勇者の孫娘とコウモリ少年 人と獣人との黒き事件簿 作:ごぼう大臣
「…………」
「…………」
「…………」
「あの……アイリス」
「…………」
その日は、昼間にも関わらず灰色の分厚い雲が垂れ込める陰鬱な空気だった。特に冒険者ギルドの一角、待合室兼バーの役目を果たす広間のうちアイリスとロキが座している円形テーブルは他の冒険者たちが自然と遠巻きになって緊迫や好奇の目を向けるほど、気まずく暗く重苦しい雰囲気が立ち込めていた。
原因は、アイリスとロキに同席している三人の若い冒険者だった。まず一人、人間で赤髪を肩まで伸ばした男性が整った顔をニヤけさせて言う。
「だからぁー……悪かったって。ほんの出来心だったんだ。お前を嫌いになったんじゃない」
男性がそう語りかけるのは、隣にいる細身の女性だった。長い黒髪をのばし、肌は白くまつ毛が長いなかなかの美人であったが、その表情は険しくうつむき、男性を見ようともしない。
そんな態度へ苦笑している男性に、女性はうつむいたまま言った。
「ピーター。今さら信用できると思う? 付き合ってから何回騙されてきたか」
「し、信じてくれジェシカ! これから変わるよ。俺にはまだ成長の余地がある!!」
「…………」
ピーターと呼ばれた男は意気込んで話すが、女性ジェシカは返事をしなかった。そのいかにも冷めきった男女の姿をアイリスとロキは気まずそうに見つめている。
ここまでならただ男女の別れ話にアイリスたちが居合わせたように見えるかもしれない。しかし事態はもう少し複雑だった。ピーターは反応のないジェシカから、視線を別の人物に移して言った。
「なあスーザン、お前にもすまなかったよ。けどこういう日が来るのは分かっていたろ?」
そう語りかける相手、スーザンというのはちょうどピーターの正面にいる女性だった。小柄で黒のボブカットの彼女は、内気そうに肩をすぼめピーターをにらんでいる。
また、スーザンには人間と違ったある特徴があった。背中から鳥の翼が生え、黒い翼の下から大きめの褐色な翼が広がり二層構造になっている。鳥の獣人であった。
そのスーザンは拗ねたようにうつむき、歯がみして言った。
「……彼女とは、別れるって言った……」
「……それはっ」
ピーターは歯切れ悪く言いかけ、黙ってしまった。場の誰もが口を開けず空気がさらに重くなる。
そこに来て、ロキがアイリスをヒジでつついてささやいた。
「アイリス、僕らもともと何してたっけ」
「浮気調査です。ジェシカさんに依頼されて」
「だよね。それで結果を伝えるまでが仕事だったはずだ。なんで当事者のケンカに居合わせてるの」
「だって、ジェシカさんが話をつけると言うんですから。人として放っておけませんよ」
「やれやれ、私情を挟むとロクな事がないよ」
すっかり義憤にかられているアイリスに、ロキはこっそりため息をつく。探偵としては関係の清算も加害者の糾弾も仕事には入らない(というか首を突っ込むのが面倒くさい)とロキはわきまえていたのだが、あいにくアイリスは義に篤い女性だった。
そんなアイリスとロキの温度差に気づいていないのか、ピーターはへらへら笑いながらスーザンの方へ語りかける。
「ほら、お前さ……確かツグミって渡り鳥の獣人だろ? 毎年冬は、もっと南の方へ引っ越すそうじゃないか。生活リズムからして合わねえよ」
「そんなの、慣れたら大丈夫だし」
「けど無理させる事になるだろー? 獣人と人間とじゃハナから合わない運命なんだよ。分かってくれよぉ」
終始スーザンは不服そうだったが、ピーターは延々と説得を続けた。それもスーザンもとい獣人の習性に配慮するかのような口ぶりでもって。ジェシカはそれを横で悲しげに見つめ黙っている。
一方でアイリスはその光景にたまりかね、身を乗り出して話に割って入った。
「さっきから黙って聞いていれば! もう少し誠意を見せたらどうなんですかピーターさん!?」
「な、なんだよ。アンタ元から部外者だろ?」
「それでも目に余ります。彼女たちの気持ちを考えてくださいよ」
アイリスはそう言って、ジェシカとスーザンを順に指し示す。悲しみと怒りを顔ににじませた被害者たちに、ピーターも一瞬たじろぐ。
しかし、それでもピーターは肩をすくめて言い訳を続けた。
「しかし、実際ジェシカには信じてほしいし、スーザンとやっていくのはどのみち無理そうなんだって。他にどう言えというんだ」
「あなたが信じてほしいとか、スーザンさんと習性が噛み合うかとか、そんな話じゃないんです。あなたの誠意が伝わっていないんです」
「誠意って、そんなヤ○ザみたいな……」
「言葉の問題じゃありません! 形だけじゃなく、申し訳なかったと相手に伝えないと! 関係をどうしたいかの前に、まずはソコでしょう!?」
アイリスは椅子から立ってテーブルを叩き、周りもはばからずに叫んだ。その口調には怒りだけではなく、彼女の正義感からくるピーターへの説教の色も含まれていた。良識に訴えるその熱弁にギルドの冒険者たちもチラチラとなりゆきを見守る。
「……」
アイリスはピーターをまっすぐ見つめ、言葉を待った。しかしピーターは苦々しげに目をそらし、いつまでも口を開かない。
その時、黙っていたロキが言った。
「無理だよ。だってコイツ申し訳ないと思ってないもん」
鼻を鳴らすロキに一同が注目する。彼は見つめてくる視線の中からピーターを見つめ返して続けた。
「そうでしょ色男さん? 口ではアレコレ言いながら、自分が責任を負わない方法ばかり考えてる」
「し、失礼な! お前に何が分かるんだ!?」
「君みたいなヤツは何度も見てきたよ。もっとも、だまされてたお二方に聞いた方が早いだろうけど」
ロキの視線がジェシカとスーザンへ素早く巡る。彼女らは一瞬ムッとしかけたが、気まずそうな顔で押し黙っていた。
擁護の声もなくたじろぐピーターへ、ロキはさらに言葉をぶつける。
「両手に花も結構だけどね。自分のケジメは自分で取らなきゃ。周りからみるみる低く見られるよ」
「は、くだらない……」
「二束三文な扱いの人間が高い価値を生みたいなら、人間扱いされてちゃダメだ」
「おい、何の話だ」
「君と似た雰囲気の人を見てきた経験則さ。もしかしたらこの先、冒険者よりもっと酷い場所で働いたり、過去を知る者がいない戦地に送られたりするかもね。あるいは臓器を売ったりとか?」
ロキは上目遣いに笑いながら言った。子供に似合わないその恐ろしい言動に一同は静まり返る。さっきまで怒っていたアイリスも息を呑んでいた。
すると今度は視線をジェシカ、スーザンへ移し、ロキは続ける。
「あとは、君たちが巻き込まれるパターンもあり得るな。嫌な想像だけど、往々にしてあるケースだ」
「往々にして……って、どんなケースよ」
「うーん、聞きたい? いちおう僕、清い少年だからあんまり口にしたくないんだけどなぁ」
わざとらしくため息をついてロキはそっぽを向く。ジェシカもスーザンもうつむき、暗い面持ちになる。
彼らのテーブルは自然と暗い雰囲気を強めた。それに呼応するかのように、壁の外からパラパラとまばらな雨粒の音がしだす。曇っていた空からついに雨が降り出したのだ。それに気づいた他の冒険者たちが、気まずい場の空気から逃れるかのように外へ足を向ける。
「あ、えーと。そろそろ帰らないと冷えてくるな」
「洗濯物、窓のところにかけっぱなしだったっけ」
「買い物しなきゃだった。急がなきゃ……!」
ギルド内の者たちは潮が引くように次々と外道へ逃げていく。そして広間にはアイリスたちだけが残り、先ほどまで注目を集めていたのよりも尚悲惨な"孤立"のていを成していた。
「…………」
恥じらいと情けなさで、ジェシカもスーザンも唇を噛み、あるいは拳を固く握る。
そんな中、ピーターが不意に調子っぱずれな明るい声を発した。
「あー! あーそうだ! 持ってきたものがあるんだった!!」
そして彼は自身の椅子の下へ手をのばし、そこに置いた荷物から細長い箱を取り出した。中身を開けると、大きなボトル入りの赤ワインが出てきた。
それをテーブルに置きピーターは愛想笑いしながらジェシカ、スーザンの表情をうかがう。そして何か言われる前に口を開いた。
「いったん酒でも飲んで落ち着こうぜ。言葉が少ないと話も進まねーよ」
「あなた、何を考えて……!」
「よしましょうよ。こんな時にお酒なんて」
アイリスが顔をしかめると同時に、ジェシカも苦言を呈する。さすがに飲酒などのんきにしている場合ではないと思っているのだろう。
しかし、次の瞬間スーザンも言葉を発する。
「「前だってお酒の勢いでウヤムヤに……」」
言いかけて、二人の女性はハッと目を合わせる。奇しくも全く同じセリフ。さらにジェシカもスーザンも互いに表情を驚きから悲痛のそれに変え、押し黙って目をそらす。
その一幕を見て、アイリスはなんとなく察した。おそらくピーターはこれまでも、深刻な問題が降りかかると酒でごまかすという行為を複数人に何度も繰り返してきたのだろう。
しかし、ピーターは敢えて無視してコルクをすぽんっと外すとテーブルに置かれっぱなしだったコップにワインをついでいく。そして素早く全員に配った。
「まあまあ。もう開けちゃったからさ! 一杯くらいなら平気だって!」
この事態の元凶のクセに何を言っているのか。よりにもよって被害者がごまかしのための酒の勧めなど受けるはずがない。アイリスは内心でそう唾棄した。しかし。
「……一杯だけよ。本当に……」
「そういうところだよ……」
なんと、ジェシカもスーザンも文句を言いつつコップを受け取ってしまった。アイリスは一瞬驚いたが、被害者二人がそろってピーターと愛想笑いしながら話しているのを見て、直感的に納得したのだった。
ジェシカもスーザンも、なんだかんだ言いつつピーターにまだ騙されたがっているのだ。ジェシカいわく何度も騙されたというのも同じ心理からだろう。惚れた弱みというのは恐ろしい。
「……帰ろうか?」
アイリスにそっとささやくロキ。彼もさすがに相棒がこの場にウンザリしているだろうと考えたのだ。しかし、アイリスは静かに首を横に振る。
「いえ、まだ何も進展していません」
「だから言ってるんだ。時間の無駄だよ」
「大丈夫です」
アイリスはきっぱり言い切った。ロキは他の面子をちらと見て、控えめに忠告した。
「お酒は飲まないでね。今の君が理性を失ったらどうなるか」
「言われなくても飲みません。よけいなお世話です」
少しイラつきながらアイリスが言い返す。その頃ピーターが自分の分のワインを一気にあおっていた。
「……ふぅー。やっぱり美味い! 買ってきてくれてサンキューな、ジェシカ」
「ほめられても嬉しくない。香りも楽しまないクセに」
「確かになかなか良いモノだね。こんな機会じゃなきゃ店の名を聞いたのに」
ピーターのお世辞にもジェシカは仏頂面。ロキは適当に場に合わせる。そんな空しい様子をながめ、アイリスは言われた通り酒に手をつけず無言でいた。
こんな話し合いはさっさと解決したい。そんな事を考えながら、アイリスはそっとスーザンの方を見た。この茶番にさぞかし胸を痛めているだろうと想像していた。
「…………?」
が、スーザンはどういうワケかコップに口をつけながら他の人物をジッと目で追っていた。口元が隠れたぶん目立つ目を恨みがましく細め、暗ーい瞳で周りをにらんでいる。
先ほど内気そうでいじらしく見えた彼女のギャップに、アイリスは少しゾッとした。するとスーザンと視線がぶつかり、黒曜石のような色の瞳がアイリスを射抜く。
(っ……!)
アイリスはあわてて目をそらし、ワインを飲むふりをする。それから横目にスーザンをまた見ると、スーザンは元通りピーターやジェシカを見つめていた。
どうしたのだろう。見かけによらずかなりの恨みを持っていたのだろうか。アイリスが内心でいたたまれなく思っていると、そのスーザンが何やら手のひらサイズの袋を取り出して言った。
「……これ」
そう言いながら袋を開けて手のひらに中身を出すスーザン。そこには指でつまめる程の小さな赤い木の実がいくつもあった。
それを見たピーターが首をのばしてたずねる。
「何だそれ? 美味いのか?」
「酔い覚ましに効く実……あんまり飲みすぎたら話ができないから」
「へぇー、そんならお一つ……」
「待って、まず皆に配る」
ピーターが無遠慮にのばす手を避け、スーザンは他のメンバーに数個ずつ赤い実をよこす。するとジェシカの番になってスーザンはふと躊躇した。
「……あなたはやめとく」
「へっ……何よ。私にはあげたくないって?」
「そうじゃなくて。ジェシカはお酒ダメなんでしょ?」
スーザンはジェシカのコップを指さした。確かに中身は減っていない。スーザンは他の者に実を配りながら言う。
「ピーターが言ってた。……最近、何故か禁酒しはじめたって」
「ピーター、アンタそんな話したの?」
「な、何だよ。別にいいだろ? それより飲まない理由でもあんのか?」
「はぁ、言わなきゃ分からないか……」
ため息をつくジェシカ。またいさかいが始まったとアイリスもロキも気まずい視線をかわす。するとジェシカがピーターをにらみ、自身の腹をなでてから言った。
「あなたの子よ……」
「え……は!?」
「だから! あなたと私の子供! だから体に気をつけてるの!!」
目を丸くするピーターへ、ジェシカが立ち上がって怒鳴る。それでもピーターは口をあんぐりと開けてボンヤリ相手を眺めていた。
それでもジェシカはピーターの言葉を待った。アイリスふくめた他の面々も緊迫した面持ちで見守っていたが、当のピーターはあろう事か目をそらす。
そして先ほど受け取った木の実をぱくっと口に入れ、直後に顔色を変えてせき込んだ。
「ふぐっ……げほっ! けほっ、辛いなこの実……!!」
「ちょっと、真面目に聞いてよ!」
「分かってるって……でもコレ、本当に甘くなくて……」
「酔い覚ましって言ったでしょ」
スーザンが冷めた目で言いながら木の実を頬張る。それを見てアイリスも居づらい空気をごまかすためか実を食べた。直後に彼女はあわてて口をおさえた。
口の中にピリリとした辛味が広がる。あわてて呑み込むと、胃まで燃えるようなムカムカした感覚が滑っていった。
「効きますね」
「……うん」
アイリスはロキへ苦笑いした。ロキは少し眉をひそめながらも、何食わぬ顔で木の実を呑み込む。
一方で、ジェシカはむせているピーターと言い争いを繰り広げていた。
「とにかく! 言ったからには覚えててもらうからね。今ここにあなたの子供がいるの」
「えー……本当に俺の子?」
「何その言い方! 言っとくけど私、アンタ以外に覚えはないからね!?」
「おい、声が大きい……!」
弱った顔でのけぞるピーター。それに真っ赤になって食ってかかるジェシカ。その図にアイリスはみるみる顔をしかめ、その渋面をチラ見したスーザンは震え上がる。ロキは一人、どうにでもなれと頬杖をついていた。
しばらく不毛な口ゲンカがその場で続いた。といってもピーターに味方する者がおらずジェシカも暴力に訴えはしなかったので、ピーターの言い逃れを面々が傍観していた、というのが正しいのだが。
しかし、そのさなかでピーターが不意に顔色を変えた。
「……うぐっ……!?」
低いうめき声をあげ、背を丸めて腹を押さえる。そのしぐさを見たジェシカは呆れた顔で言った。
「ハライタでごまかそうったってダメ。今回は堪忍できないわよ」
「い、いや違うんだって……ホントに、調子が……」
ピーターは顔を真っ青にしながら声を絞り出したかと思うと、そのまま椅子から倒れて床にうずくまる。床板に突っ伏してしまいそうになる彼の目はカッと見開かれ、額にはみるみる冷や汗がわき出している。
「だ、大丈夫ですか!?」
ピーターの姿に、ただ事ではないとアイリスが立ち上がる。しかし直後に彼女も強烈な体の違和感に襲われた。
「あっ……うっ!?」
胃のあたりで燃えるような痛みと何かが膨れ上がるような切迫感が噴き出した。それと矢継ぎ早に凍るような頭痛がし、彼女はたまらずテーブルにうずくまった。
「アイリス!」
ロキがあわてて取りすがり、アイリスの背をさする。「どうしたの? どこが辛い?」
と彼は静かに問いかけたが、アイリスは答えられなかった。
何故なら彼女は喉からせり上がる吐き気と戦っていたからだ。意識が不快感でいっぱいになりながらも手で口を押さえると、今度はその手の指先が痺れはじめているのに気づく。
「……まずいな、どうしたら」
ロキが焦って周囲を見ると、ピーター、アイリスにくわえてスーザンも腹を押さえてうめいている。そんな中でただ一人、ジェシカだけが困惑した表情でその場に立ち尽くしていた。
ロキは無事なジェシカへとっさにたずねた。
「ジェシカ、君は大丈夫?!」
「え、ええ……あなたは?」
「僕は昔から毒に耐性をつけてるから……それより何が起きてるんだ」
さすがのロキも焦った声でつぶやく。すると、床に這いつくばっていたピーターが今までで一番に迫真な声でたずねた。
「ジェシカ……一体、何を買った……?」
「は……? 何って、普通のワイン……」
「だったら、なんでお前だけ無事なんだよ……」
「……私を疑うの? アンタが銘柄を毎度おぼえないから、私が買ってきてあげたんでしょうが!」
「答えになってねえよ!!」
ヒステリックになるジェシカとピーター。スーザンは一人テーブルのヘリをつかんで耐えている。ロキが歯がみして手元のアイリスに視線を戻すと、アイリスはさっきにも増して苦しげにうめいていた。目には涙まで浮かべ、いつ症状が酷くなってもおかしくないかもしれない。
「……っ」
ロキは必死で思考を巡らせる。何が原因でこうなっているのかは分からない。しかし放っておいて事態が好転するとは思えない。いざという時にはアイリスだけでも助けたかった。
ちょうどその時、ギルドの二階からドアが開く大きな音がした。ロキが顔を上げると執務室から階段を駆け下りる者がいる。ギルドマスターのデボラだった。
「みんな、何をしているんだ!? 大丈夫か!?」
ロキたちの惨状にデボラが息を切らして駆け寄る。そこへスーザンが震える手をのばして訴えた。
「助けて……誰かが、毒を……!」
「なんだと……?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。誤解だって……」
毒、その言葉にデボラは目を見張る。同時にジェシカが憔悴しきった声で抗弁した。が、そのジェシカの声はあまりにも小さく、デボラも犯人を決めつけたりはしないまでも毒が一同の中で盛られたという主張は信じたらしかった。表情を険しくし、鋭く全員を見回す。
が、ロキは今は犯人探しどころではなかった。アイリスだけはなんとしても回復させる。そう決意した彼はだしぬけにデボラに向けて叫んだ。
「デボラ! 少しの間みんなをお願い! すぐ戻ってくるから!」
「へ、おい! どういう事か説明を……」
「話は後でする! とにかく絶対に目を離さないで!」
戸惑うデボラへ強引に頼み込み、ロキはアイリスに肩を貸す。そしてふらつくのも構わず出口へと走った。
「……ロキ、ダメですよ。他の方を置いていったら……」
「少し黙ってて! 急ぐよ!」
うわごとを話すアイリスを一喝し、ロキは外に飛び出す。戸外はすでに日が沈んで暗くなったばかりか、夜闇に溶け込むほど黒く分厚い雲から滝のような雨が音を立てて降り注ぎ、時おり空が真っ白に点滅しては割れるような雷鳴がとどろいている。
荒れた天気にロキはごくりとツバを呑み込む。まるで希望のない未来を暗示するかのような天気。しかしそれでも気を入れ直すと、彼はアイリスをかついだまま翼を広げて空へと飛び立った。この状況を打開できる助言者を求めて。
――
「出しぬけにどうしたんじゃ。ずぶ濡れじゃないか!?」
「助けて。薬がいるんだ!」
数十分後、急にあらわれたロキとアイリスを見て、その部屋の主は目を見張った。
本棚のずらりと並ぶ白塗りの一室。その中央で純白の大きな修道服に身を包み、赤髪を三つ編みにした少女。アイリスはじめ人々が聖女と呼ぶ教会の研究者、モニカである。
そのモニカは雨に濡れて飛び込んできた二人を見て思わず駆け寄る。ロキが部屋に踏み込むなりその場にへたり込むと、肩を貸されていたアイリスがぐったりと床に倒れる。アイリスの肌は雨だけのせいとは思えないほど血色が悪く、口からは浅い呼吸がやっと繰り返されている。
その衰弱した顔をモニカが心配そうに見つめていると、ロキが部屋の中央の寝台にアイリスを寝かせ、これまでの経緯を早口に説明した。
……それらを聞き終えたモニカは難しい顔で言う。
「という事は……どこかのタイミングで毒を盛られたと?」
「ああ。皆が同じように苦しんでいたから、お酒に毒が入っていたのかもしれない。が……」
「が?」
「少し引っかかるんだ。解毒したいのはやまやまなんだが……」
ロキの歯切れの悪さに、首をかしげるモニカ。すると横になったアイリスが弱々しく口をはさんだ。
「あの……私、飲んでないんです」
「なぬ?」
「お酒……飲んでません。スーザンさんが何故か見てきたので、つい飲んだフリを」
「そうなのか!?」
ロキがハッとして駆け寄り、アイリスの前にしゃがんで詰め寄る。アイリスは相変わらず苦しみながらもうなずいた。それを聞いてロキは思い出したようにつぶやく。
「なら……あの赤い実?」
「詳しく話せ。その実とやらの名が分からねば、合う薬も用意できん」
「それが……聞いてないんだ。まさかこうなるとは思っていなくて」
いまだにロキはあわてているようだった。アイリスが苦しみだし急いだは良いものの、そのせいで情報不足に陥ってしまった。
「まいったの……半端な決めつけで薬は処方できんし」
手詰まりとなった三人は苦い顔を見合わせる。外ではいまだに大雨と落雷が激しく、それが彼らの焦燥をあおるのだった。
「……げほっ、げほっ! ……うぅ、えっ……はぁ」
その時、その不安からかアイリスが激しくせき込んだ。しかも最後にえづくような低い声まで飛び出す。アイリスは弱りつつも恥じらいからか口を手でおおい顔をそむける。
ところが、モニカは突如目を光らせるとアイリスに駆け寄って言った。
「アイリス、その手を見せい!」
「う……は、はい」
「そっちじゃない! 口を押さえた手じゃ!!」
「で、でも」
「緊急事態じゃ! 早うせいっ!!」
戸惑って躊躇するアイリスだったが、モニカに促されしぶしぶ手のひらを見せる。そこにはアイリスが先ほど口にした赤い実の皮の一部がついていた。
モニカはその皮をつまみ上げると穴が空くほどに見つめる。気になったロキが横から眺めていると、モニカが唐突に振り向き彼にたずねた。
「……ロキ、例の木の実……辛い果物を配ったのは鳥の獣人じゃと言ったな」
「ああ。スーザンって子だよ」
「何の鳥なのかは聞いたのか?」
モニカはいつになく真剣にロキへ詰め寄る。その顔を間近に見たロキは信頼した目になって答えた。
「ツグミの獣人だって。そう聞いた」
「ツグミ……」
ロキの答えを復唱し、モニカは納得したかのように何度かうなずく。そしてアイリスへ向き直ると、優しく微笑んでいった。
「待っておれ。すぐに解毒薬を持たせてやる。……皆の分もな」
――
「やあ、待たせたね。薬を持ってきた」
……それからさらに時間がすぎ、雨も小降りになった頃。ロキとアイリスはようやくギルドの方に戻ってきた。アイリスも自力で歩けるほどに回復し、二人とも教会でもらったローブをまとって雨を防いでいる。
二人がギルドの戸を開けて顔を見せた時、中にいた者たち……デボラ、ピーター、ジェシカ、スーザンはそろって素早く顔を向けた。中でもピーターは弱った体で床を這い、アイリスの足元まで来たかと思うと青白い顔で叫んだ。
「おい、本当か!? この毒を治せるなら早くしてくれ!!」
「落ち着いてください。全員分ちゃんと用意していますから」
アイリスがたしなめるように言って、ローブの下から小瓶を取り出す。その栓を抜いてピーターへ手渡すと、ジェシカが小声で問う。
「それ、本当に効くの……?」
「知り合いに薬に詳しい方がいるんです。信用おける方ですよ」
不安げなジェシカへ微笑むアイリス。するとデボラが駆け寄って手をのばし言った。
「貸してくれ。私も手伝う」
「あ、大丈夫です……スーザンさんには別なのがありますから」
デボラの申し出にアイリスは首を横に振る。そして残りの被害者であるスーザンへ目を向けると、そこにはロキが寄り添い、薬を差し出していた。
膝を丸めて座るスーザンの前で薬の栓を抜き、ロキは微笑む。
「どうぞ、獣人用の薬だ。効果は同じだから飲んでくれ」
「う……うん」
ロキに促され、薬を飲み干すスーザン。飲んだ直後はまだ具合の悪そうな彼女だったが、その隣では少しずつ効果が見えはじめた。
「お……なんか、スッキリしてきた」
ピーターが自身の体をまじまじと見つめてつぶやく。力のなかった目の焦点が合い、ゆっくりとだが体を起こし、立ち上がる。
「大丈夫か? さあ、手をつかんで」
「お手伝いします」
アイリスとデボラはピーターをそれぞれ支え立つのを補助する。そのおかげで苦しんでいた彼もすぐに立ち上がる事ができた。
「すげー、マジで治った! はぁー……死ぬかと思った。サンキュー」
「礼なんて要りませんよ。薬をつくったのは別の子ですし」
回復して早々はしゃぎ出すピーターを見てアイリスはホッとした表情で笑った。ジェシカも安堵してため息をつく。
スーザンは座ったままその様子を力なく眺めていたが、彼女もやがて腰を動かし、ゆっくりと立ち上がる。
「ふっ……うぅ」
「おっと、気をつけて」
「平気……楽になってきた」
支えようとしたロキをやんわりと押しのけ、スーザンもやっと元通りに立ち背をのばす。最後に背中の翼をパタパタと動かして彼女はフーッと息をついた。
「助かったぁ……」
「それは良かった」
ロキはうなずいてそう言い、室内の他の者たちを見回す。先ほどのように不調な者はおらず、めいめい軽く体操したりアイリス、デボラへ何度も礼を言ったりと一件落着かのような雰囲気が広がっている。
しかしそこでロキは両手のひらを何度もパンパンと打ち合わせ、皆の注目を集める。そして笑顔で場の空気を冷やすような一言を口にした。
「さて、じゃあそろそろ考えようよ。こんな事態を引き起こしたのは誰なのか」
一同の表情が険しくなる。しかしそんな中でピーターはロキの側へ歩み寄り大げさに賛同した。
「そうだ、忘れるところだった! 誰があんな事をしたんだ!?」
「言っても名乗り出るワケないでしょ……」
「なんだジェシカ。お前も怪しいんだぞ!?」
呆れ顔のジェシカへ噛みつくピーター。するとすかさずジェシカが言い返した。
「まだ疑ってるの!? あんだけ苦しそうにしてたら少しは冷静になるかと思ったのに!」
「あのな、酒を飲まなかったお前がピンピンしてた事実をどう説明する? あの酒を買ったのもお前だ」
「だからそれは誤解だって!」
「どう誤解なんだよ!?」
どうやら、ロキとアイリスがギルドを離れていた間も二人の不信は相変わらずだったようだ。回復して早々言い合いをする二人の間にロキが割って入る。
「まあまあお二人とも。その点はこちらから話すから」
「話すって……何か分かるのか?」
「私、お酒を飲んでいません」
不意にアイリスが口を開く。その言葉に皆がいっせいに目を向けた。ただピーターは疑惑の目をしながらアイリスへ問いかける。
「本当か? ちゃんと受け取ってたろう」
「はい。ですが飲むフリをしただけです。ちょっと個人的に気まずくて」
「彼女、お酒にすごく弱くてね。この前なんか食事の席で大暴れしたんだから」
ロキは補足と一緒にケラケラ笑う。アイリスはその横で赤面していたが、そこへジェシカが口をはさんだ。
「けど、それが事実だとして他にどんな原因が?」
「そうだ。私もいきさつは聞いたが酒じゃないとすると……」
デボラが言いながら周囲を見回す。するとつられて視線を動かしたジェシカがある人物に目を留めた。
ピーターの浮気相手にして鳥の獣人、スーザンである。ジェシカはそのスーザンと目が合うと、ある事を思い出して「あっ」と叫んだ。
「そうだ、あの酔い覚ましになるとか言ってた赤い木の実!」
「……」
「お酒の他に、私たちが飲み食いしたのってアレだけでしょ!」
ジェシカが叫んで詰め寄ると、ジェシカは押し黙ったまま一瞬目をおよがせる。しかしすぐにジェシカをまっすぐに見て言った。
「確かに木の実を配ったのは私。だけど私も皆と一緒に食べた。あの実が毒なら、そんなマネしないはず」
「それは……でも、食べなかった私は平気だったし、ちゃんと調べたら……!」
「木の実ならもう無い。証拠もないのに疑わないで」
スーザンは木の実が入っていた袋を逆さにして振る。なるほど袋からはホコリしか出てこなかった。
調べたい木の実が無いと知ったジェシカの顔が険しくなる。ピーターは再びジェシカに疑惑の目を向け、デボラは慎重になりゆきを見守る。
しかしそんな時、ロキが唐突にポツリとつぶやいた。
「"
その瞬間、スーザンの肩がかすかに跳ねた。素早く小動物のように彼女が顔を上げると、ニヤリと笑っているロキと視線がぶつかる。隣ではアイリスが真面目な顔でスーザンを見つめていた。
やがて、ピーターやその他は戸惑いながらロキとスーザンとの間で視線を行き来させる。スーザンが何故か緊張した面持ちでいると、ロキが間を置いて話し始める。
「オニシバリ……野山にありふれた植物の名だよ。正確にはセイヨウオニシバリか。樹皮が硬くて
「……」
「ま、そんな事より今重要なのは」
そこで言葉を切り、ロキはゆっくりとスーザンに歩み寄る。たじろぐスーザンの目の前まで来て、彼はこう続けた。
「知り合いから聞いたけど、その植物は赤い果実をつけるらしい。丸くて小さくて、味は少し辛い……と」
「何が言いたいの」
「その実がね、どうも有毒らしいんだよ。症状としては胃の違和感、吐き気、頭痛、手足の痺れなどなど」
「おい、それって……」
話のなりゆきにピーターが口をはさむが、ロキは続けた。
「さっき君は言ったね。木の実は自分だって食べた。実が毒ならそんな事をするはずない、と」
「だって、そうでしょ。現に私も苦しくて……」
「けど、その言い分には穴があるんだなぁ」
スーザンが抗弁するのをさえぎるロキ。そして改めて相手を見つめながら言う。
「そのオニシバリ、動物によっては耐性があるんだ。詳しくは一部の鳥類がね」
「……っ!」
「そりゃそうだ。鳥に食べられて種を運んでもらうために実をつけるんだから。その運び手はたとえば、ヒヨドリ、カワラヒワ……」
モニカに聞いたのかスラスラと鳥の名を挙げるロキ。そして最後に真面目な顔になって彼はスーザンに言った。
「あとは、"ツグミ"」
「……くっ」
スーザンの、この場にいるまさにツグミの獣人である彼女の顔が歪む。眉間にシワをきざみ悔しげにロキをにらんでいる。
しかし一瞬おいて表情をわずかに和らげると、スーザンは低い声で反論した。
「さっきから聞いていれば。私が配ったのがそのオニシバリだって言うの?」
「教会の聖女様のお墨付きだよ。毒については多分王都で一番くわしい」
「だったら、私が苦しんでいたのをどう説明するの? あなたが薬をくれるまでずっと吐きそうだったのに」
「演技の可能性もあるからねぇ。腹の中では何を考えているか分かりゃしない」
ロキはそう鼻で笑って肩をすくめる。するとスーザンはいら立つあまり翼をばさりとはためかせて叫んだ。
「それこそ! 根拠が要るはずでしょう! 私の感覚を決めつけられて納得するとでも思う!?」
スーザンは叫びながら周りへ同意を求める視線を送る。ピーターやジェシカは疑惑の目を向けつつも、スーザンの言い分を認めてか何も言わなかった。
だが、ただ一人……アイリスだけは違った。
「根拠ならあります」
切なそうな表情で、しかしハッキリとアイリスはそう言い放った。驚いてスーザンが振り向くと、アイリスはこう切り出す。
「先ほど、あなたに獣人用の薬を渡しましたよね?」
「うん」
「実はそれ、ただの水なんです」
アイリスの言葉にスーザンはヒッと息をのむ。あわててロキの方を見るスーザンに、視線が合ったロキがしてやったりと頷いた。
「ああ。ハーブでそれっぽい風味は付けたんだけど、偽の薬だよ」
「だ、だましたのね!?」
「でも良かったじゃないか。実際、
ロキがバカにした口調で言うと、スーザンは言葉につまる。それからロキはこうたずねた。
「けど不思議だね? 他の皆と違って、なんで君はただの水で回復したんだい?」
「それは……その」
「……質問を変えようか。なぜ
ロキの声が冷徹なそれに変わる。表情まで真剣になった彼に、スーザンは反射的に叫んだ。
「ちがっ……フリなんかじゃない!」
「だったら君が何のせいで苦しんだのか、心当たりを聞かせてくれないと。今のままじゃ演技していたとしか思えないし、それで君にどんな利益があるかも説明できちゃうよ?」
「ぅ……くっ……」
ロキの言葉にスーザンは小さくうめき、数歩後ずさる。そして顔を上げ周囲をにらみつけて。正確には、ピーターとジェシカを憎悪の目でジッと見つめた。
口では何も答えない。しかし浮気相手と恋敵を刺すように睨むその姿には、何より本音があらわれていた。
しばらくして、ロキがため息とともに笑って言った。
「……どうやら口でごまかすのは苦手みたいだね。ピーターとは大違いだ」
聞えよがしに言って、ロキは知らん顔で背を向けると出口へ歩いていった。それをアイリスが戸惑って目で追っていると、一人がそっと動く。
デボラが、スーザンの背に歩み寄りおだやかに話しかけた。
「……君がやったのか?」
「……はい」
「そうか」
スーザンが小さく頷くと、デボラは痛ましげに頷き返す。そして出口の方へ振り向くと、デボラはロキに向かって言った。
「ロキ、すまないが憲兵を呼んできてもらえるか? この子は私が見張っておく」
「了解。……アイリス、行こう」
「あっ、はい!」
呼ばれたアイリスはハッとしてロキへ駆け寄る。するとロキが周りに聞こえない声でささやいた。
「後悔してないかい?」
「へ?」
「さんざん修羅場を見せられて、毒を盛られて死ぬかもしれなかったんだ。よけいなお世話を焼くからこうなるんだよ」
「……」
「これに懲りたら、もう変な正義感を燃やすのは止めるんだね。命がいくつあっても足りないよ」
ロキの説教を受け、さすがのアイリスも表情をくもらせる。事実ロキに助けられた立場ゆえ、彼女にも思うところはあったのだ。
アイリスとロキの間に一瞬の沈黙が流れる。そんな二人の背中へ、ピーターとジェシカの会話が聞こえてきた。
「なあ……ジェシカ、悪かったよ。疑ったりして」
「…………」
「いや、あんな状況ならパニックになっても仕方ないだろ。そんな顔するなよ」
いまいち誠意の欠けた謝罪をするピーターを、ジェシカはにらみつける。広間の隅ではその様子をスーザンやデボラが虚しい表情で見守っていた。
ピーターは気まずそうに続ける。
「それで……その、これからの事なんだが」
言葉を待つジェシカの目が鋭くなる。身重な彼女にとって、父親となるピーターの言葉は何よりも聞き逃がせないものに違いない。
しかし、その期待は無残にも裏切られた。
「言いにくいんだが、別れないか? いくらか詫びの金は渡すから、その……」
「アンタさ、最初はヨリを戻したがってなかった? 成長の余地があるとか」
「けど、子供なんて聞いてねえよ……。そこまで考えてなかったし、良い親になれそうに見えるか? 俺が」
とんでもない提案とともに、自分は良い親になれないと認める事すらせず、ジェシカの同意を求めるピーター。そのゲスかつ情けない言動にアイリスが振り向きにらみつける。ロキも冷笑しながら視線を向けた。
「…………」
当のジェシカは無言でピーターをにらむ。何も言わず、ピーターの意向を責める態度だけをただただ求め続ける。ピーターもそれが分かってか気まずそうに視線をさまよわせた。
そして、ピーターは苦笑しながらこんな提案をした。
「そ、そうだ。その子が生まれたら孤児院に預けるってのはどうだ? そうすりゃ子どもの心配はいらないだろ」
「……」
「な? お前とも別れずに済むし、王都なら預ける場所も困らない。いつでも会いに行ける。それで丸く収まるじゃないか」
あまりにも無責任かつ無神経な発言をするピーターにアイリスが思わず足を踏み出す。もはや皆から冷たい視線を一身に浴びているピーターへ、彼女は今にも怒りのままに詰め寄ろうとする。
しかし、そうはならなかった。アイリスが近づくより早く、ジェシカが思いっきりピーターの頬をビンタしたのだ。
「あだっ!!?」
ピシィッ、と馬の尻を鞭打った時と同じ張り詰めた音が響き渡る。呆気に取られたピーターが目をしばたかせていると、ジェシカが肩を震わせながらつぶやいた。
「……にっ……」
「へ?」
「いい加減にっ、しなさいって! 言ったのよ!! ごらぁーっ!!!」
金切り声で叫びながら、ジェシカは今度は無防備なピーターの顔面に右の拳を撃ち込んだ。勢いそのまま壁にぶつかったピーターへ、ジェシカはさらに詰め寄り胸ぐらをつかんで怒鳴りつける。
「信じてくれって言ったり別れてくれって言ったり!! アンタの舌は何枚あるんだコノヤローッ!!」
「ぐえっ!? ま、待て。孤児院の話は取り消すからっ……!」
「何枚あるかって聞いてんのよ!!」
「いっ、一枚だ……」
「は!?」
「舌は一枚に決まってんだろ!」
「二枚も三枚も持ってるだろコノヤローッ!! アンタお腹の中の子に恥ずかしくないのかと……!!」
暴力が無限にエスカレートしそうなところで、我にかえったデボラが止めに入る。そこからは部屋の隅でしおらしくしているスーザンをよそに、ピーターが土下座してひたすら謝る図ができた。
「やれやれ……」
その光景をロキが半笑いで見つめていると、アイリスが隣から言った。
「ロキ」
「ん?」
「この結末を見届けられただけでも、関わった価値はありますよ」
ロキはけげんな顔で振り向いた。アイリスは取り繕うでもなく、柔らかな微笑みを浮かべた。
それを見たロキは軽く頭をかき、前向きな表情をつくって言った。
「じゃ、急ごうか」
「ええ」
事件の後始末のため、二人は夜道へ駆け出したのだった。