秘封幻界録 〜 The Vision of Albion.   作:ぴの光

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3話 月面旅行の広告

 月へ行くことが、特別なことではなくなった。

 

 そう聞かされても、私はいまだに少し信じられない。

 

 子供の頃、月は空の上にあった。

 

 手を伸ばしても届かない。

 

 望遠鏡を使っても、表面の細かいところまでしか見えない。

 

 月というものは、そういう場所だった。

 

 人間が眺めるためのもの。

 

 詩人が歌うためのもの。

 

 科学者が数字を並べるためのもの。

 

 そして、いつか誰かが行くかもしれない場所。

 

 ところが今では、その「いつか」が旅行会社の広告になっている。

 

 大学へ向かう途中、駅前の巨大なディスプレイに月が映っていた。

 

 灰色の大地。

 

 黒い空。

 

 その向こうに浮かぶ青い地球。

 

 映像の中では、白い宇宙服を着た旅行客が月面を歩いている。足元から細かな砂が跳ね、低重力の中でゆっくりと舞い上がる。旅行客は振り返り、まるで地上の観光地で記念写真を撮るように、背後の地球へ手を伸ばしていた。

 

 そして画面の中央に、大きな文字が浮かんだ。

 

 Kaleidoscope Project

 

 ――民間月面旅行、予約受付中。

 

「……月かあ」

 

 私は立ち止まった。

 

 広告の中の月は、現実の月よりもずっと鮮やかだった。灰色の大地には青白い照明が当てられ、基地のドームは宝石のように輝いている。画面の端には、旅行客向けの施設が次々と紹介されていた。

 

 月面基地内のホテル。

 

 低重力スポーツ。

 

 地球観測ツアー。

 

 月面博物館。

 

 展望ドームから見る地球の出。

 

 広告というものは、昔から夢を商品にするのが得意らしい。

 

 昔の旅行広告なら、南の島とか海外の都市とかだったのだろう。まだ見ぬ海岸や、異国の街並みや、遠い大陸の写真を見せて、人々の心を遠くへ連れていく。

 

 今は月だ。

 

 少しだけ時代が進みすぎている。

 

 あるいは、私たちの方が夢に追いついてしまったのかもしれない。

 

「好きね」

 

 隣にいたメリーが言った。

 

 彼女は私の顔ではなく、ディスプレイに映った月を見ていた。広告の光が淡い金色の髪に反射して、髪の先だけが月明かりのように白く見える。

 

「好きだよ」

 

「そんなに?」

 

「そんなに。だって、月だよ。空に浮かんでいるものを、実際に歩けるんだよ?」

 

 私は自分でも少し興奮しているのが分かった。声が普段より高くなっている。広告の内容は、ほとんどが旅行会社の誇張だろう。それでも、月面の砂を踏むことができるという事実だけは、どうしても胸を躍らせた。

 

「行きたい?」

 

 メリーが聞いた。

 

「行きたい」

 

 考えるより先に答えていた。

 

「本当に? 広告を見て、勢いで言っているだけじゃないの?」

 

「もちろん本気だよ。月面基地の設備も、旅行日程も、必要な訓練も、あとで全部調べる。料金だって、たぶん昔の海外旅行より少し高いくらいでしょう?」

 

「少し、という言葉の使い方が間違っている気がするわ」

 

「でも、一生働いても届かないほどじゃない」

 

「蓮子は、月へ行くためなら本当に貯金を始めそうね」

 

「始めるよ。今からでもいい」

 

「今から?」

 

「今から」

 

 私はディスプレイの月を指差した。

 

「怖いわけないでしょう。宇宙だよ?」

 

「昨日、地下道で怖がっていたのに」

 

「それとこれとは話が違う」

 

「どう違うの? どちらも、暗くて、何があるか分からない場所でしょう」

 

「地下道には何がいるか分からない。でも月には、少なくとも分かっているものが多い。地形も、気圧も、放射線量も、基地の位置も、危険区域も、全部データになっているから」

 

「つまり、データになっていれば怖くないのね」

 

「かなり怖くなくなる」

 

「月には?」

 

 メリーが、広告の中で静かに回転する月を見上げた。

 

「何もいない」

 

 私はそう答えた。

 

 けれど、言葉にした瞬間、ほんの少しだけ迷いが生まれた。

 

 月には何もいない。

 

 人間が長い時間をかけて観測し、地図を作り、基地を建て、旅行客を送り込めるほど調べた場所だ。未知の生物も、古代文明も、神話の怪物も、そこにはいない。

 

 いないはずだった。

 

「……たぶん」

 

 私が付け足すと、メリーがこちらを見た。

 

「今の間、何?」

 

「気のせい」

 

「気のせいにしては、ずいぶん長い間だったわ」

 

「広告の演出に引っ張られただけだよ。あの映像、ちょっと不気味でしょう? 月面の暗い部分を必要以上に強調しているし」

 

「そうかしら。私は、あの暗さは嫌いじゃないけれど」

 

「メリーは、そういうところが変なんだよ」

 

「蓮子に言われたくないわ」

 

 メリーが笑った。

 

 私も笑う。

 

 朝の駅前はいつも通りだった。

 

 通勤客が行き交い、学生が端末を見ながら歩き、配送ロボットが人の足元を器用に避けていく。自動運転車は信号の変わる少し前に速度を落とし、駅の屋根では小型の広告ドローンが静かに旋回している。

 

 その全部を見下ろすように、巨大な月がディスプレイの中で輝いていた。

 

 現実の月は、広告の月よりずっと小さい。

 

 朝の空に浮かぶ白い月は、手を伸ばせば届きそうなほど淡く、けれど実際にはどれだけ手を伸ばしても届かない。

 

 私は、そちらの方が好きだった。

 

 広告の月は、人間のために整えられすぎている。

 

 現実の月には、まだ人間の都合に合わせていない部分が残っている。

 

 そのことが、少し嬉しかった。

 

*****

 

 大学に着いてからも、私は月のことを考えていた。

 

 講義が始まるまでの時間、私は端末で月面旅行の公式サイトを開いた。画面には、旅行会社が用意した月面基地の見取り図が表示される。

 

 基地の外周には、放射線を遮るための土壌が厚く積まれている。人間が月で暮らすために必要なものが、ひとつずつ数字と図面に置き換えられていた。

 

 料金。

 

 日程。

 

 月面基地の設備。

 

 参加条件。

 

 思っていたより現実的だった。

 

 もちろん安くはない。

 

 でも、一生働いても届かないほどではない。少なくとも、広告はそう思わせるように作られている。

 

 昔なら、一生かけても無理だっただろう。

 

 それが今は、少し頑張れば届く。

 

 月までの距離が縮まったのか。

 

 人間の方が遠くまで行けるようになったのか。

 

 たぶん両方だ。

 

 遠い場所を近くするのは、距離そのものを変えることではない。そこへ行くための道を作り、時間を短くし、費用を下げ、危険を管理することだ。

 

 そうやって人間は、遠い場所を少しずつ日常の側へ引き寄せてきた。

 

 月も、その一つになった。

 

「蓮子」

 

 メリーが横から画面を覗き込んだ。

 

「何してるの?」

 

「旅行の予約」

 

「本当に?」

 

「嘘」

 

「どっちなの?」

 

「調べているだけ。今のところはね」

 

「今のところは、ということは、将来的には予約するつもりなのね」

 

「もちろん。メリーも一緒に行く?」

 

 私は冗談半分で聞いた。

 

 けれど、メリーはすぐには答えなかった。

 

 画面の中で、月面基地の模型がゆっくり回転している。白いドームと細い連絡通路。人間が月の上に作った、小さな人工都市。

 

「どうかしら」

 

「興味ない?」

 

「月には興味があるわ」

 

「じゃあ、行きたいでしょう?」

 

「蓮子は、月へ行けば月を見つけられると思っているの?」

 

 私は画面から顔を上げた。

 

「どういう意味?」

 

「そのままの意味よ。月面基地へ行って、観光ルートを歩いて、用意された展望台から地球を眺める。それで、月を見つけたことになるのかしら」

 

「月はそこにあるでしょう」

 

「ええ。人間が見つけた月はね」

 

 メリーは画面をスクロールした。

 

 月面基地。

 

 観光ルート。

 

 着陸地点。

 

 観測施設。

 

 人間が作ったものばかりだ。

 

「私はホテルには興味がないわ」

 

「じゃあ、何に興味があるの?」

 

 メリーは少し黙った。

 

 窓の外へ視線を向ける。大学の建物の向こうには、昼の空が広がっている。月はもう見えない。見えないけれど、そこにあることだけは分かっている。

 

「私は、人間がまだ見つけていない月が見たい」

 

 メリーは、空を見たまま言った。

 

 私は彼女の横顔を見つめた。

 

「……詩人だね」

 

「褒めているの?」

 

「半分は」

 

「残り半分は?」

 

「変人」

 

「それはお互い様でしょう?」

 

「確かに」

 

 私たちは笑った。

 でも、メリーの言葉は妙に頭に残った。

 

 人間がまだ見つけていない月。月には、もう地図がある。衛星写真もある。月面の地形は、かなり詳しく分かっている。

 なら、「見つけていない月」なんてあるのだろうか。

 

 地形として未確認の場所なら、まだあるかもしれない。観測機器の故障や、データの欠損、解像度の問題。そういうものなら、科学的に説明できる。

 でも、メリーが言った「月」は、地形の話ではないように聞こえた。

 

 月という場所そのものに、まだ人間の知らない顔がある。

 

 そんなふうに聞こえた。

 

 私はその疑問を、昼休みに調べることにした。

 

*****

 

 大学の図書館は、昔の図書館とはずいぶん違う。

 

 紙の本もある。

 古い資料を保存するための書架も残っている。

 けれど、検索するなら端末を使った方が早い。必要な情報を入力すれば、世界中の観測機関や大学が公開しているデータへ、ほとんど瞬時にアクセスできる。

 

 私は月面地形データを開いた。

 

 空中に、立体的な月が浮かび上がる。

 

 指で回転させる。

 

 クレーターの名前。

 

 山脈。

 

 有人基地。

 

 情報が次々と表示される。

 月は、地球から見上げるよりもずっと複雑だった。

 

 白い円盤に見える表面には、無数の凹凸があり、光の当たり方によって別の顔を見せる。人間はその一つひとつに名前をつけ、座標を与え、写真を撮り、地質を調べてきた。

 

 名前をつけることは、見つけることに似ている。

 少なくとも、私はそう思っていた。

 

「ほら」

 

 私はメリーに画面を見せた。

 

「ほとんど全部分かっているでしょう?」

 

「そうね」

 

「これだけ調べられているんだから、未発見の場所なんてないよ。少なくとも、普通の意味では」

 

「本当に?」

 

「少なくとも、地形としては」

 

「地形としては?」

 

「……言葉の揚げ足を取らないでよ」

 

 メリーは笑った。

 

 私は月面地図を拡大した。

 

 そのときだった。

 

「ん?」

 

 一部分だけ、表示が粗い。

 

 最初は、端末の処理が遅れているのだと思った。けれど、数秒待っても表示は変わらない。月面の一部が、薄い灰色のまま残されている。

 

 周囲の地形は、クレーターの縁まで細かく描かれている。標高の変化も、地質の違いも、過去の探査機が残した走行跡まで表示されている。

 

 なのに、その場所だけが空白だった。

 

「何これ?」

 

 私は画面を拡大した。

 

 空白は消えなかった。

 

 むしろ拡大するほど、周囲の精密さとの違いがはっきりした。そこだけ、月面の一部が切り取られているように見える。

 

「データ欠損かな」

 

 私は独り言のように言った。

 

「どこ?」

 

「ここ。南東側の高地。座標を表示するね」

 

 私は指で空白を示した。

 

 メリーが画面に顔を近づける。

 

「……そこなのね」

 

「何か知っているの?」

 

「知らないわ」

 

「じゃあ、どうしてそんな顔をするの?」

 

「どんな顔?」

 

「見つけた顔」

 

 メリーは答えなかった。

 

 月面地図の空白を見つめている。

 

 その目には、驚きよりも確信に近いものがあった。まるで、初めて見たのではなく、ずっと探していたものをようやく見つけたような顔。

 

 私はデータの詳細を開いた。

 

 取得日時。

 

 観測衛星。

 

 解像度。

 

 公開範囲。

 

 いずれも正常。

 

 欠損を示す警告もない。

 

 データがないのではなく、データがあるのに表示されていない。

 

 そんなふうに見えた。

 

「変だな」

 

 私が言うと、メリーは画面から目を離さずに答えた。

 

「でしょう? 周囲のデータがこれだけ揃っているのに、ここだけ何もない。単なる観測漏れなら、別の衛星の記録や古い画像が残っているはずだもの」

 

「でも、公開データの統合ミスかもしれない。複数の観測機関のデータを重ねると、座標系がずれることがあるから」

 

「蓮子は、何でも普通の理由に戻したがるのね」

 

「普通の理由で説明できるなら、その方がいいでしょう。説明できないものを、すぐ不思議なものにするのは危険だよ」

 

「危険?」

 

「思い込みで、見えていないものまで見たことにしてしまうから」

 

 メリーは、そこで初めて私を見た。

 

「でも、見えていないからといって、存在しないとは限らないわ」

 

「それはそうだけど」

 

「蓮子は、見えるものだけを信じるの?」

 

「私は、測れるものを信じる」

 

「測れないものは?」

 

「測れる方法を探す」

 

 私はそう答えた。

 

 自分でも、少し意地になっているのが分かった。

 

 メリーは空白へ視線を戻した。

 

「私は、そこに境界があると思う」

 

「月に?」

 

「ええ。地球から見た月と、人間が行った月。その間にある境界。あるいは、人間が知っている月と、まだ知らない月の間にある境界」

 

「境界って、便利な言葉だね。何でもそこに押し込められる」

 

「そうかもしれないわ」

 

「否定しないんだ」

 

「だって、便利なものは便利でしょう?」

 

 メリーは微笑んだ。

 

 その笑顔はいつものものだった。

 

 けれど、目だけは笑っていなかった。

 

 私はもう一度、空白を見た。

 

 薄い灰色の領域。

 

 そこには何も表示されていない。

 

 それなのに、見ていると、何かが隠されているような気がしてくる。

 

 もちろん、錯覚だ。

 

 人間は空白を見ると、そこに意味を作りたがる。

 

 雲の形に動物を見つけるように。

 

 暗い部屋に誰かの気配を感じるように。

 

 私はそう自分に言い聞かせた。

 

 でも、メリーの横顔を見ていると、簡単には納得できなかった。

 

 昨日の建物。

 

 再開発地区。

 

 地下道。

 

 そして今日の月。

 

 メリーは何かを見ている。

 

 私には見えない何かを。

 

 そのことが、少しだけ悔しかった。

 

 でも同時に、楽しくもあった。

 

 私には見えない。

 

 だから、見てみたい。

 

 それだけだった。

 

*****

 

 図書館を出ると、夕方の空が広がっていた。

 

 昼間の熱が少しずつ冷め、大学の建物の影が長く伸びている。キャンパスの木々は風に揺れ、葉の隙間から薄い光がこぼれていた。

 

 空には、月が出ていた。

 まだ明るい空に、白い月が浮かんでいる。

 私は歩きながら、その位置を確かめた。

 

 星を見れば、今が何時なのか分かる。

 月を見れば、今、自分がどこにいるのか分かる。

 それは私にとって、時計を見ることや地図を開くことよりも自然な感覚だった。

 

 月の位置と形を見れば、京都にいることが分かる。

 少なくとも、いつもの京都にいるなら。

 

「蓮子」

 

「何?」

 

「月、好きね」

 

「好き」

 

「どうして?」

 

 私は空を見た。

 

 月は、思っていたよりずっと遠い。

 なのに、人間はそこまで行けるようになった。

 

 そのことが嬉しかった。

 

 遠いものを遠いままにしておかない。

 

 手が届かないなら、届くための方法を考える。

 

 それは、人間のかなり好きなところだった。

 

「昔の人は、月を見ていたでしょう?」

 

「ええ。昔の人だけじゃなくて、今の人も見ているわ」

 

「でも、私たちは月を見るだけじゃなくて、月から地球を見られる」

 

 私は、広告の中で見た青い地球を思い出した。

 

 月面から見た地球は、きっと今まで知っていた地球とは違って見える。国境も、都市の区切りも、京都の街並みも、全部ひとつの青い球体の上に収まってしまう。

 

 世界を見る場所が、一つ増える。

 それは、少しだけ素敵なことだと思う。

 

「月から地球を見たら、今までとは違うことが分かるかもしれないね」

 

 私が言うと、メリーはしばらく黙っていた。

 

 それから、月を見上げたまま口を開いた。

 

「じゃあ、月から見ても見つからないものがあったら?」

 

「え?」

 

「人間がどれだけ遠くまで行っても、どれだけ高性能な機械を使っても、見つけられないものがあるとしたら?」

 

 私は答えなかった。

 

 月を見る。

 

 そこにあるはずの地形。

 

 さっき見た、地図の空白。

 

「……そのときは」

 

 私は言った。

 

「もっと近づけばいい」

 

 メリーがこちらを見た。

 

「蓮子らしいわ」

 

「でしょう?」

 

「近づけば、見えると思うの?」

 

「少なくとも、今よりは見える。遠くから分からないなら、近くへ行く。それが一番確実でしょう」

 

「近づいたことで、見えなくなるものもあるわ」

 

「どういう意味?」

 

「遠くからなら全体が見えるけれど、近づくと一部分しか見えなくなるでしょう。月全体を見ていた人が、月面の一つの石しか見られなくなるように」

 

「それでも、その石を調べることはできる」

 

「蓮子は、いつも調べるのね」

 

「調べるよ。分からないままにしておく方が嫌だから」

 

 メリーは少しだけ笑った。

 

「じゃあ、やってみる?」

 

「何を?」

 

「月まで」

 

 私は立ち止まった。

 

 メリーは冗談を言っているようにも見えたし、本気で誘っているようにも見えた。

 

「今から?」

 

「そうじゃなくて」

 

 彼女は肩をすくめた。

 

「まずは、もう少し詳しく調べてみましょう。あの空白が何なのか、月まで行かなくても分かるかもしれないわ」

 

「それなら賛成」

 

 私は端末を取り出した。

 公開されている月面地図。

 

 私はいつものように、月を見上げた。

 月の位置から、今いる場所を確かめる。

 

 京都大学の構内。

 

 いつもの場所。

 

 そう分かるはずだった。けれど、端末に表示された地図を見て、私は眉をひそめた。

 

「現在地が合わない」

 

「どこになっているの?」

 

「どこにもなっていない」

 

 私は画面を見せた。

 そこには京都市内の地図が表示されている。

 大学の建物も、道路も、周辺の施設も、正しく表示されている。

 

 けれど、現在地を示す印だけが、どこにも置かれていなかった。

 画面の端に、短い表示が出ている。

 

 位置情報:特定不能

 

 私はもう一度、月を見た。

 月はそこにある。

 いつも通りの月だった。

 

 星を見れば、時刻が分かる。

 月を見れば、場所が分かる。

 それが私の能力だった。

 今まで、一度も外れたことはない。

 

 なのに。

 

 月を見ても、場所が分からない。

 

 

「故障じゃないの?」

 

 メリーが聞いた。

 

「端末の故障なら、他の天体も測れないはずだよ」

 

「試してみた?」

 

 私はすぐに別の星を指定した。

 

 距離が表示される。

 

 太陽も表示される。

 

 近くの人工衛星も、大学上空を通過するシャトルも、問題なく測定できた。

 

 月だけが、測れない。

 

 私はもう一度、月を指定した。

 

 測定不能

 

 その文字が、画面の中で静かに点滅している。

 

 メリーは何も言わなかった。

 

 ただ、月を見ていた。

 

 私は初めて思った。

 

 もしかすると。

 

 月は、私が思っていたほど近くないのかもしれない。

 

 あるいは――。

 

 私たちが思っている「月」とは、最初から別のものなのかもしれない。

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