秘封幻界録 〜 The Vision of Albion.   作:ぴの光

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13話 二つの月

 その日の夜、私は部室にいた。

 時計を見ると、午後十一時を少し過ぎている。窓の外には、大学の敷地を照らす街灯がいくつか浮かんでいた。講義棟の窓はほとんど消えている。遠くを走る自動運転車の光だけが、時折建物の壁を滑っていった。

 

 メリーは机の向こうでノートを開いていた。

 表紙には、結成したばかりの秘封倶楽部の名前が、私の字で雑に書かれている。最初はもっと洒落た名前にしようと思っていたのだけれど、結局、メリーが思いついたものをそのまま書いただけだった。

 

 中身は、表紙よりさらに雑だ。

 廃駅。存在しないホーム。地下資料室。番号の振られた鏡。鏡の向こうの京都。もう一人の私たち。

 そして、アルビオン。

 数日前まで、私たちの大学生活にこんな単語が並ぶなんて想像もしなかった。

 

 大学生らしい活動と言えば、せいぜい講義をさぼって喫茶店に行くとか、レポートを締切直前に片付けるとか、その程度だと思っていた。少なくとも、世界の構造や、存在しないはずの都市について調べることが、学生生活の中心になるとは考えていなかった。

 

 ところが現実はどうだ。

 私は今、世界の構造について書かれた古い神話と、存在しない京都について同時に調べている。

 人生というものは、履修登録よりずっと自由だ。

 

「何を見てるの?」

 

 メリーが顔を上げた。彼女はさっきからノートの同じページを何度も読み返していたらしい。鉛筆の先が、紙の上で止まっている。

 

「前の記録を見てる」

 

「前の記録って、どの記録? 鏡の記録なら、さっきから何度も確認しているでしょう」

 

「月の観測記録。あのときの変な測定結果を、もう一度確認してる」

 

 私は端末を机の上へ置いた。

 

「月が測れなかったやつ?」

 

「それとは少し違う。正確には、測れなかった記録だけじゃないんだ」

 

 画面を切り替える。

 保存されている観測ログが、時系列に並んだ。日時、天体位置、観測地点、気象条件、使用した機器の種類。私は一つずつ確認していった。

 

 月の観測は、私にとって特別なものだった。

 星を見れば時間が分かる。

 月を見れば、今いる場所が分かる。

 それは、私が自分の能力について最初に自覚したことだった。だから月の記録には、普段から少しだけ細かく目を通している。異常があれば、数字の並び方だけでも何となく分かる。

 

「これ」

 

 メリーが身を乗り出した。

 

「何? 何か見つけたの?」

 

「ここ。月が二つになってる」

 

「……え?」

 

 私は記録を拡大した。

 画像データの中央に、白い円が二つ並んでいる。

 一つは、いつもの月。

 もう一つは、その少し横に浮かんでいた。輪郭はぼやけている。写真のノイズにも見えるし、レンズの反射や画像処理の失敗にも見える。

 でも、ノイズにしては位置が妙に正確だった。

 同じ方向に、同じ大きさで、一定の間隔を保っている。

 

「これ、いつの記録?」

 

「二日前」

 

「そんな前のことだった?」

 

「私たちが幻視鏡を起動した日の夜。正確には、鏡の前で最初に記録を取った直後よ」

 

 メリーの声から、眠気が消えた。

 

 私は記録をさらに遡ると、同じような画像がいくつか出てきた。

 月が二つに見えるが、数秒後には一つに戻る。

 また別の日には、ほんの一瞬だけ、二つの光点が記録されている。

 さらに別の日には、観測記録だけが残り、画像そのものが欠落していた。

 

「……これ、私たちが初めてじゃなかったんだ」

 

 私は画面を見たまま呟いた。

 

「みたいね。少なくとも、同じような現象を記録した人が、私たちより前に何人かいたことになるわ」

 

「過去にも起きていた」

 

「ええ。ただし、記録の数は多くない。観測機器の故障として処理されたものもあるでしょうし、そもそも誰も異常だと思わずに消去された可能性もある」

 

 メリーは画面を指でなぞった。

 

「この二つ目の月は、実際に空にあったのかしら。それとも、観測した人の側にだけ見えていたの?」

 

「そこまでは分からない。でも、複数の観測地点で似た記録が残っているなら、単なる個人の幻覚とは考えにくい」

 

 私は記録を時系列に並べた。

 すると、妙なことに気づいた。

 

「時間が近い」

 

「何の時間が?」

 

「月が二つになった時間と、幻視鏡を起動した時間」

 

 メリーがノートをめくった。

 私たちが初めて鏡に触れた日の記録。時計の表示。鏡の表面に変化が現れた時刻。その直後に起きた異常。

 私は二つのデータを重ね合わせた。

 数分どころか、ほとんど同じ時刻だった。

 

「……偶然なのかしら」

 

 メリーは慎重に言った。

 

「だとしたら、ずいぶん律儀な偶然ね。鏡を起動したときだけ、月が二つになる。しかも、過去の記録まで同じ時刻に集中している」

 

「いや、待って」

 

 私は画面を指で戻した。

 

「『鏡を起動したときだけ』とは限らないよ」

 

「でも、時間は一致しているでしょう?」

 

「一致しているのは、幻視鏡を起動した記録が残っている日だけ。過去の記録には、鏡を起動したという記録がない」

 

「つまり?」

 

「月が二つになったから、幻視鏡が起動した可能性もある」

 

 メリーが黙った。

 私は言葉を続けた。

 

「幻視鏡が月を二つにしているんじゃなくて、別の原因が先にある。幻界との境界が不安定になって、その影響が月にも現れる。そのとき、地上では幻視鏡が境界の向こうを映す」

 

「月と鏡が、同じ現象の別の結果だということ?」

 

「うん。月が二つになるのは、空に現れる異常。幻視鏡が起動するのは、地上に現れる異常。どちらも、境界が一時的に重なった結果なら説明できる」

 

 私は画面を見つめた。

 二つの月。鏡の向こうの京都。

 そして、私たちの世界とは異なる時間と歴史。

 ばらばらだったはずのものが、少しずつ一つの線になり始めている。

 

「ねえ、蓮子」

 

「うん」

 

「月にも境界があるんじゃない?」

 

 メリーの言葉は静かだった。

 

 けれど、思いつきで口にしたわけではないことが分かった。彼女は、鏡の向こうを見たときと同じ目をしていた。何かを見ているのに、それをまだ言葉にできていないときの目だ。

 

「境界?」

 

「ええ。私が見ている境界って、場所と場所の間だけにあるわけじゃないと思うの」

 

 メリーは窓の外を見た。

 京都の夜空。

 その向こうに月が浮かんでいる。

 

「世界と世界の間に境界があるなら、月と私たちの世界の間にも、何かがあっておかしくないでしょう? 月は遠くにある天体だけれど、同時に、私たちがずっと見上げてきた境目でもある。空の向こう側にあるものを、こちら側から見ているわけだから」

 

「つまり、月にも表と裏がある?」

 

「そういう単純な話ではないわ。表面と裏面という意味なら、月にはすでに物理的な裏側があるもの」

 

 メリーは少し考え、言葉を選ぶように続けた。

 

「私が言っているのは、私たちが認識している月と、認識できていない月の間に、何か境目があるのではないかということよ。見えているものと、見えていないものを分ける境界が」

 

 私は黙って月を見た。

 

「でも、私には時々、月が一つの天体に見えないことがある」

 

「どういう意味?」

 

「遠くにある一つのものというより、何かを覆っているものみたいに見えるの。薄い膜のようなものが、別の何かの上にかかっているように感じることがあるわ」

 

 私は月を見上げた。

 もちろん、私にはそんなものは見えない。

 静かで、丸くて、少し欠けている、ただの月だ。

 人類が長い時間をかけて観測し、探査機を送り、基地まで作った天体。今では月面旅行の広告まで街中に流れている。昔なら神話の中にしかなかった場所が、旅行会社のパンフレットに載っている。

 そう考えると、少しおかしかった。

 人間は月を知り尽くしたつもりになっているのに、私たちは今その月について知らない何かを探している。

 

「月面旅行の資料、もう一度見てみようか」

 

「カレイドスコープの公開資料?」

 

「そう。あのデータベースに、変な空白があったでしょう。月面旅行の観光区域や航路を調べたとき、地形データの一部だけが不自然に欠けていた」

 

「あったわね。あのときは、単なる通信障害か、公開範囲の制限だと思っていたけれど」

 

「今は、そう思えない」

 

 私は端末を操作し、民間月面旅行の公開データベースを開く。

 人類が月へ行くようになってから、まだそれほど長くない。それでも、月の表面は驚くほど細かく記録されている。高度、地質、温度、放射線量、地形の傾斜。観光客が歩く場所まで、事前に安全性を確認できるようになっている。

 

「ここ」

 

 私は地図を拡大した。

 月の裏側に近い地域の地形データが途切れている。

 前に見つけたものと同じ空白だった。

 

「測定不能領域」

 

 画面の端に、小さくそう表示されている。

 メリーはすぐには答えなかった。彼女は地図の空白を見つめたまま、指先を画面の手前で止めている。

 

「前より大きくなってない?」

 

「……そう見える」

 

 私は過去のデータと比較した。

 以前は小さな欠損だったが、今は、その周囲まで測定値が不安定になっている。地形の高さが一定しない。画像の輪郭がずれる。複数の観測データを重ねても、同じ場所だけが一致しない。

 まるで、地図の上から何かが滲み出しているようだった。

 

「おかしい」

 

「何が? 空白が広がっていること?」

 

「それもそうだけど、月面地図の作り方そのものがおかしい。人工衛星や探査機の観測データから作っているなら、単純なデータ欠損は別の観測結果で補完できるはずなんだよ。観測機器が一つ壊れても、別の機器や別の軌道から取ったデータがある」

 

「でも、補完できない」

 

「うん。何度重ねても、同じ場所だけが合わない。まるで、観測するたびに違う場所を測っているみたい」

 

 私は画面を見た。

 そこには、何度試しても同じ表示が出る。

 

 測定不能領域。

 

 たったそれだけ。

 説明としては、あまりにも簡潔だった。

 

「月を測っているのに、月の一部だけが測れない」

 

「境界ね」

 

「まだ決めつけないで。測定機器の仕様や、公開データの編集方針という可能性も残っている」

 

「あなたも結構、決めつけているじゃない」

 

「私は仮説を立てているだけ。仮説は、証拠が増えれば修正するものだから」

 

「それを世間では、決めつけって言うのよ。特に、証拠が足りないまま楽しそうに話している場合はね」

 

 私は笑った。

 でも、すぐに笑えなくなった。

 地図の空白を見ていると、妙な感覚がする。

 少なくとも、データ上そこには何もない。

 それなのに、何もない場所を見ているというより、何かが見えないようにされている場所を見ているような気がした。

 

「蓮子」

 

「うん?」

 

「月を見て。今のあなたの能力で、もう一度、月の位置を確かめてみて」

 

 言われるまま、私は窓際へ歩いた。

 いつもの月が見える。

 私は目を細めた。

 子供の頃からそうだった。

 夜空を見上げれば、自分が世界のどこにいるのかが分かる。

 だから月は、私にとって一種の住所だった。

 なのに、最近の月はその住所を教えてくれない。

 

「どう?」

 

 メリーが訊いた。

 

「……まだ分からない」

 

「場所が分からないの? それとも、月そのものが?」

 

「両方。月は見えているし、そこにあることも分かる。でも、いつものように、私たちがどこにいるのかを教えてくれない」

 

 私は月から目を離さなかった。

 月はそこにあるのに、私と月の間に薄い膜があるように感じる。

 手を伸ばしても届かない。

 そんな当たり前のことが、今日は妙に怖かった。

 

「月が二つに見えた記録と、あなたの能力が働かなくなったこと。どちらも、月が一つのものではない可能性を示しているのかもしれないわ」

 

「それは、かなり大胆な仮説だね」

 

「あなたが言ったのでしょう。仮説は、証拠が増えれば修正するものだって」

 

「言ったけど、こんなに早く使われるとは思わなかった」

 

 メリーは小さく笑ったが、笑い方にはいつもの軽さがなかった。

 

「でも、もし本当に月の一部が別の世界と重なっているなら、二つに見えることも、測定できないことも説明できるでしょう?」

 

「説明できるかもしれない。でも、説明できることと、正しいことは別だよ」

 

「ええ。だから、もっと調べる必要がある」

 

 私は机へ戻り、端末を操作する。

 過去の二つの月。現在の測定不能領域。幻視鏡の起動時刻。

 私は三つのデータを並べた。

 そして、その下に一つの言葉を書いた。

 

 境界。

 

「……これ、本当に全部つながってるのかな」

 

 自分で言っておいて、私は少しだけ後悔した。

 もしつながっているのなら、私たちはとんでもないものを見つけていることになる。

 鏡の向こうに世界がある。

 その世界にも私たちがいる。

 そして、その世界は消え始めている。

 その異常と同じ時間に、月が二つになる。

 さらに月には、誰も測れない場所がある。

 世界というものが一枚の紙ではなく、何枚もの薄い紙を重ねたものだとしたら。

 月も、その紙のどこかに空いた穴なのかもしれない。

 

「ねえ、メリー」

 

「何?」

 

「もし月の向こうにも何かあるとしたら、それはどこにあると思う?」

 

 私は少し考えてから、言葉を続けた。

 

「月の裏側という意味じゃなくて、私たちが見ている月と、見えていない月の間にあるもの。そこに別の世界が重なっているとしたら、どんな場所に存在していると思う?」

 

 メリーは答えなかった。

 窓の外を見ている。

 月を、そして、その周囲の暗闇を。

 

「分からない」

 

 しばらくして、彼女は言った。

 

「でも、あなたの言い方だと、何かありそうに聞こえるわね。まるで、もうそこにあるものを見つけるだけみたいに」

 

「私だって、そう思いたくて言ってるわけじゃないよ」

 

「知ってる」

 

 メリーが笑った。

 

「だから怖いのよ。あなたが面白がっているときより、真面目に否定しようとしているときの方が、たいてい本当に危ないものが見つかるから」

 

 そのときだった。

 端末が短く鳴り、新着データが届いた。

 私は画面を見た。

 

「……何これ」

 

「どうしたの? また観測記録に異常が出たの?」

 

「観測データが届いた」

 

「誰から?」

 

「分からない」

 

 送信元を確認する。

 空欄。認証情報も、転送履歴も存在しない。

 時刻だけが記録されている。

 現在時刻。

 つまり、今この瞬間に送られてきた。

 

「ウイルスとかじゃないでしょうね」

 

「それなら、もっと分かりやすく警告してほしい。少なくとも、送信元くらいは表示してくれるはずだよ」

 

「あなたの端末、最近変なものばかり拾うものね。鏡の記録も、向こう側からの文字も、今度は送信者不明の観測データまで届くなんて」

 

「私のせいみたいに言わないでよ。端末が勝手に受信しているだけでしょう」

 

「そういうところが、余計に不安なのよ」

 

 私はデータを開いた。

 月の観測画像。

 その表面。

 画像は粗い。

 普通なら何が写っているのか分からない程度だ。解像度も低く、輪郭はひどく曖昧で、月面の地形なのか、単なる画像処理の乱れなのかも判別できない。

 私は拡大した。

 月面の一画に小さな光がいくつも並んでいる。

 自然の地形ではない。

 規則正しく配置されたもの。

 私は息を止めた。

 

「メリー」

 

「……ええ。見えているわ」

 

 彼女も画面を見ていた。

 画像の下には、短い文字列が添えられている。

 送信者不明。

 説明もない。

 ただ、一行だけ。

 

 月には、都市がある。

 

 私は画面から目を離せなかった。

 窓の外では、月が静かに浮かんでいる。

 何百年もの間、人間が見上げてきた月。

 誰もが知っていると思っていた月。

 その表面のどこかに、私たちの知らない街がある。

 そんな馬鹿げた文章が、今は妙に現実味を持っていた。

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