放課後の廊下。
音楽室に行く途中、私は外からギターの音色が聞こえるのに気づいた。普通の生徒なら学園祭に向けて、フォークソング部や有志の出演者が練習しているのかと思うだろう。
けれど、私はそのどれにもあてはまらないことを知っていた。
音をたてないように窓を開けて校舎裏を見下ろすと、クラスメイトが背中を丸めて演奏しているようだった。シューベルトのアヴェマリア。彼女の十八番だ。
私はマリアさまを讃える美しい旋律に陶然としながら去年のことを思い出した。
放課後の図書館。
部活は顧問の都合で休みだったから、静は図書委員として受付カウンターの中にいた。
リリアン女学園の図書館は中等部と高等部の境界に建っていて、両方の生徒たちが使う。地上2階が一般書庫で、地下一階が視聴覚コーナーと禁書室室。レンガ造りの古めかしい洋風の建物は設立当初から変わらないという。さすがにちょこちょこ改修工事はしているようだけど。
「あれ、静さん。どうしたの。」
図書館の受付に座っていたもう一人の図書委員、やす子さんが不思議そうな顔をした。やす子さんは他クラスの方で、幼稚舎からの内部組だ。
「今日は部活が休みだから来たの。」
「そういえば、そうだったわ。他にも人はいるのだし、せっかく休みになったのだから早く帰ればいいのに。静さんって律儀ね。」
やす子さんは微笑んで、隣の椅子を静のために引いてくれた。
仕事はほぼなくて、時折本の貸し出しと返却手続きの対応をすればいいだけだった。手続きというのもスキャナーでバーコードをピッと読み込むだけだからすぐに終わる。
やす子さんはカウンターに数学の教科書を広げて勉強していた。ページを見ると予習みたい。まだ高等部に入ったばかりだというのによくやるなと思う。
「いつもここで勉強しているの?」
「へ?」
まさか、話しかけられるとは思っていなかったのかやす子さんは変な声をだした。幸い小さな声だったので周りに迷惑をかけることはなかったものの、何人かはこちらを向いた。
「いきなりなによ。驚いちゃったじゃない。」
やす子さんは恥ずかしかったのか顔をりんごみたいに赤くした。
「ごめんなさい。で、さっきの質問の答えは?」
「NOよ。普段だったら本を読んでいるか、窓を見てぼうっとしているか。そもそも数学は嫌いだし。」
「なら、どうしてやす子さんは嫌いな数学の教科書を開いているのかしら。」
静の問いかけにやす子さんは窓のほうにチラッと視線をやった。
「向こうの窓際に座っている人を見て御覧なさい。気づかれないようにね。」
「どの人?」
「薄い栗色のふわふわした髪の子よ。」
やす子さんに「そうっとよ」と念押しされながら、静は目だけ窓際の方に向けた。
(お人形さんみたい)
それは思わず感嘆の息が漏れるほど抒情的な光景だった。
陽の光を浴びて煌めくやわらかな髪に、西洋人形のような整ったお顔。日本人では珍しい天然の碧眼は晴れた日の湖のよう。清げで儚い雰囲気をまとった亜麻色の髪の乙女が、粛々と勉学に励む姿は聖堂の壁画のように厳かだ。
「ねっ。わかった?」
「何が?」
「だから、私が勉強をしている理由。」
やす子さんは夢見るような表情で呟いた。
「あの子、志摩子さんというのだけれど私たちの一つ下の学年の子らしいわ。ほぼ毎日図書館にやってきてああやって勉強しているの。」
「それで?」
「私も頭がよくなればお近づきになれるかと思って。」
「なるほど。」
点と点がつながった。
「でも、そんなまどろっこしいやり方ではなくてもいいんじゃないの?」
「それがそうもいかないのよ。あ、丁度いいわ。そのまま顔を動かさずにしばらく見てなさいな。」
やす子さんはそう言うと、またせっせとシャーペンを動かし始めた。静は人目を気にするように勉強を再開したやす子さんを訝しみながらも、言われた通り美少女の観察を続ける。
(ん?)
美少女、志摩子さんが荷物をまとめ始めた。教科書と筆記用具を鞄の中にしまって席を立つ。そのまま帰るのかと思ったら、赤い髪の生徒の近くへ足を向けた。あの長髪の持ち主は小夜子も知る人。
「千尋さん?」
細田千尋さん。
中等部からの外部組。頭脳明晰で冷静沈着。目を引く鮮やかな赤髪と先生方よりも高い背から別名「リリアンの東京タワー」と呼ばれている。
顔立ちはよくわからない。分厚い赤い御簾で覆われているし、相当目が悪いのか滑稽なほど分厚い眼鏡をかけているから。
でも、悪くはないのではないかと思う。体育の授業後、更衣室で髪の隙間から見た彼女の面差しは整っているほうだった、と朧気ながら覚えている。
もっとも、些細なことで人相の印象は変わるものだから一概に言うことはできないけれど。
怪しい容姿の級友と、天使のように麗しい少女。これ以上ないほどアンバランスな光景だった。さらに不可解なのは志摩子さんが、何も言わずに隣に座ったこと。次に何をするのか、と思う外野をよそに鞄から教科書を取り出して勉強を再開した。
「なにアレ?」
「4月から、いつもああなの。」
「ええっ。」
「驚くでしょ?」
静の反応にやす子さんは苦笑した。
「あの子ね。千尋さんが図書館にいるときは必ず隣に座るの。最初は知り合いかと思ってたんだけどね。話しかけるどころか挨拶さえする気配がないし、一緒に帰る様子もないし。」
「知り合いでもないのに近くに座るってことは、あの子は千尋さんのファンってこと?」
「あの人の秀才っぷりはリリアンの歴史に残ってもおかしくないほどだもの。実際、それで山百合会に入ったし。」
そうだと思う、とやす子さんは頷いた。
「千尋さんの反応は?」
「無反応。可笑しいわよね。普通、あんな美少女が連日隣に座ってきたら、例え他人でも何かしらの反応があってしかるべきじゃない?」
「どうでしょう。あの千尋さんよ。」
あの少女だけじゃない、千尋さんが容姿の優れた人に見惚れたりときめいたりする姿は想像できない。それは引け目を感じて興味のない振りをするというスカしたもの、というよりも全くの無関心からのように思えた。
しかし、やす子さんはそうは思わないようだった。
「あの子が千尋さんのことを意識しているのは見え見えよ?なのに、あんなに平然としちゃって。動じない自分が格好いいとでも思っているのかしら。」
「そんなことは思っていないと思うわ。」
「どうだか。」
やす子さんはカチカチとシャーペンを鳴らした。眉間に力が入ったその表情には普段の朗らかさがなかった。
「静さんは知らないと思うけどね。千尋さんって1年の頃からああなのよ。彼女、毎回テストで満点をとって周囲が褒めても『運が良かっただけです』で済ませちゃうの。」
「そうなの。」
「謙遜もいき過ぎると感じが悪いわよね。」
「そんなことは、」
「他のことでもそう。あの髪だって綺麗でいいわねと言ったら黒いほうが羨ましいですって。些細なことで浮かれる私たちが馬鹿みたい。千尋さんはどうしてあんなに冷めているのかしら。」
やす子さんの口は止まらない。
カチカチとやす子さんの手元からシャーペンをノックする音が聞こえる。
「ほんっと嫌な人。」
周りの音が一瞬だけ消えたように感じた。
それは小さな呟きで静に聞かせるものではないのかもしれない。単なる独り言に過ぎないものかもしれない。けれど、そう言い聞かせても、その言葉は静の背筋に冷たいものを走らせた。
「ごめん。ちょっとお手洗いに。」
これ以上、聞いていられなくて静は席を立った。そのとき、お腹がズキンと痛んで顔をしかめたら、やす子さんは「大丈夫?」と心配そうに尋ねた。
「体調悪いなら無理しないでね。」
「大丈夫よ。今日はあの日なの。」
「まあ、大変じゃない。」
やす子さんの言葉は本当に静の体調を案じているようで温かい。けれど静は自分を気遣うやす子さんの顔を正面から見れずにうつむいたまま「すぐ戻るから」と言って歩きはじめた。
私の頬は引きつっていなかっただろうか。
動揺していることはバレていなかっただろうか。ここで変な反応をみせたらやす子さんは静にまで矛先を向けてくるように思われて、自分でも気持ち悪いくらいの愛想のいい仮面をつけて逃げてしまった。
静は外の空気が吸いたかった。静の足はお手洗いではなく校舎に向かった。渡り廊下を通って階段を登ると踊り場からバルコニーに通じる所がある。
薄いレースのカーテンを開き、窓をあけると夕暮れの風が頬をなでた。
静は大きく息を吐いた。座り込むことはしないものの壁に背中を預けて立っているという感じ。それほど、やす子さんの言葉は衝撃的だった。
やす子さんは志摩子さんが好きだから。彼女が千尋さんに気がありそうなのに嫉妬しているのだろう。千尋さんの態度が冷淡にみえて志摩子さんに同情している気持ちもあるかもしれない。
それが火種になり、今までの不満まで爆発させたのだ。
やす子さんは悪い人ではない。
嫉妬をするのだって自然なこと。年ごろの女の子の憧れは恋に似ている。自分が向ける熱量を同じように返して欲しいと願ってしまう。
相手に思われる人を妬まないことは難しい。それに遠回りな方法ではあるけれど、千尋さんの優秀さを認めたうえで勝とうとしている。
一方で、千尋さんに非がないのも事実だ。彼女は冷淡に見えるけれど、薄情ではないことを静は浅く長い付き合いの中で知っている。
どちらの味方になることもできず、どちらも悪役にしたくないもどかしさ。そして、ズンと胸が重くさせるのは耐えきれずに逃げた自分の情けなさ。
「ごきげんよう。」
突然の声にバネみたいに静の身体が跳び上がった。階段の下から今は聞きたくない声が聞こえてきた。
「大丈夫?」
千尋さんだった。
「具合が悪そうに見えたから。」
「大丈夫よ。わざわざついて来るなんて心配性ね。」
静は道化て答えた。
でも、千尋さんは誤魔化されてなんてくれない。
「もう一人の図書委員の人に何か言われた?」
言葉に詰まった。
「そう。言われたんだね。」
白いレースの向こうで静かに佇む姿はまるで幽霊のよう。それはうら若く死んだ乙女のウィリみたいで、物悲しさと恐怖を感じた。
「ごめんね。」
低い声で呟いた。風にまぎれて消えてしまうような小さなささやき声。
「どうして謝るの?」
「多分私の悪口でも言っていたんでしょう?」
千尋さんは申し訳なさそうな顔をした。
「あの子が隣に座っているとき、やす子さんはいつも不機嫌そうだから。」
「気づいていたの?」
「だって、ねえ。」
歯切れの悪い返事だったけれど、千尋さんがやす子さんの悪意に気づいていたのは確かみたい。
「なら、どうしてあの子、志摩子さんから距離を置かないの?」
「......隣に座ってきたから席を変えるなんて、あからさまなことはできないでしょう。」
慕ってくれる子を無碍にできない気持ちは共感できた。静も部活の後輩に懐かれたら悪い気はしないもの。
「ねえ、どうして怒らないの?」
「どうして?」
千尋さんは意外そうな顔をした。
「今の千尋さんの置かれている状況って理不尽だと思う。何も悪いことしていないのに。」
「静さんはさっきから質問ばかりだね。」
千尋さんは困ったように微笑んだ。でも、答えてはくれない。静は誤魔化されたくなくてさらに問い詰めた。
「それに、私はあなたの悪口を言った人を止めなかったのよ。それどころか自分に飛び火しないようにするばかりだった。」
「いいんだよ。私は気にしてないから。」
千尋さんは穏やかに言った。
千尋さんのこういうところが嫌いだな、と思った。
彼女のそばにいると自分の心の醜さを白日のもとに晒されるようで辛くなる。曖昧に濁せばいいものに真っ向から斬り込んでくる潔さが。その真っ直ぐなところがどれほど周りを傷つけるのか知らないのだろう。
「貴女ってすごくいい人なのね。」
「いい人?」
千尋さんは怪訝そうな顔をした。私の言葉に隠された刺に気づいているのかいないのか。
「違うの?」
もう何がどうなろうと構わないという気がした。それで少しでもこの優等生の顔を崩せたらと思った。
「違う。」
千尋さんは淡々と答えた。
静を冷ややかに見つめる2つの瞳は冬の曇り空みたいな色をしていた。陽の光を遮る果てしない雲のほの暗さ。見る人の体温を奪い取るような氷の瞳。
怖いと思った。
けれども、美しいとも思った。
分厚いレンズを挟んだ灰色の瞳に、挑発的な私の顔が反射している。その事実に背筋がぞくぞくした。それから長い時間がたったような気がしたとき、千尋さんが1歩後退り、「ごめん」そう言って立ち去った。静を置いてきぼりにして。
我に返ってすぐに後を追いかけた。昇降口で上履きの入った下駄箱を見て、静は深いため息をついた。
図書館にもどると、閉館時間間際だった。志摩子さんもいない。
「長かったけれど大丈夫?」
やす子さんの声も今は静の耳には入らない。
(やってしまった)
罪悪感と後悔から血の気がどんどん引いていく。
「ねえ、顔が真っ青よ。」
じれったくなったのか、やす子さんは静を無理やり椅子に座らせた。それでも、静は何も言えなかった。今はお腹の痛みも気にならない。
頭を占めるのは明日、どんな顔をして千尋さんに会えばいいのか。
それだけだった。
次の日。
第一声をどうかけようかと逡巡する私とは反対に、千尋さんは「ごきげんよう」と爽やかに挨拶した。バルコニーで交わした会話が幻だったのかと思うほど変わりなく、昨日の痕跡を残さない彼女に寂しくなった。
けれど、静には彼女に踏み込む勇気はなかったから親しくなるようなドラマティックな展開は訪れなかった。他に気になる人もいたし。
だから、彼女に関わる切っ掛けをくれた当時の紅薔薇さまの采配をありがたいと思う。
千尋が私の存在に気づいて演奏をやめないように、静かにその穏やかな音色をしばらくの間、聞いていた。
好きな人がいます。
恋をしています。
でも、かなうはずなんてないと思います
ふられて当たり前だと告白する前から笑っています。
そのくせ、その人が他の人をみていると悲しくなるんです。
だから、諦めきれないんです。