秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
翌朝。
私は、嫌な予感を抱えたまま大学へ向かった。
昨日の夜に届いた観測データが、頭から離れない。
――月には、都市がある。
あの一文を何度読み返しても、悪戯にしては手が込みすぎていた。月面の画像に人工的な光を合成するだけなら、もっと簡単な方法はいくらでもある。けれど、あのデータには観測時刻も、画像の圧縮形式も、通常の公開データにはない補正情報まで含まれていた。
送信者は不明。観測地点も不明。
そして何より、画像に写っていたものが問題だった。
月面に存在するはずのない、人工的な都市の光。
それを見つけた翌日に、私たちはもう一つの確認をしなければならなかった。
幻視鏡。あの地下資料室にあった鏡。
あれが何なのか。月の異常と関係しているのか。
そして、なぜ過去の研究者たちは、あんなものを大学の地下に隠していたのか。
もし幻視鏡が月の異常を引き起こしているのなら、昨日の観測データも偶然ではないかもしれない。逆に、月の異常が先に存在していて、幻視鏡がそれを映し出しているだけなら、私たちは今までずっと、原因と結果を取り違えていたことになる。
どちらにしても、確かめる必要があった。
「蓮子、早いわね」
大学の構内でメリーと合流した。
彼女はいつもより少しだけ早く来ていた。髪は整っているし、服装にも乱れはない。けれど、目の下には薄い影があった。私と同じで、ほとんど眠れていないのだろう。
「昨日のデータのせいで、あまり眠れなかったの」
「私もよ。あんなものを見せられて、何も考えずに眠れるほど図太くはないわ」
「珍しいね。メリーが夜更かしを認めるなんて」
「あなたと一緒にしないで。私は考え事をしていただけで、夜更かしをしていたわけではないもの」
「私は考え事をしてたら朝になった」
「それを夜更かしっていうのよ。しかも、あなたの場合は途中で何度も観測データを開き直していたでしょう」
「見てたの?」
「あなたの端末と同期しているから分かるわ。午前二時、三時、四時。最後に確認したのは五時十二分だった」
「そこまで分かるなら、起こしてくれてもよかったのに」
「起こしたら、あなたはきっと『今いいところだから』と言って、さらに別のデータを探し始めるでしょう?」
「……否定できない」
いつもの調子だったけれど、二人とも笑い切れなかった。
冗談を言っている間だけは、昨日の画像を忘れられる。けれど、会話が途切れれば、すぐにあの白い光点が頭の中へ戻ってくる。
私たちはそのまま旧人文科学研究棟へ向かった。
地下室の幻視鏡を確認するためだ。
ところが、
「……ない」
私は階段を下りたところで立ち止まった。
地下へ続く階段の先。
あの扉があった場所には、何もなかった。
いや、正確には扉はあった。
けれど、その向こうには小さな倉庫があるだけだった。
机もない。棚もない。もちろん、鏡もない。
私たちが何度も調査した資料室そのものが、最初から存在しなかったみたいに消えている。
私は扉の枠に手を置いた。
この前までは、確かに地下資料室があった。扉を開け、階段を下り、埃をかぶった棚の間を歩いた。壁には古い記号が刻まれていて、その奥には幻視鏡が立てかけられていた。
あれは夢ではない。
夢であってたまるものか。
「昨日は、ここだったわよね?」
メリーが、私の隣で低い声を出した。
「間違いない。扉の傷も、取っ手の位置も同じだよ」
「本当に?」
「メリー」
私は少しだけ声を落とした。
「私、自分の記憶まで疑い始めたら、この倶楽部を解散するしかなくなるよ。少なくとも、会則には『部員が自分の記憶を信じられなくなった場合』の解散規定はないけど、臨時措置としては妥当だと思う」
「それは困るわね。まだ会則も作っていないのに、解散だけ先に決めることになるもの」
メリーは冗談に合わせながら、壁へ手を触れた。
指先を壁面に沿わせ、目を閉じる。
しばらくして、彼女の表情が変わった。
「……おかしい」
「何が? 部屋が消えたことなら、私にも分かってる」
「そういう意味ではないわ。ここ、境界が薄いの」
「薄い?」
「ええ。前とは違う。前は、向こう側へ続く場所がはっきり見えていた。今は、何かが閉じた後みたいになっているの」
メリーは壁から手を離した。
その指先を見つめながら、慎重に言葉を選ぶ。
「何かを隠しているというより、何かがここにあったという事実だけを残して、場所そのものが別の状態に置き換えられた感じ」
「つまり、資料室が消えたんじゃなくて、資料室が存在していた状態だけが消された?」
「そこまでは分からないわ。ただ、普通に取り壊された場所とは違う。壁の向こうに空間があるのに、そこへ触れられないというより……」
メリーはもう一度、壁を見た。
「最初から、こちら側に接続されていなかったみたい」
私は壁を見た。
少なくとも私には普通の壁に見えたけれど、メリーがそう言うと、ただの壁にも見えなくなってくる。昨日までそこにあったものが消えたのではなく、私たちの記憶だけが取り残されている。
そんな気味の悪い想像が浮かんだ。
「大学に聞こう」
「本当に答えてくれるかしら」
「答えさせるの。私たちは学生なんだから、施設について質問する権利くらいあるでしょう」
「学生証を見せて、昨日まで存在していたはずの地下資料室について説明を求める学生が、一般的な学生だと思われるかしら」
「思われなくてもいいよ。一般的な学生じゃないから秘封倶楽部なんだし」
私たちは地上へ戻り、大学の事務局で旧研究棟の地下について尋ねた。
事務局の窓口にいた職員は、最初こそ事務的な笑顔を浮かべていた。けれど、旧人文科学研究棟と地下資料室という言葉を出した途端、その笑顔がわずかに固まった。
「そのような資料室は存在しません」
返ってきた答えは、あまりにも簡単だった。
「でも、旧人文科学研究棟には地下資料室があったはずです。地下二階より下に、古い研究資料を保管している部屋がありました」
「地下二階までなら記録があります。しかし、それより下の施設については登録されていません」
「登録されていないだけで、実際には存在していた可能性は?」
「施設台帳にない場所については、大学の施設として確認できません」
「昨日、私たちは実際に入りました。扉も階段もありましたし、資料も保管されていました。鏡のような大型の器具も置かれていたんです」
職員は端末を操作するふりをした。
画面を見ているようで、実際には何も確認していない。私はそう感じた。
「何かの勘違いではないでしょうか」
勘違い。
便利な言葉だ。
世界のほうが間違っているとき、人間はだいたいそれで片付ける。
「では、過去の研究記録を見せてもらえますか?」
「研究記録ですか?」
「民俗学、宗教学、認知科学。そのあたりの研究室が以前入っていたと聞いています。旧研究棟の地下に関係する記録があるなら、施設の使用履歴や研究室の移転記録も残っているはずですよね」
「古い記録については、担当部署へ確認してください」
「その担当部署はどこですか? 研究支援課ですか、それとも施設管理課ですか?」
「教授会の管轄になります」
「教授会に問い合わせるには、どんな手続きが必要ですか?学生からの照会でも受け付けてもらえるんでしょうか」
職員の表情が変わった。
ほんの一瞬だったが、私は見逃さなかった。
困っているのではない。
答えを探しているのでもない。
どう答えれば、この話をここで終わらせられるか考えている顔だった。
「……古い記録については、現在整理中です。閲覧の可否も含めて、担当者の判断が必要になります」
「担当者の名前は?」
「申し訳ありませんが、個別にはお答えできません」
「では、問い合わせ先だけでも教えてください」
「学生課を通して申請してください」
それ以上は何も聞けなかったので、大学を後にする。
外は明るく、空中交通のシャトルが建物の向こうを横切っていく。透明な機体が朝の光を反射し、音もなく高架路を滑っていった。
学生たちは端末デバイスを見ながら歩き、自動配送車が静かに道路を走っている。掲示板には月面旅行の新しい広告が表示され、家族連れの観光客が、月面基地の展望デッキを背景に笑っていた。
世界は正常に動いている。
月へ行ける時代になり、大学の施設管理も電子化され、過去の研究記録までデータベースで管理されている。
なのに、私たちの調べていた部屋だけが、世界から切り取られたように消えていた。
「どう思う?」
メリーが訊いた。
「大学が何か隠してる」
「私もそう思う。職員の反応が、単に記録がない場合のそれではなかったわ。知らないのではなく、知っていることを話さないようにしていた」
「でも、それだけじゃない」
私は足を止めた。
構内の噴水の前だった。水は規則正しく噴き上がり、陽光を受けて細かな虹を作っている。その向こうに、旧研究棟の古びた外壁が見えた。
「私たちが見つけたものを、誰かが後から消した可能性がある」
「誰かって?」
「大学の人間かもしれない。昨日の夜に届いたデータを送った人間かもしれない。あるいは、鏡の向こう側にいる誰か」
最後の言葉を口にすると、メリーの表情がわずかに曇った。
「鏡の向こう側の人たちが、こちらの資料室を消したと思うの?」
「分からない。でも、向こう側からこちらへ干渉できるなら、可能性はゼロじゃない」
「それなら、私たちが見ていたものも、向こうが見せていたものかもしれないわね」
「そうなる」
「あなたは、それでも調べるの?」
「だから調べるんだよ。見せられているだけなら、誰が何のために見せているのかを知りたい」
メリーはしばらく黙っていた。
そのときだった。
「それなら、私に訊けばいい」
背後から声がした。
落ち着いた、よく通る声だった。
振り返ると、赤いジャケットを着た女性が立っていた。
年齢は私たちより一回り上くらいに見える。何よりも目を引くのは、燃えるような鮮やかな赤髪だ。その長い髪は後ろできちんと三つ編みに結ばれており、風に乱れていない。
大学教授らしい雰囲気はあるけれど、それ以上に研究者らしい。
人を観察することに慣れている目だった。
「宇佐見蓮子さん」
名前を呼ばれた。
私は反射的に一歩下がった。
「……誰ですか? どうして私の名前を知っているんです?」
「岡崎夢美」
女性は名乗った。
「それが私の名前よ。あなたたちが今話していた旧人文科学研究棟に、かつて所属していた研究者でもある」
岡崎夢美。知らない名前だった。
ただ、その名乗り方には妙な引っかかりがあった。まるで、私たちが彼女を知らないことのほうがおかしい、とでも言いたげだった。
「旧人文科学研究棟にいた研究者……?」
「昔の話よ。正確には、研究棟が現在の用途に改修される前まで、あそこで研究をしていた」
夢美は淡々と答えた。
「今はこの大学とは別の研究機関にいる。大学の所属ではないけれど、過去の研究資料については、まだいくつか照会を受ける立場にあるわ」
「じゃあ、地下資料室について知ってるんですか?」
「知っている」
即答だった。
メリーが私を見る。
私も彼女を見た。
これは怪しい。
怪しいというより、怪しすぎる。
私たちが地下資料室の消失について話していたところへ、元研究者を名乗る人物が現れた。しかも、私たちの名前まで知っている。
「昨日、私たちが地下に入ったことも?」
「知っている」
「どうして知っているんですか? あの場所は大学の記録にもないんでしょう。だったら、私たちが入ったことを確認できる人間もいないはずです」
夢美は答えなかった。
その沈黙が、かえって答えのように感じられた。
「幻視鏡に触ったことも?」
私が訊くと、夢美の視線がわずかに動いた。
ほんの一瞬だけ、旧研究棟の方角へ向く。
「……知っている」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「どうして?」
「質問が多いわね」
「そりゃそうでしょう。私たちが大学の地下に勝手に入っただけならまだしも、そこにあったものを知ってる人が突然現れたんですから。しかも、私たちが何を見つけたかまで把握している。説明を求めるのは当然だと思います」
夢美は私を見た。
それから、メリーへ視線を移す。
メリーは何も言わず、夢美の周囲を見ていた。彼女には、私には見えない何かが見えているのかもしれない。
「二人とも、思ったより早かった」
「何がですか? 私たちが地下資料室を見つけたことですか。それとも、幻視鏡を起動したことですか」
「両方よ。あなたたちがあの場所へ辿り着くまでに、もっと時間がかかると思っていた。少なくとも、過去の記録を読み解いてからだと思っていたわ」
私は眉をひそめた。
「幻視鏡って、あの鏡のことですよね」
「そう呼んでいるの?」
「私たちがつけた名前です。資料には正式な名称が書かれていなかったので、便宜的にそう呼んでいます」
「なるほど」
夢美は小さく笑った。
「なら、名前だけは同じだったわけね」
その言葉が引っかかった。
私たちがつけた名前と、過去の研究者たちが使っていた名前が同じ。
偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
「……どういう意味です? 過去の研究者も、あれを幻視鏡と呼んでいたんですか?」
夢美は答えなかった。
代わりに、静かな声で言った。
「あなたたちは、あれを何だと思っている?」
「鏡でしょう。少なくとも、見た目は鏡です。表面に像が映るし、私たちはその向こう側に別の京都を見た」
「本当に、それだけだと思っているの?」
「少なくとも、私たちにはそう見えます。けれど、普通の鏡ではないことくらいは分かっています。映っていたのは反射像ではなく、別の場所でした。しかも、向こう側には私たちとよく似た二人がいた」
夢美は首を振った。
「あれは、世界を覗くための道具じゃない」
風が吹き、京都の街路樹がざわめく。
噴水の水音が一瞬だけ遠のいたように感じられた。
「では、何なんですか? 私たちが見ていたものが、単なる映像ではないなら、あの鏡は何のために作られたんです?」
夢美は私たちをまっすぐ見た。
「世界の向こう側から、こちらを覗かれるための窓よ」
言葉が落ちた。
妙に静かだった。
通りを走る車の音さえ、遠く感じる。
私は、昨日の鏡の前で見た光景を思い出した。
向こう側の京都。こちらと同じようで、どこか違う街並み。
そして、こちらを見ていたもう一人の私。
あのとき、私は自分が向こうを見ていると思っていた。
けれど、もし夢美の言う通りなら、あの瞬間、向こう側の私もこちらを見ていたことになる。
「……窓?」
メリーが呟いた。
その声には、驚きよりも確認に近い響きがあった。
「そう。あなたたちが鏡の向こうを見ていたと思っていたでしょう?」
「実際に見ていました。少なくとも、私たちの側からはそう見えたわ」
「ええ。だから危険なの」
夢美の声には、初めて感情が混じった。
警告というより、過去に同じことを経験した人間の疲労が滲んでいた。
「見ていると思っている間に、向こうからも見られている。しかも、向こうがこちらを見ていることに気づいた時点で、もう観測は一方通行ではなくなる」
「観測が一方通行ではなくなると、何が起きるんですか?」
「それを知りたいから、あなたたちは調べているのでしょう?」
「質問に質問で返さないでください。私たちはまだ、何が起きるのか分かっていないから訊いているんです」
「分からないのよ」
夢美は、今度ははっきりと答えた。
「正確には、分かっていたつもりだった。過去の研究者たちは、境界を観測し、記録し、制御できると考えていた。でも、観測すること自体が境界に影響を与える可能性を、最後まで理解できなかった」
私は思わず黙った。
幻視鏡。もう一つの京都。向こう側の私。向こう側のメリー。そして、私たちが知らない何者か。
昨日届いた月面の都市の画像まで、同じ線の上に並び始めていた。
「……それを知っていて、大学は何も説明しないんですか?」
「説明できないのよ」
「できない?」
「正確には、説明すると困る人間が多すぎる。研究費を出した人間、研究を止めた人間、記録を消した人間。今も大学や研究機関の中にいる人たちが、過去の研究を公にしたくないと思っている」
「研究を止めた? 記録を消した? それは、事故があったということですか?」
「事故と呼ぶには、あまりにも意図的だったわ」
夢美はそう言って、私たちに一枚の紙を差し出した。
古い研究記録の複写だった。
紙の端は黄ばんでいる。けれど、中央に描かれた図形は鮮明だった。
そこには、見覚えのある幾何学模様が描かれている。
地下の扉に刻まれていたもの。
さらに、その周囲には月の軌道と、いくつもの鏡の位置を示すような線が書き込まれていた。
「この研究は、昔から続いていた」
「何を研究していたんですか? 鏡の構造ですか。それとも、鏡の向こうにある世界そのものですか」
「最初は、境界の観測だった」
「最初は?」
「研究が進むにつれて、観測対象が変わったのよ。世界と世界の間にある境界を調べていたはずが、いつの間にか、境界の向こう側に何がいるのかを調べるようになった」
メリーが紙を覗き込む。
「この記号、月面地図にあったものと似ているわ」
私は彼女を見た。
「月面地図の測定不能領域に表示されていた記号?」
「ええ。完全に同じではないけれど、線の重なり方が似ている。偶然とは思えないわ」
夢美の目が細くなる。
「月の異常まで見つけたのね」
「知っているんですか?」
「知っている。月面観測の欠損も、短時間だけ現れる二重像も、過去の研究記録には残っている」
「だったら、どうして誰も公表していないんですか?」
「公表できる形のデータにならなかったからよ。観測機器によって結果が違い、同じ機器でも再現しない。記録を取った人間の認識だけが一致して、機械のデータは欠落する。そんな現象を、科学的な発見として発表できると思う?」
「でも、調査は続けていた」
「ええ。続けていたわ」
夢美は紙を裏返した。
そこには、いくつもの日付と短い記録が並んでいた。
月面の測定不能領域。二重に見える月。観測者の記憶の不一致。
そして、最後の行には赤い線が引かれている。
観測対象からの反応を確認。
「世界の境界」
夢美が言った。
「それが、私たちの研究対象だった」
メリーが顔を上げた。
「……幻界?」
夢美の目が細くなる。
「その言葉を、どこで知ったの?」
「鏡の向こうで」
夢美は答えなかったが、深く息を吐いた。
その反応を見て、私は確信した。
夢美は幻界という言葉を知っている。
そして、私たちが鏡の向こうで何を見たのかも、ある程度は予想している。
「向こう側に、私たちと同じ人間がいました。京都もありました。けれど、私たちの世界とは少し違っていた。あれは、あなたたちが研究していた幻界なんですか?」
「あなたたちが見たものが、研究者たちの想定した幻界と同じものかどうかは分からない」
「でも、幻界という言葉は知っている」
「知っているわ。けれど、名前をつけたからといって、理解したことにはならない」
「それは分かっています。だから訊いているんです。あの世界は何なのか。なぜ私たちの世界と似ているのか。なぜ向こう側の人たちは、こちらのことを知っているのか」
夢美はしばらく私を見ていた。
それから、視線をメリーへ移した。
「なら、もう遅いわね」
「何が?」
「あなたたちは、既に見つけてしまった」
「何を見つけたんですか? 幻界そのものですか。それとも、幻視鏡がこちらを覗くための窓だということですか」
「どちらも違うわ」
夢美は静かに言った。
「あなたたちは、向こう側に自分たちを見つけた。自分と同じ姿をした存在を、ただの像ではなく、意思を持つ相手として認識してしまった。それが一番危険なのよ」
私は紙を握りしめた。
「だったら、もっと調べます」
「やめなさい」
「嫌です」
即答だった。
夢美が少し驚いた顔をする。
私は自分でも驚いていた。
正直に言えば、怖かった。
地下資料室が消えたことも、大学が何かを隠していることも、夢美が過去の研究を知っていることも怖い。
何より、鏡の向こうからこちらを見ている存在がいるかもしれないという話が、頭から離れない。
それでも、怖いからやめるという選択肢だけは、なぜか最初から存在しなかった。
「ここまで来て、何も知らないまま帰るなんて無理です。私たちはもう、向こう側を見てしまった。見なかったことにして普通の生活へ戻るなんて、そんな都合のいいことはできません」
「あなたは好奇心を少し甘く見ている」
「そっちこそ、大学生を甘く見てますよ。私たちは、危険だからやめろと言われて素直に引き下がるほど、聞き分けのいい学生じゃありません」
メリーが横で小さく笑った。
「蓮子、そこは自慢するところなの?」
「今はするところ。少なくとも、ここで黙って帰るよりはずっとましでしょう」
「そうね。私も、もう少し詳しく聞きたいわ。夢美さんが過去の研究者なら、私たちが見たものについて、知っていることを話してほしい」
夢美は二人を見比べた。
その目には、苛立ちよりも困惑があった。
まるで、私たちの反応を予想していたのに、実際に目の前にすると受け入れられないような顔だった。
「……そう」
夢美は、やがて視線を落とした。
その声には、諦めに似た響きがあった。
「それなら、これ以上は私から話せない」
「鏡は?」
「もうないわ」
「どこにあるんです?」
「あなたたちが探すべき場所にはない」
「それは、大学の外に移したという意味ですか? それとも、私たちが普通に探しても見つけられない場所にあるという意味ですか」
「どちらとも言えるわね」
「曖昧すぎます。私たちが探すべき場所にないなら、どこを探せばいいんですか」
「探さないで」
夢美は、今度ははっきりと言った。
「忠告しておくわ。幻視鏡を探すのをやめなさい」
「鏡を持っている人間から言われても、説得力がないですね」
「私が持っていると思っているの?」
「違うんですか?」
「少なくとも、私の机の引き出しにしまっておけるような物ではないわ」
「じゃあ、どこにあるんです?」
夢美は答えなかった。
「知っているからこそ、近づいてはいけないと言っているの」
「それなら、なぜ私たちに会いに来たんですか? 警告するだけなら、大学を通して連絡すればよかったでしょう。わざわざ私たちの前に現れて、過去の研究の話までして、最後に何も話せないと言うのは不自然です」
夢美は答えなかった。
私は一歩、彼女へ近づいた。
「あなたは、私たちを止めたいんですか。それとも、私たちが何をするか確認しに来たんですか?」
夢美は私を見た。
その目の奥に、初めて明確な動揺が浮かんだ。
そして、私たちを交互に見た。
「……やはり君たちが来たか」
その表情が変わった。
懐かしむような。
それでいて、ひどく疲れた顔だった。
「……あの時と同じだ」
私は、その意味を訊こうとした。
「誰と同じなんですか? 過去に同じように幻視鏡を見つけた人たちがいたんですか? その人たちは、どうなったんです?」
けれど、夢美はもう歩き始めていた。
私は追いかけようとしたが、メリーが私の腕を掴んだ。
「待って」
「でも、あの人は――」
「今は追わない方がいいわ」
「どうして?」
メリーは夢美の背中を見つめていた。
「境界が、あの人の周りだけ歪んでいるの」
夢美は人の流れの中へ消えていく。
学生たちの間を歩いているだけなのに、彼女の姿だけが妙に遠く見えた。数メートルしか離れていないはずなのに、まるで別の場所へ向かっているようだった。
残された私たちは、しばらく何も言えなかった。
「メリー」
「何?」
「あの人、絶対に何か知ってる」
「ええ。しかも、知っているだけじゃないわ。あの人は、過去に幻視鏡を使った人たちを知っている」
「それに――」
私は夢美の消えた方向を見つめた。
「あの時って、何のことだと思う?」
「分からない。でも、あの人の言い方は、単なる研究の失敗を思い出した人のものではなかったわ」
「じゃあ、何?」
メリーは答えなかった。
ただ、旧人文科学研究棟の方角へ顔を向けた。
そして、静かに言った。
「……私には、あの人の後ろに、もう一人いるように見えたわ」
私は振り返ったが、誰もいない。
夢美の姿も、もう見えなかった。
ただ、古い研究棟の窓だけが、午後の光を反射していた。
その窓の一つに、ほんの一瞬だけ、私たちとは違う二人の影が映ったように見えた。