秘封幻界録 〜 The Vision of Albion.   作:ぴの光

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10話 もう一人の蓮子

 向こう側の私が、紙に何かを書いている。

 それは分かる。問題は何を書いているのかだった。

 

「もう少し近づけない? あの紙に何が書かれているのか、今の距離ではまだ判別できないわ」

 

 メリーが言った。

 

「やってみる。前に視野を絞れたときと同じように、紙だけを見たいと思えばいいんだよね」

 

 私は鏡に顔を近づけた。

 もちろん、私自身が近づいたところで、向こう側の紙が大きくなるわけではない。

 けれど、前に一度だけ起きた現象を思い出した。

 見たいと思ったものが、近づいてくる。

 あのときは、街全体を見渡していた視野が、意識を向けた建物へ自然に絞られていった。

 私は紙に意識を集中し、鏡の中の景色が静かに動いた。

 道路が遠ざかるり、建物が横へ流れる。

 遠くにあった街灯が視界の端へ押し出され、向こう側の二人の姿だけが、ゆっくりと大きくなっていく。

 

「……やっぱり。蓮子が見ようとしたものに合わせて、鏡の視野が変わっているわ」

 

 メリーが息を呑んだ。

 紙の文字が読める。

 向こう側の私が、何度も書き直しながら文章を作っている。

 そして最初に書かれていたのは、短い一文だった。

 

 ――あなたは宇佐見蓮子ですか。

 

「……私に聞いてる」

 

「そうみたい。しかも、ただ名前を確認しているだけじゃないわ。向こうの蓮子は、こちらに同じ名前の人間がいることを予想していたように見える」

 

 メリーの声が少し震えた。

 

 私は鏡に向かって頷いた。

 向こう側の私も、こちらを見ている。

 その目には、驚きよりも確信に近いものがあった。まるで、長いあいだ探していた答えを、ようやく見つけたような表情だった。

 そして、何かを理解したように紙へ文字を書き足した。

 

 ――やっぱり。

 

 その二文字を見た瞬間、背筋が冷たくなった。

 

「やっぱりって、何が? 私が宇佐見蓮子だと分かっていたなら、どうして最初に確認したの?」

 

 私は思わず鏡に問いかけたが、もちろん声は届かない。

 向こう側の私は、私の言葉を聞き取れないまま、さらに書き続ける。

 

 ――あなたなら、星を見ると時間が分かるはず。

 

 私は固まった。

 鏡の中の文字が、急に遠いものになった気がした。

 

「……メリー」

 

「ええ。今の文章も、私にははっきり見えているわ。見間違いではない」

 

「これ、私の能力を知ってる」

 

「そうね。しかも、単に星が好きだという話ではないわ。あなたが星を見て時間を知ることまで、具体的に知っている」

 

 私は鏡から目を離せなかった。

 私の能力、それを知っている。

 メリーに話したことなら彼女も知っているが、向こう側の私がそれを知っている理由はない。

 少なくとも、私たちは向こう側の二人に何も伝えていない。

 私は少しだけ震えている自分の手を見た。

 

「どうして知ってるの? 私たちは、あなたたちと会ったことがないはずでしょう」

 

 当然、答えはない。鏡は声を返さない。

 向こう側の私は、次の紙を取り出し、また一文を書いた。

 

 ――私も同じだから。

 

 胸の奥で、何かが落ちた。

 名前が同じ。顔も同じ。

 それだけなら、まだ偶然だと言い張れたかもしれない。

 けれど、向こう側の私は、私と同じ記憶を持っているように見える。

 私が星を見て時間を知ることを、私自身の経験として知っている。

 その事実が、鏡の向こうの彼女を「別人」として片づけることを難しくしていた。

 

*****

 

 それから私たちは、鏡の向こうの二人と文字を使ってやり取りした。

 と言っても、会話と呼べるほど速くはない。

 こちらが紙に書く。向こうが読む。向こうが返事を書く。こちらが待つ。

 

 ひどく古典的な通信方法だった。

 世界と世界を隔てるものが一枚の鏡なのに、やっていることは文通。

 人類の通信技術は月まで行けるほど進歩したというのに、私は地下室で鏡に紙を向けていた。

 少し笑えてくる。

 笑える状況ではないのだけれど。

 

「まず、名前を確認しましょう。向こうの私が私と同じだとしても、本人がどう名乗るのかを聞いておきたいわ」

 

 私は紙に書いた。

 

 ――あなたの名前は?

 

 向こう側の私は、少し考えてから答えた。

 

 ――宇佐見蓮子。

 

「やっぱり」

 

 メリーが呟いた。

 

「同じ名前ね。ここまで一致すると、もう偶然という言葉では説明しにくいわ」

 

「偶然って可能性もある。名前の一致だけなら、同じ名前の人間は現実にもいるから」

 

「顔も同じだけど?」

 

「それも偶然。珍しいけど、可能性がゼロとは言えない」

 

「どこまで偶然を信じるつもり?」

 

「……かなり限界に近い。というより、もうほとんど信じていない」

 

 私は苦笑した。

 

 向こう側の私は、私たちのやり取りを見ていた。

 そして、今度は自分から質問を書いた。

 

 ――あなたの隣にいるのは、メリー?

 

 私はメリーを見る。

 

「これ、私のことよね。向こうの蓮子は、私の名前まで知っているの?」

 

「たぶん、こちら側にも同じ名前のメリーがいるか確認しているんだと思う」

 

「他に誰がいるの?」

 

「いないけど」

 

 メリーは少し困ったように笑った。

 

 私は紙に答えを書く。

 

 ――いる。マエリベリー・ハーン。

 

 向こう側の私が頷いた。

 その隣で、向こう側のメリーもこちらを見ている。

 やはり同じだった。名前も。顔も。関係も。

 少なくとも、私たちとよく似た二人が向こう側にいる。

 

「家族は? そこまで一致しているなら、家族構成や育った場所も確認しておきたいわ」

 

 メリーが尋ねた。

 

「そこまで聞く? いきなり個人的なことを聞きすぎじゃないかな」

 

「だって気になるでしょう。顔と名前と能力が同じなら、どこまで同じで、どこから違うのかを知りたくなるもの」

 

「まあね。私も、そこは知りたい」

 

 私たちは質問を書き始めた。

 大学。専攻。出身地。家族。好きなもの。嫌いなもの。そして、大学へ入るまでの人生。

 返ってくる答えは、似ているものもあれば、違うものもあった。

 

 向こう側の私も、天体に興味を持っていた。

 大学へ進学した理由もかなり近いが、同じではない。

 

 向こう側の彼女は高校時代に一度だけ海外へ行っていたが、私は行っていない。

 

 向こう側では、私の両親が今も同じ場所に住んでいるらしい。

 こちらでは一人暮らしだ。

 

 大学の専攻も微妙に違った。

 向こう側の京都大学には、こちらには存在しない研究課程がある。

 

 その違いは、どれも小さなものに見えた。

 しかし、小さな違いが積み重なれば、人生の形は変わる。

 向こう側の私が海外へ行ったことで出会った人間。

 両親との暮らしによって変わった家庭の記憶。

 大学で選んだ研究課程。

 それらは、こちらの私には存在しない経験だった。

 

「……面白いね」

 

 私は呟いた。

 

「何が? 同じところより、違うところの方が気になるの?」

 

「ちょっとずつ違う。そこが面白いんだよ」

 

「うん」

 

「大きく違うわけではない。でも、確実に違う」

 

 私は鏡の中の自分を見た。

 同じ顔。同じ名前。似たような人生。

 なのに、同じではない。

 それは妙な感覚だった。

 自分の写真を見ているような気もする。

 でも、写真よりずっと気味が悪い。

 写真は過去しか映さない。

 向こうにいる私は、今も生きている。

 私とは別の選択をして、別の時間を過ごしている。

 

「ねえ、蓮子」

 

 メリーが言った。

 

「何?」

 

「その人を見て、どう思う? さっきから、あなたは向こうの蓮子のことを調べているというより、自分自身を見比べているように見えるわ」

 

 私は答えに詰まった。

 鏡の中の私が、こちらを見ている。

 彼女も私を見ている。

 その目が、あまりにも自分に似ていた。

 

「……分からない」

 

「怖い?」

 

「少し。だって、あの人が私と同じ記憶を持っているなら、私が自分だと思っているものの一部を、向こうの彼女も持っていることになるでしょう」

 

 私は鏡の中の私から目を離せなかった。

 

「でも、同じくらい気になる。私が知らない経験をして、私とは違う選択をして、それでも私と同じ顔をしている。そんな人が本当にいるなら、見ないでいる方が難しいよ」

 

「どうして?」

 

「もし私が別の選択をしていたら、ああなっていたのかなって」

 

 口に出した瞬間、その考えが急に現実味を帯びた。

 高校で別の大学を選んでいたら。

 別の友達と出会っていたら。

 別の道を歩いていたら。

 私は今とは違う私になっていたのだろうか。

 

 これまでなら、そんなことは考えても仕方のない空想だった。

 過去は戻らない。

 選ばなかった道は存在しない。

 そういうものだと思っていた。

 でも、鏡の向こうには、その「もし」がいた。

 

 私と同じ顔をして。

 私と同じ名前を持って。

 私が選ばなかったかもしれない人生を生きている。

 

「蓮子」

 

 メリーの声が近かった。

 

「そんな顔しないで。向こうの人を見つめすぎると、あなた自身がどこにいるのか分からなくなってしまいそうよ」

 

「どんな顔?」

 

「自分じゃない誰かを、自分だと思い始めてる顔」

 

 私は笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。

 

「……そんなに分かりやすい?」

 

「分かるわよ」

 

 メリーは鏡の前に立った。

 

「あなたの顔は、ずっと見てきたもの。だから、向こうの蓮子を見ているあなたが、少しずつ変わっていくことも分かるわ」

 

 その言葉が妙に胸に残った。

 向こう側の私が、また紙に何かを書いている。

 けれど今度は、向こう側のメリーもこちらへ向かっている。

 何度も何かを伝えようとしている。

 

「メリー?」

 

 私は鏡を見た。

 

「向こうの私が、さっきから何かを止めようとしている。蓮子、視野を少しだけ絞って。あの紙を見たいわ」

 

 私はメリーの指示に従い、向こう側のメリーが持っている紙へ意識を向けた。

 

 鏡の中の景色が再び動く。

 

 向こう側の私の姿が端へ流れ、メリーの手元が大きくなる。

 

 向こう側のメリーが、紙を持っている。

 そこには乱れた文字が書かれていた。

 

 ――待って。

 

 その下に、もう一行。

 

 ――それ以上、近づかないで。

 

「何? どうして近づいてはいけないの?」

 

 私は鏡へ近づいた。

 

「蓮子、待って。向こうの私は、あなたが鏡に近づくこと自体を警告しているのかもしれないわ」

 

 メリーが私の腕を掴む。

 

 向こう側のメリーは、さらに文字を書いた。

 

 ――時間がない。

 

 その筆跡は震えていて、さっきまでの落ち着いた文字とは明らかに違う。

 

「何が起きてるの? 時間がないって、世界が消えるまでの時間のこと?」

 

 私は紙を掲げた。

 向こう側のメリーがそれを読み、こちらに目を向ける。

 その表情を見た瞬間、私は初めて本当に怖くなった。

 向こう側のメリーは泣きそうな顔をしていた。

 それから、震える手で最後の言葉を書いた。

 

 ――こちらの世界は、もうすぐ消える。

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