雪の瞳の乙女   作:八田里

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 「さすがだなぁ。」
 舞台の上で優雅に祥子さんと踊る柏木さんに思わず感嘆の声がもれた。

 花寺学院は仏教関係の名門男子校。有名な進学校で、将来のエリートの卵たちが通う学校だ。柏木さんはそんな学校の生徒会長で、聞いたところによるとすでに花寺大学に推薦が決まっているらしい。ま、そうでもないと他校の学園祭の手伝いなんてできないと思うけど。

 祐巳さんが迎えにいった王子様は、薔薇様方にすすめられたカレーを食べると衣装合わせ、踊りの練習、舞台稽古と次々にこなして、今は舞踏会の場面の踊りの練習だ。

 「柏木さま、ナチュラル・スピンターンをお願いします。」
 紅薔薇様が舞台下から叫ぶと、すぐに「OK」と答えて祥子さんをリードする。ホールドの形が綺麗で、先ほどみた王子様の衣装を着たら黄色い歓声が飛ぶだろうなと思った。

 曲が終わると、薔薇様方が全体の立ち位置を調整する。
 中央の主役を目立たせるために、スペースをあけたり、歩幅を狭めたり、注文は多岐にわたる。
 「じゃ、ラスト一回いきまーす。」
 ダンス部の部長の声を合図に、千尋は志摩子さんの腰に手をそえた。

 「上手くなったね。」
 「千尋さまの教え方がわかりやすかったからです。」
 未経験だった志摩子さんも、今では周りのペアの様子をみながら踊れるほど余裕がある。祥子さんと柏木さんのペアを見て、声をひそめて尋ねてきた。

 「祥子さまの様子が変ではありませんか。」
 「志摩子さんもそう思う?」
 それは些細なことなのだけど、普段の華やかさに陰りがあるようにみえた。
 祥子さんの男嫌いは想像以上に深刻らしい。音楽が終わると同時に柏木さんから素早く離れて祐巳さんのほうに逃げていた。
 
 「ちょっと祥子。」
 あからさますぎると思ったのかちょうど祐巳さんと踊っていた令さんが祥子さんを窘めた。
 「嫌なのはわかったけれど、もう少し笑顔をみせたら?」
 「愛想笑いをしろっていうの?ホステスじゃあるまいし。」
 「祥子。」
 「本番ではちゃんと笑うわ。」
 祥子さんはそう言い捨てて体育館を出て行った。

 「ちょっと行ってきます。」
 すぐに祐巳さんが追いかける。
 遠ざかる背中に令さんは「お願い」と声をかけた。

 「柏木さんでダメなら祥子のお眼鏡に叶う同年代の男子っていないんじゃないかしら。」
 「令さんもそう思う?」
 薔薇様方と次の練習について打ち合わせする柏木さんを見ながら話していると、白薔薇様が「おーい」と千尋を呼んだ。なんでも、もう解散だから校門まで見送ってほしいとのことらしい。

 「わざわざありがとう。」
 「いえ、そんな。」
 爽やかにお礼を言う柏木さんに千尋は恐縮しながら答えた。いくら柏木さんが紳士でも、女子校の中をひとりで歩かせるのは問題がある。

 「あ、ちょっといい?」
 二股のマリア像の前に差し掛かったとき、柏木さんは足を止めた。

 「行きにも手を合わせたから、せっかくだし帰りもしておこうかなと。」
 クリスチャンでもなさそうなのに、お祈りをするなんて不思議だなと思って尋ねると親戚にリリアンのOGがいるらしい。

 「では、私は離れたところにいますので。」
 「千尋さんはお祈りをしないの?」
 「ええ。だから私のことは気にせずに。」
 柏木さんは「へえ」と一つ返事をして、マリア様の前で目を閉じて手を合わせた。そして、千尋に尋ねた。

 「もしかして、千尋さんは小寓寺の娘さんですか?」
 「よくご存じですね。正確には下宿しています。」
 「やっぱり。」
 千尋が頷くと、柏木さんは破顔一笑した。

 「以前、住職さんが花寺で講演したときに、いらしていたでしょう?」
 「ああ、先月の日曜日でしたっけ?」
 千尋の下宿先のお寺の住職さんは、ときどき花寺で講演をすることがある。先月の講演会は休日だったから、千尋もついていったのだ。

 「綺麗な髪だと思って覚えていたんだ。花寺の学園祭でもお手伝いに来てくれたよね。」
 「ありがとうございます。個人的には黒髪の方が好きなんですけどね。」
 柏木さんという人は素でも王子様のような振る舞いをするらしい。今まで何人の女の子の心を盗んできたのだろうか。
 
 「君は仏教に興味があるの?」
 共通点をみつけたからか、先ほどよりも親しげな口調になった。

 「仏教徒というわけではありませんが、面白いと思いますよ。柏木さんは違うのですか。」
 「僕たちは学校の行事の一つって感じだから。リリアンみたいに毎日お釈迦様に合掌するわけでもないし、讃美歌の代わりにお経をよむこともないからね。」
 宗教関係の私立に通っている日本人としては、柏木さんのような感覚の人が多いと思う。では、なぜ講演会にきていたのだろうか。あれは自由参加のもので学校行事ではないのに。尋ねると、柏木さんは苦笑して答えた。
 
 「受験が終わったから時間があるだろうって先生方に頼まれてね。」
 「なるほど。」
 優秀だと、それはそれで大変らしい。
 
 「でも、手伝ってよかったと思うよ。住職の話はなかなか面白かった。」
 「あれを面白いと言えるなんて、柏木さんは色々経験なさっているようですね。」
 「それは千尋さんもじゃない?」
 隣を歩く柏木さんの背は千尋よりも低いとはいえ男性の中でも高身長。リリアンの同級生よりも視線が近かった。
 
 「去年の学園祭の舞台を僕も見ていたよ。君の演じる怪人は素晴らしかった。本当に......君が歌姫を愛しているのではないかと錯覚するほどに。」
 茶色の瞳が千尋の心まで見透かすように鋭く感じる。
 背中に冷たい汗が流れる。

 「......お褒めにあずかり恐縮です。」
 「千尋さんは誰かを好きになったことはある?」
 「え。」
 油断していた。
 不意打ちの質問は千尋の心のやわらかいところに突き刺さった。誤魔化して、煙に巻くこともできないほどに。

 あたりは静まり、木枯らしが吹き抜ける音だけが響く。
 風にあおられた落ち葉が軽やかに舞い上がっては落ちていく。黄色の銀杏の葉は道の端に溜まっていた。一枚だったらすぐに吹き飛ばされる木の葉も、降り積もれば山となる。

 あの人がくれた言葉も、振り返ってみれば他愛のない話が多かった。けれど、積み重ねてきたものは、未だに私の中に残っている。

 蹴っ飛ばせば、簡単に散らすことはできるけれど。
 そんな乱暴なことはできない。

 「ええ。」
 柏木さんの目を見ずに答えると、向こうから他の生徒が近づいてくるのが見えた。

 「すみません。この後も学園祭の準備があるので。」
 また次の稽古で、と校門で別れて薔薇の館にもどると、祥子さんがいれた渋い紅茶が待っていた。

 「志摩子さん、ミルクとって。」
 「はい、どうぞ。」
 ぬるくなった紅茶だと粉末ミルクはとけづらい。底にどろりと白くとごってた。


6話

 王子様役との初顔合わせの日もそうだったけれど、祥子さまの様子は日を追うごとにますます変になっていくような気がした。

 

 蔦子さんの話によれば、いつぞやのタイをなおしてもらった時の写真を学園祭で出していいと言ったり、あとは新聞部の取材がピタっと止まったことも祥子さまが関係しているそうだ。

 

 「えっ!祥子さまが新聞部の部長に話をつけてくれたの?」

 「同じ二年生っていうこともあったらしいけどね。祥子さまは祐巳さんの代わりに取材を受ける代わりに、祐巳さんを追い掛け回さないようにって約束させたらしいのよ。」

 知らないうちに庇ってくれていたなんて。

 祥子さまはそんなことちっとも話題にしないから気づかなかった。

 

 「ねえ、その姉妹になるかならないかっていう賭けはまだつづいているの?」

 「え、えーと。」

 「答えづらいなら無理に言わなくていいわ。」

 蔦子さんは振り向きざまにシャッターを切った。突然のことにポカンとすると蔦子さんは「あはは」と愉快そうに笑った。

 

 「学園祭の舞台写真、楽しみにしててね。絶対、祥子さまと祐巳さんのツーショット写真を撮ってあげるから。」

 「あ、ちょっと!」

 言い終わると同時に蔦子さんは部活棟のあるほうに去ってしまった。取り残された祐巳も、ワンテンポ遅れて下駄箱に向かう。

 

 薔薇の館の二階には、祥子さま一人だけだった。

 窓辺から、青空を見あげていた。

 風にそよぐ白いカーテンが祥子さまを包んで、一緒に外に連れ去ってしまうのではないかと思った。

 

 「ごきげんよう。祥子さま。」

 「あら、祐巳。」

 祥子さまは祐巳が部屋に入ったことも気づかなかったみたい。

 

 「他の方は?」

 「まだよ。クラスの活動とかで忙しいんでしょうね。そういえば志摩子は?」

 「委員会の活動で。」

 「そう。」

 志摩子さんや剣道部で活動する令さまのように、山百合会のメンバーは薔薇の館以外にも仕事がある人はいる。

 

 「祥子さまは部活とかは......?」

 「入っていないわ。家の習い事で忙しかったから。」

 祐巳も部活にははいっていない。部活も委員会活動もない二人が、そろってしまったのか。けれど、この状況はチャンスだと思った。

 

 「祥子さま。」

 「なに?」

 「どうなさったんですか?」

 「え?」

 自覚がないのだろうか。祥子さまは祐巳が何をいっているのかわからない、といった表情を浮かべた。

 

 「なにか、悩んでいることがあるように見えたので。」

 「あるって答えたら、祐巳は助けてくれるの?」

 真顔で尋ねられた。

 こんなときでも、祐巳の瞳は祥子さまの美しい顔に見惚れている。この綺麗な人を困らせるものがあれば、取り除きたいと思った。

 

 「私にできることなら。」

 「なら、ロザリオを受け取って。」

 「え!?」

 「できることならやってくれるのでしょう?」

 祥子さまは胸元からロザリオを取り出した。銀色に輝くそれは、紅薔薇さまにもらったものだろうか。

 

 「どうなの?」

 祥子さまのお力になりたいのは本当だ。

 けれど、受け取ってしまえば、シンデレラと蕾の妹という役も一緒についてくるわけで。 

 

 悩んでいると、外からギターの音が聞こえてきた。

 音楽に疎い祐巳でも知っている曲。この曲の名前は、

 「アヴェマリア、ね。」

 祥子さまも気づいたのか、窓のほうをみると呟いた。

 シューベルトのアヴェマリア。

 音楽の授業のときに聞いたことがある。これにカッチーニとグノーを足して三大アヴェマリアというらしい。

 

 「誰が弾いていると思う?」

 「フォークソング部ですか。」

 「違うわ。」

 祥子さまの表情は、先ほどよりも和らいでいるようにみえた。

 

 「祥子さまは誰が弾いているのか知っているのですか。」

 「そうね。心当たりがあるわ。」

 しかし、祥子さまは祐巳に誰なのかは教えてくれなかった。そしてロザリオをポケットにしまった。

 祐巳も本気で祥子さまがロザリオを渡そうとしていたのではないとわかっているけれど、こうも呆気なく下げられるとそれはそれで複雑だった。

 

 「シューベルトのアヴェマリアはね。大切な人の無事を祈る歌なのよ。」

 「詳しいのですね。」

 「去年の白薔薇さまに教えていただいたの。彼女もシューベルトが好きだったから。」

 去年というと今の白薔薇さまのお姉さまにあたる人か。

 

 「いい曲ね。心が洗われるようだわ。」

 祥子さまはそう言うと、目をつぶり、外からのギターの音色に聞き入っていた。祐巳も椅子に座り、祥子さまにならった。




 祐巳さんと祥子さんの賭けは学園祭の前日になっても決着がつかない。
 最終日の舞台稽古は、祐巳さんの変身の段取りを確認したら終わりということになった。王子様は先に楽屋に戻っていただいている。

 「ビビデ・バビデ・ブー!」
 令さんの呪文の声と同時に衣装の紐を引っ張る。煤けたドレスの下から豪奢なアイボリーのドレスが現れた。

 「よしよし。本番でもこのくらいスムーズにできたら多少台詞をとちっても大丈夫よ。」
 「本番が楽しみね。」
 薔薇様方が満足そうに頷いている。早替えドレスは手芸部と薔薇の館の住人が共同制作した力作だから、上手くいって嬉しいのだろう。

 「明日はよろしくね。」
 令さんが祐巳さんの肩をポンポンと叩いた。
 「お褒めいただいて恐縮ですが、本番は祥子さまがシンデレラです。」
 祐巳さんがあわてて訂正すると、他の皆は「あ、そっか」と顔を見合わせた。

 「明日は片方しかみられないなんて残念ね。」
 「祥子の正統派シンデレラと祐巳ちゃんのコメディーシンデレラか。時間がないのが悔やまれるわ。」
 「せっかくだし、二本立てで上演する?」 
 いい加減なことを言う薔薇様方を尻目に、祐巳さんはキョロキョロ周りを見渡していた。

 「祥子さまは?」
 「祥子さまなら気分が悪いと言って外にでたわよ。だから、代わりに私が祐巳さんのドレスの紐を引っ張ったの。」
 スモークが焚かれていたので、わからなかったが先ほどの早替えの介錯は由乃さんがしていたみたい。次に体育館を使う落語同好会がゾロゾロとやってきたので、取り合えず片付けて薔薇の館に戻ることにした。
 
 「あの、保健室に祥子さまはいませんでした。」
 「それに柏木さんも楽屋にもどっていないみたいで、制服がハンガーに架けられたままでした。」
 様子を伺いにいった一年生らの報告を聞いて、上級生の顔がさーっと青ざめていく。あの二人に限って何かあるとは思えないけれど、嫌な予感はぬぐえない。

 「とにかく探しましょう!」
 祐巳さんが立ち上がった。

 「祥子さまは具合が悪くてどこかで休んでいるかもしれないし、柏木さんは迷子になっているかもしれないです!」
 「そ、そうね。」
 祐巳さんの言葉で我に返った薔薇様方は、テキパキと捜索ペアと場所を割り当てた。留守番には由乃さんと志摩子さんが残ることになった。

 「無理をさせすぎたのかしら。」
 「紅薔薇さま。」
 千尋は紅薔薇様とペアになって校舎の中を探すことになった。いくら祥子さんのためを思ってのこととはいえ、男嫌いを直そうと荒治療だったと自覚している紅薔薇様は弱気になっていた。

 「さっきは祐巳ちゃんに助けられたわ。」
 「そうですね。」
 身内の男女のあれこれというのは、想像するだけで生々しいものがある。同級生が話す、恋愛の話も度をこえれば耳をふさぎたくなるし。

 「大丈夫ですよ。柏木さんは親戚にリリアンのOGがいるそうですし、身内が卒業した学校で悪さはしないでしょう。」
 「あら、詳しいわね。」
 「先日、見送った時に教えてもらったんです。」
 ついでにマリア様に手を合わせていたことも伝えると、不安も少しは軽減されたみたいだ。

 しかし、千尋の考えは楽観的過ぎたらしい。
 遠く銀杏並木の方で騒ぎ声が聞こえて、駆け付けると嫌がる祥子さんに迫る柏木さんがいた。

 「だから、僕の話も聞けって。」
 「いやっ、離してよ!」
 祥子さんの細い手首に食い込む柏木さんの手をみて、千尋の頭は沸騰したような気がした。「パンッ」と乾いた音と同時に右の掌が熱を持った。

 「......これは、なかなかキくね。」
 王子様は綺麗な顔をゆがませて、頬をおさえていた。背後では祐巳さんが祥子さんに大丈夫かと声をかけている。

 「どういうことか、説明してもらおうじゃないの。柏木さん。」
 千尋以上に怒った様子の蓉子さまが、一歩進み出た。

 「お答えしだいでは、今度は私から、もう一発さしあげてもよろしいのよ。」
 「説明なんていいわよ。痴漢の現行犯なんだから、さっさと警察に引き渡せばいいわ。」
 「ちょ、ちょっと待ってくれ。」
 柏木さんは慌てて、話を聞いてくれと両手を前に突き出した。けれど、問答無用と白薔薇様は祐巳さんに守衛さんを連れてくるように言いつけた。「はい!!」と踵をかえして走りだそうとした祐巳さんは、しかし立ち止まった。

 「行けません。」
 「どうしたの、まさかこいつを庇うつもり?」
 「いいえ。でも、祥子さまが......。」
 柏木さんに集中していた視線が、祥子さんに集まった。祐巳さんは祥子さん側に行くと、静かに尋ねた。

 「柏木さんが警察に連れていかれるの、嫌ですか?」
 「どうして、そう思うの?」
 祥子さんは伏せていた目を上げて、ゆっくりと聞き返した。

 「顔にそう書いてあります。」
 「私のこと、よくわかるのね。」
 「はい。どうしてか、すごく。」
 「そう。」
 ふたりはしばらくの間、見つめあっていた。それは数秒にも満たない一瞬のことかもしれない。他の人の息の音さえ、彼女たちの邪魔はできなかった。

 「皆さま、お騒がせしてごめんなさい。柏木さんが痴漢だというのは誤解です。」
 「でも、祥子が腕をつかまれて嫌がっていたところを私たちは見ていたのよ。」
 どうして柏木さんではなく、祥子さんが頭を下げるのか。私たちにはわからなかった。

 「話してやれよ。」
 ひとまず警察に突き出される心配がなくなってホッとしたのだろう、柏木さんが祥子さんに声をかけた。

 「経緯はどうだったかにせよ、確かに僕は君の手を掴んだ。けれど、このまま僕が痴漢の現行犯として、警察沙汰になったら困るだろう?」
 話してやれ、なんて上から目線の言葉にカチンときたけれど我慢した。話したければ、彼が話せばいいのに。

 「そうね、柏木さん。そのほうがお互いのためかもしれないわ。」
 祥子さんと一瞬だけ目が合ったような気がした。いつもは自信満々に煌めく力強い瞳が人形のように伽藍としている。

 「柏木さんは従兄なの。」
 「実の?」
 初対面のときに「はじめまして」と言っていたのは嘘だったのか。思いがけない二人の関係に一同は驚きを隠せなかった。

 「そうだ。そして、僕たちは婚約者でもある。」
 祥子さんの代わりに柏木さんが答えた。
 私たちは、もう絶句するしかなかった。

 「そもそも手首なんて掴んだって痴漢にはならないんだ。結婚の約束をしているんだから、手ぐらい握るし、肩だって抱くし、」
 言葉の通りに、柏木さんは祥子さんの肩を抱いて引き寄せた。

 「キスだって、」
 そういって、祥子さんの頬に手を添えようとした。
 見ていられなくて、目を背けようとしたその時、

 『バチーンッ』

 激しい平手打ちの音が銀杏並木に響いた。

 「調子に乗るの、おやめになったら。」
 たたらを踏みながら、柏木さんは頬をおさえて蹲った。今度は強がりの言葉もでないほどキいたらしい。

 「さっちゃ......!」
 腐っても婚約者なのか走り去る祥子さんの後を追おうとする。けれど、銀杏の実を踏んづけて、祐巳さんにどつかれて、それは叶わなかった。呆然と2人を見送る柏木さんの肩を紅薔薇様がグッと押さえつけた。

 「後輩が失礼いたしました。」
 可愛い妹と後輩を傷つけられて、紅薔薇様も怒り心頭のご様子。

 「ところで、その衣装についたギンナンの汁、臭くてたまらないのご存じ?」
 さすがの王子も、怒れる女王の剣幕には何も言い返せなかった。そのあと、柏木さんは衣装をはぎ取られるように着替えさせられて、校舎を追い出された。

 「お祈りをしていってもいいかな。」
 「......ご勝手に。」
 本当は一緒に歩くのも嫌だけど、一人で校内をうろつかせるわけにもいかないので、千尋は校門まで柏木さんに付き添っていた。今度は両手をしっかりと組んで、マリア様の前から数分は動かなかった。

 「ミケランジェロの最後の審判を見たことある?」
 柏木さんはマリアさまに祈りながら、千尋に尋ねた。

 「ありますよ。」
 バチカンの礼拝堂に描かれた有名な天井画。写真なら見たことある。聖書によれば世界の終末をむかえたときに、生前の罪によって天国にいくか地獄にいくか裁かれるという。その場面を描いたものだ。

 「あれをみると、僕はキリスト教徒でなくてよかったと思う。弁解も罪滅ぼしもできずに悪だと決めつけられて、永遠に地獄で苦しむなんて、嫌な話だ。」
 「なら今から善人になればいいではないですか。」
 「無理だ。」
 柏木さんは立ち上がると、千尋を真っすぐな目で見つめた。

 「それは君も同じだろう。」
 「正確には同じだった、ですね。」
 千尋が静かに訂正すると、柏木さんはわずかに口角をあげた。

 「以前、ここで君に誰かを好きになったことがあるのかと尋ねたね。」
 「そんなこともありましたね。」
 忙しくて忘れていた。
 いや、もしかしたら忘れたくて忙しくしていたのかもしれないけれど。

 「僕もある。」
 「そうですか。」
 婚約者がいるのにですか、とは言わなかった。それを言うと祥子さんまで傷つけてしまうような気がしたから。だから、代わりに呟く。

 「頬っぺた、まだ痛みますか。」
 「ノーコメントで。」

 柏木さんが弁解の余地もない悪人だったらよかったのに。
 彼を叩いた右手の熱が引かない。
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