秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
――こちらの世界は、もうすぐ消える。
その言葉が、いつまでも頭から離れなかった。
向こう側のメリーが書いた文字。
震えた筆跡。紙を握る指。
そして、その隣に立っていた「もう一人の私」。
私は地下資料室の机に座ったまま、しばらく動けなかった。
時計の音だけが聞こえている。
カチ。カチ。カチ。
世界が消える。そんな言葉を、私は今まで聞いたことがない。
映画なら何度も聞いた。小説でも飽きるほど見た。
文明の崩壊。巨大隕石。宇宙からの侵略者。
そういうものなら、まだ想像できる。
原因を探せる。敵を見つけられる。逃げることも、戦うこともできる。
でも向こう側の京都は何かに壊されているわけではなく、ただ少しずつ消えている。
建物が薄くなり、街の一部が抜け落ち、そこにあったはずのものが最初から存在しなかったように失われていく。
その事実の方が、よほど怖かった。
「蓮子」
隣でメリーが言った。
私は返事をしようとしたが、喉の奥が乾いていて、すぐには声が出なかった。
「……うん。聞こえてる」
「もう一度、話してみましょう。向こう側の二人と」
私は顔を上げた。
「向こうの二人と? さっき、世界が消えるって言われたばかりなのに?」
「だからこそよ。あの言葉だけでは、何が起きているのか分からないもの。原因も、いつから始まったのかも、止める方法があるのかも聞けていないでしょう」
「危険じゃないかな」
「危険だと思うわ。けれど、何も知らないまま鏡を閉じる方が、私は怖い。向こう側には、私たちと同じように調べている二人がいるのよ。少なくとも、彼女たちは私たちより先に何かを見つけている」
メリーはそう言って鏡を見る。
いつもなら、彼女はこういうときに妙な冗談を言うだろう。
境界の向こうには妖怪がいるかもしれない、とか。
月の裏側には古代文明があるかもしれない、とか。
そうやって恐怖を笑いに変えようとするが、今日は何も言わなかった。
鏡の向こうで、もう一人のメリーが泣きそうな顔をしていたからだ。
だから私も、黙って鏡の前に立った。
鏡の向こうには、もう一組の私たちがいる。
私は机の上に残っていた紙を取り、できるだけ落ち着いた字で書いた。
――詳しく話を聞かせてほしい。何が起きているのか、あなたたちが知っていることを教えてほしい。
向こう側の私がそれを読む。
彼女はすぐには答えず、紙を見つめたまま隣のメリーと短く言葉を交わしている。
やがてこちらへ顔を向け、しばらく考えたあと頷く。
彼女も紙を取り出し、書く。
――何から話せばいい?
私は少し考えた。
消滅現象について聞きたい気持ちはあったけれど、いきなり核心へ踏み込むより、まずは彼女たちが何者なのかを確かめたかった。
同じ顔をし、同じ名前を持ち、私たちとは別の人生を歩んできた二人だ。
私は紙に書く。
――秘封倶楽部について。あなたたちは、どうやって結成したの?
向こう側の私が笑った。
それは、私自身が笑ったときとよく似ていた。
――やっぱり、そこからね。
*****
向こう側の秘封倶楽部は、私たちのものとは少し違っていた。
名前は同じで、目的も似ている。
普通の人間が見ようとしないものを探す。
都市に残された奇妙な場所を歩き、古い記録を調べ、説明できない現象を追いかける。
でも、結成された理由が違った。
私たちは大学で偶然出会った。正確には、私がメリーの研究に勝手に興味を持ち、何度も彼女のところへ押しかけたのが始まりだった。
最初はただの好奇心だったけれど、彼女が境界の向こうに何かを見ていると知ってからは、もう一人で調べる気にはなれなかった。
私がメリーを追いかける形で、私たちの関係は始まった。
向こう側では、それが逆だった。
向こう側の二人は高校時代からの知り合いで、メリーが私の研究に興味を持った。
彼女が調べていた場所を見つけ、記録を読み、何度も調査についてきた。
メリーが私を追いかける形で、二人の関係は始まったらしい。
向こう側の私が、何枚かの紙を並べて説明する。
高校の校舎。古い神社。夜の山道。
そして、二人が初めて境界らしきものを見た場所。
「そんなところまで違うんだ」
私が言うと、メリーが鏡を見たまま、少しだけ笑った。
「あの2人、随分と仲良しなのね。高校時代から一緒に調査をしていたなら、私たちより長い付き合いじゃない」
「でも、最初から仲が良かったわけじゃないみたい」
向こう側のメリーが何かを書いた。
――最初から仲が良かったわけじゃない。
向こう側の私が、その続きを書く。
――メリーが勝手に調査についてきた。
私は思わず笑った。
「こっちとは逆じゃない」
「そうね」
メリーは、少し得意そうにこちらを見た。
「こちらでは、あなたが私のところへ何度も押しかけてきたものね」
「だって、メリーが見ていたものを知りたかったから」
「私は、あなたを誘った覚えがないけど?」
「でも追い返さなかったでしょう。何度も押しかけたのに、毎回ちゃんと話を聞いてくれた」
「それは、あなたがしつこかったからよ。追い返しても、翌日にはまた来ると思ったもの」
「ほら。つまり、追い返すより一緒にいた方が楽だと思ったんでしょう?」
メリーは少し考える。
「……今のところ、追い返す理由がないから」
「それ、向こうの私も同じことを言いそう」
私は鏡の向こうの二人を見た。
向こう側の私も、肩を揺らして笑っている。
向こう側のメリーは、少し気まずそうに目を逸らした。
その仕草まで、こちらのメリーとよく似ていた。
妙な気分だった。
ついさっきまで「別の世界の自分」だったのに、こうして話していると妙に親近感が湧いてくる。
考え方も違う。人生も違う。最初に相手を追いかけたのも違う。
それでも同じところで笑う。同じようなことに興味を持つ。
そして同じように、メリーと一緒に奇妙なものを追いかけている。
人間というものは、思ったより変な生き物なのかもしれない。
世界が変わっても、似たような二人を作ってしまう。
あるいは、似たような二人が生まれるような世界だけが、こうして鏡の向こうから見えているのかもしれない。
その考えが浮かんだとき、私は少しだけ笑いを止めた。
偶然なのか、必然なのか。まだ、判断できなかった。
*****
向こう側の秘封倶楽部が集めてきた資料を見せてもらった。
写真。地図。大学の古い記録。新聞記事。そして、手書きの調査ノート。
向こう側の私は、鏡の前に資料を一枚ずつ並べていく。
こちら側の私たちにも読めるよう、要点を書いた紙を添えていた。
どれも私たちが集めたものとよく似ていたが、その数が違う。
圧倒的に多かった。
私たちがまだ一冊のノートにまとめ始めたばかりなのに対して、向こう側の二人は何冊もの記録を積み上げている。
調査した場所の地図には、赤い印がいくつも付いていた。
京都市内だけではない。東京。北海道。海上。月面都市と書かれたページまである。
「これ……」
私は鏡へ顔を近づけた。
見たいと思った瞬間、鏡の中の視野が静かに狭まる。
遠くにあったノートが近づき、紙の上の文字が読める大きさになった。
向こう側の私が、ページの端を指で押さえている。
「待って。これ……私たちが今調べているものについて書かれてる」
メリーが呟いた。
その声には、驚きだけでなく、わずかな羨望も混じっていた。
向こう側の私が一冊のノートを開いた。
そこには、いくつもの世界の記録が並んでいた。
写真の中には、こちら側からは見たことのない街並みがあった。
海の上に建つ駅。空を覆う巨大な橋。京都駅の上空を走る鉄道。どれも現実味がある。
だからこそ、ただの空想には見えなかった。
「これ、全部?」
私は紙に書き尋ねると、向こう側の私も紙に書く。
――全部ではない。
その下に続ける。
――観測できたものだけ。
私は言葉を失った。
観測できたものだけということは、見えていない世界がもっとある。
向こう側のメリーが、別のページを開いた。
そこには、いくつもの円が描かれていて、円と円の間を細い線が繋いでいる。
それぞれの円には、短い説明が書かれていた。
遷都の時期が違う京都。月面開発が早く進んだ世界。大学制度が異なる世界。戦争の結果が違う世界。
そして、こちら側とほとんど同じ世界。
「じゃあ、これは……」
メリーが鏡を見た。
向こう側の私はすぐには答えず、ノートの中央に書かれた言葉を指差した。
――可能性の集合。
「一つの世界のことじゃない」
メリーが続け、私がノートに疑問を書いた。
――いくつもの世界が、同じ場所に重なっている?
向こう側のメリーが、ゆっくり首を横に振った。
そして紙に書いた。
――重なっているのではない。
少し間を置いて、さらに書き足す。
――分かれている。
その下に、もう一行。
――選択のたびに。
――私たちは、それを幻界と呼んでいる。
「幻界……」
私はその言葉を口の中で転がした。
聞いたことのない言葉だったけれど、不思議としっくりきた。
まるで、ずっと名前のなかったものに、ようやく名前が与えられたようだった。
私はその文字を見つめた。
可能性。未来、過去、夢でもない。
どこか遠くにある異世界というだけでもない。
「こうだったかもしれない」という無数の可能性が、どこかで現実になっている。
それなら、私たちの世界もその一つに過ぎない。
その考えは、奇妙なほど静かに胸へ入ってきた。
怖いが、少しだけ嬉しくもある。
自分の人生は一度きりだと、そう思っていた。
けれど鏡の向こうには、別の選択をした自分がいる。
私が知らない私。私には選べなかった人生。
それを見られる。
そんなもの、興味を持たない方が無理だった。
「もっと調べたい」
私は言った。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
メリーが私を見る。
「蓮子、あなたがそう言うと思っていたわ。でも、今の話を聞いた直後に決めてしまうのは危険よ。向こう側の記録が正しいとは限らないし、今見えている現象を調べること自体が、あの世界の消滅と関係している可能性もあるでしょう?」
「分かってる。危険なのも、まだ何も確かめられていないのも」
私はノートを閉じた。
「でも、ここまで来たら知りたい。向こう側の二人が何を見つけたのか、どうして世界が消え始めたのか。そして、私たちの世界にも同じことが起きるのかを」
メリーはすぐには答えなかった。
彼女は鏡の向こうの私を見ていた。
向こう側の私も、こちらのメリーを見ている。
同じ顔をした二人が、同じように心配そうな目をしていた。
そのとき、鏡の向こうの景色が一瞬だけ揺れた。
建物の輪郭が歪み、街灯が消える。
道路の向こうにあったビルが、薄くなる。
まるで誰かが、世界の上から消しゴムをかけているみたいだった。
「……今の、見た?」
私は立ち上がった。
メリーも鏡へ近づく。
「ええ。あの建物、さっきまで確かにあったわ」
向こう側のメリーが、鏡の奥を指差している。
さっきまであったはずの建物が、跡形もなくなっており、道路だけが残っている。
そこを歩いていた人々は、何も気づいていないように見えた。
あるいは、気づくための記憶ごと消えているのかもしれない。
「建物が……」
私は言葉を探した。
「消えた。壊れたんじゃない。最初からそこに何もなかったみたいに、存在そのものが抜け落ちた」
メリーが答えた。
その声には、驚きよりも恐怖があった。
向こう側の私が何かを急いで書き始める。
紙を押さえる手が震えていた。
――昨日は駅が消えた。
続けて書く。
――今日は大学の一部が消えた。
そして、
――次は何が消えるか分からない。
私は鏡の中の京都を見た。
知らない街だが、もう他人事ではなかった。
そこには私たちと同じ二人がいる。
同じように笑い。同じように調べ。同じように世界の謎へ近づいてしまった二人。
その世界が、消えようとしている。
「どうすれば止められるの?」
私は紙に書いた。
――消滅を止める方法はある? あなたたちは何を見つけたの?
向こう側の私はすぐには答えず、隣のメリーを見る。
二人だけで何かを相談している。
向こう側のメリーは、何度も首を横に振っていた。
向こう側の私はそれでも何かを説得するように話し続け、やがて向こう側の蓮子がこちらを見た。
その目は、今まで見たどんな顔よりも真剣だった。
彼女は紙を一枚だけ取り出し、そこに大きく文字を書いた。
――アルビオンを探して。
「……アルビオン?」
私は読み上げた。
聞き慣れない言葉ではなかったが、今この場で向こう側の私が伝えてくる意味は分からない。
「知ってるの?」
「いや。名前を聞いたことがあるわけじゃない。ただ、さっきのブレイクの話を思い出した」
「ブレイク?」
「資料室で名前があったでしょう」
メリーは少し考えるように鏡を見た。
「ああ……あの詩人の」
「そう。まだ何の関係があるのか分からないけど」
私は鏡の向こうの文字を見つめた。
「少なくとも、偶然とは思えない」
鏡の向こうでは、二人がこちらを見ている。
向こう側のメリーは、何かを言おうとしているが、蓮子が彼女の腕を掴む。
その動きが、ひどく切迫して見えた。
次の瞬間。
地下資料室の照明が、すべて消えた。
暗闇の中で、時計の音だけが残った。
カチ。カチ。カチ。
私は反射的にメリーの手を掴み、彼女も私の手を握り返す。
「蓮子、鏡は?」
「見えない。でも、まだそこにある」
暗闇の向こうで、鏡の表面だけが淡く光っていた。
向こう側の京都が夜の底に浮かんでいる。
そして鏡の中から、存在しないはずの鐘の音が聞こえた。