夜も更け、騎士団の兵舎には、昼間の喧騒が嘘のような静けさが降りていた。
窓の外では、王都の明かりがまだいくつか揺れているが、先ほどまで聞こえていた酒場の笑い声も、既に届かなくなっている。
兵舎の中の執務室の一角。他と比べ大きな机の上には、未だ終わらぬ書類の束が残っていた。
そんな机の横で、ため息をつきながら、凝った肩を軽く回す金髪の女が一人。
「……イライラするなぁ」
自らの脳裏にあるのは書類の束ではない。帰り際に
グラペの香水。王国民にはあまり使われていないものだ。使うのは魅人族――特に女性。
別に、おかしいことではない。警備区画があの歓楽街になっている時点で、魅人族との接触は不可避なものだ。ウィルの担当地区がその地区であることについて文句はあるが、接触そのものは問題ではないし、帰舎時の報告にて、魅人族の女性を助けたと聞いている。
だから、おかしいことではない。そう、おかしいことではないのだ。ただ――
「ウィルにベタベタ触れないでくれないかなぁ」
むかつく。
誰に許しを得てウィルに近づいている?
ウィルは、私のものだ。
お前達みたいに、誰にでも愛されるような奴らに、ウィルは渡さない。
私は、女として育てられたことがなかった。
物心ついて最初に教えられたのは、剣の握り方だった。
その後は立ち方。足の運び。間合いの読み。踏み込みの速さ。倒れたときに隙無く立ち上がる方法。そのような、女とはかけ離れたものばかり。
両親は、私ではなく、私の才を見ていたということに気付くのは、そう遅くはなかった。
毎日毎日、誰より遅くまで剣を振った。現役の男騎士よりも。
手のひらの皮が剥けても、血が滲んでも、翌日にはまたまたもう一度。
それでしか、私を見てはくれないから。
私は強くなった。
同年代に負けることはなかった。それどころか、五年の年齢差程度であれば、十数秒の間に片をつけられるほどに。
強くなればなるほど、周囲から一目置かれるようになった。
けれど同様に、私の周りから男たちは少しずつ遠ざかっていった。
それを私は、痛い程に分かっていた。
私を見る彼らの目を見れば、そこには畏怖や恐怖ばかりだったからだ。
未知、得体の知れないもの。人々はそれを酷く恐れるということを、私はここで学んだ。
客観的に見て、私は美しかった。
長く流れる金色の髪。整った顔立ち。そして、成長するにつれて現れた、しなやかで美しい身体の線。
本来ならば、それだけで人の目を惹きつける魅了の存在。
けれど、剣を握れば、誰もそこを見なかった。私の剣が、私を覆い隠してしまった。
憧れる、強い、恐ろしい、次代の王国騎士団長、天才、人外。
私を称える言葉は、毎日の様に聞こえていた。
けれど、十八歳になった私は、それだけでは足りなくなっていた。
自分だって女なのだ、と思うことがあった。
綺麗だと言われたかった。可愛いと言われたかった。誰かに女として見てほしかった。
鍛え上げた身体は、同年代の女たちとは違っている。
細くしなやかではある。されどそれは、剣を振るために鍛えられた身体。
胸も、決して豊かではなかった。
鏡を見るたびに、そこにある自分の身体が嫌になる。女としての魅力に欠ける、その身体。
そのように悩んでいた、十八歳のある日。魔人族によって、大規模侵攻が行われた。
そこで私が救った一人の男が、私の人生を大きく変えた。
ウィルバート・シュテインレス。
魔人の襲撃によって家族を失った少年。
恐怖に震えながら、それでも私を見上げていた少年。
彼からは数えきれないほどの感謝の言葉をもらった。剣に関する賞賛の言葉もあった。
けれど、彼は、私を真正面から見て、一人の人間として、私を見てくれた。
『リリアさん、髪整えるの凄く上手いですね。髪が一本一本全部同じ方向に綺麗に流れているというか……』
『リリアさん、ボロボロになったら、すぐ新しい服に着替えてくださいね。結構、際どい瞬間多いので……』
『リリアさん、今大変だと思うんです。怖い顔していること多いですし。けれど、笑顔でいてくれたら俺、嬉しいです。リリアさんの笑顔、何ていうかその、凄く、可愛いので……』
剣だけではない、私の姿。リリア・トリゥシュという、騎士ではない、一人の女を、彼は見てくれた。
彼の言葉を聞いたとき、私は初めて、自分が剣を振ってきた意味を肯定されたような気がした。
大規模侵攻後、一週間もしない内に、私はウィルを騎士団へ導いた。
剣を、戦い方を、生き方を、殺し方を、全て教えた。
彼の成長していく姿を、誰より近くで見ていた。
そして気づけば彼の隣にいることが、私にとって当たり前になっていた。
二人で三食共にすることも。仕事から帰れば顔を合わせながら談笑することも。
いつも間にか、どちらかの家で過ごすのが当たり前になっていった。私の私物が彼の家に増え、半ば結婚しているような、そんな生活になっていった。
ずっとこの生活を続けたい。続けていきたい。彼と一緒に居るのが幸せで仕方がなかった。
けれど、その気持ちは少しずつ形を変えていった。
昔は気にならなかった。
彼が他の女と話していると、気になる。親しそうに笑っている彼の顔を見ると、胸の奥がざわつく。
誰かが彼に好意を向けていると聞けば、即座にその者を特定し、彼とは同じ任務などには就けないようにした。彼にも、会わせる機会が生まれないよう、ずっと私と行動を共にさせた。事故に、不運に見せかけて、二度と彼と顔を会わせる事を出来なくすることだって、副騎士団長に至るまでの力と権力をもってすれば、容易なことだった。
彼が、初めて自分自身を見つけてくれた人だった。
失いたくない。失うのが怖い。
彼が他の女を好きになれば、私は自分の居場所がなくなるような気がした。
不安で不安でたまらなった。
もし彼が、私より女性らしい誰かを選んだら。
もし彼が、私の鍛えられた身体を見て、拒否感を持ってしまったら。
もし、私が抱いているこの感情を伝えて、それを彼が拒絶したら。
だから、言えない。
貴方のことが好きです、心の底から愛しています、と。
そのたった一言が、どうしても言えない。
ウィルが好きだ。一人の男として好きだ。そばにいて。私だけを見て。どこかに行かないで。私を独りにしないで。これからもずっと私の隣にいて。
けれど、この愛を彼に求めることが正しいのか、恋愛経験のない私には分からなかった。
自分を慕ってくれる、何も知らない、無垢な少年。家族を失った彼を、自分が導いてきた。
そんな彼に、私の想いをぶつけることが正しいのか、私は分からなかった。
彼を私は、愛しているのか。それとも、私が欲しかったものをくれた彼に、私が縋っているだけなのか。
依存か、愛か、執着か、もはや私には判断がつかなくなっていた。
だからせめて、私は、自分の存在を許してもらうために、彼の家に自分のものを置くようにした。彼と共に過ごし、他の女に近づけば、牽制して、ウィルとの関係を問われれば、否定もしないようにして。
隙なんて無いように。
そしてが私は、彼が、自分たちは、いつか自然に一緒になるのだろう、と思っていることにも気づいていた。
これで良いんだと。私達のペースで良い。ゆっくり、着実に、一歩一歩。
言葉にしなければ、何も壊れない。
彼が自分を好きだと思ってくれている限り。自分の隣にいてくれる限り。自分だけを見てくれている限り。
何気ないふりをして隣に座って。彼の腕に触れて。彼と一緒に寝て。
そうすれば良いんだと――
『――リリア先輩、ウィル先輩のこと何もわかっていません。ウィル先輩は、リリア先輩のこと、好きじゃないと思いますよ?』
記憶の底から浮かび上がる、嘲りを含んだ笑い声。一時期ウィルに付きまとっていた後輩女騎士の言葉。
チッ、と思わず舌打ちが出る。
「嫌な奴を思い出させてくれるね」
そう。ウィルを狙う女は絶えない。私が横に居ようと関係なく、奴らは奪いに来る。奴らはハエの様に、どこからともなく現れては私の気分を害していく。
「……魅人族女性」
ハエはハエらしく、腐った肉にでもたかっていればいいのに。
「身の程を弁えてくれるかな」
戦場で彼の背中を守った訳でもなければ、それどころか
「鬱陶しくて仕方ない」
ただでさえ最近は事務仕事が多い。特に、魅人族の周辺環境や国民感情の関係に関するもの。王国民と魅人族の結婚報告は月を追うごとに増えている。
これのせいで最近帰るのが遅くなっている。本当ならばウィルの家に帰りたいが、ウィルを起こすのは嫌だから、仕方なく自分の家に帰る羽目になっている。
「私を怒らせるのは書類の中だけであってくれよ」
そう。怒らせないでほしい。
怒らせないでくれれば、私だって
そういう手段を使わされたのは、あの後輩女騎士だけだ。そしてあの女は、もうこの世には居ない。
「ウィル……早く帰りたいな」
窓の外で点いていた明かりが、また一つ暗闇の中に消えていくのが見えた。
/////
――朝の光で目が覚める。
薄いカーテンの隙間から差し込んだ白い光が、部屋の中をゆっくりと照らしている。
時計の針を見れば、朝四時半。朝礼が九時にあることを考えれば、あと少しは寝ていられる時間帯だ。
「……朝か」
まだ重たい頭を起こし、天井を見上げ、そのまま横に顔を向ける。
「……起きた?おはよー」
既に起きていたらしい。
紫色の短い髪が少し乱れている。ところどころが跳ねていて、行為前の艶やかな姿とはまるで別人のようだった。
シャーナ・アルラフォーネ。昨夜、自分が初めて
――布団の端から、白い肌と、その豊かな胸元が覗いている。
「……えっち」
ミーシャは頬を染め、目を細めながら俺にはにかんで微笑する。
「…………」
恥ずかしくなり、俺は上体を起こし、改めて自らの状態を確認する。
――頭痛がするようである。
そう。俺は彼女と、シャーナと、そういう行為をしてしまった。
ビジネスで行われるそれではない。はっきりと、明確に、彼女が好意を俺に持っており、それを俺は分かっていた上で行ったのだ。
俺への先輩の想いと、俺の先輩への想いから目を逸らし、裏切ったのだ。
「先輩さんのこと、悩んでる?」
「……ああ」
命を救ってもらって、色々な事を教わって、導いてもらって、一緒に過ごしてきた。
そんな先輩を、俺は裏切った。
恩人にすることではない。裏切った俺には、罪を贖う他にない。
「付き合っているわけでもないのに」
「ッ!いやそうだけど、そうじゃないんだよ。そうじゃないと、思うから」
気持ち悪く、自惚れたようなことを言うが、やはり先輩は俺のことを好いてくれていたと思う。それも一人の人間であると同時に、異性として。
だからこそ、俺は先輩に対して言わなければならないことがあるということだ。
「……俺は、先輩にこのことを言わなきゃいけない。お前――シャーナと寝てしまった、先輩を、裏切ってしまったことを」
「それで?私と付き合ってくれるの?」
「それは……」
考えていなかった。
原理的には、シャーナと寝てしまった以上、俺には責任があり、このまま行くならば彼女と付き合う事になる。しかし、彼女のことを好きかと問われれば、答えに困ってしまう。
性的には、好きなのだろうが、俺は彼女のことを知らない。人として、付き合う相手と思って付き合うわけではない。しかし、好きでもない相手と付き合うことというのは、それは果たして、正しいことなのだろうか。
「……ウィル君。別に私とえっちしたからって、付き合うとは限らないと思うよ?」
「いやそれは……」
「例えばさ、そういうお店に来た人とそういうことをしたとして、それって付き合うことになる?」
「……それは金銭が仲介しているし、別の話じゃないか?」
「じゃあセフレは?本命が別に居るのに、そういうことをするのが好きだからって作る人っているよ?まぁそういう時はそもそも本命が居なくて遊んでいるだけのことも多いんだけど、そうじゃなく、本命が明確に居るのにそういうことをしている人っているんだよ」
「……本命に対する裏切りにも感じられるな」
「まぁね。心に決めた本命が居るのに、他の相手とそういうことをするのは、たとえどんな理由があっても不誠実だとは思うよ」
「……ならやっぱり、付き合っている相手以外にはそうするべきではないし、そういう事をしたなら本命に対して筋を通す必要があるんじゃないのか」
「かもね。けれど、その後に浮気相手と付き合うのが筋だと思う?」
「それは――」
微妙なラインだ。そういう行為をしたからって、その相手と付き合う義務や責任があるようには思えない。そもそも、そんなことしなければいいと言われてしまえばそれまでだが――兎も角、俺がシャーナと付き合う義務や責任というものはないように思えてくる。
「ね?私と付き合う理由や義務、責任って、無いと思わない?」
そう言って彼女は上体を起こし、俺の真隣に身体を近付けてくる。
「ウィル君。そもそもね、そういう行為とかには、責任も何も存在はしないんだよ。まぁ、子供が出来ちゃったりすると法的に制約を受けたり、そういうものはあるけれど、基本的には無いの。たとえ、お店でえっちしようが、本命意外と遊びでしようが……何なら本命とのえっちすら、本来そこに義務や責任は無いの。結局、本当に大事なのは、誰のことが本当に好きか。誰を心から愛しているのか。それが全て――ねぇウィル君、君が本当に好きなのって、誰?」
俺は思わず彼女の目を見る。彼女の目はいつも通り紫色だが、その眼の奥はどこか暗いような、そして、震えているように感じる。
その震えはどこから来たのだろうか。
怒りではない。悲しみでもない。けれど、どこか置いていかれる子供の様なそれ。
どうにかその震えを止めたくて、思わず彼女が欲しがっている言葉を喉元まで出しかけて――そのまま飲み込む。
「……ちょっと難しかったよね。突然ごめんね?私が言いたいのはさ、無理して先輩に、私とえっちした事とかを言って、裁かれることを、赦しを乞いに行かなくてもいいと思う、ってことなんだ。たとえそれが色々な事を与えてくれた先輩相手だろうと、その人に不義理になるように見えることだろうと、ウィル君が誰の事を本当に好きなのか、自分でもはっきりしていない状態で、それはしなくていいと思う」
先輩と、お互いのことを恋人と、決して明言したことはない。お互いに、あなたのことが好きだと、将来を誓うと、そういったことを言ったことはない。けれども、その相手は貴方(貴方)になるだろうと、心の底で決めている。なのにお互い言わない。そういう関係性。曖昧な関係性。
――先輩との関係性について想いを深めながら、一つの疑問が俺の頭によぎる。
どうして彼女はそこまで俺に真剣になってくれているのだろうか。
俺のことを心の底から真剣に考えてくれている、そんな声。
俺のことが好きだとシャーナは言った。
好きだからと、こんなに口下手で、不器用な俺に、ここまで言葉を尽くして、手を伸ばしてくれる。
温かくて、優しくて、思わず泣きそうになるような、切実な言葉が、彼女の愛が、俺を焦がす。
「ごめん。私が言ったことって、恋人だとか、結婚相手だとか、そういう関係性を否定して、本当に大事なのは心だって言ってるんだから、本来、先輩のことを本当は好きだと思ってるウィル君の立場からすれば、赦しを乞いにいくのが道理というか、そうあるべきなんだろうけど、でも、私はそうは思わないっていうか。ごめん、わたし今、言ってることが、無茶苦茶で――」
「……ありがとうな」
少し震え声になり俯くシャーナに対し、俺は片腕を伸ばし、そのまま俺から遠い側の彼女の肩に手を添え、身体ごと抱き寄せる。
「……っはぇ?」
驚いたシャーナが顔を上げ、俺と目が合う。
シャーナの顔は仄かに赤く染まっており、潤んだ瞳は、今まで以上に綺麗で、深い紫色。夜空の星々のような、美しい輝き。
俺に対しての真摯な言葉。俺はそれを真剣に受け止めて、返さなければいけないだろう。
「……先輩に対して思い悩む俺のことを想って、色々言ってくれたんだろ。ありがとう」
俺の行動が相当に予想外だったのか、シャーナは口を開けながらパクパクさせている。
可愛い顔をしているのに、口の動きが餌を求めながら池を泳ぐ*1カルペスを思い出させ、俺は思わずクスッと笑ってしまう。
「……あっ!今私のこと笑った!」
「いや顔が面白くてさ」
「それちょっと失礼じゃないー?私の顔は魅人族で一番可愛いんだけどなー?そういうのは私が本当に面白い顔した時だけに言ってよね?」
「そういう顔はもう昨日の夜にいっぱい見たからなー」
「なあっ……!ウィル君ってそういう冗談言えたんだ……」
「元々こんな感じだよ」
「……何かずっとトゲトゲしてるっていうか、神経質な感じというか、コミュニケーションに難ありって感じだったのに」
「公私を分けるのは騎士として当然だからな」
「ふーん?その私の部分を見せてくれてるってことは、私と付き合うってことで良いのかなー?」
「……悪いけど、そこはもうちょっと考えなきゃ分からないかな」
「……そう」
そう。結局のところ、俺は誰が好きなのか、そもそも好きというのは俺にとって一体どういうことなのか、それすらわかっていない。
俺は、俺自身と、先輩と、シャーナのために、早く答えを見つけなければいけない。
ぐぅー、と俺の身体から少し横にずれた位置の布団の下から音が鳴る。シャーナは少し恥ずかしそうにしながら音のなったところへ両手を置く。
思えば起きてからずっと話しっぱなしである。
「……さっきの顔の通りだったってことかな」
「……はい?」
「カルペスってお腹を空かせてるとき、餌欲しがって口をパクパクさせるだろ?」
俺は右手を曲げては戻しを繰り返し、カルパスの口の動きの模倣をする。
「……うざ」
先ほどまでの顔はどこへ行ったのか。赤みと温かさがあった顔は消え、氷河期の様な冷たさの顔と視線が俺を貫く。
「……ごめんなさい。調子に乗りました」
「……はぁ。いいよ。別に気にしてないし。何かそれくらい軽い感じにできるなら私こんな必死に色々言わなくて良かったかな……」
「……それは本当にありがとう。本気で感謝してる。どうもありがとう、本当に」
シャーナに目を合わせ、心からの感謝の言葉を述べる。
こういうことを真正面から言うこと自体はそこまで恥ずかしくないが、そのまま見つめられると、どうにも恥ずかしくて、自分の顔が熱くなるのが分かり、目を逸らしてしまう。
「……ふーん」
シャーナはこちらをどこか訝し気に見て、そのまま口元を三日月形へ変える。
このままでは何を言われるのか分からないので、別の話へ話題を変えることにする。
「よし。朝ごはんにするか」
俺は足早にクローゼットから服を取り出し着替える。その足で材料棚へ向かい、その中から二人分の丸形パン、ストラウベリ味のジャム瓶を取り出す。
「……そうしよっか。ところでウィル君ってさ、朝ごはん食べる時とかもガツガツしてるのかな?」
「……はい?」
それぞれの分の食べ物を二つの木製の皿に分けて置く。
「昨日の夜凄かったなー。初めてとは思えないくらい激しかったし。何なら私のおっぱいをさ?パンか何かと思ってるのかなーみたいな。あれ女の子はかなり痛いんだけどなー」
――まさかカウンターが飛んでくるとは。
「……すみませんでした」
「いいよー?私、顔も身体も相当だし、初めてならまぁ、仕方がないかな?って」
「……シャーナは結構経験あるんだったか?俺は初めてだったけど、容赦なく何回もさせられたよな。それでも何回も出させられるんだから、どうやったら相手が盛り上がるかをよく知っているというか、まぁ流石の経験数ってことか?」
「その私で滅茶苦茶興奮してたくせに」
「シャーナも相当じゃないか?朝の五時くらいでそれだけお腹が空いてるのは何でなんだろうな?そりゃあれだけ激しく動いてたら仕方ないかー?」
「……ウィル君って結構ネチっこいんだね?」
「一回謝罪を述べたのにもう一回ふっかけられたからな」
「男の子なら女の子のために折れて上げた方がカッコいいと思うよ?」
食べ物を乗せた皿を机の上に運び置く。
カタンと鳴った机を見ながら、自分の言動を改めて振り返る。
正直、最初の冗談については謝罪したし、その謝罪を受け入れながらカウンターを飛ばしてきた彼女に思う所が無い訳ではないが、少々子供じみた言動だったことは認めざるを得ない。
「……ごめんなさい」
「……ふーん」
先ほどから癖の様に発せられるその言葉に、次は何が来るのかと、思わず俺は目を細めてシャーナを見る。
警戒する俺に対し、彼女は頬を赤らめながらくすくすと俺に笑いかける。
「ふふ。私、ウィル君のそういう素直なところとか、大好きだよ?私もごめんね?ごはんありがと」
そう言ってシャーナはベッドの布団をどかし、小棚の上に置いていた黒ドレスを見る。この黒ドレスは昨日彼女が着ていたものだ。
「うーん。替えのシャツとか忘れちゃったな……ねぇ、ウィル君のやつ借りてもいい?」
「ああ……どうぞ」
先ほどまでちょっとした口喧嘩の様なものをしていたとはいえ、全裸の姿を見せられると流石に落ち着かない。俺は急いでクローゼットを開く。クローゼットの中には俺用のシャツと同時に、先輩のシャツも入っていた。
大きさを考えれば先輩のものを渡すのが正解だろうが、人の物を勝手に渡すというのは流石に頭がおかしすぎる。
「……はいこれ」
全裸のままベッドに座るシャーナにシャツを手渡す。
「ありがとー……やっぱり大きいね?」
昨日は黒ドレスだったシャーナが、今は俺のお古のシャツを着ている。この事実に対し、少々緊張するものはあるが、それ以上に目を引くのは、硬めの生地で作られたシャツの上からでも分かる上半身の大きな二つの山である。先輩が俺のシャツを着ることはあったが、その時には起こり得なかった。
「じゃあ食べよ?」
そう言ってシャーナは椅子に座り、机の上のジャム瓶を開け始める。
彼女は机の端にあるカトラリーケースからナイフを二つ取り出し、一方のナイフの先で瓶からジャムを少しだけ自分の皿に取り、もう一方のナイフを用いてそのまま丸形パンの割れ目に付けた。
「丁寧な感じだな」
「あー、何というか、家が結構お作法とかに厳しい感じだったんだよねー」
魅人族の貴族と言えば、それこそ魅人族の族長周辺関係を意味する。彼らは王族待遇に近く、歓楽街周辺には住んでいない。彼女のルーツがそこあるならば、歓楽街に居た彼女は今、相当に複雑な境遇にあるのかもしれない。
「貴族様とかそういう感じだったりしたのか?」
「まぁそんなところだね。いただきます……あっこのジャム美味しい」
彼女に向かい合う位置で椅子に座り、俺も彼女に合わせ、ナイフを二つ使ってジャムをパンに付ける。
「いただきます」
先輩と朝食を食べることは何度もあった。だからこのように異性と二人で食べること自体はそんなに珍しい事ではない。ただ――
「どうかした?」
「なんでもないよ。美味しそうに食べるなーって」
「……美味しいよ?」
俺の前に座っているのは、昨日までは名前すら知らなかったサキュバス。
彼女との一日は、一体どのようになるのだろうか。
今日も俺は騎士団としての仕事がある。もう少ししたら出発しなくてはならない。せっかくの彼女との一日をもう少し長く堪能したいと、俺はどこか心の奥で思っているのを自覚した。
「……何か緊張してる?」
「いや……まぁ意外とお腹は空いてなくてさ。普段はもうちょっと後に食べるからかな」
「私がもらっちゃおうかな?」
「あーいいよ。あげる」
いつの間にか自分の食べる手が止まっていた。そこまで俺は彼女に惹かれているというのだろうか。昨日出会って、一夜共にしただけの彼女に。
「……シャーナは次、いつ会える?」
その言葉を聞き、パンで頬を大きく膨らませていた彼女は目を大きく見開き、嬉しそうな顔でこちらを見る。
「……ゴクッ。ふぅ。そうだね。基本的には、君の先輩さんが居ない日の夜に会いに来ようかなーって考えてるよ。それが今日の夜なら、今日会えるかもね?」
「そうか。けど、そんな先輩がいるかどうかなんて分かるもんなのか?」
「んーそこはまぁ、勘で?」
「勘で分かるもんなのかよ」
「女の勘ってやつだね」
シャーナはそう言って、残っていたパンを小さく千切る。
「こっちは真剣なんだけど?」
「私の方も真剣だよ?」
きょとんとした顔で、さもそれが真っ当な手段かのように言う彼女に、俺は薄くため息をつき、二つの皿を台所へ持っていく。
「私も手伝うよ。ところでさ、先輩とは何年くらいになるの?」
「大規模侵攻からだから、四年くらいだな」
桶をいくつか持ち、台所横の裏口から出て、共同井戸へ向かう。青空が輝いていて、少し眩しい。
「私もいくつか持つよ……四年は長いねぇ」
「そうだな」
共同井戸に着き、桶に水を汲む。冷たい水が桶の中で揺れる。
「そういえばシャーナって何歳なんだ?」
「んー今年で十八歳になるのかな」
「ってなると俺と同い年になるのか」
シャーナの歳が判明した瞬間、同い年の美少女とあれほどの夜を過ごしたのだと、あの子の産まれたままの姿を俺は知っているのだと、どこか背徳的な気分になる。
「同い年だね。これなら結婚は今年からできるよ?」
「……そうだな」
十八歳なら、法的に結婚が出来る。美しい彼女と毎日、飯を食い、寝て、そういうことをする。考えるだけで下半身が反応しているのが分かった。
ムラムラとした気持ちの中、手を桶に突っ込み、冷たい井戸水に触れることで気持ちを落ち着かせる。
二人で桶を持って家に戻ると、シャーナは台所の横に桶を置き、布と皿、ナイフを水に浸した。
「これで合ってる?」
「ああ」
俺が頷く。
シャーナは慣れない手つきながらも、皿を水の中でこすり汚れを落とし、取り出して拭いていく。
「こう?」
「合ってる」
「良かったー」
俺の方もシャーナ同様、皿を水に浸し、汚れを落とし、取り出して拭く。
水を替え、最後に二人分のナイフを浸し、汚れを落とし終わったナイフからシャーナに渡し、拭いてもらう。
水に浸し、汚れを落とし、拭き、片付ける。たったこれだけの簡単な作業。それだけの時間なのに、妙に穏やかさを感じる時間だった。
「……なぁ」
「どうかした?」
シャーナが振り返る。
「今日の夜、先輩が居なければ来るつもりなのか?」
「うん」
迷いのない返事だった。
「……そうか」
「嫌?」
「そんなことはない」
反射的に答えてから、自分でも少し驚くと同時に、どこかそんな自分に納得している自分が居た。
シャーナは目を細める。
「聞き方を変えるけどさ、私と会いたい?」
「……」
今度はすぐに答えられなかった。
「ちょっとだけな」
俺の答えに、シャーナは、少しだけ笑った。
「そっか」
これだけで分かる。彼女の言葉には、明らかに喜びの感情が入っていた。
しばらくして、シャーナが小棚の上のドレスへ向かう。
俺も後ろから着いていく。
「……これ、洗濯屋に持っていかないと」
「それ、今日中に戻ってくるのか?」
「うーん。たぶん明日かな」
「じゃあ、その服は?」
シャーナは自身の着ている俺のシャツを見下ろした。
「……もう少し借りててもいい?」
「ああ。別にいいけど」
「ありがとう」
シャーナは嬉しそうに笑った。
そのままシャーナは玄関に向かい、扉を開く。
朝の光が、部屋の中へ差し込んだ。
「じゃあ、またね」
「ああ」
「今日の夜、来るかもしれないから」
「分かった」
「そのとき、先輩さんがいたら……」
「いたら?」
シャーナは少し考えてから、いたずらっぽく笑った。
「そのときは、お邪魔しちゃうかも……嘘。また別の日にするよー」
そう言って、彼女は通りへ出ていった。
俺はその背中が角を曲がって見えなくなるまで、しばらく玄関に立っていた。
やがて扉を閉める、静かになった部屋を見回す。
さっきまで二人分あった食器。卓の上に残ったパン屑。そして――くしゃくしゃになったベッドの布団。
「……早く片付けないとな」
そう呟いて、俺はベッドの布団を直し、今日の仕事への準備を始める。
ふと、窓から見える外の景色に視線を移す。その空の色は、先ほどとは青空とは真逆の、真っ黒な黒色の空が広がり始めていた。