秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
翌日の午後。
私たちは大学の図書館にいた。
正確には、図書館の中にある古い資料閲覧室だ。
新しい京都大学の図書館は、昔の図書館とは随分と様変わりしていた。建物の外観こそ古いままだが、内部には自動貸出機や検索端末が並び、必要な資料を探すために書架の間を歩き回る必要もなくなっている。
検索欄に言葉を入力すれば、端末が関連する本や論文を拾い上げてくれる。古い新聞も、学術論文も、絶版になった本でさえ、かなりのものが電子化されていた。
便利だ。便利すぎる。
だから私は、少しだけ紙の本が好きだった。
紙は検索してくれない。
こちらが探さなければ、何も出てこない。
偶然、関係のない本を手に取ることもある。目的とは違うページで、思いがけない一文に出会うこともある。
それが妙に信用できるのだ。
「で、アルビオンって何なの?」
向かいに座ったメリーが訊いた。
彼女は机の上に頬杖をつき、私が端末を操作する様子を眺めている。昨日、鏡の向こうから告げられた言葉を、私たちはまだほとんど理解できていなかった。
「私も今から調べるところ。名前を聞いたことはあるけど、どういう意味で使われているのかまでは知らないから」
「昨日はあんなに偉そうにブレイクについて説明していたのに?」
「ブレイクは知ってる。でも、ブレイクの作品に出てくる言葉を全部知っているわけじゃないよ。アルビオンがどの作品で、どういう意味を持っているのかは、私も確認しないと分からない」
「なるほど。じゃあ今日は勉強会ね」
「秘封倶楽部の活動としては、かなり真面目な部類だと思う」
「昨日は地下の資料室で、鏡の向こうにある別世界を覗いていたけど?」
「それと比べれば、何をしても真面目に見えるでしょう」
メリーが小さく笑った。
私は端末の検索欄に、William Blake / Albionと入力した。
画面いっぱいに検索結果が並んだ。
詩集。研究論文。美術史。神秘思想。古い研究書。そして、見覚えのある名前。
ウィリアム・ブレイク。
旧人文科学研究棟の資料室で見つけた名前だった。
「……本当に出てきた」
「そりゃ出てくるでしょう。本人について調べているんだから」
「そうじゃなくて」
私は検索結果を指でスクロールした。
「資料室で見つけた資料と、同じ単語がこっちにも出てくる。世界、人間、想像力、永遠、それから分裂と再統合。単なる文学研究の用語としても読めるけど、昨日の話を聞いたあとだと、別の意味に見えてくる」
メリーの表情が変わった。
「見せて。どの資料に書いてあるの?」
私は端末を彼女の側へ向けた。
そこには、ブレイクの作品について解説した文章が並んでいる。
世界。人間。想像力 etc.
どれも単なる詩の感想として読むことはできるけれど、私たちはすでに「別の世界」を見ている。
だからなのだろう。
普通なら抽象的な言葉にしか見えないものが、妙に具体的な意味を持って迫ってくる。
「これ……」
メリーが画面を見つめた。
「昨日、向こう側の二人が話していたことと似ているわね。世界がいくつもあるとか、私たちの世界も可能性の一つに過ぎないとか、そういう話に」
「私もそう思った。もちろん、ブレイクの作品を幻界の記録だと決めつけることはできないけど」
「世界が分かれるとか、人間が分裂するとか、そういう話?」
「少なくとも、そういう読み方はできる。問題は、ブレイクがそれを単なる比喩として書いたのか、それとも本当に何かを見ていたのかだね」
私は椅子にもたれた。
ブレイクは詩人でもあり、画家でもあり、預言書を書いた人物でもある。
そこまでは知っている。
でも、彼の作品を「幻界」という言葉と並べてみると、何かが変わる。
世界は一つなのか。人間とは何なのか。
想像力は、ただ頭の中にあるものなのか。
それとも、世界を生み出す側のものなのか。
「蓮子」
メリーが画面から目を離さずに呼んだ。
「うん?」
「これ、偶然なのかな。ブレイクの作品に出てくる言葉と、私たちが鏡の向こうで見た現象が、ここまで重なるなんて」
私はすぐには答えなかった。
偶然だと言うには、資料室で見つけた記録の存在が重すぎる。
けれど、偶然ではないと言い切るには、まだ何も分かっていない。
私は画面をさらにスクロールし、また一つ古い論文が出てきた。
タイトルは、ブレイクの神話体系について扱ったものだった。
その中に、奇妙な一節がある。
人間と世界を切り離して考えること自体が誤りなのではないか。
そんな趣旨の文章だった。
「……変なの」
「何が変なの?」
「ブレイクって、こんなことまで考えていたんだ。資料室の記録を見つけたときは、天使や神話的な存在を描いた詩人だとしか説明しなかったけど、実際にはもっと大きなことを考えていたのかもしれない」
「あなた、一昨日は普通に詩人だって言っていなかった?」
「詩人だからって、普通とは限らないよ。むしろ、普通の言葉では説明できないものを、詩や絵で残そうとした人なのかもしれない」
メリーが吹き出した。
「それは、ずいぶん都合のいい解釈ね。分からないものを全部、詩人の神秘性で片付けているだけじゃない」
「そう言われると反論できない。でも、少なくとも今の私たちには、そう考えるだけの理由があるでしょう」
「それはそうね。昨日、鏡の向こうから『アルビオンを探して』なんて言われたばかりだもの」
メリーは笑いながらも、画面の文字から目を離さなかった。
「それにしても、どうして向こうの蓮子は、私たちにその名前を伝えたのかしら」
「分からない。だから調べるんだよ」
「調べて分かるものならいいけど」
「分からないものを分からないままにしておく方が、私は嫌だな」
そう言って、私は次の資料を開いた。
*****
しばらくして、私たちは電子資料だけではなく、図書館の蔵書にも手を伸ばした。
ブレイクに関する古い研究書。神秘思想史。西洋宗教史。
いろいろな本を机の上へ積んでいく。
読めば読むほど、妙な気持ちになった。
どの本も、ブレイクを一人の詩人として説明している。
大学の図書館なのだから当然だ。
なのに、どの本を読んでも、説明の隙間に何かが残る。
ブレイクが描いた世界は、単なる物語の舞台ではなく、人間の内面だけでもない。
世界と人間が互いに影響し合い、分裂し、再び結びつく構造そのものを、彼は神話として描こうとしていたように見えた。
「蓮子」
メリーが一冊の本を開いた。
「これ、見て。本文じゃなくて、ページの端に何か書いてある」
彼女は紙面の隅を指差している。
私は身を乗り出した。
そこには、鉛筆で小さな書き込みがあった。
本文とは違う、誰かが後から書いたものだ。
短い英単語。
Albion.
その下に、日本語で一言だけ書かれている。
――世界の人間。
「……これ、誰が書いたんだろう」
「大学の本よね?」
「うん。蔵書印もあるし、貸出記録も残っている」
「それなら、学生か研究者が書いたのかしら。まさか、最初から本に印刷されていたわけではないでしょう?」
「筆跡も本文の活字とは違う。誰かが後から書き込んだものだと思う」
私は本の奥付を確認した。
かなり古いけれど、私たちが旧人文科学研究棟の資料室で見つけた資料よりは新しい。
「もしかしたら、同じ研究者が読んでいたのかも」
私は呟いた。
「この本を?」
「あるいは、この本を読んだ誰かが、資料室で行われていた研究に関わっていたのかもしれない。書き込みの意味は分からないけど、少なくともアルビオンという言葉を、文学の用語としてではなく、何か別のものとして扱っていたように見える」
メリーは何も言わなかった。
私はページをめくった。
そして、見つけた。
古い紙のコピーが挟まっている。
図書館の本に挟まっているものとしては、明らかに不自然だった。
紙の端は黄ばんでいて、何度も折り畳まれた跡がある。
そこには、旧人文科学研究棟の資料室で見たものとよく似た記号が書かれていた。
「……嘘でしょ」
私は思わず立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、閲覧室の静けさを乱した。
「蓮子、どうしたの?」
「これ、見て。地下の資料と同じ記号が描かれている」
メリーが私の隣へ来て、二人で紙を覗き込んだ。
そこには幾何学的な図形が描かれていた。
鏡の番号の近くに刻まれていたものと、完全に同じではないが、構造が似ている。
線と円。分岐する形。閉じた輪。
そして、その中心に小さく書かれた文字。
ALBION
「……ここまで来ると」
メリーが紙を見つめたまま言った。
「文学研究だけでは説明できないわね。ブレイクの作品を研究していた人が、同時にこの記号や資料室の資料にも関わっていた可能性がある」
「うん」
私は紙を見つめた。
ブレイクの作品を研究していただけなら何も不思議ではない。
でも、旧人文科学研究棟の地下には異常な空間を研究していたらしい資料が残っている。
そこにブレイクの名前があり、アルビオンという言葉まであった。
偶然だと片付けるには、少しばかり出来すぎている。
「過去の研究者たちは」
私はゆっくり言った。
「ブレイクを文学として研究していたんじゃないのかもしれない」
「じゃあ、何を研究していたの?」
メリーの声には、好奇心だけでなく、わずかな警戒が混じっていた。
「……世界そのもの」
言ってから馬鹿げた言葉だと思ったが、取り消す気にはなれなかった。
世界そのもの。
それはあまりにも大きく、あまりにも曖昧な言葉だった。
けれど、鏡の向こうに別の京都があり、そこに私たちと同じ二人がいて、その世界が消え始めているのなら、他にどう表現すればいいのか分からない。
メリーも笑わなかった。
「もし本当にそうなら」
彼女は紙の記号を指でなぞりながら、静かに言った。
「ブレイクは何かを見ていたのかもしれないわね。詩や絵の形に変えて、私たちには見えない世界の構造を記録していたのかもしれない」
「何を?」
「私たちが今見ているもの」
その言葉を聞いた瞬間、図書館の空調音が妙に大きく聞こえた。
周囲の学生たちは、誰もこちらを見ていない。
ページをめくる音。端末を操作する音。遠くで椅子を引く音。
いつもと変わらない図書館の音だった。
それなのに、私たちのいる場所だけが世界から少し切り離されたように感じられた。
*****
夕方。
私たちは図書館を出た。
外は薄暗くなっており、京都の街には夕暮れの色が降りている。
古い寺院の屋根。高層ビルの窓。
その全部が、一つの街に収まっている。
私は空を見上げた。
星はまだ見えず、時間を知ることはできない。
昼と夜の境目にある空は、どちらにも属していないように見えた。
「アルビオン」
メリーが呟いた。
「うん。結局、まだ意味は分からないけど、名前だけが頭に残るね」
「変な名前ね。人の名前みたいでもあるし、国の名前みたいでもある。それに、何か大きすぎる感じがする。目の前にあるものを指しているというより、世界全体を指しているみたい」
私は少し笑った。
「ブレイクのアルビオンも、そんな感じだったと思う。人間そのものを表しているようでもあるし、世界そのものを表しているようでもある。だから、向こう側の私がこの名前を出した理由が、余計に分からなくなった」
「あなたは、もう少し調べれば分かると思っているの?」
「分かるかどうかは分からない。でも、調べなければ何も始まらないでしょう」
「詳しいのね」
「昨日の今日で、少しはね」
「昨日の今日で、そこまで調べたの?」
「興味を持ったら調べる。それが秘封倶楽部でしょう」
メリーは嬉しそうに笑った。
「それなら、私たちも随分まともな大学生になったわね。少なくとも、授業のための勉強よりは真面目に調べているもの」
「そうかな」
「少なくとも、授業より真面目に勉強しているのは確かよ」
「それは否定できない」
二人で歩く。
夕暮れの街は、昼間よりも境界が曖昧だった。
建物の輪郭が暗がりに溶け、窓の明かりだけが浮かんでいる。
現実の街なのに、どこか別の場所へ続いているように見えた。
そのとき、メリーが足を止めた。
「蓮子」
「何?」
「ちょっと待って。あそこに、ブレイクの肖像画が出ている」
彼女は街角に設置された大型ディスプレイを見ていた。
そこには、文化財保護事業の広告が流れている。
古い絵画。古い建物。そして、何人かの歴史上の人物。
画面が切り替わり、白黒に近い肖像画が映る。
鋭い目。こちらを見ているような顔。
ウィリアム・ブレイク。
「……この人」
メリーが呟いた。
私は彼女を見る。
「知っているでしょう。さっき図書館で調べたじゃない」
「そうじゃない」
メリーは画面から目を離さなかった。
その表情が、少しずつ困惑から恐怖に変わっていく。
「この人……」
彼女は小さく息を吸った。
「私たちを知ってる」
私は画面を見た。
ただの肖像画だった。
百年以上も昔に描かれた人物の顔。
それなのに、その目だけがこちらを見ているように思えた。
私は冗談を言おうとしたけれど、何も出てこなかった。