クラスメイトの1人、早坂志都が死んだ。
とあるゲームに登場するモンスター、スライムの様に見えるモンスター。
現地の異世界では、草原に現れる最弱モンスター。
この異世界でもゲームでもそう扱われるスライムめいた怪物の内部で、早坂志都が肺に残った最後の空気を吐き出した。
半透明の膜越しに膨らんだ泡が、ぼこりと濁って弾け、その直後に彼の顔らしき輪郭が粘液の奥へ沈んでいく。
その光景を見届けていた小栗潤は、反射的に唇を強く噛み締める。
半透明の粘液越しでは、顔までは判別できない。
それでも、あてもなく痙攣する手足を見れば、窒息する苦しみを最後まで支配されていたことだけは理解できた。
その瞬間、スライムの表面に張り付いた笑顔が、まるで人間の苦悶を真似して嗤っているように見えた。
お調子者で、色々と鼻持ちならない行動を取ることもあったが、まだ16歳の子供だった。
今日の朝、学校に登校したクラスメイト数人が、突然この異世界に転移した。
よくある小説の様に、神の様な高次元の存在や、王様が魔王のための勇者として呼んだといったイベントもなく、唐突に転移した。
早坂はこの世界をゲームのように捉えていた。
成り上がりへの夢、未知への興奮や未来への期待。
そんなものに浮かれていた少年は、最弱のモンスターに捕食された。
そして今、潤はクラスメイトの1人がモンスターに捕食されたショックで腰を抜かした、もう1人のクラスメイトを守るため、20匹以上のスライムを前に、1人その場に残った。
「担げ!!」
「え……?」
「青峰を連れて門まで行け! 女子も向かわせた! 今は何も考えるな! 走れ!」
ぬるり、と草を擦る音が周囲で重なり、夕暮れの草原に点在していた半透明の塊が一斉にこちらへ向き直る。
潤の視界には大小様々な笑顔だけが並び始め、湿った粘液臭と鉄臭い血の匂いが入り混じった空気が肺にへばりついた。
「くそっ、死ぬんじゃないぞ」
縁起でもないことを叫び、潤が逃げる様に促したクラスメイトが、人の生活圏である城門を目指して走り始める。
その背とは少しだけ離れた方角、逃した男子生徒の後を追うように小柄な影が必死に門へ向かって走っていた。
同じように、この世界に転移した女子生徒たちと、運動が得意でない男子生徒が1人、同じように城門を目指して走っている。
転びそうになりながら、それでも彼女は止まらない。
その走る姿を見た瞬間、潤の胸の奥に張り詰めていた何かが、ほんのわずかに緩んだ。
「……よし。 これなら乃亜は間に合うな」
少なくとも、彼女は逃がせた。
そう理解した途端、冷え切っていた思考が逆に冴え始める。
――だが、まだここで死ぬ訳にも、それ以前に怪我を負う訳にもいかない。
白藤乃亜はまだ、この世界で1人で生きていけるほど強くない。
文字も、地理も、人の悪意への対処も、何一つ身に付いていないまま放り込まれた子供が、この異世界で独り立ちするまで見届ける責任が自分にはある。
そのために必要なのは英雄気取りの自己満足ではなく、確実に生き残るという一点だけだと潤は割り切っていた。
だからこそ、潤は早坂を助けることを諦めた。
スライムが跳ねる。
潤はスライムが跳ねたことで回避が出来なくなったスライムを、思い切り殴り飛ばした。
殴りつけて、その余りの重量に顔をしかめた。
表面はゼリー状の見た目に反して人間の皮膚と同等くらいの質感があり、その内部は粘液とは思えないほど密度が高かった。
殴るのは手を痛めるだと判断し、両手でいなす様にしてスライム同士を衝突させつつ、孤立したスライムは踵で押し退けるか、叩き潰す様にして時間を稼ぐ。
潤は足を止めない。
周囲を完全に包囲されているため、常に動き回らないとすぐさま圧死させられる。
そうなれば早坂志都の後に続くことになる。
潤は前線を続けていたが、如何せん多勢に無勢にすぎた。
当初20程度だった数は、その倍は集まってきている。
まるで草原全体が蠢いているかのような錯覚を覚える。
潤は早坂の遺体が収まっているだろう個体へ視線を向ける。
膜の奥で、彼の腕が最後に大きく痙攣した。
胸の奥で、鈍い痛みが広がった。
最初から全力を出していれば助けられた可能性があったことは分かっている。
だが、そのゼロではない可能性に命を賭ける価値があったのかと問われれば、たぶんあったと思う。
しかし潤にとって乃亜を生かすという目的に比べれば、ここで捕食されたクラスメイト一人の命など秤に乗せるまでもなかった。
彼女のためにも、万が一でもここで死ぬようなことがあってはならないのだ。
潤は背を向けたまま、改めて周囲を見渡す。
周囲のスライムたちが、じわりと包囲を狭めてくる。
笑顔ばかりが並ぶ光景は悪夢そのものだったが、それでも潤の頭は異様なほど静かで、どこをどうすれば突破できるか、どの方向へ退けば安全か、その計算だけを冷静に積み上げていく。
英雄にはなる気はないし、なるつもりもない。
だから潤は、早坂を見捨てて生き残る。
白藤乃亜が、この世界で1人で歩ける日までは。
――たとえ彼女が、自分のことを何も覚えていなかったとしても。