「なに、令ちゃん。私の顔になにかついてる?」
トーストを食べていた由乃が首をかしげる。
「イチゴジャムがついてる。」
「え、嘘。」
テーブルの端にあったティッシュとって、口元に近づけると由乃は嫌そうに顔を背けた。
「赤ちゃんじゃないんだから。自分でとるわ。」
そういって親指でぬぐってぺろっとなめた。それをみた由乃のお母さんが、はしたないと叱る。
「今朝は山百合会で片付けがあるのよね。私も行きたかった。」
由乃はパジャマの裾をつまみながらいじけていた。学園祭ではしゃいだせいか、休日は熱がでて寝込んでしまったから。心配した両親が休みなさいと言ったのだ。
「仕方ないよ。無理をして倒れたら大変だし。」
「でも、このくらいなら別にどうってことないのよ。祐巳さんや志摩子さんとも会いたかったのに。」
私も両親たちも、由乃にたいして過保護な自覚はある。けれども、心配なのだ。
「元気になって顔をだせばいいじゃない。」
「そうだけど。でも、準備もけっこう休んだから祐巳さんともまだそんなにお話ししたことないし。」
どうやら由乃は最近山百合会の仲間入りをした祐巳ちゃんのことが気になるみたい。確かに彼女は親しみやすく、素直で可愛らしい子だ。それに人の心をひらかせるような、不思議な打ち解けやすさがある。
令も短い付き合いだけど好ましく思っている。 あの小笠原祥子の妹になるのは、どんな子かと思っていたけれど納得した。
帰ったら、学校のことを話すと約束して、家を出た。
1話
「ごきげんよう。令さん。」
「ごきげんよう。黄薔薇の蕾。」
「ごきげんよう、千尋、志摩子。まだ早いけど3人で片付けちゃおうか。」
千尋が志摩子さんと登校すると、令さんが先に着いていた。令さんは家が近所で徒歩通学しているらしい。一足先に残っていた片づけを始めて、あらかた終わるころには、紅薔薇様、黄薔薇様、祥子さんも来た。白薔薇様はいつものように遅刻だろう。
「祥子さん、今日はしゃっきりしているね。何かあった?」
低血圧で朝に弱い祥子さんにしては珍しい。
「何でもなくってよ。」
「そう、何かいいことでもあったのかと思った。」
「ノーコメント。」
一階の多目的スペースで話していると、勢いよく扉が開き、祐巳さんが飛び込んできた。トレードマークふたつ結びが元気よく跳ねている。
「遅くなりました!」
まだ8時前だから慌てなくていいのに、と思うけど隣の同級生はそうは思わないらしい。
「渋滞にでも巻き込まれて?」
「い、いいえ。」
「じゃあ、どうしたの?」
冷ややかな視線と詰問に祐巳さんは兎のように震え上がっている。まるで蛇に睨まれた蛙だ。祥子さんは迫力のある美人だから、真っ正面から詰め寄られると怖いだろう。
「ちょっと祥子。」
令さんが肩のあたりを小突いて嗜めるけど、祥子さんは「黙っていてちょうだい」とピシャリとはねのける。
「遅れた理由があるならはっきりおっしゃい。今は何時だと思っているの。」
「7時52分です。」
後ろで紅薔薇様が吹き出した。ここで答えられる祐巳さんすごい。まだ知り合って1ヶ月もたっていないのに、この二人のしっくり感は信じられない。厳しい祥子さんについていける祐巳さんはおとなしくみえて、ガッツがある。
「祥子も偉くなったものね。」
「白薔薇様!」
ぬっと現れた白薔薇様は祐巳さんを羽交い締めするように抱きつくと「ごきげんよう、皆さん」と眠そうな声で挨拶した。口に手もあてずに大あくびをしてる。
「悪い、悪い。すっかり忘れていつも通りに来ちゃった。8時の集合だから、ギリギリセーフよね。祥子?」
白薔薇様は祐巳さんを人質に祥子さんに話しかける。上級生の間に挟まれ、ズルズル引きずられる祐巳さんの可愛そうなことこの上ない。
黄薔薇様のとりなしで一時的に祐巳さんは解放された。でも、祥子さんはまだ納得がいかないみたい。
「お姉さま方、祐巳に甘すぎます。」
「当たり前じゃない。私たち三年生にとっては二年生が子供で一年生は孫みたいなものなんだから。躾は基本的に親の役割。おばあちゃんは無責任に可愛がるものだって相場じゃないの。」
相場が決まっているのか。
紅薔薇様の言葉になんとなく志摩子さんをみるとキョトンとした顔で祐巳さんと見つめあっている。白薔薇ファミリーのおばあちゃんと孫の関係ってどんななのだろう。ちなみに黄薔薇ファミリーの孫とおばあちゃんは令さんを取り合ってバチバチしている。
「祥子だって一年の時には、卒業なさった私のお姉さまにずいぶん甘やかされていたじゃない?」
「そ、それは。」
「世の中そんな風にできているのよ。諦めなさい。」
祥子さんはすっかり紅薔薇様に丸め込まれてしまった。黄薔薇様も、白薔薇様も、薔薇様方は祥子さんのことが大好きだからよく言い負かして遊んでいるけど、これが同級生の私と令さんだとこうは上手くいかないだろう。いつか、祥子さんから一本とる快感を味わってみたいものだ。
「あれ、祐巳ちゃん。これ。なーに?」
「ギャ。」
白薔薇様、それアウトです。千尋は思わず顔を覆った。白薔薇様が祐巳さんの襟ぐりに手を突っ込んで「失礼」とロザリオを引き出したのだ。あまりのセクハラ具合に頭が痛くなる。
「白薔薇様。ほどほどになさってください。」
「いいじゃない、皆も気になっていたでしょ。ははん、通りで祥子が張り切っているわけだ。」
祐巳さんの首にかけられたロザリオと祥子さんに視線が行ったり来たり。
「あら、まあ。」
「やるときはやるのね。」
これで決めなかったら、どうするのだという感想は胸に秘めておく。だって、余計なことを言うと祥子さんが怖いから。
「反省会する時間がなくなりましてよ。お姉さま方。」
「まあ、そう言わずに少しはサービスしなさいよ。いったいいつ、どこで儀式をしたの?」
「サ、サービスですって?」
余計なことを。あーあ。祥子さんの眉間がピクピクしている。わかっててやるのだからお人柄が悪い。わざわざ藪をつついて蛇を出すなんて真似はよせばいいのに。
「どうして私が、お姉さま方にサービスしなければならないのです。」
「あ、そ。だったら祐巳さんに聞いちゃおうかな。祐巳ちゃんは素直だから教えてくれるわよね。」
「私も祥子の姉として知っておきたいわ。」
「私はその友達として。」
可哀想な祐巳さんは般若のようなお姉さまと学園最凶に挟まれてちぢみあがっている。
「薔薇様方、お戯れが過ぎますよ。二人が可哀想です。」
「あ、千尋。何一人だけいいかっこしようとしているの。」
「そんなことはありませんが。」
薔薇様の視線が千尋に集まった。
「私達はただ可愛い妹と孫の話を聞きたいだけじゃない。」
「あ、千尋が代わりに志摩子とのことを語ってくれるの?」
「語りませんよ。」
何を語れというのだ。志摩子さんは目立たないように曖昧に笑っている。
ごちゃごちゃして場がカオスになったときに、
(ぎょろぎょろぎょろ)
蛙の鳴き声みたいな音が、祐巳さんの身体を中心に響いた。たっぷり数えて10秒ぐらいのことであろうことか。
シーン、と場が静まり返っても、なおキュルキュルとなっている。祐巳さんの顔に「終わった」と書いてあった。耳まで真っ赤になっている。
「くっ」
沈黙を破ったのは白薔薇様だった。
「いいっ。祐巳さん最高!」
「絶妙なタイミングだったわ。」
「祐巳さんの天然ボケに敬意を表して、この場は勘弁してあげましょう。」
薔薇様方は至極満足そうに微笑んだ。そして、ようやく反省会にうつった。笑いの余韻に浸りながら古い階段を登る。チラと後ろをみると祥子さんは祐巳さんに飴をあげていた。
「あれ、由乃さんは?」
「由乃は今日はお休みよ。」
志摩子さんと一緒にお茶の準備を整えていた祐巳さんが声をあげる。令さんによれば、昨日から熱が下がらないらしい。初めての学園祭ではしゃぎすぎてしまったのだろう。聞いたところによると由乃さんの虚弱体質は心臓に小さな穴があいているせいで身体に上手く血液が巡回しないことが原因らしい。
「どうぞ。お姉さま。」
「ありがとう」
志摩子さんから紅茶をもらっていると黄薔薇姉妹の会話が聞こえてきた。
「そうそう。新聞部が一両日中に由乃ちゃんと令を取材したいって言ってきているけれど。」
「新聞部が?私と由乃を?」
令さんが「なぜだ」と首をひねっている。
黄薔薇姉妹の話は祐巳さんにも聞こえていたらしく、お茶をこぼしそうになって白薔薇様に「メッ」と怒られていた。祐巳さんと白薔薇様の関係のほうが、志摩子さんとの関係よりも孫と祖母にみえる。まん中に挟まれている立場だけど、姉と妹の関係が今一つよくわからない。仲は悪くないと思うんだけど。
「あなたと由乃ちゃんが、新聞部主催の全校アンケートでベスト・スール賞とったんだって。正式依頼だし、断る理由はないんだけれど、」
「でも、由乃はいつ登校できるかわからないので。」
「そうね」と黄薔薇様がうなずいて、この場で話しは終わりにしたみたい。
中身は乙女だけど見た目は硬派な令さんと、大人しそうな楚楚とした由乃さん。横から見ていると理想の姉妹にみえる。ただ由乃さんはあまり話したことがないけれど、なんとなく何かありそうだなと思っている。黄薔薇様とよく張り合っているし、それに体育祭のときは参加できないことを本気で悔しがっていたし。
他藩のことは言えないけれど、黄薔薇ファミリーも不思議な関係だと思う。黄薔薇様が令さんを妹にしたのは希少価値が高そうだからという理由。「顔で選んだ」と言った先代白薔薇様にも負けない豪胆さだ。それでもって、令さんは幼い頃から溺愛する(ここ重要)由乃さんに入学式の日にロザリオを渡したというのだから、妹の選び方も、姉妹の関係も上と下で全く異なる。
「カップ、全員に行き渡った?じゃあ、乾杯しましょう。」
紅薔薇様が立ち上がって音頭をとった。
「まずは、学園祭の成功を祝って。」
まずはということは続きがあるのかな。
「そして、晴れて祥子が祐巳ちゃんをモノにしたことを記念して。」
「ブッ」
あ、吹き出した。
「あらまあ、照れちゃって。」
抗議する祐巳さんも三年生からすれば可愛いだけだ。完全にからかわれている。薔薇様方は祥子さんに並ぶ新しいオモチャに嬉しそうだ。
「口を閉じて、口の周りをお拭きなさい、みっともない。」
祥子さんが呆れたように祐巳さんに白いレースのハンカチをわたした。こういうとこをみると名家のお嬢様なんだなって実感する。薔薇様方からの指導で忘れやすいけど。
「あら、拭いてあげないの?」
「白薔薇様でしたら、千尋の口の周りの面倒までみて差し上げるのかしら。」
「何言うの祥子さん。」
ギョッとして祥子さんの顔を見る。
「こういうのは可愛い子だから許されるのであって、私だったらみっともないだけだよ。」
「志摩子にカレーを食べさせてもらったくせに、よくそんなことが言えるわね。」
「痛いとこつくなぁ。」
チクチク嫌味が刺さる。これは「野放しにするな」という千尋への遠回しなクレームだ。
「千尋には志摩子がいるからしないけど、祐巳ちゃんだったらぜひ構いたいなぁ。」
「この際だからはっきり言わせていただきますけれど、私の妹を甘やかさないでくださいね。」
「じゃあ、千尋を可愛がるか。」
「駄目です。」
断ろうとしたら、なぜか先に志摩子さんが却下した。
失礼のないふんわりとした言い方だけど、白薔薇様が手を伸ばしてくると間に割ってはいってきた。
「あれ、やきもち?」
「じゃあ、では駄目です。」
「はいはい、わかったわよ。志摩子ちゃん。ちゃんと可愛がるわ。」
「はい。」
ちゃんとならいいの?
志摩子さんの判断基準ってなんだろう。
遠くからチャイムの音がした。朝拝の時間が近づいてきたようだった。祐巳さんと志摩子さんが全員のカップを集めて、流しに持っていく。水の音に紛れて「姉妹にもいろいろな形があるんだ。」と祐巳さんがポツリと言った。
部屋を出るとき、白薔薇様が肩を組んで耳元で囁いた。
「あ、千尋は昼休み、中庭ね。」
「カツアゲでもされるんですか。」
「いいや、後夜祭で一緒に思い出を噛みしめたいと思っていたお姉さまの純情を踏みにじった罰。」
「分かりました。」
これには従うほかない。後夜祭のキャンプファイヤーで白薔薇様のもとに行かずに、志摩子さんや級友と過ごしていた。妹は姉に従うもの。非は自分にある。白薔薇様に何を言われるのだろうか、と思いながら古い階段を降りていった。