秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
向こう側の私が、紙に何かを書いている。
それは分かる。問題は何を書いているのかだった。
「もう少し近づけない? あの紙に何が書かれているのか、今の距離ではまだ判別できないわ」
メリーが言った。
「やってみる。前に視野を絞れたときと同じように、紙だけを見たいと思えばいいんだよね」
私は鏡に顔を近づけた。
もちろん、私自身が近づいたところで、向こう側の紙が大きくなるわけではない。
けれど、前に一度だけ起きた現象を思い出した。
見たいと思ったものが、近づいてくる。
あのときは、街全体を見渡していた視野が、意識を向けた建物へ自然に絞られていった。
私は紙に意識を集中し、鏡の中の景色が静かに動いた。
道路が遠ざかるり、建物が横へ流れる。
遠くにあった街灯が視界の端へ押し出され、向こう側の二人の姿だけが、ゆっくりと大きくなっていく。
「……やっぱり。蓮子が見ようとしたものに合わせて、鏡の視野が変わっているわ」
メリーが息を呑んだ。
紙の文字が読める。
向こう側の私が、何度も書き直しながら文章を作っている。
そして最初に書かれていたのは、短い一文だった。
――あなたは宇佐見蓮子ですか。
「……私に聞いてる」
「そうみたい。しかも、ただ名前を確認しているだけじゃないわ。向こうの蓮子は、こちらに同じ名前の人間がいることを予想していたように見える」
メリーの声が少し震えた。
私は鏡に向かって頷いた。
向こう側の私も、こちらを見ている。
その目には、驚きよりも確信に近いものがあった。まるで、長いあいだ探していた答えを、ようやく見つけたような表情だった。
そして、何かを理解したように紙へ文字を書き足した。
――やっぱり。
その二文字を見た瞬間、背筋が冷たくなった。
「やっぱりって、何が? 私が宇佐見蓮子だと分かっていたなら、どうして最初に確認したの?」
私は思わず鏡に問いかけたが、もちろん声は届かない。
向こう側の私は、私の言葉を聞き取れないまま、さらに書き続ける。
――あなたなら、星を見ると時間が分かるはず。
私は固まった。
鏡の中の文字が、急に遠いものになった気がした。
「……メリー」
「ええ。今の文章も、私にははっきり見えているわ。見間違いではない」
「これ、私の能力を知ってる」
「そうね。しかも、単に星が好きだという話ではないわ。あなたが星を見て時間を知ることまで、具体的に知っている」
私は鏡から目を離せなかった。
私の能力、それを知っている。
メリーに話したことなら彼女も知っているが、向こう側の私がそれを知っている理由はない。
少なくとも、私たちは向こう側の二人に何も伝えていない。
私は少しだけ震えている自分の手を見た。
「どうして知ってるの? 私たちは、あなたたちと会ったことがないはずでしょう」
当然、答えはない。鏡は声を返さない。
向こう側の私は、次の紙を取り出し、また一文を書いた。
――私も同じだから。
胸の奥で、何かが落ちた。
名前が同じ。顔も同じ。
それだけなら、まだ偶然だと言い張れたかもしれない。
けれど、向こう側の私は、私と同じ記憶を持っているように見える。
私が星を見て時間を知ることを、私自身の経験として知っている。
その事実が、鏡の向こうの彼女を「別人」として片づけることを難しくしていた。
*****
それから私たちは、鏡の向こうの二人と文字を使ってやり取りした。
と言っても、会話と呼べるほど速くはない。
こちらが紙に書く。向こうが読む。向こうが返事を書く。こちらが待つ。
ひどく古典的な通信方法だった。
世界と世界を隔てるものが一枚の鏡なのに、やっていることは文通。
人類の通信技術は月まで行けるほど進歩したというのに、私は地下室で鏡に紙を向けていた。
少し笑えてくる。
笑える状況ではないのだけれど。
「まず、名前を確認しましょう。向こうの私が私と同じだとしても、本人がどう名乗るのかを聞いておきたいわ」
私は紙に書いた。
――あなたの名前は?
向こう側の私は、少し考えてから答えた。
――宇佐見蓮子。
「やっぱり」
メリーが呟いた。
「同じ名前ね。ここまで一致すると、もう偶然という言葉では説明しにくいわ」
「偶然って可能性もある。名前の一致だけなら、同じ名前の人間は現実にもいるから」
「顔も同じだけど?」
「それも偶然。珍しいけど、可能性がゼロとは言えない」
「どこまで偶然を信じるつもり?」
「……かなり限界に近い。というより、もうほとんど信じていない」
私は苦笑した。
向こう側の私は、私たちのやり取りを見ていた。
そして、今度は自分から質問を書いた。
――あなたの隣にいるのは、メリー?
私はメリーを見る。
「これ、私のことよね。向こうの蓮子は、私の名前まで知っているの?」
「たぶん、こちら側にも同じ名前のメリーがいるか確認しているんだと思う」
「他に誰がいるの?」
「いないけど」
メリーは少し困ったように笑った。
私は紙に答えを書く。
――いる。マエリベリー・ハーン。
向こう側の私が頷いた。
その隣で、向こう側のメリーもこちらを見ている。
やはり同じだった。名前も。顔も。関係も。
少なくとも、私たちとよく似た二人が向こう側にいる。
「家族は? そこまで一致しているなら、家族構成や育った場所も確認しておきたいわ」
メリーが尋ねた。
「そこまで聞く? いきなり個人的なことを聞きすぎじゃないかな」
「だって気になるでしょう。顔と名前と能力が同じなら、どこまで同じで、どこから違うのかを知りたくなるもの」
「まあね。私も、そこは知りたい」
私たちは質問を書き始めた。
大学。専攻。出身地。家族。好きなもの。嫌いなもの。そして、大学へ入るまでの人生。
返ってくる答えは、似ているものもあれば、違うものもあった。
向こう側の私も、天体に興味を持っていた。
大学へ進学した理由もかなり近いが、同じではない。
向こう側の彼女は高校時代に一度だけ海外へ行っていたが、私は行っていない。
向こう側では、私の両親が今も同じ場所に住んでいるらしい。
こちらでは一人暮らしだ。
大学の専攻も微妙に違った。
向こう側の京都大学には、こちらには存在しない研究課程がある。
その違いは、どれも小さなものに見えた。
しかし、小さな違いが積み重なれば、人生の形は変わる。
向こう側の私が海外へ行ったことで出会った人間。
両親との暮らしによって変わった家庭の記憶。
大学で選んだ研究課程。
それらは、こちらの私には存在しない経験だった。
「……面白いね」
私は呟いた。
「何が? 同じところより、違うところの方が気になるの?」
「ちょっとずつ違う。そこが面白いんだよ」
「うん」
「大きく違うわけではない。でも、確実に違う」
私は鏡の中の自分を見た。
同じ顔。同じ名前。似たような人生。
なのに、同じではない。
それは妙な感覚だった。
自分の写真を見ているような気もする。
でも、写真よりずっと気味が悪い。
写真は過去しか映さない。
向こうにいる私は、今も生きている。
私とは別の選択をして、別の時間を過ごしている。
「ねえ、蓮子」
メリーが言った。
「何?」
「その人を見て、どう思う? さっきから、あなたは向こうの蓮子のことを調べているというより、自分自身を見比べているように見えるわ」
私は答えに詰まった。
鏡の中の私が、こちらを見ている。
彼女も私を見ている。
その目が、あまりにも自分に似ていた。
「……分からない」
「怖い?」
「少し。だって、あの人が私と同じ記憶を持っているなら、私が自分だと思っているものの一部を、向こうの彼女も持っていることになるでしょう」
私は鏡の中の私から目を離せなかった。
「でも、同じくらい気になる。私が知らない経験をして、私とは違う選択をして、それでも私と同じ顔をしている。そんな人が本当にいるなら、見ないでいる方が難しいよ」
「どうして?」
「もし私が別の選択をしていたら、ああなっていたのかなって」
口に出した瞬間、その考えが急に現実味を帯びた。
高校で別の大学を選んでいたら。
別の友達と出会っていたら。
別の道を歩いていたら。
私は今とは違う私になっていたのだろうか。
これまでなら、そんなことは考えても仕方のない空想だった。
過去は戻らない。
選ばなかった道は存在しない。
そういうものだと思っていた。
でも、鏡の向こうには、その「もし」がいた。
私と同じ顔をして。
私と同じ名前を持って。
私が選ばなかったかもしれない人生を生きている。
「蓮子」
メリーの声が近かった。
「そんな顔しないで。向こうの人を見つめすぎると、あなた自身がどこにいるのか分からなくなってしまいそうよ」
「どんな顔?」
「自分じゃない誰かを、自分だと思い始めてる顔」
私は笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。
「……そんなに分かりやすい?」
「分かるわよ」
メリーは鏡の前に立った。
「あなたの顔は、ずっと見てきたもの。だから、向こうの蓮子を見ているあなたが、少しずつ変わっていくことも分かるわ」
その言葉が妙に胸に残った。
向こう側の私が、また紙に何かを書いている。
けれど今度は、向こう側のメリーもこちらへ向かっている。
何度も何かを伝えようとしている。
「メリー?」
私は鏡を見た。
「向こうの私が、さっきから何かを止めようとしている。蓮子、視野を少しだけ絞って。あの紙を見たいわ」
私はメリーの指示に従い、向こう側のメリーが持っている紙へ意識を向けた。
鏡の中の景色が再び動く。
向こう側の私の姿が端へ流れ、メリーの手元が大きくなる。
向こう側のメリーが、紙を持っている。
そこには乱れた文字が書かれていた。
――待って。
その下に、もう一行。
――それ以上、近づかないで。
「何? どうして近づいてはいけないの?」
私は鏡へ近づいた。
「蓮子、待って。向こうの私は、あなたが鏡に近づくこと自体を警告しているのかもしれないわ」
メリーが私の腕を掴む。
向こう側のメリーは、さらに文字を書いた。
――時間がない。
その筆跡は震えていて、さっきまでの落ち着いた文字とは明らかに違う。
「何が起きてるの? 時間がないって、世界が消えるまでの時間のこと?」
私は紙を掲げた。
向こう側のメリーがそれを読み、こちらに目を向ける。
その表情を見た瞬間、私は初めて本当に怖くなった。
向こう側のメリーは泣きそうな顔をしていた。
それから、震える手で最後の言葉を書いた。
――こちらの世界は、もうすぐ消える。