第11話
北部・草原地帯
草原はまだ朝の名残を残していた。
夜露の冷たさが完全に抜けきらず、踏みしめるたびに草がかすかな湿り気を返してくる。
潤は城壁が見えなくなるほど草原の奥に向かった。
ここまでくると、見渡す限りの緑にはスライムよりも奇妙な獣の姿が目立っていた。
耳の長いウサギに似た外見を持ちながら、額から鋭い一本角を生やした生物たちが、草を食みながら群れで移動している。
見た目は愛らしい。
しかしその凶暴さは見た目ほど愛らしくない。
あの角で突撃されれば簡素で薄い木の盾は簡単に壊れてしまい、直接攻撃を受ければ簡単に内臓を貫かれる。
「あれが角付きウサギ、……まあいっかくウサギだよな」
潤は小さく呟く。
正式名称ではないが、昔遊んだゲームに似た姿のモンスターが存在していたため、潤の中ではその名前が最も収まりが良かった。
群れの規模はおおよそ7匹から10匹程度であり、1匹だけで行動している個体はほとんど見当たらなかったが、その習性はむしろ好都合だった。
潤は近くにいた群れへ向かって真っ直ぐ歩き始める。
隠れる必要も、警戒する必要もない。
少なくとも彼にとって脅威となるのは群れの規模ではなく戦闘後の消耗の方だった。
だが油断だけはしない。
無造作に近づいた潤に最初に反応したのは群れの先頭にいた個体であり、侵入者へ気付いた瞬間に耳を立てると鋭く地面を蹴り、そのまま一直線に潤へ向かって突進を開始した。
確かに速い。
日本の野生ウサギと同じく、最高速度は時速60キロ。
速いが予想できていた速度だったため、その姿は潤の想定から大きく外れていなかった。
「やっぱりこの程度か」
潤は冷静だった。
角付きウサギの戦闘中巡航速度は時速30キロ程度。
角が目前へ迫る直前、潤は半歩だけ身体を横へずらして突撃を回避すると、そのまま通り過ぎる個体の首筋へ小さな剥ぎ取り用ナイフを叩き込む。
身体が硬直し、突進の勢いのまま地面へ転がったウサギに追撃して絶命させる。
血が飛ぶ。
草も揺れる。
しかし戦闘はまだ終わらない。
残る個体たちも仲間が倒されたことを理解したらしく、一斉に距離を取った後で潤を取り囲むように散開し始めた。
「なるほど。これはもうそういう習性ってことか」
潤は関した様に一言漏らした。
お互いを利用するだけで群体とは到底呼べないスライムよりも、遥かに群体としての行動に優れている。
先制攻撃を仕掛けた場合、仲間が攻撃を受けた瞬間に、残りの群れのウサギは三方向に複数匹でまとまって逃げる。
そして、攻撃してきた相手と一定の距離を保ち、自分たちにとって脅威か否かを観察して決める。
保つ距離は厳密に決められているらしく、潤が距離を詰めれば、ウサギも同じだけ後退した。
同属の亡骸、道具、相手の圧、そして最後に野生の勘、全てを駆使して「いける」と判断したら全員で突撃を決行する。
無理と判断したら、文字通り脱兎のごとく逃げ出す。
初戦闘では奇襲で2匹倒したものの、残りの5匹には逃げられた。
この面倒なだけの相手に対して潤のとった戦法は――
まず倒したウサギを腰にぶら下げ、海辺の砂浜に入る。
血の抜けきってないウサギは重石でしかないのだが……、大変親切な先輩冒険者が草原に死体を放置していると、「ネコババされても仕方がないぞ」と大変ありがたい教訓を教えてくれたため、以降彼はこうしていた。
向かうはほぼ絶壁となっている岩場と海に囲まれた入り江。
足場は速度が出せない砂。
更には崖と海に囲まれているため助走距離もとれない。
ここは角付きウサギが有利に立ち回れない条件が整っている。
ここであればウサギの面倒な陣形も崩れ、否応なしに近接戦闘に持ち込める。
魔力を足に集中させる。
身体が軽くなるが、同時に消耗も始まる。
便利な力ではあるが決して無限ではないため、潤は戦闘時間を必要最小限に抑えることを常に意識していた。
群れが動くより早く潤が砂の地面を蹴ると、その速度は角付きウサギたちの巡航速度を大きく上回った。
瞬きするよりも早く、臨戦態勢を取って警戒していたウサギの側面に到達し、手に持つナイフを振り抜いた。
角付きウサギの討伐報酬の証になるのは、その立派な角がついた頭部。
頭部を落とすほどナイフの刃渡りは長くないが、動脈を断ち切られた以上長くない。
痛みに打ち震え、砂浜を転がるばかり。
討伐目標をスライムからウサギに変更したのは、どの様な種族か知識の無い生物より、角付きウサギが容易に生態を想像できる哺乳類らしき姿をしていたからだった。
その後に続く光景は、獲物を追いかけて囲む習性を利用され、自分と同速で動くことのできる人間に狩られるだけウサギ。
そして返り血を浴びながら戦い続ける男だけだった。
「戦闘は30分で限界、回復には1時間ってところか」
潤は近くの岩へ腰を下ろす。
戦闘は楽だったが、消耗はそれに比較して楽ではない。
潤の額には薄く汗が浮かび始めており、本人も無視できない疲労を感じ始めていた。
問題は敵の強さではなく能力の維持費だった。
角付きウサギはスライムの2倍近い報酬になる。
決して焦らず、地道に頑張るしかない。
そう自分に言い聞かせて、思うように稼げない現状から目を逸らした。
===---===
潤とは違い、草原の城門寄り、少しだけ周囲より高い丘の上で、青峰は弓を引き絞っていた。
肩から背中にかけての筋肉が、意識せずとも正確に連動する。
弦の張りと呼吸が、ひとつの線に重なっていく感覚があった。
「よし、弓は得意です。矢の数が少ないのは心もとないですが……」
青峰の言葉には慎重さが滲んでいたが、その姿勢には迷いがなかった。
現地民の冒険者であるシンジは少し距離を置いた場所からそれを眺め、口元に薄い笑みを浮かべる。
「へぇ、流石様になってるじゃん。生得の才を持つってのも納得だね」
軽い調子で評価しながら、弓を引く青峰の姿から目を離さなかった。
続いてシンジと協力関係にあるヤマダが妙に感心した調子で頷く。
「腕も腹も鍛えられてるし、頼りになりそうっすね」
期待の視線が集まるのを、青峰は居心地悪そうに受け止めていた。
一方でシンジの胸中では、別の評価がまだ定まらずに揺れている。
生得の才、あるいはギフテッド、時代が変わっても呼び名だけが残るそれを、シンジはこれまで実際に目にしたことがなかった。
だからこそ、目の前の光景が、あの圧倒的なステータスを裏付ける本物なのかどうか、半信半疑のまま見極めようとしていた。
――それに比べて。
布の服に、解体用の刃物すらない装備。
狙いは別にあるので最初から期待などしていないが、更に期待を下回ってきた時はいっそ笑いそうになった。
こんな奴らと向かい合うつもりはない、と熱くなりそうな頭をシンジは何とか冷やした。
「よろしく」
「……草原で肉体労働って、なんか嫌かんじ~」
桐乃とエレインの2人は、朝から草原に連れ出されたことへの不満を隠そうともせず、場の空気は乾いたまま張り付いていた。
その様子を一瞥しながら、シンジは小さく息を吐き、感情を処理するよりも先に状況を整理する。
「それじゃあ……あの500メートルほど離れているスライムを狩ろう。君の弓の腕だったら、どの程度近付く必要がある?」
「この地点で射程内です」
「ハハハ、この距離で風もある中で命中させられるんならやってみろって話ですよ」
返答は言葉ではなく即座の一射だった。
笑い声が途切れるより早く、弦が静かに鳴る。
青峰は構えを崩さないまま矢を放ち、風を横切ったそれは、間を置かず遠方の影に吸い込まれていく。
「よし」
一瞬、誰も声を出せなかった。
この距離、この風向きで矢が吸い込まれるように消え、スライムの目に突き刺さった事実が、遅れて認識に追いついてようやく声になる。
「……マジか」
「っ、私たちとスライムの間に誰かいます!」
シンジは肩越しにその光景を一瞥しただけで、矢が放たれた距離を即座に整理し終えていた。
こちらの位置は十分に離れており、最初に狙われるのは別の集団だ。
その判断に迷いはなく、だからこそ声色も変えずに言葉を返す。
「問題ないよ。距離があるしどうせ逃げるさ。気になるんだったら援護してあげたらどうだい?」
言葉どおり、遠方では別の冒険者たちが慌ただしく動き始めていた。
想定していなかった位置からスライムの数が増え、戦況そのものが書き換えられたことで、まだ子供と言って差し支えないその冒険者は逃げ出した。
その混乱を、シンジは手順が予定どおり進んでいるかのように、感情を挟まず眺めていた。
「ほら、もう1回援護してあげなよ。遠くから攻撃してきた僕たちに狙いを変えるぜ?」
「お任せを!」
先ほどとは若干距離が縮まったものの、目標のスライムとはまだ450メートルほど離れている。
しかし矢は全て命中した。
その光景を、シンジとヤマダは唖然とした表情で見つめる。
その顔にはこんな奴がいていいのか、という内心がしっかり表に出ていた。
「しかし、スライムの数が多いですね」
「ヤメダ、冷静になるんだ、僕……。 どう使うかを冷静に考えるんだ」
「シンジさん?」
「あ、ああ。スライムだっけか。農村に引きこもってて、怪我もしてたのなら知らなくて当然だけど、スライムの異常増殖はここ最近になってからさ」
シンジと会話をしながらも青峰の射は止まっていない。
距離という条件が無かったかのように、青峰が放った矢は、その全てがスライムの眉間に吸い込まれるように突き刺さる。
仮に矢が潤沢にあるのなら直接相対するまでに全滅も狙える勢いだった。
「去年はこの辺で見渡しても10匹見つかれば居るほうだったんすよね。今見渡すと50匹はいますけど」
「なぜそんな急増したの? このまま増えたら危なくない?」
「この都市に集まった避難民の一部が、食うに困って無手で草原に出たせいで、草原にいるモンスターの養分になったんだよ。それで異常に増えたんだ」
「元々農村の次男坊、三男坊、そんで長女以外の女は扱いが悪かったからっすね。それは避難所でも一緒。その辺はお前らの方が詳しいんじゃないっすか?」
命を維持するのに必要な食事や、命そのものを軽視するかのような発言に桐乃が押し黙る。
「そいつらが全員冒険者になったもんだから、最近では委託も全然取れないだろ? 元々委託で食っていくにはしんどかったけど、今じゃ委託だけじゃ死ぬしかない」
「だから俺たちも草原に出てモンスター退治をする機会を伺ってたんすよ」
「私がスカウトされた裏側にはそんな事情があったんですね」
青峰が矢を打ち尽くし、近寄ってくるスライムを遠目に情報収集に専念する。
その姿にシンジもヤマダも、『天才』の才覚が自分の認識の埒外に居ることを知った。
ステータスの高さからイイ拾い物かも知れないとスカウトしたが、ここまでとは思っていなかった。
シンジのやり方は下手すると乱闘になるが、青峰の腕なら、気付かれる確率がぐっと減る。
シンジがやったことは、極めて単純な獲物の強奪だった。
自分たちを前に置き、その背後に別の冒険者を挟み、さらに奥にいるスライムを射程に収める位置関係を作り攻撃する。
奥の個体を刺激して手前へ引き寄せれば、スライムは習性どおり仲間を攻撃している別の冒険者に標的を移す。
間に挟まれた冒険者たちは増えたスライムに対応せざるを得なくなるが、多勢に無勢を感じて離脱する。
そうしてスライムが消耗し、弱らせた獲物だけを最後に横から総取りする算段だ。
「勢いよく突っ込んでくるんだけど!? どうするの!?」
「そりゃこうするんだよ」
ヤマダがほうり投げたのは、小さな鉄製の突起物だった。
地面に散らばったそれらは、跳ねるようにスライムの進路へ広がっていく。
底部へ食い込むと、粘性の塊は前進の勢いを失い、その場でもがくように動きを鈍らせた。
「底部は固いっていっても、エンチャントを施した専用の道具なら刺さるさ。跳ねられない、動けないスライムなんてタダのカモだ。じゃ、手分けして仕留めようか」
黄昏時
他の冒険者とは1回りも2回りも大きな戦利品を背負い、シンジと青峰が政庁の門をくぐる。
疲労で足取りは遅かったが、心はスキップしたくなるほど軽かった。
「スライムだけとはいえ、54匹は流石に堪えるね。大銅貨54枚、銀貨5枚と大銅貨4枚に替えることもできるが、どうする?」
政庁窓口の初老の男性は全ての状態を確認し、集まった素材に対して報酬を差し出してきた。
銀貨に変換せず、その報酬を受け取ると、場の緊張とは無縁の声があふれ出る。
「やった……やったぞ! 僕はやったんだ!」
「これで俺も上のランクを目指せる!」
「喜んでいるところ悪いですが、私にはあなた方に聞かなければならないことがあります」
「ああ、分配だな? 安心しなよ。今日の成果は青峰の弓の腕によるものだ。接敵する頃には、ほぼ瀕死だったからな」
「違う!」
短い否定だったが、普段敬語の青峰が放った粗野な言葉の重さは十分響いた。
「今日の狩り、他の冒険者を、子供を利用する前提で動いた、違いますか? どういうつもりです」
その場の空気が騒然とする前に、シンジはわずかに身を寄せるようにして前へ出た。
声を張り上げる必要はなかった。
視線と動きだけで、これ以上ここで話すべき内容ではないと示してみせる。
「まあ、言いたいことは分かる。声を荒げるなよ。周りも見てる。少し場所を変えよう」
政庁の端へ移ると、窓口に群がる冒険者たちの喧騒は壁1枚分だけ距離を置き、青峰の怒りがはっきりと伝わってきた。
シンジは周囲を確かめるような仕草すら見せず、そのまま話を切り出す。
「簡単な話さ。まず被害を被ったのは確かに子供だが、狙わなくてもだいたい相手は子供だ」
避難民と言っても全員が何もせず、ただ寝泊まりしているだけではない。
廃屋を修復して寝床を増やす人もいれば、勿論委託業務を請け負う大人もいる。
政庁の委託は公共事業であり、その仕事は基本的に大人がこなすことを前提としている。
家族から優先順位を下げられた長男でない子供は、どうしようもなくなり、草原に出ているのが実情だ。
「そして、その行動を取った理由は、そうしないといつか僕が死ぬからさ」
声は低く、感情を含ませる余地もなかった。
そこに弁解や同情を求める色はなく、並べられているのは事実だけだ。
「僕はメイジだけど、それ以外の役割は担えない。できるからメイジをやっているんじゃない。やるしかないから、そうしているだけだ」
今ほどではないがシンジとヤマダの孤児院生活はそれは悲惨なものだった。
食事は1日1回で、それも穀物と大根の葉をまとめて煮たお粥の様な塩スープのみ。
孤児院で続いた慢性的な食糧不足が成長期の身体を削り、長時間動ける体力を奪った。
毎日最低1個のパンと、3日に1度肉入りのスープが飲める生活が出来ていれば、こうはならなかった、と言葉は抑えられていたが、積み重なった凄惨な日々の現実が滲んでいた。
その結果、日に使える魔法は4発が限界になり、1グループ4匹のスライムを倒すのに1発でも外せば自身が危険に晒されることになった。
その上で一発で倒せるとは限らない。
生き残るには手負いの相手を選んで戦う必要があった。
「これはな、詰んでる状況なんだよ。悪いとは思ってる。でも、生きるためだったんだ」
「……わかりました」
そう言って青峰は一度だけ視線を落とし、すぐに上げ直す。
ただし、という言葉は口に出されなかったが、その後に続く内容が譲歩ではないことは明らかだった。
「間にいる人が危険に晒されるのは事実。私は必ず、彼らがちゃんと離脱できるように援護します。そこは譲りません」
「ああ、それでいい。お互い、譲れない線は守りながらやろう」
張り詰めていた空気を、場違いにならない程度の遠慮を含んだ声が割り込み、そこでようやく緊張は次の話題へと押し流された。
「あの……暗い話はここまでにして、そろそろ明るい話をしない?」
「そ、そうですよシンジさん。腹が膨れない話は止めましょうよ」
黄昏はすでに夜へ移り、政庁には徐々に静けさを取り戻していった。
ただし、桐乃とヤマダの言う報酬の分配に対しての熱意だけは、夜の静けさとは正反対に燃え上がっていた。