秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
1話 京都の大学生
京都の朝は、静かだ。
静か、といっても音がないわけではない。鴨川の水は昔と同じように流れているし、寺の境内では箒を動かす音がする。遠くでは路面を走る自動運転バスが、交差点に差しかかるたび、小さく電子音を鳴らしている。
空を見れば、もっと分かりやすい。
鳥の群れに混じって、通勤用の小型エアシャトルが飛んでいる。朝の光を受けた機体は、銀色の魚みたいだった。
昔の京都にも魚はいた。たぶん、空を泳ぐ魚はいなかったと思うけれど。
私は大学へ向かう道の途中で、そんなことを考えていた。くだらない考えだと思う。でも、朝というのは、そういうことを考えるためにあると、少なくとも私は、そう思っている。
京都が日本の首都になって、もうずいぶん経つ。
私が物心ついた頃には、国会も中央官庁も京都にあったから、「東京が首都だった時代」のことを歴史の授業で習うたび、少し不思議な気分になる。東京が消えたわけではなく、今でも巨大都市だ。ただ、昔ほど人はいない。人口が減ったからだ。
世界中で出生率が落ち、人口減少が始まったのは、私が生まれるよりずっと前の話になる。日本も例外ではなかった。むしろ、かなり早い段階から、その問題に悩まされていたらしい。
でも、私の世代からすると、それは「問題」というより、「そういう時代」だった。
人が少ない、だから機械が働く。人間は勉強する、働く時間は短い。空いた時間で、好きなことをする。
それで社会が回るなら、何も悪くないじゃないか。私はそう思っている。
もちろん、昔の人からすれば違うのだろう。人間が増えることが未来だった時代には、人が少ないことそのものが不安だったはずだ。
でも今の京都を歩いていると、人口が減ったことによる寂しさよりも、むしろ妙な余白の方が目につく。
広い歩道。使われていない建物。閉店した商店。誰も乗っていないバス停。その隣で、何百年も昔から残っている寺。
未来というものは、古いものを全部捨てて新しくなるのだと思っていたが、実際は違う。新しいものが、古いものの隣に座っている。それだけだった。
私は、その方が好きだ。
……まあ、京都に住んでいるから言えることなのかもしれないけれど。
「蓮子」
後ろから声がした。
振り返ると、メリーが歩いてくるところだった。淡い金色の髪が朝の風に揺れている。
「おはよう」
「おはよう。ずいぶん早く来たのね。いつもなら、講義が始まる直前までどこかで星を見ているでしょう?」
「今日はちゃんと余裕を持って来たんだよ。メリーこそ、いつもより遅いじゃない」
「私が遅いんじゃなくて、蓮子が早すぎるの。まだ講義まで二十分あるでしょう。急いだところで、教室の椅子が増えるわけでもないのに」
「二十分しかないよ。途中で面白いものを見つけたら、立ち止まって観察する時間も必要だし」
「それならなおさら、時間に余裕を持っている私の方が正しいでしょう?」
「二十分もある、って考え方は危険だよ。そういう人が、いつも最後に走るんだから」
「それは蓮子のことでしょう」
メリーは呆れたように言いながら、私の隣に並んだ。
この子とは、まだ知り合ってからそんなに経っていない。名前を知ったのも、つい最近だ。それなのに、こうして並んで歩いている。
人間関係というものは不思議だ。十年かけても他人のままの人もいれば、数日で妙に馴染む人もいる。メリーは後者だった。
「今日は何の講義?」
「現代宇宙論。銀河の形成史と、観測データの読み方」
「好きね。朝からそんな難しい話を聞いて、眠くならないの?」
「宇宙が嫌いな人っている?」
「いると思うけど。星を見ても、ただの光る点にしか見えない人だっているでしょう」
「それはもったいないなあ。光る点の一つ一つに、何億年分もの時間が詰まっているのに」
「蓮子の人生は、宇宙だけでできてるの?」
「半分くらい」
「じゃあ、残り半分は?」
「食事」
「……女子大学生として、どうなのかしら。もう少し読書とか、恋愛とか、そういう答えを期待していたのだけれど」
「読書は宇宙の本を読むし、恋愛は食事の次に大事だよ」
「順番が妙に現実的ね」
「健全だよ」
メリーが笑う。
私も笑った。
こういうくだらない会話は好きだ。世界がどれだけ進歩しても、人間がすることなんて大して変わらない。眠いとか、お腹が空いたとか、授業が面倒だとか、誰かと話すと楽しいとか。たぶん、それで十分なのだ。
*****
京都大学のキャンパスは、朝になると少しだけ騒がしくなる。学生が増えるからだ。
といっても、昔の大学ほどではないらしい。人口が減った現在、大学もまた規模を縮小している。その代わり、一人の学生に与えられる設備は、昔よりずっと多い。
講義室には自動翻訳システムがあり、研究室には人間の助手より高性能なAIがある。廊下を掃除しているのは小型ロボットで、図書館では、必要な資料を検索するだけなら司書より速い。
それでも、学生は自分で歩き、自分で話し、自分で遅刻する。
便利になったからといって、人間まで効率的になるわけではない。私は、それが少し面白かった。
「蓮子、待って」
講義室へ向かう途中、メリーが立ち止まった。
「どうしたの?」
「あれ」
彼女は、キャンパスの奥を見ていた。
古い校舎の裏手に、大きな銀杏の木が一本立っている。朝の光を受けた葉はまだ青く、枝の隙間から校舎の壁が覗いていた。
「銀杏の木がどうかした?」
「木じゃないわ。その向こう」
メリーは、銀杏の枝の隙間を見つめていた。
私は同じ方向へ目を向けた。古い校舎の壁と、閉じられた窓。それから、壁の向こうに続いているはずの通路。特に変わったものは見えない。
「何かあるの?」
「……何でもない」
「何でもない人は、そんなに長く同じ場所を見ないよ」
「蓮子だって、空を見ているときは似たような顔をしているでしょう?」
「私の場合は、時間を測ってるから」
「私の場合も、何かを見ていたのかもしれないわ」
メリーはそう言って、ようやく視線を外した。
私は少し気になったけれど、追及しなかった。彼女が見ていたものは、私にも見えていた。ただ、彼女が何を見ようとしていたのかまでは分からなかった。
そのときは、それだけだった。
*****
講義は退屈だった。
正確に言えば、内容は面白かった。宇宙の膨張、銀河の形成、恒星の寿命。人間の一生より遥かに長い時間の中で、星が生まれて死んでいく。
そういう話を聞いていると、いつも少しだけ笑いたくなる。
人間は未来を心配する。百年後の社会、二百年後の地球、千年後の文明。けれど星からすれば、人間が千年かけて築いたものなんて、瞬きより短い。
なのに、その一瞬に私たちは名前をつける。
歴史。文明。人生。
たぶん、それは悪いことじゃない。短いからこそ、名前をつける意味がある。
「――では、この銀河団の位置関係を」
教授の声を聞きながら、私は窓の外を見た。
青い空。雲。校舎。その向こうに京都の街。そして、さらにその向こうにあるはずの星。
私は空を見れば、今が何時なのか分かる。場所も分かる。
特技、と言えば聞こえはいい。でも私からすれば、ただの癖みたいなものだ。星の位置を見ていると、時間が分かる。時間が分かれば、場所も分かる。
どうしてそうなるのかは、自分でも知らない。説明しろと言われれば困るけれど、説明できないからといって、困ることもない。
人間は案外、理由のない能力を一つくらい持っているものだ。
「ねえ」
小さな声がし隣に目を向けると、メリーだった。
「何?」
「あなた、いつも空を見るの?」
「いつもじゃないよ。歩いているときは前も見るし、食事中はお皿を見る。講義中は、教授に見つからない程度に窓の外を見る」
「それを、いつもと言うのではないかしら」
「じゃあ、今は?」
「今は、見てる」
「何が分かるの?」
「時間」
「今、何時?」
「十時二十七分」
メリーは腕時計を確認した。細い指が文字盤の上で止まり、やがて、わずかに眉を上げる。
「……合ってる。秒まで見ていたわけではないのに、どうしてそこまで分かるの?」
「星の位置と、太陽の高さ。それから、今いる場所が京都だってことを組み合わせれば、だいたい分かるよ」
「だいたい、で当てられる数字ではないでしょう」
「当ててるんじゃなくて、測ってるの」
「昼間なのに?」
「星は昼間でもあるよ」
「見えないでしょう」
「見えないからって、なくなったわけじゃない。雲の向こうに山があるのと同じだよ」
「でも、蓮子には見えるの?」
「私には分かるの」
メリーは不思議そうな顔をした。
その表情を見ていると、こちらまで少し楽しくなってくる。驚いているのか、疑っているのか、それとも別の何かなのか、まだ私には分からなかった。
「変なの」
「メリーに言われたくない」
「どうして? 私は空を見て時間を当てたりしないわ」
「さっきから窓の外ばかり見てるじゃん。あれも十分変だよ」
「それは……」
メリーは言葉を止めた。
視線が、窓の外へ戻る。けれど今度は、さっきの銀杏の木を見ているわけではなかった。もっと遠く、建物の向こう側を見ているように思えた。
「私にも、視えるものがあるの」
「何が?」
「秘密」
「ずるい」
「蓮子だって秘密でしょう?」
「私のは、説明できないだけで秘密じゃないよ」
「説明できないものを秘密と呼ぶ人もいるわ」
「じゃあ、お互い様ね」
教授の声が少し大きくなり、私たちは慌てて前を向いた。
けれど、その後も私はメリーのことが気になっていた。
変な子だ。でも、嫌いじゃない。
むしろ、もう少し話してみたいと思った。
*****
講義が終わると、学生たちはそれぞれの予定へ散っていった。廊下に残った話し声も、階段を下りる足音も、少しずつ遠ざかっていく。
私は食堂へ向かおうとしたが、メリーが廊下で待っていた。
「お昼、食べる?」
「一緒に?」
「嫌?」
「まさか。むしろ、今から一人で食べろと言われたら、少し困るところだったよ」
「それなら、最初からそう言えばいいのに」
「誘われる前に喜ぶと、ありがたみが減るでしょう?」
「そんなことを考えていたの?」
「今考えた」
メリーは呆れたように笑った。
私たちは食堂へ向かった。
窓際の席を取る。ガラス越しに見える中庭では、掃除用の小型ロボットが、落ち葉を几帳面に集めていた。人間なら途中で休憩するところだけれど、ロボットは休まない。休む必要がないからだ。
今日の昼食は、大学食堂特製のカレーだった。
カレーというものは、時代が変わってもカレーだ。合成食品だろうが、栄養バランスを完璧に調整しようが、結局カレーはカレーである。
私はスプーンを持ち上げた。
「おいしい。今日のは、いつもより少し辛いね」
「そうね。香辛料の配合を変えたのかしら」
「食堂のAIも、たまには冒険するんだ」
「蓮子は、食事の変化にはよく気づくのね」
「宇宙と食事は、私の専門だから」
「大学生として、専門分野が二つあるのは悪くないと思うわ。ただ、その二つがあまりにも離れているのが問題ね」
「宇宙食の研究なら、ちゃんと繋がるよ」
「本当に、何でも宇宙に繋げるのね」
メリーは笑った。
私はカレーを一口食べてから、さっきから気になっていたことを口にした。
「ところで、さっきの話」
「どの話?」
「見えるもの」
メリーの手が止まり、スプーンの先から、カレーのソースが一滴だけ皿に落ちる。
「……忘れて」
「嫌」
「どうして? 私が話したくないことなら、無理に聞かない方がいいでしょう」
「そう言われると、余計に気になるから」
「蓮子って、そういうところが正直なのか、意地悪なのか分からないわね」
「自分でも分からない。でも、メリーが何を見ていたのかは知りたい」
自分でも驚いた。
私は普段、他人の秘密にそこまで興味を持たない。誰が何を考えていようと、その人の自由だと思っている。
けれど、メリーの話だけは気になった。
彼女が何かを隠しているからではない。隠しているものの向こうに、私の知らない景色があるような気がしたからだ。
「蓮子って、変ね」
「よく言われる」
「褒めてないわよ」
「知ってる。でも、メリーがそう言うなら、少し嬉しいかも」
「どうして?」
「変なものを見つける人同士の方が、話は合うでしょう?」
メリーは一瞬だけ黙ったが、少し考えて、窓の外へ視線を向けた。昼の光がガラスに反射し、彼女の横顔を一瞬だけ白く縁取る。
「夕方、時間ある?」
「ある」
「一緒に歩かない?」
「どこへ?」
「まだ決めてない。決めていないけれど、大学の中を少し歩いて、それから気になった場所へ行くのはどうかしら」
「それ、誘い方として成立してる?」
「蓮子なら来ると思って」
「……まあ、行くけど。メリーが何を見ているのか、少しは分かるかもしれないし」
メリーが嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、私も笑った。
理由はなかったが、この後が少し楽しみになった。
*****
夕方になると、京都の空は薄紫色になっていた。
授業を終えた私たちは、大学の中庭を歩いていた。昼間より人が少なく、建物の間を抜ける風の音がよく聞こえる。
木々の間から、古い校舎が見える。その向こうには、新しい研究施設が建っていた。ガラス張りの壁に夕日が反射し、古い煉瓦の壁を赤く染めている。
同じ光を浴びているのに、二つの建物はまるで違う時間から来たように見えた。
「京都って、変な街ね」
メリーが言った。
「そう?」
「古いものと新しいものが、どっちも自分が正しいと思ってるみたい。古い校舎は、何百年も残ってきたことを誇っているし、新しい研究施設は、これから何百年も使われるつもりで立っている」
「いいじゃん。どっちも自信があるなら、並んでいても喧嘩しないでしょう」
「そうかしら。古いものは新しいものを信用していないし、新しいものは古いものを理解しようとしていないように見えるわ」
「でも、私は好きだよ。全部が同じ時代のものだったら、街を歩いていても退屈だもの」
「蓮子は、街にも時間が見えるのね」
「時間なら、空を見れば分かるよ」
「そういうところよ」
メリーは小さく笑った。
私は空を見た。
昼の青さはもう残っていない。薄紫の向こうに、夜の色が少しずつ広がっている。やがて星が見えてくる。
そのとき。
「蓮子」
メリーが足を止めた。
「どうしたの? また何か見えた?」
「ええ。今度は、たぶん蓮子にも視えるものよ」
彼女は、キャンパスの端にある古い建物を見ていた。
夕日の中に、古い壁が立っている。窓は暗く、壁面には長い年月の跡が残っていた。何の変哲もない建物だった。
少なくとも、私にはそう見えた。
「ねえ」
メリーが言った。少しだけ声が小さい。
「何?」
メリーは建物の向こうを指差した。
その指先は、壁そのものではなく、壁の向こうにある何かを示しているようだった。
私には、何も見えない。
建物がある。壁がある。その向こうには、京都の街がある。
それだけだ。
「何かあるの?」
「あるわ」
「私には見えないけど」
「見えないから、ないとは限らないでしょう?」
「それはそうだけど、見えないものをあると言い切るのは、私の専門じゃないよ」
「蓮子は、見えない星の存在を信じているのに?」
「星は観測できる。今は見えなくても、別の方法で確かめられるから」
「じゃあ、確かめてみればいいわ」
メリーはそう言って、私を見た。
その横顔は、昼間とは少し違っており、冗談を言っている顔ではない。何かを、本当に見ている顔だった。
「あの建物の向こうにある京都、見えない?」
私は黙って、もう一度建物を見た。
古い壁。夕暮れ。その向こうにあるはずの街。
少なくとも、私には何も見えない。
それなのに、なぜだろう。
メリーの言葉を聞いた瞬間から、そこには何かがあるような気がしてならなかった。
見えないものを、私は信じていない。
星だって、見えないから存在しないわけではないと知っているだけだ。
けれど、あの壁の向こうにあるものについては、まだ何も知らない。
知らないからこそ、確かめたくなった。
私は建物から目を離さずに、メリーへ尋ねた。
「明日、もう一度ここへ来てもいい?」
「ええ。蓮子がそう言うと思っていたわ」
「その言い方、まるで最初から私を誘導していたみたいだね」
「誘導したつもりはないわ。ただ、蓮子なら見えないものを放っておかないと思っただけ」
「それは、ずいぶん正確な観察だ」
「私にも、視えるものがあるから」
メリーはそう言って、建物の向こうを見つめた。
その日から私は、あの壁の向こう側が気になって仕方なくなった。