秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
翌朝。
岡崎夢美は、大学から消えていた。
最初にそれを知ったのは、私だった。
正確には、消えたことを知ったというより、彼女の存在を確かめようとして、何も見つけられなかった。
昨日まで確かにそこにいた人間が、朝になったら妙に遠い存在になっている。
そういう感覚だった。
「夢美教授について調べてみたんだけど」
大学の図書館で、私は端末の画面をメリーに見せた。朝の講義が始まる前だというのに、私たちは旧研究棟の資料を調べるため、図書館の奥にある閲覧席へ来ていた。
「どうだった?」
「それが妙なの。確認しようとすればするほど、資料が少なくなっていくのよ」
「少ないって、検索に引っかからないという意味? それとも、記録そのものが削除されているの?」
「両方。最初は単なる登録漏れだと思ったけど、そう考えるには不自然すぎる」
検索結果には、ほとんど何も表示されなかった。
岡崎夢美。過去に旧人文科学研究棟で研究していた人物。
それだけなら、大学の古い記録を探せば多少は情報が出てくるはずだった。
ところが検索すればするほど、彼女の存在が薄くなっていく。
研究者名簿には名前がなく、過去の論文データベースにも所属記録がない。
図書館の蔵書検索では、著者名として一件だけ古い記録が出た。
開いてみるが、エラー。
もう一度検索する。
今度は、その一件すら消えていた。
「昨日、夢美教授から聞いた話を裏付ける記録が、何か残っていると思ったの」
私は画面を見つめた。
「でも、何もない。まるで、最初から大学にいなかったみたい」
それから私たちは黙り、窓の外を見ていた。
京都の朝は、今日も平和だった。
道路を静かに進む自動運転車。古い寺の屋根。新しい高層研究施設。
昔と未来が同じ景色の中にいる。
そのどこにも、昨日までいた夢美の姿はなかった。
「蓮子」
「なに?」
「昨日の写真、持ってる? あの研究者たちが写っていた写真を、もう一度見せてほしいの」
「もちろん。夢美教授が消えたことと、あの写真に何か関係があると思う?」
私は鞄から写真を出した。
古い紙の匂いがした。
写真には研究者たちが写っている。
そして、その中にメリーと同じ顔をした女性がいる。
昨日までは、その写真そのものが夢美の存在を証明しているように思えた。
けれど今は違った。
証拠があるのに、証明する相手がいない。
まるで世界のほうが、夢美という人物を忘れようとしている。
「……気持ち悪い」
メリーが小さく言った。
「私もそう思う。写真が残っているからこそ、夢美教授が本当に存在していたと信じられる。でも、その写真を見せてくれた本人が消えてしまうと、写真のほうまで別の世界から紛れ込んだものに見えてくる」
「あなたがそこまで不安そうに話すの、珍しいわね」
「私だって怖いものは怖いよ。分からない現象を面白がることと、何も危険がないと思うことは別だから」
私は写真を裏返した。
そこには何も書かれていない。
ただ、紙の端に小さな黒い汚れがある。
昨日は気づかなかった。
指で触れてみる。
墨のようなものだった。
「これ、昨日からあった?」
「分からない。昨日は表の写真に気を取られていて、裏側まで確認していなかった」
メリーが写真を受け取り、しばらく眺めていた。
黒い汚れを指先でなぞり、紙を光に透かす。
そして、顔を上げた。
「夢美教授の最後の痕跡を探しましょう」
「痕跡?」
「この写真の場所。旧研究棟」
「うん、行こう。講義よりも、今はそちらを優先した方がいい」
私は立ち上がった。
講義が始まる時間まで、まだ少しある。
それで十分だった。
*****
旧人文科学研究棟は、昼間でも妙に静かだった。
廊下の壁には古い掲示板。
その上に、何年も前の研究発表のポスターが残っている。
人類学。宗教学。認知科学。天文学。
それぞれ違う分野の言葉が並んでいる。
けれど、その地下では、それらが一つの研究に集まっていた。
私たちは階段を下りた。
地下二階。前に来たときと同じ扉。
しかしその先に資料室はなく、壁だった。
「……やっぱり、ここには何もない」
私は壁に手を伸ばした。
「前はここにあったのよね。扉を開けた先に、地下資料室があって、その中に幻視鏡が置かれていた」
「ええ。私も見たわ。あなたが一人で見た記憶を、私が後から合わせているわけではない」
「本当に?」
「私が嘘をついているように見える?」
「見えない。でも、記録から夢美教授が消えた今は、私たちの記憶まで誰かに書き換えられていないか疑いたくなる」
「それなら、私たちが同じ記憶を持っていることをどう説明するの?」
「説明できないから困っているんだよ」
メリーは壁の前に立ち、しばらく目を閉じる。
それから、ゆっくりと目を開けた。
「あるわ」
「何が? 資料室が残っているの?」
「資料室そのものではないわ。壁の向こうに、別の空間が重なっている。境界が、まだ完全には閉じていないの」
「どんなふうに見える? 前に見た資料室と同じ場所なのか、それとも別の幻界につながっているの?」
「まだ判別できない。輪郭が二重になっていて、こちら側の壁と、向こう側の空間が重なっているように見える」
「資料室?」
「たぶん。だけど、以前よりも暗い。棚や机の形は見えるけれど、そこにあったはずの物がいくつか欠けている」
メリーは壁に手を近づけた。
「でも、昨日までとは違う」
「どう違う? 境界が開きかけているの?」
「逆よ。境界が薄くなっている。誰かがこちら側へ出てきたか、向こう側へ戻っていったみたい」
私は壁を見つめた。
何も見えない。
それでも、背中が少し冷えた。
「夢美教授が通った?」
「分からない。人が通ったような痕跡はあるけれど、夢美教授だと断定できるほどはっきりしていない」
メリーは手を下ろした。
「ただ、ここにいたのは間違いないと思う。境界の縁に、あの人の記憶のようなものが残っている」
「記憶のようなもの?」
「うまく説明できないわ。誰かが長い時間ここに立っていたあとみたいに、空間の一部だけが重くなっているの」
メリーは壁の脇へ歩いた。
古い消火器の横に小さな紙片が落ちていた。
それを拾い上げると、裏側に手書きの文字が書かれていた。
私は読んだ。
――観測者。
その下に、もう一つ。
――境界を視る者。
「……これ、夢美教授が書いたのかな」
私は紙を見つめ、答える。
「筆跡を確認できる資料がないから断定はできない。でも、写真の裏に付いていた黒い汚れと、この紙のインクは似ている」
「誰のことだと思う?」
メリーが訊く。
「分からない」
嘘だった。
なんとなく、分かってしまった。
観測者。
私は星を見、時間を知る。月を見、場所を知る。世界を観測する。
境界を見る者。
それはメリーだ。
世界と世界の継ぎ目を見つける彼女。
私たちは顔を見合わせた。
「私たちのこと?」
「そう考えるのが自然ね。あなたは遠くにあるものを、時間や位置と結びつけて観測できる。私は、普通の人には見えない境界を見つけられる」
「でも、それを夢美教授が知っていたとしても、どうして私たちを役割で呼ぶの?」
「名前で呼ぶより、研究上の分類として扱った方が都合がよかったのかもしれない。あるいは、私たち個人ではなく、同じ条件を持つ人間を指している可能性もあるわ」
「いつから、そんな条件が決まっていたの?」
「分からないわ。少なくとも、夢美教授が私たちに会う前から、誰かがこの二つの役割を想定していたことになる」
「夢美教授は、私たちが来ることを知っていた」
「ええ。私たちを見て驚かなかった。まるで、いつかここへ来ると分かっていたみたいに」
「じゃあ、最初から私たちを待っていたの?」
メリーは答えない代わりに、紙を裏返した。
裏には、さらに小さな文字があった。
――二つの能力が揃った時、観測は一方通行ではなくなる。
「これって……」
「幻視鏡の起動条件に似ているわ」
メリーが言った。
「私たちが二人で触れたとき、鏡は起動した」
「蓮子が場所を定めて、私が境界を見つけた」
「そういうこと?」
「まだ断定はできない。でも、偶然にしては重なりすぎている」
「どちらにしても、私たちが揃うことが条件になっている」
「ええ。だから、夢美教授は私たちを止めようとしたのかもしれない」
そのとき、廊下の照明が一つ消えた。
ぱち、と小さな音。
私たちは同時に振り向くが、誰もいない。
「今の、誰かが通った音じゃない?」
「照明が切れただけだと思う。でも、ここはさっきまで点いていたし、廊下の他の照明は消えていない」
「本当にただの故障?」
「分からない。だから、今はここに長くいない方がいいわ」
自分で言っておいて、頼りない。
私は紙を折り、鞄にしまった。
「もっと調べよう。夢美教授が残したものを探す」
「どこを調べるの? この壁の向こうは、私たちには見えないし、境界もいつ閉じるか分からない」
「大学の記録と、夢美教授が使っていた研究室。本人が消えたからこそ、残された資料を探す必要がある」
「でも、本人が消えたのよ。記録まで薄れているなら、残したものも同じように消えるかもしれない」
「だからこそよ。消える前に見つける」
私は立ち上がった。
「何か残しているはず。夢美教授は、私たちがここへ来ることを予想していた。なら、私たちが次に何を調べるかも考えていた可能性がある」
メリーが私を見る。
「蓮子、怖くないの? 夢美教授が幻界へ消えたのだとしたら、私たちが同じ場所へ近づいていることになるわ」
「怖いよ。さっきからずっと、背中に誰かの視線がある気がする」
「じゃあ、どうして調べるの?」
「怖いから調べるんじゃない」
私は少し考えてから言った。
「分からないままなのが嫌なの。夢美教授が自分の意思で消えたのか、誰かに連れていかれたのか、それとも世界から存在を削られたのか。そこを確かめないと、私たちが次に何を失うのかも分からない」
メリーが笑った。
「そういうところ、あなたらしいわ。危険を感じても、まず原因を知ろうとする」
「原因が分からないと、対策も立てられないでしょう」
「それが、あなたの強さなのか無謀さなのか、まだ判断できないわ」
*****
その日の夕方。
私たちは大学の図書館へ戻り、夢美に関する資料を再び探した。
研究者名簿。論文。旧研究棟の利用記録。
どれも不自然なほど欠落しているけれど、完全ではなかった。
検索結果の奥に、一つだけ残骸があった。
古い研究記録で著者名は消えているが、本文の一部だけが復元可能だった。
私は画面を拡大した。
そこには、二つの言葉が並んでいた。
観測者。
境界を視る者。
そして、その下に一行。
――二人が揃えば、扉は開く。
私は息を止めた。
「メリー、これを見て。さっき地下で拾った紙と、ほとんど同じ言葉が残っている」
「ええ。紙片がこの記録を写したのか、それとも同じ研究資料を別々に書き写したのかは分からないけれど、夢美教授が昨日思いつきで書いた言葉ではなさそうね」
「これ、どういう意味だと思う? 扉というのは、地下資料室の境界のこと?」
「可能性は高いわ。でも、幻視鏡を起動したときに開いたものが、単なる部屋の扉だったとは思えない」
メリーは画面から目を離さなかった。
「私たちが見たのは、別の京都だった。あれは空間の向こう側というより、別の可能性として成立した世界だったのでしょう?」
「夢美教授の説明では、そうだった。幻界は単なる並行世界ではなく、存在し得た可能性が世界として成立したもの」
私は答えながら、昨日の夢美の言葉を思い返していた。
「なら、扉が開くというのは、別の場所へ移動することではなく、別の可能性へ接続することかもしれない」
「それなら、夢美教授が消えた理由も説明できる?」
「説明ではなく、仮説ね。境界が開いたとき、夢美教授が自分から向こうへ行ったのか、向こう側から引き込まれたのかは分からない」
「でも、少なくとも、あの人は幻界への接触方法を知っていた」
「そして、私たち二人が揃うことを、その条件の一つとして記録していた」
私は画面を見つめた。
そのとき、ふと気づいた。
「メリー、この記録、日付がない」
「本当ね。作成者も、保存場所も消えている」
「でも、端末には保存された年代が残ってる」
私は表示を確認した。
かなり古い。私たちが生まれるよりずっと前。
もちろん、秘封倶楽部なんて存在していない。
それなのに、記録にはまるで私たちを知っているような言葉が残っていた。
「……偶然だと思う? 私たちが同じ役割に当てはまっただけで、記録に書かれた二人とは無関係だという可能性もある」
メリーが訊いた。
私は答えられなかった代わりに、さっき拾った紙を取り出す。
観測者。
境界を視る者。
紙の文字を見つめる。
私の知らない誰かが、私たちの役割を知っていた。
それは少し嬉しくて、同じくらい不気味だった。
「夢美教授は、これを知ってた」
「ええ。だから私たちを止めようとしたのかもしれない。幻視鏡を探すなと言ったのも、私たちが二人で調査を続ければ、境界を再び開いてしまうと知っていたから」
「でも、本人は消えた」
メリーが顔を上げる。
「……幻界に連れていかれたのかもしれない。あるいは、夢美教授自身が境界を開いて、何かを確かめるために向こうへ行った可能性もあるわ」
「どちらにしても、あの人が戻っていないことは同じね」
「ええ。そして、記録から存在まで薄れているなら、時間が経つほど夢美教授を覚えている人間も減っていくかもしれない」
その言葉は、以前なら荒唐無稽に聞こえただろうが今は違う。
別の京都を見た。
もう一人の自分を見た。
向こう側からこちらを見ている二人とも話した。
世界は一つではない。
それを知ってしまったこそ、夢美の消失も完全には否定できない。
「探そう」
私は言った。
「夢美教授を? 幻界の中まで追いかけるつもり?」
「まずは、夢美教授が残した記録を全部読む。どこへ行ったのか、何を知っていたのか、どうして私たちを止めたのか。それが分からないままでは、追いかけることもできない」
メリーが少し笑った。
「結局、そこなのね。危険な扉を開く前に、資料を全部確認する」
「研究者なんだから仕方ないでしょう。少なくとも、何も知らずに境界へ触れるよりはましよ」
「あなた、研究者じゃなくて探偵のほうが向いてるんじゃない?」
「探偵は星を見て時刻を当てたりしないよ」
「それは探偵によるわ。証拠を集めるために、天体観測くらいする人もいるかもしれない」
私はほんの少しだけ笑った。
でも、笑ったあとで胸の奥が重くなる。
夢美がいなくなった。記録からも。大学からも。
もしかすると、この世界からも。
だったら私たちは、次に何を失うのだろう。
その問いを口にする前に、端末の画面が切り替わった。
保存されていた古い記録が、一枚だけ開いた。
私たちが操作したわけではない。
検索結果の一覧から、消えていたはずのファイルが一つだけ浮かび上がったのだ。
「今、何か操作した?」
メリーが訊いた。
「してない。検索結果を見ていただけ」
「それなら、どうして開いたの?」
「分からない。誰かが遠隔で開いたのか、それとも、記録の方からこちらへ出てきたのか」
画面には、夢美の筆跡らしい文字があった。
短い記録で日付もなく、宛先もない。
ただ、一行だけ。
私は声に出して読んだ。
「二人が揃えば、扉は開く」
メリーが黙った。
私も黙った。
その言葉の意味を、まだ誰も知らない。
ただ一つだけ分かる。
私たち二人が揃っていること自体が、何かを動かしている。
そう思った瞬間、図書館の窓の向こうに夜の月が見えた。
私は反射的に空を見上げた。
十九時十三分。
月は一つ。少なくとも、今は。
けれどその隣に。
ほんの一瞬だけ、もう一つの淡い光が浮かんだ気がした。