あなたに最後の一線をこえる覚悟はあるのか。
私と一緒に地獄に落ちてくれるのかと。
彼女は覚悟を決めた顔で応えた。
私の心に喜びが満ちた。
二つの陰が近づいていき、舞台の中央で重なる。
触れ合った手が身体を這い、熱い吐息が一つに交じり合う。
愛おしい人よ。
どうか、約束してくれ。
一つの愛と一つの人生を分かつと。
私を導き、孤独にしないでくれ。
私が必要だと、永遠に一緒だと言っておくれ。
クリスティーヌ、それだけが私の、
幕の間から客席をみると、大勢のお客さんが舞台の役者にむけて拍手をおくっていた。
「無事に終わってよかった。」
「そうね。」
波乱万丈な二週間だった。
まさか、王子役の花寺の生徒会長が祥子さんの婚約者だったなんて。しかも、聞いたところによれば男嫌いの原因の一つだというのだから笑えない。祐巳さんがいなければどうなっていたことか。
「お疲れさまでした。お姉さま。」
柔らかく微笑んだ志摩子さんがタオルを差し出してくれた。
「ありがとう。志摩子さんもお疲れさま。」
受け取って額の汗をぬぐうと気持ちがいい。
「私にもタオルをちょうだい。」
「うっ。」
左肩に重みを感じて振り返ると、立派な髭をつけた王様の格好をした白薔薇様がいた。他の生徒もいるのだから、ちゃんとしてほしいのだけど、そんなことを云っても暖簾に腕押し、馬耳東風だろう。
「申し訳ございません。タオルはその一枚だけで。」
「あっそう。じゃあ、千尋のやつを借りるわ。」
手に持っていたタオルを奪うと躊躇なく、顔をふき始めた。これには志摩子さんも唖然としている。私も驚いている。
「何よ、その顔。不服そうね。」
「距離が近くないですか。」
いったいどういう風の吹きまわしだろう。最近、人当たりがよくなってきたけれど、ベタベタするのは(祐巳さんをのぞいて)好きではないと思ったのに。
「あー、さっぱり。何よ、このくらい姉妹なら当然じゃない。」
「当然を当然と感じないから驚いているんです。」
「生意気な妹ね。せっかく可愛がってあげようというのに。」
密着した体を引きはがそうとするけれど、左の上半身に垂れかかって動く気配がない。腕にあたる柔らかな感触と沈丁花のような甘い薫りが理性を深い混乱に突き落とす。この方は何を考えているのだろう。
「止めてください。」
「ケチね。」
「白薔薇様、お姉さまが戸惑っているようなので少し離れてはどうでしょう。」
オロオロした様子の志摩子さんが悪くなった空気を換気しようと頑張っている。
「面白そうなことをやっているわね。」
「疲れているんだから放してあげなさい。」
紅薔薇様の言葉に白薔薇様はようやく離れてくれた。志摩子にタオルを返すと、「後夜祭でね」と私にだけ聞こえるように言って楽屋に引き上げていった。
「後夜祭でね。」か。後夜祭で何が起きるのか。仲良くフォークダンスのお誘いというわけではないはず。こっそり話したいことがあるのだろうか。
(聖さま。なぜ、今なのですか)
今まで姉妹らしいことなんて一つもしたことがなかったじゃないですか。
去年の終演後、私はひとりで楽屋まで歩きました。
私とあなたの間にあるのは約束だけで、信頼なんてないのかもしれない。だけど、わざわざ振り回すことなんかしないでください。優しくされたら、そして嬉しいと思ってしまったら、余計に惨めになるじゃないですか。
「大丈夫ですか。お姉さま。」
志摩子さんの声で我に帰る。
汚れを知らない大きな無邪気な瞳が見上げる。湖面のように澄んだこの目に映るのが誇らしくもあり、切なくもあった。
「大丈夫だよ。」
今の私にはこの子がいる。いつの日か巣立つまで側で見守りたいと思った子が。
(それでも全てを話すことはできない)
あの人のことも。
千尋の胸には、ある少女の面影が彫られていた。それはとても鮮やかで、無機質だった世界を彩り、時がたつごとに輝きを増していく。罪の意識で一杯だった暗い心を、夏の日差しのような明るさで塗り替えていった。
『夕焼けを切り取ったみたい』
その言ったあの人の横顔を、千尋は今も胸に抱いている。
千尋は父に似た容姿を嫌っている。
だけれど、あの人に褒めてもらった赤い髪だけは、毎日丁寧に手入れをしている。
「千尋さん、お疲れ様。」
「柏木さんもお疲れ様です。」
王子の衣装を着たままの柏木さんが爽やかな笑みを浮かべながら近づいてきた。
「まだ楽屋に戻っていなかったんですか。」
「ちょっと舞台の余韻に浸りたくてね。」
志摩子さんがソワソワしている。留守番組の志摩子さんと由乃さんにも昨日の事件は伝えてあるから、落ち着かないのだろう。
「ギンナンの臭い、結局とれませんでしたね。」
「ああ、参ったよ。さっちゃんには臭いからよるなって言われるし。」
「じゃあ、さっさと着替えてきてください。」
実際、ギンナンの臭いが酷いし、志摩子さんに近寄らせたくない。冷たくあしらうと、柏木さんはそれ以上話しかけずに去った。
「私たちも着替えに戻ろう。」
「そうですね。」
フォークソング部の合唱が聞こえる。
「今日の業をなしおえて、」
ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」第2楽章。曲名を覚えたのは小学校の林間学校のとき。キャンプファイヤーの周りでフォークソングを踊った後に、この歌を歌いながら火を消した。
無意識にハミングする。
白い月の下で。
燃え盛る炎の向こうに、あの人の愛らしい幻想が私の前に立ち現れた。
彼女は笑っていた。
かつて私の胸を騒がせた向日葵のような笑顔を咲かせていた。そして、その茶色の瞳は親しげに優しく、私を見つめていた。
私の目は過去の思い出にむけられる。
「どうしたの?黄昏ちゃって。」
千尋が校庭を囲む土手のようなところで、ぼんやり後夜祭のキャンプファイヤーを見ていると、白薔薇様が隣に座った。
「何と言いますか。安心して。」
「一年生で主役ってなかなかないものね。でも、堂にはいっていたわよ。先生方の度肝をぬくくらいに。」
「思い出させないでくださいよ。ようやくお説教から解放されたんですから。」
舞台袖で待っていたのは労いではなく教師の苦い顔だった。曰く、過激すぎるとか風紀が乱れるとか。
「まあ、生徒には好評だったから大丈夫よ。私もドキドキしちゃった。これで将来千尋が白薔薇の蕾になっても大丈夫ね。」
「ありがとうございます。私も白薔薇さまにときめいていました。お綺麗でした。」
白いドレスを着た白薔薇様は、気品に溢れていて触れるのも躊躇うほど。ただでさえ2年も離れているのに、より遠く感じた。
「光栄ね。さあ、私達の学園祭も幕切れにしましょう?そのために声をかけにきたの。」
白薔薇様は持っていた楽譜で中央の焚火を指す。
後夜祭のキャンプファイヤーでは学園祭で使用したチラシや掲示物などを燃やすという伝統がある。それを一緒にやろうということだった。並んで中央に近づいていくと、それまでフォークダンスを踊っていた生徒たちが、モーセを前にした大海のように左右にわかれて道をあけた。
「すっかり人気者ね。」
「白薔薇様のお力があってのことです。」
書き込みで余白が埋まった楽譜が焔の中で舞う。
ひらひらと落ちていく紙が灰になるまで見届けて、また土手のほうにもどった。
「白薔薇様は戻らなくていいのですか?」
千尋と違って白薔薇様は皆に慕われている。たかが一年が独占していい人ではないと思った。
「聖には会った?」
「いいえ。」
「やっぱりね。」
お姉さまは、終演後、何も言わなかった。予想していたとはいえ期待していなかったといったらウソになる。何か、一言いただけるかと楽屋に戻ったら、お姉さまはすでにいなかった。
「全く。妹なのだから労うのが姉でしょうに。」
「お姉さまは悪くありません。私たちは政略結婚ですから。」
「まだ間にうけていたの?あれは冗談だったのに。」
左肩に優しく手が添えられる。布ごしに柔らかい手のひらが、じんわりと肌を温める。どんな病を治す手もこれほど慈愛に満ちてはいないだろう。
「ごめんなさい。あなたには色々尻ぬぐいをさせるような真似をして。」
「いいんです。それが妹でしょう?」
姉妹の約束を交わしてから覚悟してきたことだ。
春、私は白薔薇様に連れられて山百合会にお手伝いとして出入りするようになった。祥子さんと令さんが蕾の妹になったのはほぼ同時期だったから、周りは私が残る白薔薇の蕾の妹の席に座るのかと噂した。
聖さまもチュンチュン群れになって飛び回り騒ぐ雀が、面倒くさくなったのか姉妹になることを了承してくれた。
私は別に聖様の「妹」を望んでいなかった。ただ山百合会の、白薔薇様の力になれたらそれでよかった。私を受け入れてくれたリリアンと人達のために働くことが夢だったから。
「ねえ、白薔薇の花ことばを知っている?」
首を横にふると、白薔薇様は優しい声音で教えてくれた。
「『自由な心』よ。あなたもいつか自分の心のままに生きていけるように祈っているわ。」
そう言って白薔薇様は私の髪を一つ掬うと口づけをした。イエス様が弟子に祝福を授けるような厳かなキス。焔に照された横顔に胸がどぎまぎした。劇は大変だったし、お姉さまから何も言われなかったけど、舞台に立ってよかったと思えた。
このときの優しい手つきを私は今でも忘れない。
白薔薇様。私はあなたのことが、