか、薔薇様方も面白がっている。
「来年はどんな衣装を着ることになるだろうね。」
「祥子がドレスなのは決定でしょ。」
「どうして私だけ決定なのよ。」
似合っているからだよ、と千尋と令さんが言うと祥子さんはまんざらでもなさそうに「ふんっ」とそっぽを向いた。
「せっかくですから、各薔薇ファミリーごとに一枚ずついかがでしょうか。」
そのあと、手芸部の部長の発言があって、紅、白、黄ごとに記念写真を撮ることになった。まだ祐巳さんは正式な妹ではないのだけど、そんな野暮なことを言う人はいなかった。
「では、最後に白薔薇家の方々、お願いいたします。」
「はい。」
制服姿の白薔薇様を挟んで両脇に千尋と志摩子さんが立った。
志摩子さんは舞踏会用のドレスを着た状態で、異国のお姫さまみたいに可愛らしかった。間に立つセーラー服の白薔薇様は、まるで映画の監督か舞台の演出家みたい。
「素敵な写真をありがとうございました!」
「気が早い子ねぇ。」
現像していないのに、鼻息あらく蔦子さんがお礼を言ってきた。
「お姉さまの礼服姿はやっぱり格好いいですね。」
「志摩子さんのほうこそ、ドレスが似合っているよ。」
お互いに褒めあっていると、肩に重みを感じた。
「格好いい妹と、可愛い孫を持てて私は幸せものだわ。」
両手に華だと白薔薇さまは冗談交じりに笑った。
(この方もずいぶん変わったなぁ)
祐巳さんが影響を与えたのは祥子さんだけでない。白薔薇様も彼女と交流するようになってからどんどん雰囲気がやわらかくなったような気がする。
白薔薇様を変えることができたのが、自分ではないことに少しだけ寂しくなるけれど、毎日楽しそうに笑う白薔薇様をみるのは嬉しい。
「どうしたんですか。これ。」
薔薇の館には似つかわしくないカレー臭に後からきた祐巳さんと由乃さんが目を丸くしている。
「学園祭で二年桜組がカレー屋を出すとかで、味見用に持ってきてくれたのよ。」
「温かいうちに食べて。」
リリアンには沢山の伝統があるが、その内の一つに二年桜組は毎年、「桜亭」と冠した出し物をするという決まりがある。内容は代によって飲食店だったり、劇や掲示物など色々あるのだけれど、今年はカレー屋さんになったそう。
テーブルの上に桜亭とかかれたエプロンを着た生徒三人が、おかもちから9つのカレーを取り出す。完熟トマトのルーにココナッツミルクを使用したルーを半々にかけた紅白カレーだ。
「試作品ですので、率直なご意見をいただきたいんです。」
二時間ほどまえにお昼をたべたけれど、乙女といっても皆食べ盛り、誰もが上機嫌でスプーンを持った。
「お姉さまはどうしますか?」
志摩子さんがスプーンを片手にたずねてきた。
「悪いけどやめておく。残したら悪いから。」
「千尋、調子が悪いの?」
「辛いのが苦手で、外では食べないだけ。」
千尋は苦笑して答えた。
「意外ね。」
「これはいいことを知ったわ。」
「ふーん。千尋にも弱点があったんだ。」
三薔薇様方が面白そうに眺めている。ここでむきになると余計に玩具にされるので、沈黙を貫く。だって仕方がないじゃないか。痛いのは嫌いなんだし。
「では、余った一つはどうしましょうか?」
「後で王子役の花寺の生徒会長がいらっしゃるから、その人に食べてもらうわ。」
紅薔薇様に言われて祐巳さんが余った一皿を台所に下げた。
「ごめんなさい。せっかく持ってきてくださったのに食べないなんて。」
「気にしないでください。」
桜亭の生徒たちに謝ると、逆に恐縮した様子で頭を下げられた。千尋以外の方々はスプーンを手にもりもりと食べて、口々にアドバイスをする。
「一皿で二種類食べられるのはいいわね。でも、ご飯に比べてルーの方が多いかな?」
とは紅薔薇さま。
「色的には地味じゃない?」
というのは白薔薇様。ブロッコリーやアスパラガスなど緑を足してみたら、という意見を桜亭の生徒たちが真剣にメモをとる。その後、ご飯の炊き具合で論争が起きたり、「ココナッツが嫌い」という祥子さんの我儘な意見もあったが、真面目に試食をして的確なアドバイスをしていた。
何もできず、少し気まずい気持ちになりながら紅茶を飲んでいると、志摩子さんがカレーを一口分よそって差し出してきた。
「こちらの赤カレーなら辛くありません。せっかくですから、一口味見してみたらどうですか?」
「そう。」
妹の気遣いに感謝してスプーンを受け取ろうとすると、ひょいとかわされた。
「え。」
志摩子さんをみるとニッコリ笑ってスプーンを突き付けてくる。見わたすと桜亭の生徒たちが期待に満ちた眼差しでこちらを見ていた。祥子さんが止めてくれるかと思ったが、意地悪そうにほくそ笑みをうかべている。日頃の仕返しのつもりか。
目の前に視線をもどすと志摩子さんは楽しそうにスプーンを持ったまま動かない。天然を発揮しているのかと思ったけれど、姉の勘がこれはわかったうえでやっていると告げている。
「やっぱり嫌ですか。」
「そんなことはないけど。」
しどろもどろになっていると、薔薇様方の視線が痛い。
「せっかくの妹の好意を無碍にするなんて。」
「仕方ないわよ。千尋はシャイなんだから。」
「ほら、髪まで真っ赤になってしまって。」
早くやれと圧をかけてきているのがよく分かる。あと、髪が赤いのは生まれつきだ。ええい、女は度胸、と腹をくくる。
「本当に辛くない?」
だけど、念の為確認する。
「このくらいの辛さならお姉さまも大丈夫だと思います。」
誰かに食べさせてもらうなんて物心ついてから一度もない。こぼさないように気を付けながら、できるだけ何とも思ってないふうを装って一口もらった。確かに志摩子さんの言う通り、スパイシーだが、それほど辛くはなかった。
「見せつけてくれるわね。」
ケラケラ笑う黄薔薇様の声に見渡すと、令さんと祐巳さんが顔を赤くしてアワアワしていた。反対に由乃さんは目を爛々と輝かせていた。
「お姉さまは私に甘いんです。」
「そのようね。千尋も食べられるなら残りも志摩子に食べさせてもらったら?」
「それには及びません。」
揶揄う黄薔薇様に呟くと、三人の生徒に向かって感想を伝えた。
「美味しかった。辛いのが苦手な人のために赤カレーだけというのもいれてはどうかな?」
「はい!ありがとうござます!」
その後、先生方にも出前をするとかで三人は帰って行った。
「さて、今何時だ。」
「じきに三時。迎えに行かなきゃ。」
薔薇様方はひそひそ誰がむかえにいくか相談している。
「あの、残った一つはどうしましょう。ラップをかけておいたほうがいいのでは?」
祐巳さんが残ったカレーを手に聞いた。
「そのままでいいわよ。王子には練習前に食べてもらうから。」
「どうして部外者にごちそうなんか。」
「我々だけスパイシーじゃ失礼でしょ。」
祥子さんの不満にあっさり紅薔薇様が答える。そういえば、あのカレーにはニンニクがはいっていた。うら若き乙女とはいえ、ニンニクの匂いがする人間に囲まれるのが嫌だろう。
誰がむかえにいくかの問題は祐巳さんに決まったらしく、薔薇様方にせっつかされて慌ただしく部屋を出て行った。
紅薔薇様の号令で私たちも準備に取り掛かる。
志摩子さんも由乃さんと台所でお皿を洗っている。
「それにしても、さっきはびっくりしたね。」
するりと、横に並んだ令さんが二人に聞こえないように言う。
「私もびっくり。晩熟な志摩子さんが。」
「普段から志摩子ちゃんはよく甘えてくれるの?」
「まさか。さっきのだって桜亭の方を想っての行動でしょ。」
志摩子さんは一年生ながらしっかりしていて手がかからない子だ。姉の至らないところを上手くフォローしてくれる。よくできた妹だと思う。
「姉妹仲が上手くいっているようで何よりだよ。」
「私はとくに姉らしいことをしてやれていないんだけどね。」
「そうは見えないけど。千尋は自分にたいして過小評価が過ぎるからなー。」
令さんは笑いながら言った。
彼女は他の人よりも千尋たちの事情を知っている。
そして、今日まで誰にも話していない。
いつかは皆にも告げなければならないと思いながらも踏み出せない。
(結局、あの人に全てを話すことはなかったし。)
去年のことを思い出しながら、練習の準備を始めた。