秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
夢美と別れたあと、私たちは大学の中庭にあるベンチに座っていた。
午後の光は穏やかだった。
あまりにも穏やかで、さっきまで聞いていた話が夢だったように思えてくる。
幻視鏡。地下資料室。そして、世界の向こう側。
どれも普段の大学生活からは、ひどく浮いている。
なのに、私の頭の中では妙に綺麗につながっていた。
「……どう思う?」
メリーが隣で訊いた。
「何が、って訊き返したくなるくらい、考えることが多すぎるよ。地下資料室が消えたことも、夢美さんが私たちのことを知っていたことも、幻視鏡がただの鏡じゃないらしいことも、全部まとめて考えないといけない」
「私が訊きたかったのは、夢美教授の話よ」
「教授だったんだ」
「そこに反応するの?」
「いや、まあ、それは置いておこう。とにかく、あの人の話を信じるかどうかで、これからの調査方針が変わる」
私は端末を取り出した。
画面には、昨日まで集めた資料が並んでいる。
月面観測。旧人文科学研究棟。幻視鏡。向こう側の京都。そして、昨日届いた謎のデータ。
――月には、都市がある。
それぞれ単独なら、珍しい話ではない。
月の観測異常も。古い研究施設も。奇妙な鏡も。
都市伝説だって、京都にはいくらでもある。
でも、それらが一つの線でつながり始めている。
それが一番嫌だった。
「夢美教授は、幻界って言ってたわね」
「うん。幻界って、何なのかしら」
「それを考えるために、まずは私たちが見たものを整理しよう」
私は端末を閉じた。
「私たちが見たのは、鏡の向こうにある別の京都。そこには、私たちとよく似た二人がいた」
「ええ」
「でも、同じ世界ではない。街の様子も違っていたし、向こう側の二人は、私たちの知らない出来事を知っていた」
「同じように見えても、積み重ねてきたものが違う」
「そう。だから私は、最初は別の世界だと思った」
「別の世界?」
「並行世界、と呼ぶのが近いのかもしれない。私たちの世界と似た世界が、どこかに並んで存在している」
メリーは少し考えた。
「でも、夢美教授は幻界と呼んでいた」
「うん。だから、その言葉に何か意味があるのかもしれない」
「並行世界とは違うの?」
「分からない。夢美教授は、そこまで説明していなかった」
私は端末を開き直した。
「ただ、あの人の話から考えるなら、幻界は単に別の場所にある世界というより、私たちの世界から分かれた可能性が、現実として成立したものなのかもしれない」
「可能性そのものが世界になる」
「そう。私たちが何かを選んだとき、選ばなかった方が消えるんじゃなくて、別の場所で成立する」
その言葉を口にすると、妙に現実味が増した。
「例えば、私が京都の大学じゃなくて東京の大学に進学していた世界」
「それも幻界?」
「たぶん。少なくとも、夢美教授の定義なら可能性の一つとして成立しているはず」
「じゃあ、私が大学に進学しなかった世界も?」
「あり得ると思う。あなたが別の街で暮らしている世界も、そもそも私たちが出会っていない世界も」
メリーが少し黙った。
膝の上で、指先をゆっくり組み直している。
「嫌な考え方ね」
「どうして? 可能性が増えるなら、面白いじゃないか」
「可能性が全部世界になるなら、世界が多すぎるもの。私たちが知らないだけで、無数の世界が同時に存在していることになる」
「多すぎる?」
「あなたが今朝、何を食べるか迷ったでしょう。あれだけでも、選択肢の数だけ別の結果が生まれることになるわ」
「覚えてるの?」
「あなた、五分くらい悩んでいたもの。パンにするか、ご飯にするか、結局どちらも食べるか、朝食を抜くか。あれだけ迷えば、かなりの数の世界ができていそうね」
「そんなに悩んでないよ」
「時計を見ながら三回ため息をついていたわ」
「それは悩んでいたんじゃなくて、眠かっただけ」
「夢美教授の理屈なら、眠気で選択を先延ばしにした世界もあるでしょうね」
私は笑った。
「じゃあ、パンを選んだ世界と、ご飯を選んだ世界がある?」
「夢美教授の理屈なら、そうなるんじゃない?」
「くだらないわね」
「でも、そのくだらなさが世界を増やすのかもしれない。大きな決断だけが世界を分けるんじゃなくて、誰にも気づかれないような小さな選択まで積み重なって、別の世界を作っていく」
言ってから、自分でも少し変なことを言ったと思った。
世界という言葉は、もっと重いものだと思っていた。国とか、歴史とか、人類とか。
でももし、本当に可能性が世界になるのなら。
朝食を選ぶような小さな決断さえ、どこかでは別の未来を作っているのかもしれない。
「じゃあ、私たちが今ここにいることも?」
メリーが言った。
「何が?」
「私たちが出会ったことよ。あなたがあの日、あの場所に来なかった世界もある。あなたが声をかけなかった世界も、私があなたを無視した世界も」
私は答えなかった。
風が吹き、中庭の木の葉が一斉に揺れる。
大学の建物の壁に、葉の影が細かく踊っていた。
「……そういうことになる」
やっと答える。
「私とあなたが出会わなかった世界もある」
「ええ。私たちが秘封倶楽部を作らなかった世界もあるでしょうね」
「それどころか、私たち自身が違う人間になっている世界もある。性格も、記憶も、今まで歩いてきた道も、全部違っているかもしれない」
「ええ。そう考えると、同じ顔をしているだけでは、同じ人間とは言えないのかもしれないわ」
メリーの返事が、少しだけ寂しく聞こえた。
私は横顔を見る。
彼女はいつものように、遠くを見ていた。
「でも」
メリーが言った。
「私は、この世界のあなたがいいわ」
「急にどうしたの?」
「急にではないわ。今の話をしていたら、そう思っただけ。別の世界に別のあなたがいたとしても、私が知っているのは、ここにいるあなたでしょう」
彼女は目を逸らした。
「ただの感想よ。深い意味はないわ」
私は少し笑った。
「そういうことにしておく」
例え世界が無数にあるとしても、今ここにいる私たちまで偽物になるわけじゃない。
少なくとも私はそう思いたかった。
「ところで」
メリーが話題を変えた。
「夢美教授は、幻界同士が互いに観測できると言っていたわね」
「うん。境界が完全に閉じているわけじゃないらしい」
「じゃあ、鏡の向こうの私たちも、こっちを見ていた」
「そうなる。私たちが向こう側を見たのと同じように、向こう側からもこちらが見えていた」
「ということは」
メリーはそこで言葉を止めた。
視線だけが、私の端末へ落ちる。
「私たちが見ているだけじゃない。向こうも、こっちを見ている」
私は自分で言って、背筋が冷たくなった。
鏡の向こうの私。鏡の向こうのメリー。
彼女たちは私たちと同じように、こちらの世界を見ていた。
それはもう分かっているが、夢美の話はそこから先へ進んでいた。
幻界は互いに観測できるならば、観測する側とされる側は、固定されていない。
「観測だけなら、まだいい」
メリーが、今度は独り言ではなく、私に聞かせるように言った。
「見られていることが分かっているなら、こちらも警戒できる。問題は、見ているだけでは済まない場合よ」
「……干渉できるなら?」
「ええ。向こう側が、こちら側に何かを送ったり、こちらの出来事を変えたりできるなら、観測と干渉の境目がなくなる」
私はメリーを見る。
「干渉?」
「向こう側が、こちら側に何かをすることよ。物を送る。情報を送る。人の記憶に触れる。あるいは、こちらの選択を別の方向へ押し動かす」
私は黙り込んだ。
昨日のデータが頭に浮かんだ。
誰も送っていない観測データ。
誰も知らないはずの月面情報。
そして、向こう側のメリーが残した言葉。
――こちらの世界は、もうすぐ消える。
「待って」
私は端末を開いた。
「それって、もう起きてるんじゃない?」
「何が起きていると思うの?」
「向こう側からの干渉。少なくとも、情報のやり取りは始まっている」
私は昨日のデータを表示した。
「このデータ、私たちが要求したものじゃない。観測機関の公開データにもないし、大学の研究データベースにも引っかからない。検索履歴にも、私たちが取得した記録はない」
「ええ。だから、最初は誰かの悪戯か、記録の改竄だと思っていた」
「でも、それでもこっちに届いた。しかも、私たちが月の異常を調べているタイミングで」
「つまり、向こう側から何かがこっちに送られてきた」
メリーの顔から笑みが消えた。
しばらく、二人とも画面を見ていた。
小さな文字が並んでいる。
数字。座標。時刻。月面観測データ。そして、最後の一行。
――月には、都市がある。
「蓮子」
「うん」
「これ、誰が送ったと思う? 向こう側の蓮子か、向こう側の私か、それとも私たちがまだ見つけていない別の誰かか」
「分からない」
正直に答えた。
「でも、向こう側の私たちだけとは限らない。あの二人が送ったという証拠はないし、そもそも二人がこのデータを送れるほど自由に境界を扱えるのかも分からない」
メリーがこちらを見る。
「どういう意味?」
「もし幻界がたくさんあって、それぞれが境界を越えて観測できるなら、このデータを送ったのが、私たちの見ている京都の二人だとは限らない。別の幻界から、さらに別の存在がこちらを見ている可能性もある」
沈黙。
遠くでチャイムが鳴った。
講義の開始を知らせる、どこにでもある音だった。
こんな話をしている私たちを現実へ引き戻すには、あまりに普通すぎる。
「……嫌な世界ね」
メリーが言った。
「世界がたくさんあることが?」
「それだけなら、まだ受け入れられるわ。可能性が無数にあるという考え方は、怖いけれど美しくもあるもの」
彼女は空を見上げた。
「私が嫌なのは、その全部がこちらを見ているかもしれないことよ。しかも、見ているだけではなく、こちらへ手を伸ばせるかもしれないこと」
私は返事をしなかった。
そのとき、
「そういうところは、昔から変わらないのね」
背後から声がし、振り返る。
岡崎夢美だった。
「また会いましたね。さっき別れたばかりなのに、ずいぶん都合のいいタイミングで現れるんですね」
「あなたたちが、私の話をどこまで理解したのか確認したかったのよ」
「確認するだけなら、もっと普通の方法があるでしょう。背後から突然声をかける必要はないと思います」
「普通の方法では、あなたたちは警戒して本音を隠すでしょう。特にあなたは、相手に考える時間を与えると、都合のいい仮説を組み立ててしまうから」
「それは、考える時間がある方が正確な結論に近づけるという意味です」
「そういう言い方をするところも変わらないわね」
夢美は手に古い封筒を持っていた。
「少し話しておきたいことがある」
「幻界について?」
「そう。あなたたちは今、幻界を単なる別世界として考え始めている。でも、それではまだ足りない」
彼女は封筒の端を指でなぞった。
「それに、あなたたちが今見ているデータについても、説明できることがある。少なくとも、送信者を一人に決めつけるのが危険だという点では、私も同じ意見よ」
「だったら、ここで話してください」
「ここでは、あなたたちが聞くべきものを見せられない」
「見せられない?」
「ええ。幻界については、言葉だけで説明すると必ず誤解が生じる。あなたたちはすでに、向こう側を一つの世界として見ている。でも、あれは幻界の全体ではなく、境界に現れた一つの断面にすぎない」
夢美は封筒を軽く持ち上げた。
「この中には、過去の研究記録がある。あなたたちが見たものと、私たちがかつて記録したものを照合すれば、少なくとも何が起きているのかを考える材料にはなるわ」
「私たちに見せる理由は?」
「あなたたちが、もう無関係ではないからよ」
その言葉に、メリーがわずかに眉を動かした。
「無関係ではない、というのは?」
「あなたたちはすでに幻視鏡を起動した。しかも、二人で触れたときにだけ、境界の向こう側が安定して現れた。あれは偶然ではない」
「私たちが、何かの条件を満たしたということですか?」
「ええ。過去の研究記録に書かれていた条件と、あなたたちが幻視鏡を起動した状況が一致している」
夢美は更に言葉を続ける。
「実際に境界を見られるか、観測したものをどの程度正確に記憶できるか、そして二人が揃ったときに境界がどう変化するかを確認する必要があったの」
「それで、私たちをずっと見ていたんですか?」
「ずっと、というほどではないわ。あなたたちが幻視鏡に触れるまでは、候補の一つにすぎなかった。けれど、あの鏡が起動した時点で、無視できなくなった」
「それなら、最初からそう言えばいいでしょう」
「最初から正直に話して、あなたたちが信じると思う?」
「少なくとも、背後から現れるよりは信じます」
夢美はわずかに笑った。
「あなたは、昔からそういうところが変わらないのね」
「昔から?」
「……気にしなくていいわ。今のあなたに、過去の記憶を重ねているだけかもしれない」
「それは、私が別の幻界の人間に似ているという意味ですか?」
「似ているのではなく、可能性が重なっているのかもしれない。幻界では、同じ顔や同じ名前が、別の役割を持って現れることがある」
夢美は封筒を開いた。
中から、折り畳まれた数枚の資料を取り出す。
「研究は途中で終わった」
「どうして?」
「こちら側だけを見ているうちは、安全だったからよ」
夢美は資料の一枚を開いた。
そこには、複雑な図形と数式が並んでいた。
「けれど、境界の向こう側にも観測する存在がいると分かった。しかも、向こう側の観測がこちら側の記録に影響を与え始めた。数値が変わる。写真の人物が入れ替わる。研究者の記憶から、同僚の名前が抜け落ちる。最初は疲労や入力ミスを疑ったわ」
「こちら側だけ?」
「ええ」
夢美の声が低くなる。
「向こう側から、こちらを見返していると気づくまではね。観測される対象だったはずの幻界が、こちらの観測を記録し、こちらの存在を分類し始めていた」
私は息を呑んだ。
「それが、幻界の干渉?」
「そう。最初は、観測データの誤差だと思っていた。次に、誰かが研究記録を書き換えていると考えた。そして最後に、記録を書き換えていたのは境界の向こう側にいる何かだと分かった」
「何かって、向こう側の私やメリーではないんですか?」
「あなたたちが見た二人が、すべての原因だとは限らないわ。彼女たちもまた、別の何かを見ている可能性がある」
その言葉に、私は昨日の鏡を思い出した。
向こう側の京都。向こう側の二人。
そのさらに向こうに、別の視線があったのだろうか。
夢美は資料を閉じ、私たちを見た。
「だから、あなたたちに伝えておきたいのは、幻界が危険だということだけではない。あなたたちが観測した瞬間から、向こう側にもあなたたちの存在が記録されている可能性があるということよ」
「私たちが、向こう側から探される?」
「すでに探されているかもしれない。あなたたちが境界を見つければ、向こう側もこちらへ手を伸ばしやすくなる」
「それなら、どうして私たちにこんな話をしたんですか?」
メリーが訊いた。
「危険だと分かっているなら、調査をやめさせればいいでしょう」
「やめさせようとはしたわ」
「でも、私たちはやめなかった」
「ええ。だから、せめて自分たちが何をしているのか知っておくべきだと思ったのよ」
夢美は一度、壁へ視線を戻した。
「それに、あなたたちがすでに選ばれているなら、私が止めても別の形で扉は開く。幻界は、誰か一人の意思だけで閉じられるものではないわ」
「選ばれているって、誰に?」
「それはまだ分からない。過去の研究者たちも、最後までそこには届かなかった」
「だったら、何を知っているんですか?」
「境界が存在すること。可能性が世界として成立すること。そして、成立した世界同士が互いを観測し、時には干渉すること。そこまでは確認できた」
夢美はそこで言葉を切った。
封筒の中から、最後に一枚の写真を取り出す。
「そして、その研究の最後に撮られた写真よ」
夢美はようやく写真を差し出した。
私は受け取った。古い写真だった。
何人かの研究者が、旧人文科学研究棟らしき場所に並んでいる。
背景には、見覚えのある扉が写っていた。
地下資料室へ続いていた、あの扉。
写真の中の研究者たちは、誰も笑っていない。
全員が、カメラの向こうにある何かを警戒しているように見えた。
その中に、一人の女性がいた。
長いブロンドの髪。穏やかな顔。どこか西洋的な雰囲気。
けれど、私は写真から目を離せなくなった。
輪郭も。目元も。口元も。
見間違えるはずがない。
「……メリー?」
隣にいたメリーが息を止めた。
写真の中の女性は、メリーとまったく同じ顔をしていた。