「……私はシャーナ。シャーナ・アルラフォーネ。これからよろしくね?
自身の名前を答え、彼女の名前を聞くと同時に、先ほどまで燃えるように熱かった頭が酷く冷えていくのが分かった。
明らかな不調。突然に起こった精神の混乱。ここから導き出される結論は一つ。
「……お前、使ったな」
俺の発した言葉に、シャーナと名乗ったサキュバスは目を細め、先ほどまでの以上に笑みを深める。
「……バレちゃったかぁ」
そう。おかしかったのだ。
彼女のフードを持ち上げた瞬間から、明らかに俺の思考は冷静さを失い、思い浮かぶこと全てが支離滅裂になっていた。
魅人族の持つ特殊な性質である恋雫、これを使われていたのだ。
俺はサキュバスに馬乗りのまま、先ほど以上に短剣を首に近付ける。
色味の薄い彼女の肌は、その皮膚の下で流れる血管まで浮き出るようで、少し傷をつけてしまえば、それだけで致命傷になるのではないかと思うほどである。
「お前達のやっていることは化け物だ。特にお前、自分でその性質を操作できると言ったな。他のサキュバスと違い、自分でその出力の調整が可能なのだろう。人の心を何だと思っている。人の心を解さない、いや、解した上でそれを踏み躙る生粋の化け物。お前は、俺の心を操作し、弄んでいる」
思考や思想というのは一人ひとりが持つ独自のものであり、それを侵すことは、何者であっても許されてはいけない。俺はそう考えている。
自分で考え、行動し、何を感じて、どう生きていくのか。思考とは、思想とは、その人がどう生きていこうとするのかを司る羅針盤そのものだ。
特に、自分の考えが、想いが、誰かの手によって勝手に捻じ曲げられるなど、あってはならない。
このサキュバスは、恋雫を使い、俺の思考を大きく揺るがした。
このサキュバスには、俺の祈りを、願いを、先輩へのこの想いを、凌辱されたのだ。
許されざる悪徳の化け物、正しくそれだ。
俺の怒りの言葉を聞き、彼女は細めていた目を大きく開き、くすくすと笑い出す。
「……何がおかしい」
「……いやー騎士さん、あぁ。ウィルバートだし、ウィル君って呼んじゃおうかな?ウィル君はねぇ、私達魅人族の恋雫という性質について勘違いしているよ」
「勘違い?」
「そう。恋雫っていうのはね、あくまでも魅了するだけなんだ。厳密には、私達の、胸の鼓動が織りなす音の波っていうのかな?まぁ実際にそういう音が鳴っているわけではないから、そういう感じものとして理解してもらえると良いんだけど、それが、周囲の人にも響いて、ついその波の発生元を見てしまう。そして、その発生元の魅人族を見ると、どうしようもなく魅力的に見えてしまう。そういう風に作用する波のようなものなんだよね。そこで魅力的に見えるっていうのは、例えば横顔だったり、垂れ下がった目元だったり、あるいは綺麗な髪、もっと直接的なものなら、大きい胸や柔らかそうな肌、人によっては、魅人族が持つ角の流麗美とか、そういうものが、どうしようもなく美しく見える、興奮させてしまう。そういうものなの」
「……それが何だ」
「ふふ。あくまでも魅力的に見えるだけで、
「何が、言いたい」
彼女の言葉一つ一つが、俺の深いところを無理やりにでも暴こうとしている気がして、反射的に両手で耳を塞ごうとする。しかし彼女は、自分の手を、俺の塞ごうとしている手と耳の間に挟め、そのまま手の平でドームを作り、俺の耳を覆う。
長い両指は俺の後頭部にまで伸び、そのまま俺の顔を彼女の眼前へと、少し強めに引き寄せる。
「お酒とかを飲んでいる時と一緒だよ。酔っぱらっちゃったら、普段表に出していないことでも、口に出しちゃったりする時があるよね?自分が心の奥で、潜在的に考えている、感じていることを、つい表出させてしまう。日々感じていた違和感、普段なら心の奥にしまって出さないようにしている
「それは……」
魅人族の持つ恋雫には、洗脳レベルの思考操作の力はない。けれど俺は、先輩への、先輩へ持つ想いが、操作されたと感じた。
『先輩のことが好きだ。愛している』
この想いは嘘ではないはずだ。
実際そうだ。いつも褒めてくれるあの人。優しく微笑んでくれるあの人。俺が間違えた時は、ちゃんと叱ってくれて、それでも俺を許してくれて、信じてくれて、次を一緒に見てくれているあの人。命の恩人、全てを与えてくれた光の人。
リリア先輩のことを、俺は愛しているはずだ。
けれど、さっき、このサキュバスを見た時、どうしようもなく思ってしまったことがあった。
『このサキュバスを滅茶苦茶にしたい』
相手のことなど一切顧みない、そんな獣欲。よこしまな欲求。支配欲、征服欲、即ち――性欲。
先輩に、それを感じたことは、無い。
対してどうだろうか。自分の下で動けなくなっているサキュバスの彼女は。
このサキュバスの目、髪、鼻筋、口元、角の流れ、肌の綺麗さ、柔らかさ、胸の大きさ、掴めてしまえそうな細い腰。
全部全部、自分のものにしてしまいたい――
「……」
「……ウィル君、今すっごく興奮しているでしょ」
「……ッ何で」
「私のお腹の上でさ、
彼女の言葉に、俺は思わず飛び上がり、その勢いで未だ倒れたままの彼女から後ずさってしまう。
俺が離れ、腹部に重しが無くなった彼女は上体を起こす。
「あはは。目も、他の人が私を見ている時みたいになってる」
「……すまなかった」
そういう欲をぶつけてしまった彼女に、申し訳なく思い、思わず頭を下がる。
「誤らなくても良いのに。そういう欲求って、持っていて正常なものだと思うよ?」
「それでも、そういうものを向けるということに、俺は思う所があるんだよ」
そうだ。別に、人は生き物だし、そういう欲求は持っていることが普通だし、正常なことだと思っている。けれども、そうやって人に自分の想いを、欲をぶつける事が、必ずしも良いことだとは思っていない。
そう言葉を紡ぐ俺に、彼女は微笑みながら腕を絡ませてくる。
「ッ離れろ」
「やだよ。だってこのままにしていたら逃げてっちゃいそうだし」
「……俺には心に決めた人が居る。その人を裏切れない。裏切りたくない。だから悪いけど、お前の想いには応えられない」
先ほどまでの柔らかな声が途絶え、場に静寂が戻る。辺りの静けさが際立ち、周囲に住む人達に、この会話は一体どこまで聞こえていただろうかとさえ思う。
「……ウィル君はさ、その人のことが好きなの?」
「……あぁそうだ。好きだ。大好きだ。愛している」
「本当に?」
「本当だ」
「私の恋雫にあれだけ揺らされたのに?」
俺は下げていた頭を上げ、彼女を睨む。
「ウィル君。その人のことが本当に好きでさ、心から愛しているならさ、そもそもそこまで影響されないと思うんだよね。だって本当にそうなら、その人以外見えなくなるじゃん」
「生物である以上、恋雫のようなものにあてられれば、少し揺れることはあるだろう。本気で一生を誓い、結婚している人ですら、浮気などをして結局離婚することだってある」
「それは詭弁だよ。生物である以上というのを言い訳にしようと、理性でそれを制御しきれなかった時点で、その誓いを守る気持ちは薄れているし、破綻してる」
「けれど、人は完璧じゃない。本気でそれを誓っていても、揺れることはある。その揺れる中で、それでも守ろうとする、守り切ることが大事なんだ」
「じゃあ揺れることは否定しないんだ?」
「……そうだ」
先輩に対して、感じなかったもの。そして、それをこのサキュバスに感じてしまった。それはどうしようもない事実である。けれど、それでも俺は先輩を裏切るつもりはない。揺れたとしても、この気持ちまで全て無下にするつもりはない。
「じゃあ、どうして揺れたの?ウィル君はそこまでその人を愛しているのに、何がそこまで揺らしたの?」
「……言いたくない」
「私の方がえっちだったんでしょ」
「ッ何を」
「だってさ、ウイル君は最初、私に洗脳を疑ったよね?最初は興奮しているからそれのせいかなーって思ったんだけど、まるで確信していたかのように、操作という言葉を使ったのを見て、その人には無い何かが私にはあって、それがウィル君の愛を疑わせたっていうのは分かったんだ。それで、それが何を聞いてみれば、ウィル君が興奮しているみたいだったから、まぁ私の体が魅力的だったのかなーって」
「……恋雫によって興奮していて、それで反応してしまった可能性だってあるだろう」
「君から名前を聞いた時点で、すぐ切ったよ」
確かにそうだった。このサキュバスが恋雫を使ったことを疑ったのは、名前を聞いた後に俺の頭が明らかに冷静になっていたからだ。
「……それでも、俺が君の体に興奮していただけで、それが先輩への愛を疑わせた原因だったとは断定できないはずだ」
「ウィル君の想い人って先輩さんなんだ」
体が動かなくなるのが分かった。息が出来ない。
焦っていたのだろうか。反射的に言ってしまった。
「ウィル君、結構心理戦苦手だね?」
「…………そうだな。もういいだろ。俺は確かにお前の体に魅力を感じたけれど、それだけだ。それでも俺は先輩が好きだし、これ以上お前と関わる気もない。第一、お前は体目当てとか、そういうのが嫌で、俺を好意的に感じたはずだ。お前の体に大きく揺らされた時点で、お前の恋人候補の条件に俺は入らない」
彼女は最初に言っていた。そういう体目当てだとかが嫌、心がつながっていなければとか、そういった内容だったはずだ。もう既に、俺は候補に入り得ない。
「うーん。そんな感じに言ったけど、ウィル君の解釈は、厳密には私の考えとは違うんだよね」
「違う?」
彼女の言葉に、思わず聞いてしまう。
「うん。私の恋雫に振り回されている人が嫌というか、恋雫は興奮させるだけなんだけど、それをすると、私という人間*1を見ないで終わりというか、私自身を愛してくれているっていう感覚が無くて、それが嫌なんだよね。で、それならウィル君だって体を見ているっていうけど、それは私の内面も見られる余裕があるというか、こればっかりは魅人族じゃないと分からないかな?体も内面も全てをひっくるめて好きになることと、恋雫によって強まった魅力に侵されたまま、私の内面の一切を無視して、好きになってもらうのじゃ、結構違うんだよ」
「それでも俺がお前の体を好きというところに執着するなら結局変わらなくないか?」
「君と恋雫に振り回される人の違いはそこじゃないんだよ。恋雫があろうと、それに支配されず、強固に自分を保ったまま私を真正面に見てくれるっていうのが大事なの。それが条件。というか、一つ気になったのが、君は体体って言うけど、先輩ってそんなに肉体的な魅力が無いの?」
「いや、そんなことは、ない」
そういう訳ではない。先輩の胸は……そこまでだが、腰は細く、お尻は引き締まっている。顔も凄まじく美人である。肌だって綺麗だし、髪もサラサラだった。少なくとも、見た目から何かが違うというのは無いように思える。ただ、このサキュバスに感じた時ほどの欲を、先輩には抱くことは無かった。
では、一体それは何故だろうか。先ほどはサキュバスの体を見て非常に興奮したため、それが原因かと思ったが、そうでないなら、一体――
「ふーん?ウィル君と先輩の関係性って何なの?」
「それは――」
先輩との関係性。それは果たしてどんなものだろうか。
先輩には、命を救ってもらった。
四年前の大規模侵攻で、両親が殺されて、泣きわめくことしかできなかった俺を、助けてもらった。
その後、騎士団に入団させてもらい、剣術や対人術などの戦闘面から、大騎士長を怒らせない方法、美味しい料理屋さんの場所など、多くの事を教えてもらった。
……死んだ両親に代わって、色々なものを与えてもらった。
俺の人生の模範であり、憧れ、いつか隣に立ちたいと思っている。そんな人。
そんな先輩とは、何度もご飯には行ったし、人に言えない悩みだって、お互いには共有していた。たまに家に来る先輩のために、先輩用のコップや食器はあるし、泊まれるように常に二人分のベットもある。それだけ泊まるのだから、先輩の着替えのいくつかはうちの中にある。朝食のパンにつけるジャムだって、甘党な先輩に合わせたオランジェ*2味になっている。
先輩が横に居るのは、既に当たり前だ。これからもそうだと思っている。
「まぁ、同棲相手のようなものというか、一緒になっていくんだろうなと思い合っている関係というか」
こういう生活になったのは、二年前の第二次侵攻以降からだろうか。
俺にとって先輩と結ばれるのは、もはや既定路線のようなものであり、それ自体はおかしくないはずだ。
「別に、それ自体に違和感なんて――」
ふと、横にいるサキュバスの姿が目に入る。
冷静になれば、ドレスの上からにも関わらず、凄まじいプロポーション。紫色の目は澄んでいて、宝石みたいで、ずっと見ていても疲れない気がする。髪だって、サラサラしていて、それでいて柔らかそうで、触りたい。肌を撫でたい。顔が小さい。思わず両手で挟みたくなる。唇もモチモチしていそうだ。指を口に入れたくなる。胸だって揉み上げたくて仕方ない。このサキュバスと“そういうこと“をするときには、これがどれだけ揺れるのだろうか。あの鎌状のしっぽを触られたら、引っ張ったりしたら、彼女は一体どんな反応をするだろうか。
目に入る情報全てが、彼女を魅力的だと伝えてくる。彼女と結ばれたいと、そう投げかけてくる。
しかし――
「そんなことしたら、先輩が報われない」
そうだ。
先輩は全てをくれた。なのに、それだけのことをしてくれた人を、俺が無下にするなど、あってはならない。
先輩だって、色々大変なはずなのに、それを全て背負っている。俺が我慢するべきだ。
そう思うと、違う女を腕に組ませているこの現状が、とてつもなく先輩にとって裏切りのように思えてくる。
今すぐにでも離れなければならない。
俺はサキュバスの彼女を引きはがすため、腕に力を込める。
「ウィル君」
「何だ――」
「好きだよ」
その言葉の意味を咀嚼するよりも早く、彼女がわずかにつま先立ちになった。
柔らかい香りが近づく。
ふにりと、頬に柔らかな感触。
思わず顔が熱くなる。下半身に強い痛み。
柔らかな香り、思えばこれはグラペ*3に近い香りだった。
「な、にを」
「……ねぇ。先輩とは、一緒になっていくと思い合っているような関係って言ったよね?」
「あ、あ」
「でもそれって、恋人関係になったり、婚約とかをしている訳じゃないよね?」
頭を本気で剣で殴りつけられた時の様な激しい衝撃。
言葉が出ない。
確かに先輩とは、愛しているだとか、自分達は恋人であるとか、これまで一度もそういう話はしたことがなかった。
「それは、確かに、そうだけれど」
「ウィル君。本気で相手のことが好きなら、そういう話をどこかで出しているんじゃない?愛しているという言葉一つでさえ、ごはんを作ってもらった時、行ってきますやおかえりなさいの時。デートの間。寝る前。色んなところで言うタイミングがあると思うよ」
「それ、でも、俺達は本当に、愛し合っている、はず」
「うーん。でもそういう状態になってから、その関係性をはっきりさせたり、しっかりその約束が成就するよう、婚約をしたりはしてないじゃん?」
その通りだ。恋愛関係であるかどうかの確認や、婚約はしていない。
彼女の言葉が、胸の奥の深いところで、チクチクと痛みを発しているのが分かった。
「……じゃあ、一体この関係性は何だって言うんだよ」
「まぁ、家族のようなものとか?ウィル君の今までの人生を聞いていない以上何とも言えないけど、そういうことをしないで一緒に過ごすって、それしかなくない?」
どこかきょとんとしたような顔をしながら彼女は言う。
それならば、どうしろというのだ。
「ウィル君。君は別に先輩さんと付き合っている訳じゃないんだよ?婚約している訳でもない。それって、裏切りでも何でもなくない?既にそういう関係なら、浮気だし、駄目だと思うけど、ウィル君のはそうじゃないよね?」
彼女は絡めていた腕を更に強く深く絡める。
「私さ、ウィル君のこともっと知りたいな。それで、私のことももっと知って欲しいな」
「だ、駄目だ」
俺の言葉も空しく、彼女は俺の横から真正面へと移動し、絡めていない方の俺の手首を掴み、そのまま彼女の豊満な胸へと押し付ける。
「ねぇ、ウィル君。好きだよ?」
彼女の甘い言葉が、俺の耳と脳を犯していく。息が段々荒くなる。
左手から伝わるダイレクトな柔らかさ。本来深い関係でしか触れることを許されない聖地を、俺は握っている。
今まで体験したことのない未知の悦びが、脳髄を突き抜けて足下へと落ちる。
「……んっ」
彼女の甘い声が本能を刺激する。
反射的に握る力を強めてしまう
「はぅ……ウィルくん、部屋いこ……?」
彼女はそのまま俺へと体を倒してくる。
抱き止めた彼女の瞳はトロンと潤んでおり、俺を射抜く。
顔も体も、何もかもが最上級のサキュバスが、寂しそうに、何もかもが足りないというように、体を擦らせてくる。
体中の毛が逆立ち、鳥肌が立つ。体中の細胞が、目の前のサキュバスをどうにかしろと叫ぶ。
「ウィル君のかっこいいところ、いっぱい見せて欲しいな?」
俺の家の扉は、目の前だ。
遅筆なのもありますが、書く内容はある程度既に決めていたのに、いざ書いてみるとやはり相当時間がかかりますね。なんだかんだ五時間くらいかかりました。