第1話
生徒会室の窓際、周囲の視線を避けるようにして、白藤乃亜は静かに胸元のレザーコードに手を添えた。
銀色の繊細な指輪が細いネックレス状になって、小さく、心臓の動きに合わせて揺れている。
失踪した両親の形見。
対外的には、そう説明している指輪だった。
だが吊られているのは男性物と思われる大きさのものが1つだけ。
母親のものと思しき指輪は存在しない。
ただ、気にしている問題はそこではない。
色々気になることはあるが、一番の問題は――この指輪がどういう経緯で胸元にぶら下がっているのかの記憶がないことだ。
13歳の夏頃、朝起きたら首に巻き付いていたレザーコードに付いていた、という経緯で入手した。
寝る前にわざわざ付けて寝る、といった危険なことはしたつもりはない。
指輪自体だって、いつ、誰から、どうやって、手元に来たのか、その全てがまったくもって分かってない。
そういった経緯で手元にあるため、普通なら怖くなるところだが、――理由は分からないが、これだけは手放してはいけないと思っていた。
感情よりも規則を信じてきたはずの乃亜にとって、その直感を信じてしまう異物が、より自分の中の引っ掛かりを強くしていた。
「おはよー、乃亜」
賑やかな声とともに、同じ一年生の生徒会副会長の少女が生徒会室に入室してきた。
乃亜は咄嗟に指輪をブラウスの奥へ押し込み、そのまま席について資料を並べる。
隠している訳ではないが、指輪の記憶がないことの妙な違和感は周囲に隠していた。
「おはよう」
『なんか疲れ切った大学生みたいな顔をしてる』と教師に言われている、生徒会唯一の男子、小栗潤も入室してきた。
副会長の快活な声とは一転、こちらは疲れているのが直ぐにわかる声だ。
潤の目には、今日も生気を感じない。
目線もどこか虚ろに彷徨っている。
「これ、差し入れのコーヒー、土曜日の生徒会作業は憂鬱だけど、頑張ろう」
「ありがとうござます」
潤が鞄から魔法瓶を取り出し、生徒会室に備え付きのコーヒーカップに注いで乃亜に手渡す。
生徒会の仕事は多岐にわたり、土曜日も登校して作業することもある。
そんな中でも乃亜たち一年生生徒会員が憂鬱にならないのは毎度差し入れてくれるこのコーヒーのおかげかもしれない。
副会長もそうだが、乃亜にとってびっくりするくらい口に合っていた。
初めて口にしたとき、余りのおいしさにお代わりを幾度となく貰い、周囲に笑われてしまったのは記憶に新しい。
「はい、平瀬さんもどうぞ」
「ありがとー」
副会長も嬉しそうに差し入れを受け取る。
乃亜の時と明確に違うのは、潤と副会長の平瀬に目線が合っている事だった。
乃亜が潤に何かしらかのお礼を言うとき、目が合ったことはない。
潤は生徒会由来の大量の議事録や回覧板を抱えた乃亜が席を立とうとすると、自然な仕草で力仕事を代行する。
一年生の生徒会メンバーでは唯一の男手であり、雑務が中心の庶務ゆえにおかしいことでもないが、この事からも嫌われている訳でもないことは分かる。
平瀬副会長は「やさしー」などと潤の行動を高評価しているが、それは2人が友人レベルの距離感にいるからだ。
潤は乃亜に対してだけは決して目を合わせない。
2人が初めて会った時の挨拶。
筆舌に尽くしがたい表情をしていたのが、潤と乃亜が目を併せて会話をした最初で最後の記録になる。
3月、春休み最終日。
まだ日の落ちるのは早い。
夕方になっても終わらない作業、乃亜が疲れを自覚していると、不意に目の前のノートPCが閉じられた。
「顔色が良くない。後の作業はこちらで引き継ぐから、今日はもう帰って明後日の始業式に備えるといい。残りはこちらで片づける」
「……いえ、顔色が悪いのは貴方の方だと思いますけど」
「これは何時ものことだから気にしなくていい。平瀬さんのも引き取るから、白藤さんを送ってあげてほしい。今日もお疲れさま」
そう言って潤は平瀬副会長のノートPCも閉じてしまう。
結局乃亜も体調不良を自覚していたので、2人連れ立って帰路についた。
「なんか、小栗くんって乃亜のことよく見てるよね。今日だって乃亜の体調不良に直ぐ気付いたし、2人っていつもいい感じじゃない?」
「そんなふうに見えるかもしれないですが……なんだか、私を見ていない気がするんです。萌ちゃんも気づいていると思いますが、頑なに私と目を合わせてくれないんですよね。どうしてでしょうか」
「私も、そこは気になってるかも。……別に喧嘩してるって訳じゃないもんね」
「はい」
「ふーん」
そう聞いて考えこんでいるのか、他愛無い相槌をうつ。
制服の奥で指輪が小さく揺れた。
その謎も、潤の行動の不可解さも、まだ言葉にならないまま乃亜の胸の奥に沈んでいた。
「じゃあもう聞いてみるしかないんじゃない? 明日から2人とも同じクラスらしいよ?」
「はい?」
===---===
朝の光がまだ柔らかい時間。
潤は静かに校門をくぐった。
始業式のざわめきにはまだ早すぎる登校だった。
だが、ひとりきりのアパートの空気はただ静かで、時計の針の音だけがやけに響く。
その静けさが、無性に居たたまれなかった。
教室棟の廊下はまだ白く、外では桜の花びらがちらちらと舞っている。
始業式では、生徒会関連の作業も多い。
その準備に抜かりがないか確認しておくのも悪くない――そう考えながら、潤は1人で廊下を歩いていた。
「大田黒? 随分早いな。まだ7時半だぞ? 何時もこんな早く登校してたんか?」
「おおうっ、小栗氏も早いですな。また同じクラスとは嬉しいですぞ。……始業式でさえ生徒会は大忙し、といったところですかな?」
「そんなとこだ」
大田黒は、制服の上からでも分かる丸い体格に、どこか挙動の落ち着かない、いかにもオタク然とした男子生徒だった。
潤とは1年生の頃からの付き合いで、座席順が五十音順だったため取り合ず高校で最初に自己紹介をしたのがきっかけだった。
その後、生徒会に所属した成績優秀な潤と、部活もせずに、成績も普通な大田黒の接点はほとんどなかったが。
もっとも大田黒は友人らしい友人がクラスに居なかったので、こうして顔を合わせれば潤と話をしてくるので、その程度の付き合いは残っていた。
席に腰を下ろすと、鞄から菓子パンを取り出した。
そんな潤を大田黒は興味深げに見つめていた。
「……そんなに凝視されると食べ辛いんだが」
「ああ、いや失敬。態々教室で朝食をとっているのが不思議でして。家で食べてこないのですかな?」
「……一人暮らしなもんでな。どこで喰おうとあまり変わらんさ」
「ああ、確かに以前そう言ってましたな」
「面倒なことも多いが、自由な時間も多い。人は一人じゃ生きていけない、とはよく聞くが……。案外人は1人でも生きていけるもんだと日々実感してるよ」
最後の1口をお茶で流し込み、潤は机の上にプリントを広げる。
始業式の資料と、式典進行のチェックだった。
教室の時計だけが静かに時を刻んでいる。
まだ他の生徒たちの気配は、この静寂には混じっていなかった。
だが――しばらくすれば、校内に朝のチャイムが響き渡り、遠くから足音が近づいてきた。
「おはようございます。小栗さん。今年は同じクラスですね」
潤の背後から透明感が強く、音圧を抑えた静かな声がした。
「機械的」と「人間的」の中間のようで、圧が弱いのに印象に残る声だ。
長い白髪が朝日に反射して薄く光っている。
「ああ、よろしく……」
「――早く来た甲斐あって、まだ人が多く居ないですね。早速聞いちゃいましょう」
「なにを――」
「どうして私と目を合わせてくれないんですか?」
瞬間空気が凍った。
3人しかいない教室で、特定2人だけで会話しているのに、確かに潤は乃亜に顔すら向けていない。
潤は目の前のプリントを見ているが、文字を追うことをやめ制止しており、大田黒は早く登校したことを悔やみだした。
「特に、白藤さんに問題がある訳じゃない」
「ではなぜでしょうか」
「白髪で……」
「私も白髪ですね」
「平均より少し背が高くて……」
「私は161cmですね」
「女性らしい体型で……」
「……ノーコメントで」
「瞳が藤色で……」
「私もそうですね」
「そんな女性が相手なら、多分こうなる」
潤のあげた特徴が、悉く自分の外見的特徴に合致している。
乃亜みたいな女性が相手なら目を合わせられなくなる、と言うのは乃亜にとって理不尽さを覚えたが、嘘は言っているようにも感じ取れなかった。
「では、『なぜ』そうなったのでしょうか」
「あまり面白くない家庭の事情」
「家庭の事情、ですか?」
踏み込みにくい話題になった。
あまり踏み込みすぎるのもどうかと思った乃亜が、潤が説明することを期待してオウム返しする。
しかしながら潤は説明する気が無かったのか、今度こそプリントに目を通し始めてしまう。
沈黙に耐えかねたのか、潤の傍で固まってた大田黒が助け舟を出した。
「小栗氏は両親のネグレクトが原因で1人暮らししてまして」
「ネグレクトですか?」
「……親父もお袋も、お前みたいな子はいないって言ってる。姉も似たような反応をしてる。……あの反応は母親と姉のせいかな」
家庭の事情ときいてさっと思いついたのは死別だったが、大田黒の話を信じるなら確かに面白い話ではなかった。
親も姉も、凡そ家族全員が潤だけを家族として認めていない。
どうしてそうなったのかは、潤の反応を見るに説明してはくれないだろう。
「そう、でしたか。気分の悪い話をしてしまい申し訳ありません」
「いや、いいんだ。俺も何時までも引きずったままで、周囲に迷惑かけてる訳だし」
中学生時代に両親から自分たちの子供でないと否定され、姉からも弟でないと否定され、1人で生活するのは、想像以上に辛いのだろう。
似たような要素を持った女性、と言うだけで目を合わせたくなくなってしまうほどに。
「お話しできてよかったです。……あの、何かあれば相談してくださいね。私も何か力になりますよ」
「ありがとう。気が向いたらそうさせてもらう」
乃亜が背を向け、教室の中央に向かう。
一歩進んだ乃亜に、質素な礼だけ告げた後、潤が小さくつぶやく。
「――――」
あまりにも小さな声だったので、はたして何と言ったのか、乃亜は振り返って聞こうとしたが、潤は話は終わりとばかりにプリントを眺めていた。
その後、鉛を流し込んだような重さが生まれた場を変えられる様な話題を提供する者もおらず、別の誰かが登校してくるまで沈黙は続いた。
そうして複数人のクラスメイト達が教室に集まってきた、――その瞬間だった。
突然、視界がぐらりと揺れた。
次の瞬間、焼き付くような白い光が教室を埋め尽くす。
教室にいる全員が思わず目を閉じ――再び目を開けると、そこは――――。
ただっぴろい草原だった。