秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
その日の夜、私は部室にいた。
時計を見ると、午後十一時を少し過ぎている。窓の外には、大学の敷地を照らす街灯がいくつか浮かんでいた。講義棟の窓はほとんど消えている。遠くを走る自動運転車の光だけが、時折建物の壁を滑っていった。
メリーは机の向こうでノートを開いていた。
表紙には、結成したばかりの秘封倶楽部の名前が、私の字で雑に書かれている。最初はもっと洒落た名前にしようと思っていたのだけれど、結局、メリーが思いついたものをそのまま書いただけだった。
中身は、表紙よりさらに雑だ。
廃駅。存在しないホーム。地下資料室。番号の振られた鏡。鏡の向こうの京都。もう一人の私たち。
そして、アルビオン。
数日前まで、私たちの大学生活にこんな単語が並ぶなんて想像もしなかった。
大学生らしい活動と言えば、せいぜい講義をさぼって喫茶店に行くとか、レポートを締切直前に片付けるとか、その程度だと思っていた。少なくとも、世界の構造や、存在しないはずの都市について調べることが、学生生活の中心になるとは考えていなかった。
ところが現実はどうだ。
私は今、世界の構造について書かれた古い神話と、存在しない京都について同時に調べている。
人生というものは、履修登録よりずっと自由だ。
「何を見てるの?」
メリーが顔を上げた。彼女はさっきからノートの同じページを何度も読み返していたらしい。鉛筆の先が、紙の上で止まっている。
「前の記録を見てる」
「前の記録って、どの記録? 鏡の記録なら、さっきから何度も確認しているでしょう」
「月の観測記録。あのときの変な測定結果を、もう一度確認してる」
私は端末を机の上へ置いた。
「月が測れなかったやつ?」
「それとは少し違う。正確には、測れなかった記録だけじゃないんだ」
画面を切り替える。
保存されている観測ログが、時系列に並んだ。日時、天体位置、観測地点、気象条件、使用した機器の種類。私は一つずつ確認していった。
月の観測は、私にとって特別なものだった。
星を見れば時間が分かる。
月を見れば、今いる場所が分かる。
それは、私が自分の能力について最初に自覚したことだった。だから月の記録には、普段から少しだけ細かく目を通している。異常があれば、数字の並び方だけでも何となく分かる。
「これ」
メリーが身を乗り出した。
「何? 何か見つけたの?」
「ここ。月が二つになってる」
「……え?」
私は記録を拡大した。
画像データの中央に、白い円が二つ並んでいる。
一つは、いつもの月。
もう一つは、その少し横に浮かんでいた。輪郭はぼやけている。写真のノイズにも見えるし、レンズの反射や画像処理の失敗にも見える。
でも、ノイズにしては位置が妙に正確だった。
同じ方向に、同じ大きさで、一定の間隔を保っている。
「これ、いつの記録?」
「二日前」
「そんな前のことだった?」
「私たちが幻視鏡を起動した日の夜。正確には、鏡の前で最初に記録を取った直後よ」
メリーの声から、眠気が消えた。
私は記録をさらに遡ると、同じような画像がいくつか出てきた。
月が二つに見えるが、数秒後には一つに戻る。
また別の日には、ほんの一瞬だけ、二つの光点が記録されている。
さらに別の日には、観測記録だけが残り、画像そのものが欠落していた。
「……これ、私たちが初めてじゃなかったんだ」
私は画面を見たまま呟いた。
「みたいね。少なくとも、同じような現象を記録した人が、私たちより前に何人かいたことになるわ」
「過去にも起きていた」
「ええ。ただし、記録の数は多くない。観測機器の故障として処理されたものもあるでしょうし、そもそも誰も異常だと思わずに消去された可能性もある」
メリーは画面を指でなぞった。
「この二つ目の月は、実際に空にあったのかしら。それとも、観測した人の側にだけ見えていたの?」
「そこまでは分からない。でも、複数の観測地点で似た記録が残っているなら、単なる個人の幻覚とは考えにくい」
私は記録を時系列に並べた。
すると、妙なことに気づいた。
「時間が近い」
「何の時間が?」
「月が二つになった時間と、幻視鏡を起動した時間」
メリーがノートをめくった。
私たちが初めて鏡に触れた日の記録。時計の表示。鏡の表面に変化が現れた時刻。その直後に起きた異常。
私は二つのデータを重ね合わせた。
数分どころか、ほとんど同じ時刻だった。
「……偶然なのかしら」
メリーは慎重に言った。
「だとしたら、ずいぶん律儀な偶然ね。鏡を起動したときだけ、月が二つになる。しかも、過去の記録まで同じ時刻に集中している」
「いや、待って」
私は画面を指で戻した。
「『鏡を起動したときだけ』とは限らないよ」
「でも、時間は一致しているでしょう?」
「一致しているのは、幻視鏡を起動した記録が残っている日だけ。過去の記録には、鏡を起動したという記録がない」
「つまり?」
「月が二つになったから、幻視鏡が起動した可能性もある」
メリーが黙った。
私は言葉を続けた。
「幻視鏡が月を二つにしているんじゃなくて、別の原因が先にある。幻界との境界が不安定になって、その影響が月にも現れる。そのとき、地上では幻視鏡が境界の向こうを映す」
「月と鏡が、同じ現象の別の結果だということ?」
「うん。月が二つになるのは、空に現れる異常。幻視鏡が起動するのは、地上に現れる異常。どちらも、境界が一時的に重なった結果なら説明できる」
私は画面を見つめた。
二つの月。鏡の向こうの京都。
そして、私たちの世界とは異なる時間と歴史。
ばらばらだったはずのものが、少しずつ一つの線になり始めている。
「ねえ、蓮子」
「うん」
「月にも境界があるんじゃない?」
メリーの言葉は静かだった。
けれど、思いつきで口にしたわけではないことが分かった。彼女は、鏡の向こうを見たときと同じ目をしていた。何かを見ているのに、それをまだ言葉にできていないときの目だ。
「境界?」
「ええ。私が見ている境界って、場所と場所の間だけにあるわけじゃないと思うの」
メリーは窓の外を見た。
京都の夜空。
その向こうに月が浮かんでいる。
「世界と世界の間に境界があるなら、月と私たちの世界の間にも、何かがあっておかしくないでしょう? 月は遠くにある天体だけれど、同時に、私たちがずっと見上げてきた境目でもある。空の向こう側にあるものを、こちら側から見ているわけだから」
「つまり、月にも表と裏がある?」
「そういう単純な話ではないわ。表面と裏面という意味なら、月にはすでに物理的な裏側があるもの」
メリーは少し考え、言葉を選ぶように続けた。
「私が言っているのは、私たちが認識している月と、認識できていない月の間に、何か境目があるのではないかということよ。見えているものと、見えていないものを分ける境界が」
私は黙って月を見た。
「でも、私には時々、月が一つの天体に見えないことがある」
「どういう意味?」
「遠くにある一つのものというより、何かを覆っているものみたいに見えるの。薄い膜のようなものが、別の何かの上にかかっているように感じることがあるわ」
私は月を見上げた。
もちろん、私にはそんなものは見えない。
静かで、丸くて、少し欠けている、ただの月だ。
人類が長い時間をかけて観測し、探査機を送り、基地まで作った天体。今では月面旅行の広告まで街中に流れている。昔なら神話の中にしかなかった場所が、旅行会社のパンフレットに載っている。
そう考えると、少しおかしかった。
人間は月を知り尽くしたつもりになっているのに、私たちは今その月について知らない何かを探している。
「月面旅行の資料、もう一度見てみようか」
「カレイドスコープの公開資料?」
「そう。あのデータベースに、変な空白があったでしょう。月面旅行の観光区域や航路を調べたとき、地形データの一部だけが不自然に欠けていた」
「あったわね。あのときは、単なる通信障害か、公開範囲の制限だと思っていたけれど」
「今は、そう思えない」
私は端末を操作し、民間月面旅行の公開データベースを開く。
人類が月へ行くようになってから、まだそれほど長くない。それでも、月の表面は驚くほど細かく記録されている。高度、地質、温度、放射線量、地形の傾斜。観光客が歩く場所まで、事前に安全性を確認できるようになっている。
「ここ」
私は地図を拡大した。
月の裏側に近い地域の地形データが途切れている。
前に見つけたものと同じ空白だった。
「測定不能領域」
画面の端に、小さくそう表示されている。
メリーはすぐには答えなかった。彼女は地図の空白を見つめたまま、指先を画面の手前で止めている。
「前より大きくなってない?」
「……そう見える」
私は過去のデータと比較した。
以前は小さな欠損だったが、今は、その周囲まで測定値が不安定になっている。地形の高さが一定しない。画像の輪郭がずれる。複数の観測データを重ねても、同じ場所だけが一致しない。
まるで、地図の上から何かが滲み出しているようだった。
「おかしい」
「何が? 空白が広がっていること?」
「それもそうだけど、月面地図の作り方そのものがおかしい。人工衛星や探査機の観測データから作っているなら、単純なデータ欠損は別の観測結果で補完できるはずなんだよ。観測機器が一つ壊れても、別の機器や別の軌道から取ったデータがある」
「でも、補完できない」
「うん。何度重ねても、同じ場所だけが合わない。まるで、観測するたびに違う場所を測っているみたい」
私は画面を見た。
そこには、何度試しても同じ表示が出る。
測定不能領域。
たったそれだけ。
説明としては、あまりにも簡潔だった。
「月を測っているのに、月の一部だけが測れない」
「境界ね」
「まだ決めつけないで。測定機器の仕様や、公開データの編集方針という可能性も残っている」
「あなたも結構、決めつけているじゃない」
「私は仮説を立てているだけ。仮説は、証拠が増えれば修正するものだから」
「それを世間では、決めつけって言うのよ。特に、証拠が足りないまま楽しそうに話している場合はね」
私は笑った。
でも、すぐに笑えなくなった。
地図の空白を見ていると、妙な感覚がする。
少なくとも、データ上そこには何もない。
それなのに、何もない場所を見ているというより、何かが見えないようにされている場所を見ているような気がした。
「蓮子」
「うん?」
「月を見て。今のあなたの能力で、もう一度、月の位置を確かめてみて」
言われるまま、私は窓際へ歩いた。
いつもの月が見える。
私は目を細めた。
子供の頃からそうだった。
夜空を見上げれば、自分が世界のどこにいるのかが分かる。
だから月は、私にとって一種の住所だった。
なのに、最近の月はその住所を教えてくれない。
「どう?」
メリーが訊いた。
「……まだ分からない」
「場所が分からないの? それとも、月そのものが?」
「両方。月は見えているし、そこにあることも分かる。でも、いつものように、私たちがどこにいるのかを教えてくれない」
私は月から目を離さなかった。
月はそこにあるのに、私と月の間に薄い膜があるように感じる。
手を伸ばしても届かない。
そんな当たり前のことが、今日は妙に怖かった。
「月が二つに見えた記録と、あなたの能力が働かなくなったこと。どちらも、月が一つのものではない可能性を示しているのかもしれないわ」
「それは、かなり大胆な仮説だね」
「あなたが言ったのでしょう。仮説は、証拠が増えれば修正するものだって」
「言ったけど、こんなに早く使われるとは思わなかった」
メリーは小さく笑ったが、笑い方にはいつもの軽さがなかった。
「でも、もし本当に月の一部が別の世界と重なっているなら、二つに見えることも、測定できないことも説明できるでしょう?」
「説明できるかもしれない。でも、説明できることと、正しいことは別だよ」
「ええ。だから、もっと調べる必要がある」
私は机へ戻り、端末を操作する。
過去の二つの月。現在の測定不能領域。幻視鏡の起動時刻。
私は三つのデータを並べた。
そして、その下に一つの言葉を書いた。
境界。
「……これ、本当に全部つながってるのかな」
自分で言っておいて、私は少しだけ後悔した。
もしつながっているのなら、私たちはとんでもないものを見つけていることになる。
鏡の向こうに世界がある。
その世界にも私たちがいる。
そして、その世界は消え始めている。
その異常と同じ時間に、月が二つになる。
さらに月には、誰も測れない場所がある。
世界というものが一枚の紙ではなく、何枚もの薄い紙を重ねたものだとしたら。
月も、その紙のどこかに空いた穴なのかもしれない。
「ねえ、メリー」
「何?」
「もし月の向こうにも何かあるとしたら、それはどこにあると思う?」
私は少し考えてから、言葉を続けた。
「月の裏側という意味じゃなくて、私たちが見ている月と、見えていない月の間にあるもの。そこに別の世界が重なっているとしたら、どんな場所に存在していると思う?」
メリーは答えなかった。
窓の外を見ている。
月を、そして、その周囲の暗闇を。
「分からない」
しばらくして、彼女は言った。
「でも、あなたの言い方だと、何かありそうに聞こえるわね。まるで、もうそこにあるものを見つけるだけみたいに」
「私だって、そう思いたくて言ってるわけじゃないよ」
「知ってる」
メリーが笑った。
「だから怖いのよ。あなたが面白がっているときより、真面目に否定しようとしているときの方が、たいてい本当に危ないものが見つかるから」
そのときだった。
端末が短く鳴り、新着データが届いた。
私は画面を見た。
「……何これ」
「どうしたの? また観測記録に異常が出たの?」
「観測データが届いた」
「誰から?」
「分からない」
送信元を確認する。
空欄。認証情報も、転送履歴も存在しない。
時刻だけが記録されている。
現在時刻。
つまり、今この瞬間に送られてきた。
「ウイルスとかじゃないでしょうね」
「それなら、もっと分かりやすく警告してほしい。少なくとも、送信元くらいは表示してくれるはずだよ」
「あなたの端末、最近変なものばかり拾うものね。鏡の記録も、向こう側からの文字も、今度は送信者不明の観測データまで届くなんて」
「私のせいみたいに言わないでよ。端末が勝手に受信しているだけでしょう」
「そういうところが、余計に不安なのよ」
私はデータを開いた。
月の観測画像。
その表面。
画像は粗い。
普通なら何が写っているのか分からない程度だ。解像度も低く、輪郭はひどく曖昧で、月面の地形なのか、単なる画像処理の乱れなのかも判別できない。
私は拡大した。
月面の一画に小さな光がいくつも並んでいる。
自然の地形ではない。
規則正しく配置されたもの。
私は息を止めた。
「メリー」
「……ええ。見えているわ」
彼女も画面を見ていた。
画像の下には、短い文字列が添えられている。
送信者不明。
説明もない。
ただ、一行だけ。
月には、都市がある。
私は画面から目を離せなかった。
窓の外では、月が静かに浮かんでいる。
何百年もの間、人間が見上げてきた月。
誰もが知っていると思っていた月。
その表面のどこかに、私たちの知らない街がある。
そんな馬鹿げた文章が、今は妙に現実味を持っていた。