第10話
雑多な屋台、怒号と呼び声、食料と汗と埃が混じった匂い。
その情報量に一瞬だけ眉をひそめたが、乃亜の表情はすぐに冷静な観察者のものへ戻った。
しかし今度は人の流れに押し流される。
足元すら見えないほどの混雑で、立ち止まればすぐにも背中を押される。
「……っ」
乃亜の肩が誰かにぶつかり身体が傾いたが、次の瞬間、潤は反射的に手を伸ばして彼女を支えていた。
言葉より先に手が動き、乃亜の手を掴む。
「あ――」
潤が自分の行動を認識した瞬間、胸の奥がわずかに跳ねた。
だが、周囲を見渡せばそんなことを気にしている状況ではない。
一度はぐれればこの人混みで再合流するのは手間がかかる。
そうでなくとも日常的にスリが起き、人伝えに聞いた話では拉致も頻繁に起きる場所だ。
はぐれれば面倒になる。
「人が多い。離れると危ない」
短く、それだけ告げて、潤は手を離さなかった。
むしろ、流れに逆らわないよう、しっかりと握り直す。
乃亜は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに周囲を見回し、状況を把握する。
都心の満員電車を彷彿とさせる人口密度のせいで、実質的な視認距離は数メートル程度しかない。
呼びかけも青空市場を利用する人々の声に埋もれてしまう。
物理的接触を維持した方が合流不能や犯罪への遭遇率が下がると判断したのか、乃亜も手を握り返した。
半歩だけ距離を詰め、肩が触れる位置に収まる。
「さて、と」
「ここに来て、何を?」
潤は答える。
「白藤さんには明日から市場調査をしてもらいたい。大体の商品の物価を確認してもらって……、たぶん食品は高騰してると思うんだが、食品全般そうなのか、特定穀物だけなのか、食品以外もそうなのかが知りたい」
「わかりました」
即答だった。
少し間を置いて、乃亜は言う。
「……この分野なら、もっと早くお役に立てたはずですが」
「あの面子の中なら、こういうことは白藤さんに頼むのが最善だが、調査ごとは傍から見ると楽に見える。だからあの2人は無理矢理にでも間に入って、調査を引き受けるだろう」
「そうでしょうね」
「だが彼女らのあげる報告は、おそらくこちらの求める水準には届かない。結局白藤さんが解決することになるが、それを評価して白藤さんに多く報酬を出すと亀裂が生じる。平等に出すと白藤さんの努力を軽んじる。彼女たちがいる状況では、どうやっても歪みが出る」
桐乃とエレインの顔を思い浮かべたのか、乃亜は小さくため息を吐いた。
普段余裕のある態度を崩さない乃亜が露骨な対応をする様を見て、潤はチーム分けをして良かったと判断した。
もう少し遅れていればどうなっていたか。
大田黒に続き、乃亜も爆発していただろう。
「それで、今日は?」
「まずは市場の安全な歩き方と、近づいてはいけない場所の見極め方。その共有をしたい。何度か足を運んだことがあるから案内する」
青空市場で安全なのは、メインストリート周辺のみ。
端に寄るほど、危険は一気に増える。
青空市場は日本でいうところの祭りの縁日に似ている。
そんな道を歩くのに安全の見極めが必要かと思うかもしれないが、この都市では必要だ。
潤が視線を横に向けると、薄汚れた子供が堂々と物乞いをしていた。
周囲は誰も気に留めず、誰も咎めない。
その反応だけで、この光景が日常茶飯事であることは十分伝わった。
別の人込みに目を向けると、荷車の陰から素早く伸びる手が、商品を鷲掴みにして影に消えた。
窃盗の瞬間だが、しかし周囲の大人は誰も騒がないし、気づいていない店主に言うこともしない。
路地に近づいたところで、潤が足を止めた。
自然と2人の距離がさらに近づく。
「メインストリートから離れた場所は絶対ダメ。近づくのも禁止」
視線の先には、『花』を売る少女が座り込んでいた。
乃亜は『花』の意図を即座に理解する。
女性が春を売るのは決められた区画のみ、と政庁にも、青空市場周辺にも注意喚起がなされている。
それでも青空市場や政庁の入り口で立ちんぼをする女性は後を絶たなかった。
恐らく色町にも勢力争いが存在しており、落伍者が色町から叩き出されているからだろう。
2人は踵を返し、人の流れに戻った。
潤は人の流れを見極めながら、声を出して確認していく。
大通りから1本でも脇道に入るのはダメ、曲がり角で向こう側が見えないときは中央に居ないとダメ。
これでも2人の歩く青空市場のメインストリートは、これで『治安がいい』エリアと言われている。
「市場調査が目的だが、最終的に知りたいのはこの街の市政についてだ。市場調査はあくまで末端の現状をしることであって、その問題に対して政治がどう対応するのかを知りたい」
「……なるほど」
乃亜は小さく頷いた。
「暫くこの街に住んだが、もう気付いていると思うが、この街、なんかおかしいぞ」
「ええ。政庁が公開している依託と言う名の公共事業も、恐らく色町も、この青空市場も、キャパシティが限界を優に超えています」
乃亜の視線は、青空市場の売店へと向いていた。
去年の古小麦がキロあたり中銅貨8枚、日本円に換算すると凡そ800円ほどの値段。
保存状態は良くなく、色も香りも落ちているその品は、本来なら半値の400円でも高いと感じるだろう。
小麦の収穫期は6月から8月くらいのため、この時期は米で言うところの端境期にあたる。
都市全体で小麦不足が目立っており、高騰しているとも考えられるが、この価格上昇は説明がつかない。
「それに、人心がどうにも荒廃しきっている。路地で遊ぶ子供も居なければ、路地で子供をあやす母親も居ないのはいき過ぎてる」
「治安のいい日本が比較対象だからではないでしょうか」
「異世界転移はまるで漫画やゲームの様な絵空事の出来事だが、この世界は現実としてここにあり、ゲームではなく歴史を紡いでいる。今のこの状況が何年も続いているのなら……、いや続くはずがない。もし続いているのなら何らかの形で社会の均衡が崩れているはずだ」
「絶賛崩れていると思いますが。冒険者は基本的に貧困層で固定化されています」
肉体労働には向かず、知的労働を得意としていた乃亜にとって、冒険者が貧困層に分類されていたのは致命的だった。
この異世界でも政治を担当する政庁職員や、商会ギルドなどに知的労働を中心とした職業はあるにはあるが、その職に冒険者はつけない。
「それは崩れ方としてはかなり軽微、いや、歴史を掘り返せば世襲制が基本になっているのは珍しくない。貧困層が分散している、非常に強い弾圧が敷かれている、治安の悪い地域が一部だけ、というのならこの状況にも納得できるんだがな」
「貧困層の冒険者が生活するにはモンスター退治以外では、政庁が出す公共事業を受けるか、青空市場に店を出すしかない」
「しかし、半月経って分かっているだろう?その道は全て閉ざされている。これは詰み盤面だ」
「そうですね……。ではこの状況は突発的にこうなったということでしょうか」
「そういうこと。その原因と、この街の為政者がどう解決する気なのかが気がかりなんだ」
暫く市場価格を確認しながら歩き、人の流れがわずかに緩んだところで、潤は周囲を見回した。
市場の密度は、単なる繁盛という言葉では説明できない。
屋台の数も、通路の幅も、明らかに許容量を超えている。
「……やはり人が多すぎる。墨田区花火大会のようだ」
「はい。設計規模を明らかに超えています」
乃亜は即座に応じた。
視線は人の波全体を捉え、感覚ではなく構造として状況を見ている。
市場を歩いて得た感覚を擦り合わせるように、2人は肩を並べた。
「小栗さんの言う通り、恒常的にこうだったとは考えられません。政庁が手を打たない理由も考えにくいです」
「念のため議論として確認するが、江戸時代の江戸近辺も同様の人口密集率だったとどこかで見た。その可能性について白藤さんはどう考えてる?」
「江戸時代の人口密集は政治的安定があっての結果です。この食料高騰と、治安レベル、人心の荒廃から考えると段階的に上昇してこうなったとは考えにくいです」
「では、市民権を持たない層だから無視している可能性は?」
「考えづらいですがあるとすれば、2つです」
乃亜は指を1本立てる。
「1つ目は、これが『一時的』だと判断している場合」
「色々なところで耳に入る災害による避難、か」
「ええ。ですが、その場合――」
乃亜は市場の端、路地に溢れる人々へ視線を向ける。
「――規模が合いません」
「同感だ」
潤も頷く。
「この都市の近隣農村が1つ2つ被害を受けた程度なら、ここまで人は流れ込まないだろうな」
「仮に洪水や干ばつだとしても、農地全体が被害を受けるには時間がかかります。段階的に避難民が集まったのならば、もう少しなんとかなったでしょう」
「地震の様な災害は、この街の被害状況を鑑みれば可能性としては低いな。疫病なら?」
「それなら人の密集など真っ先に制限されるはずです。しかし、そうした措置を行った形跡がありません。むしろ政庁公認の宿泊施設は連日満員になります。政庁にそういった知識や能力がないことも考えられますが、今はその可能性よりも疫病が原因ではない可能性を考えるべきかと」
「確かに」
潤は頭の中で最も高い可能性を上げたが、乃亜の説明を聞いてその線が無いことを確信した。
正直なところ、疫病の蔓延の場合、打つ手がなかったため、不幸中の幸いと言える。
しかし、そうなると何故こうなっているのかが想像できない。
「そして災害からの避難ですが、本来なら段階的にですが『帰らせる』という選択肢があるはずです」
「だが、人が減る気配はない」
2人の視線が、青空市場、各店の裏側へ向く。
簡易的どころか、本格的に設営された大型テントと、そこに用意された寝床に、積まれた荷物。
明らかに長期滞在を前提とした配置だった。
「これは短期避難ではないな」
「はい。恒常的、あるいは半恒常的な人口流入があったと見るのが自然でしょう」
「2つ目は、政庁は把握しているが、『介入できない』ケースか?」
「そうです。もしくは、介入すると不都合があるケースですね」
乃亜はわずかに目を細めた。
「徴税対象外の正式な住民ではないため――」
「統計上は存在しないため対策が不要、もしくは税金の投入が出来ないということか」
「ええ。可能性としては無視できないかと」
しばし、沈黙。
市場の喧騒が、その隙間を埋める。
この都市の政治事情がどうなっているのか分からないが、日本でも税金の割り当てには議論が積み重なる。
災害からの避難民への捻出は必要とはいえ、数字上存在しない層にどれだけ税金を投入できるかは難しい問題であるはずだ。
「治安の悪化も、物価の高騰も、すべて『末端の問題』か。しかしこの状況は政庁の望む所じゃないだろう。政治に不満を持った集団が、乱が起こせるほど集まればことが起こる可能性が高まる。楽観視しているもしくは無視してる、というのは考えないほうが良いだろうな。政治家も反乱なんて御免被るだろう」
「確かにその通りです。災害由来とするのなら、災害はこの都市近辺全域で発生した。そのため、避難民の急増に対応できなかった可能性はあります。その場合裏取りは簡単ですね」
「発生時期は少なくとも数か月前で、しかし、復旧の見通しが立っていない。政庁は復興に本腰を入れていないか、もっと優先される課題を抱えているのか。もしくは、この地域特有の何かがあるのか」
「どれも、嫌な話です。特に見通しが立ってないのが良くないですね」
潤は乃亜の横顔を見た。
冷静で、淡々としている。
だが、視線の奥には確かな緊張があった。
「このままなら、必ずこのキャパシティオーバーを正すための何かが起こるはずだ。政治主導なのか、暴動から始まるのかは定かでないが。逆にこれがこの世界での普通なのだ、となればそれはそれでいい」
「はい。私が調べるべきことは、市場の混雑や物価高騰を手掛かりに、行政の対応や人口流入の原因を探ること。災害、行政の介入不能、制度上の制約など、複数の可能性を検討することですね」
「平時の相場や可能なら別地域の価格比較、穀物の収穫期と価格高騰の妥当性。災害の詳細とこの街の関連性。市民権を持ってない層への過去の政策。申し訳ないが、知りたいことは山のようにある」
「大丈夫です。慣れてますので:
人混みは相変わらずだったが、2人の間には明確な目的が共有された。
仮に何らかの締め付けがある場合、その締め付け対象に自分たちの層が含まれている可能性はかなり高い。
原因を突き止めなければ、必ず足をすくわれる日が来る。
「俺は明日からモンスター退治をする」
「1人で大丈夫ですか?」
「実は青峰と一緒に検証をして問題ないことを確認していた。黙っていたのは、まあチーム解体が既定路線だったから椿とエレインにごねられないようにするためだ」
「私に黙っていたのはちょっと意地悪では?」
「……それは、すまない。埋め合わせは後にして、朝晩必ず情報共有と安否を確認しよう。報酬の半分を渡すので生活費に充ててくれ。しばらくは、役割分担を徹底しよう」
「はい。よろしくお願いします」
乃亜は、その言葉を静かに受け止め、微笑んだ。
人混みは相変わらず激しい。
だが、乃亜の中にあった不安は、確実に軽くなっていた。
――これなら、前に進める。