疑問点や質問でもありがたいです。
第9話
この世界は、私には厳しすぎる。
半月くらい前、日本にいた時の椿桐乃は、そんなこと考えたこともなかった。
この春、異世界に転移するというゲームでは割と定番な、でも決して現実では起こらないはずの事象が起こった。
異世界に転移してからと言うもの、毎日が辛いだけの日々だった。
朝起きる。
身体のだるさをごまかして水を飲む。
日銭のために動き回る。
しかし何の成果も得られず床に就く。
朝起きる。
素材の味、と言えば聞こえはいいのだろうが、まったく美味しくないパンをかじる。
味を感じる前に、水で胃に流し込む。
日銭のために動き回る。
しかし何の成果も得られず床に就く。
それを幾度も繰り返して、ここでは「普通」に生きるだけでも、相応の覚悟が要るのだと知った。
仲の良いエレインと、生徒会の白藤乃亜も、同じような境遇だからそこまで肩身が狭いわけではない。
小栗に八つ当たりしてしまった、あの日。
そして、キモオタの報酬からいくらかちょろまかして、久しぶりにまともな食事をして、現場を取り押さえられたあの日。
強引にキモオタの言い分を遮って以降、キモオタの態度が明らかに硬化した。
挨拶をしても視線を合わせない。
必要最低限の会話もしない。
完全に壁だ。
露骨に避けられているのが、痛いほど分かる。
どうにかしたい。
だが、今なんとか生活できているのは、合計で大銅貨8枚を提供している小栗とキモオタの2人がいるからだ。
この関係が完全に壊れれば、即座に生活が立ち行かなくなる。
だから無理に改めさせることもできない。
念のため、保護してくれる施設を探して回った。
だが、教会も、神社も、寺も、孤児院も、すべて同じ答えだった。
どんなに遅くとも15歳で卒院になるため、既に15歳を超えているあなたは受け入れられない。
……なによ、それ。
ふざけないで。
私はもう子供じゃないって?
笑えないわ。
その上で女子の就職先は風俗嬢か冒険者。
提示される選択肢を聞いた瞬間、喉の奥がひくりと引きつった。
ならば、と先達者――すでに冒険者として生きている人――に頼れば、何か道が開けるのではないか、そう思って声をかけて回った。
「あっ! あなた、その格好からして熟練の冒険者よね」
政庁の出入口の中で、軽装ではあるが正しく冒険者と分かる男が、こちらをちらりと見た。
「なりたての私に、アドバイスとか……良かったら、手助けをお願いしたいのだけど」
精一杯、柔らかい声を作る。
相手の背後には、男女混成のパーティー。
女性もいる。
それだけで、胸の奥に小さな期待が灯る。
「ん~……」
その冒険者は、私の頭から足先までを、遠慮なく値踏みするように眺めた。
その視線だけでも、「ここまで露骨なタカリ、久々に見たわ」と相手にされていないことが分かっていたが、僅かな可能性を捨てきれなかった。
何を見られているのかも、何となく分かる。
日本にいた頃よりは落ちたものの、まだ綺麗な髪。
日焼けとは無縁の白い肌。
駆け出しの冒険者が着るには不自然なほど新しい服。
労働の痕跡がほとんど残っていない手。
そして――武器も、防具も、何もない。
「喧嘩売ってんのか!? 草原はガキの遊び場じゃねぇんだよ! せめて武装ぐらい整えてから声かけろや!」
低い怒声が飛びだし、周囲の視線が一斉にこちらへ集まる。
胸が、きゅっと縮こまってしまい、桐乃は慌ててその場から逃げ出した。
「どいつもこいつもおかしくない? 防具を整えられるほどの収入があるなら、青峰なり小栗なりを討伐に行かせるわよ! それが出来ないから後のことを考えてるんじゃない」
政庁を出た後、思わず独り言がこぼれた。
誰に向けたとも知れない怒り。
同じようにこの苦境から逃れようとしていた女性から聞いた話では、その人の祖母が子供だった頃、市民権を持つ上流階級なんて一握りしか住んでおらず、住民はほぼ全員が冒険者だった。
1人でも多くの冒険者を独り立ちさせるべく「冒険者支援法案」なるものがあったらしく、これによって私たちのような本当の弱者も生きていけたらしい。
そんなことを思い返しながら、桐乃は政庁近く、薄暗い裏路地の出入口に立っていた。
湿った壁に張り付けられた、紙が剥がれかけた求人広告を見つめる。
「……その冒険者支援法案も、10年以上も前に廃案か。現状を打開するには、こういう路地裏にある怪しげな募集だけが頼りね」
怪しげとはいえ、求人は求人。
どれが一番いい報酬なのか、複数ある広告を、桐乃は食い入るように見つめていた。
その手首を、突然、誰かが掴んだ。
「ちょ、ちょっと、誰ですか!?」
引きずられるように数歩移動させられる。
「ごめんなさい」
振り向くと、年上の女性だった。
柔らかな表情、最近滅多に嗅ぐことのない柔らかな香水の匂いがした。
何となく、――娼婦の人かな、と思った。
「そこにあるのは暴力団組織が張った非合法の求人なの。あなたの様な後ろ盾もないかわいい娘が応募すると、薬で体を動けなくされ、変態の慰み者にされるか、乱暴された挙句、飽きられたら鉱山の備品にされてしまうわ」
「あ、ああ、……進むも引くも地獄じゃない」
そして、そんな時に限って――、良くない状況は悪化していく
「大田黒が……失踪した?」
===---===
収入のエースだった大田黒の失踪。
それは、チームの生命線が断たれたことを意味していた。
青峰と潤は口裏を合わせてスライム退治が成功したことを隠している。
理由は単純で、椿桐乃とエレイン・ゲインは、追い詰められない限り自発的に働くことはないだろうという2人の見解が一致したからだ。
このクラスメイトチームが崩壊するのはもう止められない。
それならばあの女子2人が少しでも早く自立させるには、時にそうしたほうが正しいと思ったのだ。
潤はチームを抜ける相談をしてから、3日も経たずして失踪するその思い切りの良さに、逆に胸中で大田黒を讃えた。
オタクと言う人種は時に変な方向に思い切りが良い傾向があるが、大田黒はその最たる人間だったのかもしれない。
急遽開かれた会議の場は、いつも通り順番待ち用に用意された椅子の端っこだった。
壁際に置かれた粗末な机と、軋む床。
しかし誰も腰を落ち着ける気にはなれず、全員が立ったまま、あるいは壁に背を預けたまま集まっている。
空気が重い。
息をするだけで、胸の奥が圧迫されるようだった。
「……そうですか」
乃亜が、低く息を吐くようにして口を開いた。
事実確認が終わった直後だった。
「はっきり言うのは憚られますが……絶望的な状況ですね」
その言葉に、誰も反論しない。
スライム退治のことを知らされていない女子3人には、その事態に反論できる余地がない。
金を無理やり吐き出させたあの日の圧迫感と、過去のいじめの記憶がある桐乃は、無意識に指先を握り締めていた。
爪が食い込み、じんとした痛みが走る。
「ど、どうすれば……」
声が、彼女でも驚くほど震えている。
「どうすればいいのよ……この状況……」
視線が落ち着かない。
誰かが「大丈夫だ」と言ってくれるのを、心のどこかで期待していた。
「これはもう、詰み一歩手前ですね」
静かな声が割り込む。
「王手、といったところでしょうか」
「し、白藤さん!?」
桐乃は思わず声を上げた。
まるで他人事のような声色だったからだ。
乃亜は視線を逸らすこともなく、淡々と全員を見回している。
「そうである以上、このチームは解体するしかありません」
一瞬、音が消えたように感じた。
「……解体!?」
桐乃が反射的に聞き返す。
チーム解体を既定路線とする話は、潤から乃亜に通達されていた。
知らないのは桐乃とエレインだけになる。
「でも、解体したからって……どうにかなるの?」
「いいえ、どうにもなりません。どうにもならない状況であること自体は、解体してもしなくても変わりませんから」
エレインの質問に対する乃亜の解答は冷静そのものだった。
言葉が刃のように、静かに突き刺さる。
「小栗さん。後は、お願いします」
「え?」
突然名を呼ばれた潤が、すぐに小さく息を吸い、覚悟を決めたように前に出る。
「……すまない。彼女はな……そう、現状に、徐々に耐えられなくなってきてて、次何かあったらこうしようと決めてたんだ」
桐乃の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
声が尖る。
「……なによ。アンタたちまで……こんな状況になったのは、私のせいだって思ってるわけ!?」
頭の中が、責められているのか、切り捨てられるのかでぐちゃぐちゃになる。
息が浅くなり、視界の端が揺れる。
「俺も白藤さんも、そうは思っていない。それだけは、はっきり言える」
「じゃあ……!」
なんで、と言葉を続けようとした、その時、狙ったようなタイミングで、潤が咳払いをした。
全員の視線が、潤に集まる。
「椿の行動が原因かどうかは、白藤さんの判断とは関係ない。誰かの責任を追及しても、状況は良くならないし、これからどう動くかの原動力にもならない。それに、白藤さんは自分の置かれた状態を『環境のせい』とか『誰かのせい』にして整理したくないと判断している。ただ単純に全く成功できない現状に我々生徒会も追い詰められてしまっただけだ」
桐乃は反論しようとして言葉を失った。
彼らも彼らなりに反省し、自分たちも悪かったと言っている以上、これ以上何を言えばいいのか分からなかった。
潤は、ゆっくりと言葉を選んで話を進める。
「誰かのせい、どう思うのは一時的には楽になるが、判断を他人や状況に委ねることになる。 それは彼女の望みでもないし、再スタートするには向いてない」
乃亜は何も言わない。
だが、その沈黙がすべてを肯定していた。
その手は潤の服を掴んで離さなかったが。
「これまで良い仕事を受けられなかった非は、皆多少あるはず。それ故に原因追及をしたいと考えてない。これは、これから先、失敗する可能性をできるだけ減らす行動であり、価値観や立場をある程度共有できて、信頼関係を築ける相手とだけ」
潤は1度、乃亜の方を見ようとした、が、すぐさま照れたようにかぶりを振りながらも言葉を続ける。
「……俺とだけ、関係を限定してその範囲で再スタートを切りたいということだ」
それが、白藤乃亜にとって最も合理的で、再現性のある選択。
そして、彼女自身が選んだ意志だった。
「えっと……自分でもはっきり整理できていなかった部分まで言い当てられて、少し驚いています。私は耐えられそうにないので代わりに取り仕切ってほしいと相談しただけなのですが……。 私の性格分析がかなり的確ですね」
乃亜に分析結果の感想を言われ、潤は一瞬だけ視線を泳がせた。
返答を即座に返せず、短く咳払いをしてから口を開く。
「いや、そんな大したことじゃ。同じ生徒会役員として一緒に動いてたから……どういう時にどう考える人なのか分かってたから、予想で話しただけで」
そう言いながら、指先で頭を掻く仕草をする。
普段ならしない、どこか落ち着かない動きだった。
「……だから、その……当たってたなら、たまたまだ」
潤が視線を逸らしたまま黙ると、乃亜は一瞬だけ目を伏せ、ふっと小さく息を吐いた。
それから、ほんのわずかに口元を緩める。
「……なるほど」
口にした言葉は短い一言だったが、そこには深い納得が滲んでいた。
再び視線を上げ、今度は潤の方を見る。
その表情は、警戒でも評価でもなく、柔らかな受容だった。
「記録される側になるというのは、こういう感じだったんですね。こちら側になるのも良いものです。……ありがとうございます。観察されていたこと自体は少し照れますが、悪い気はしません」
控えめな微笑みが浮かぶ。
その一言で、場の空気はわずかに和らいだ。
「青峰。前に話してた通りだ。俺たちとは今から別行動になる」
潤は咳払いして話題を切り替えた。
「2人のことは任せた。市場まわりで何か伝手ができたんだろ?」
「はい」
青峰は静かに頷いた。
「成功するかどうかは……正直、これから次第になりますが」
===---===
潤と乃亜が去った後。
政庁に取り残された3人の空気は、しばらく張り詰めたままだった。
青峰が、重く息を吐く。
「もう、現地民の冒険者に頼るしかありません。私1人では無理でしょう」
「私もその考えに至ったから、順当なところかしら」
桐乃は、ようやく呼吸を整えながら答える。
私は散々だったけど……、でも、青峰が前に出るなら……少しはマシ? と心の中で、苦く付け足す。
「ところで」
桐乃は、話題を変えるように顔を上げた。
「小栗の言ってた、市場の伝手って何なの?」
「ああ、それのことですか」
青峰の表情が、わずかに緩む。
「休日に市場で働き口を探していたら、たまたま弓矢を売ってる店がありまして。店主さんに相談して、ステータスを見せたら……出世払いで弓矢を売ってくれることになりました」
「私もその店でさ、売り子をやってみないかって誘われて。店に出たら、青峰くんがいて……正直、驚いた」
エレインの話を聞いた瞬間、桐乃の胸に溜まっていた緊張が、すっと抜けた。
「……そんな伝手が、あったんだ」
完全な孤立じゃない。
少なくとも、話を聞いてくれる人がいる。
「そういうことです」
青峰が桐乃とエレインを見る。
「だから、椿さんも一緒に、その店に行きましょう。そこで、改めて作戦会議をします」
桐乃は、小さく頷いた。
まだ先は見えない。
それでも――さっきまでの「完全な行き止まり」では、なくなっていた。