秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
月へ行くことが、特別なことではなくなった。
そう聞かされても、私はいまだに少し信じられない。
子供の頃、月は空の上にあった。
手を伸ばしても届かない。
望遠鏡を使っても、表面の細かいところまでしか見えない。
月というものは、そういう場所だった。
人間が眺めるためのもの。
詩人が歌うためのもの。
科学者が数字を並べるためのもの。
そして、いつか誰かが行くかもしれない場所。
ところが今では、その「いつか」が旅行会社の広告になっている。
大学へ向かう途中、駅前の巨大なディスプレイに月が映っていた。
灰色の大地。
黒い空。
その向こうに浮かぶ青い地球。
映像の中では、白い宇宙服を着た旅行客が月面を歩いている。足元から細かな砂が跳ね、低重力の中でゆっくりと舞い上がる。旅行客は振り返り、まるで地上の観光地で記念写真を撮るように、背後の地球へ手を伸ばしていた。
そして画面の中央に、大きな文字が浮かんだ。
Kaleidoscope Project
――民間月面旅行、予約受付中。
「……月かあ」
私は立ち止まった。
広告の中の月は、現実の月よりもずっと鮮やかだった。灰色の大地には青白い照明が当てられ、基地のドームは宝石のように輝いている。画面の端には、旅行客向けの施設が次々と紹介されていた。
月面基地内のホテル。
低重力スポーツ。
地球観測ツアー。
月面博物館。
展望ドームから見る地球の出。
広告というものは、昔から夢を商品にするのが得意らしい。
昔の旅行広告なら、南の島とか海外の都市とかだったのだろう。まだ見ぬ海岸や、異国の街並みや、遠い大陸の写真を見せて、人々の心を遠くへ連れていく。
今は月だ。
少しだけ時代が進みすぎている。
あるいは、私たちの方が夢に追いついてしまったのかもしれない。
「好きね」
隣にいたメリーが言った。
彼女は私の顔ではなく、ディスプレイに映った月を見ていた。広告の光が淡い金色の髪に反射して、髪の先だけが月明かりのように白く見える。
「好きだよ」
「そんなに?」
「そんなに。だって、月だよ。空に浮かんでいるものを、実際に歩けるんだよ?」
私は自分でも少し興奮しているのが分かった。声が普段より高くなっている。広告の内容は、ほとんどが旅行会社の誇張だろう。それでも、月面の砂を踏むことができるという事実だけは、どうしても胸を躍らせた。
「行きたい?」
メリーが聞いた。
「行きたい」
考えるより先に答えていた。
「本当に? 広告を見て、勢いで言っているだけじゃないの?」
「もちろん本気だよ。月面基地の設備も、旅行日程も、必要な訓練も、あとで全部調べる。料金だって、たぶん昔の海外旅行より少し高いくらいでしょう?」
「少し、という言葉の使い方が間違っている気がするわ」
「でも、一生働いても届かないほどじゃない」
「蓮子は、月へ行くためなら本当に貯金を始めそうね」
「始めるよ。今からでもいい」
「今から?」
「今から」
私はディスプレイの月を指差した。
「怖いわけないでしょう。宇宙だよ?」
「昨日、地下道で怖がっていたのに」
「それとこれとは話が違う」
「どう違うの? どちらも、暗くて、何があるか分からない場所でしょう」
「地下道には何がいるか分からない。でも月には、少なくとも分かっているものが多い。地形も、気圧も、放射線量も、基地の位置も、危険区域も、全部データになっているから」
「つまり、データになっていれば怖くないのね」
「かなり怖くなくなる」
「月には?」
メリーが、広告の中で静かに回転する月を見上げた。
「何もいない」
私はそう答えた。
けれど、言葉にした瞬間、ほんの少しだけ迷いが生まれた。
月には何もいない。
人間が長い時間をかけて観測し、地図を作り、基地を建て、旅行客を送り込めるほど調べた場所だ。未知の生物も、古代文明も、神話の怪物も、そこにはいない。
いないはずだった。
「……たぶん」
私が付け足すと、メリーがこちらを見た。
「今の間、何?」
「気のせい」
「気のせいにしては、ずいぶん長い間だったわ」
「広告の演出に引っ張られただけだよ。あの映像、ちょっと不気味でしょう? 月面の暗い部分を必要以上に強調しているし」
「そうかしら。私は、あの暗さは嫌いじゃないけれど」
「メリーは、そういうところが変なんだよ」
「蓮子に言われたくないわ」
メリーが笑った。
私も笑う。
朝の駅前はいつも通りだった。
通勤客が行き交い、学生が端末を見ながら歩き、配送ロボットが人の足元を器用に避けていく。自動運転車は信号の変わる少し前に速度を落とし、駅の屋根では小型の広告ドローンが静かに旋回している。
その全部を見下ろすように、巨大な月がディスプレイの中で輝いていた。
現実の月は、広告の月よりずっと小さい。
朝の空に浮かぶ白い月は、手を伸ばせば届きそうなほど淡く、けれど実際にはどれだけ手を伸ばしても届かない。
私は、そちらの方が好きだった。
広告の月は、人間のために整えられすぎている。
現実の月には、まだ人間の都合に合わせていない部分が残っている。
そのことが、少し嬉しかった。
*****
大学に着いてからも、私は月のことを考えていた。
講義が始まるまでの時間、私は端末で月面旅行の公式サイトを開いた。画面には、旅行会社が用意した月面基地の見取り図が表示される。
基地の外周には、放射線を遮るための土壌が厚く積まれている。人間が月で暮らすために必要なものが、ひとつずつ数字と図面に置き換えられていた。
料金。
日程。
月面基地の設備。
参加条件。
思っていたより現実的だった。
もちろん安くはない。
でも、一生働いても届かないほどではない。少なくとも、広告はそう思わせるように作られている。
昔なら、一生かけても無理だっただろう。
それが今は、少し頑張れば届く。
月までの距離が縮まったのか。
人間の方が遠くまで行けるようになったのか。
たぶん両方だ。
遠い場所を近くするのは、距離そのものを変えることではない。そこへ行くための道を作り、時間を短くし、費用を下げ、危険を管理することだ。
そうやって人間は、遠い場所を少しずつ日常の側へ引き寄せてきた。
月も、その一つになった。
「蓮子」
メリーが横から画面を覗き込んだ。
「何してるの?」
「旅行の予約」
「本当に?」
「嘘」
「どっちなの?」
「調べているだけ。今のところはね」
「今のところは、ということは、将来的には予約するつもりなのね」
「もちろん。メリーも一緒に行く?」
私は冗談半分で聞いた。
けれど、メリーはすぐには答えなかった。
画面の中で、月面基地の模型がゆっくり回転している。白いドームと細い連絡通路。人間が月の上に作った、小さな人工都市。
「どうかしら」
「興味ない?」
「月には興味があるわ」
「じゃあ、行きたいでしょう?」
「蓮子は、月へ行けば月を見つけられると思っているの?」
私は画面から顔を上げた。
「どういう意味?」
「そのままの意味よ。月面基地へ行って、観光ルートを歩いて、用意された展望台から地球を眺める。それで、月を見つけたことになるのかしら」
「月はそこにあるでしょう」
「ええ。人間が見つけた月はね」
メリーは画面をスクロールした。
月面基地。
観光ルート。
着陸地点。
観測施設。
人間が作ったものばかりだ。
「私はホテルには興味がないわ」
「じゃあ、何に興味があるの?」
メリーは少し黙った。
窓の外へ視線を向ける。大学の建物の向こうには、昼の空が広がっている。月はもう見えない。見えないけれど、そこにあることだけは分かっている。
「私は、人間がまだ見つけていない月が見たい」
メリーは、空を見たまま言った。
私は彼女の横顔を見つめた。
「……詩人だね」
「褒めているの?」
「半分は」
「残り半分は?」
「変人」
「それはお互い様でしょう?」
「確かに」
私たちは笑った。
でも、メリーの言葉は妙に頭に残った。
人間がまだ見つけていない月。月には、もう地図がある。衛星写真もある。月面の地形は、かなり詳しく分かっている。
なら、「見つけていない月」なんてあるのだろうか。
地形として未確認の場所なら、まだあるかもしれない。観測機器の故障や、データの欠損、解像度の問題。そういうものなら、科学的に説明できる。
でも、メリーが言った「月」は、地形の話ではないように聞こえた。
月という場所そのものに、まだ人間の知らない顔がある。
そんなふうに聞こえた。
私はその疑問を、昼休みに調べることにした。
*****
大学の図書館は、昔の図書館とはずいぶん違う。
紙の本もある。
古い資料を保存するための書架も残っている。
けれど、検索するなら端末を使った方が早い。必要な情報を入力すれば、世界中の観測機関や大学が公開しているデータへ、ほとんど瞬時にアクセスできる。
私は月面地形データを開いた。
空中に、立体的な月が浮かび上がる。
指で回転させる。
クレーターの名前。
山脈。
有人基地。
情報が次々と表示される。
月は、地球から見上げるよりもずっと複雑だった。
白い円盤に見える表面には、無数の凹凸があり、光の当たり方によって別の顔を見せる。人間はその一つひとつに名前をつけ、座標を与え、写真を撮り、地質を調べてきた。
名前をつけることは、見つけることに似ている。
少なくとも、私はそう思っていた。
「ほら」
私はメリーに画面を見せた。
「ほとんど全部分かっているでしょう?」
「そうね」
「これだけ調べられているんだから、未発見の場所なんてないよ。少なくとも、普通の意味では」
「本当に?」
「少なくとも、地形としては」
「地形としては?」
「……言葉の揚げ足を取らないでよ」
メリーは笑った。
私は月面地図を拡大した。
そのときだった。
「ん?」
一部分だけ、表示が粗い。
最初は、端末の処理が遅れているのだと思った。けれど、数秒待っても表示は変わらない。月面の一部が、薄い灰色のまま残されている。
周囲の地形は、クレーターの縁まで細かく描かれている。標高の変化も、地質の違いも、過去の探査機が残した走行跡まで表示されている。
なのに、その場所だけが空白だった。
「何これ?」
私は画面を拡大した。
空白は消えなかった。
むしろ拡大するほど、周囲の精密さとの違いがはっきりした。そこだけ、月面の一部が切り取られているように見える。
「データ欠損かな」
私は独り言のように言った。
「どこ?」
「ここ。南東側の高地。座標を表示するね」
私は指で空白を示した。
メリーが画面に顔を近づける。
「……そこなのね」
「何か知っているの?」
「知らないわ」
「じゃあ、どうしてそんな顔をするの?」
「どんな顔?」
「見つけた顔」
メリーは答えなかった。
月面地図の空白を見つめている。
その目には、驚きよりも確信に近いものがあった。まるで、初めて見たのではなく、ずっと探していたものをようやく見つけたような顔。
私はデータの詳細を開いた。
取得日時。
観測衛星。
解像度。
公開範囲。
いずれも正常。
欠損を示す警告もない。
データがないのではなく、データがあるのに表示されていない。
そんなふうに見えた。
「変だな」
私が言うと、メリーは画面から目を離さずに答えた。
「でしょう? 周囲のデータがこれだけ揃っているのに、ここだけ何もない。単なる観測漏れなら、別の衛星の記録や古い画像が残っているはずだもの」
「でも、公開データの統合ミスかもしれない。複数の観測機関のデータを重ねると、座標系がずれることがあるから」
「蓮子は、何でも普通の理由に戻したがるのね」
「普通の理由で説明できるなら、その方がいいでしょう。説明できないものを、すぐ不思議なものにするのは危険だよ」
「危険?」
「思い込みで、見えていないものまで見たことにしてしまうから」
メリーは、そこで初めて私を見た。
「でも、見えていないからといって、存在しないとは限らないわ」
「それはそうだけど」
「蓮子は、見えるものだけを信じるの?」
「私は、測れるものを信じる」
「測れないものは?」
「測れる方法を探す」
私はそう答えた。
自分でも、少し意地になっているのが分かった。
メリーは空白へ視線を戻した。
「私は、そこに境界があると思う」
「月に?」
「ええ。地球から見た月と、人間が行った月。その間にある境界。あるいは、人間が知っている月と、まだ知らない月の間にある境界」
「境界って、便利な言葉だね。何でもそこに押し込められる」
「そうかもしれないわ」
「否定しないんだ」
「だって、便利なものは便利でしょう?」
メリーは微笑んだ。
その笑顔はいつものものだった。
けれど、目だけは笑っていなかった。
私はもう一度、空白を見た。
薄い灰色の領域。
そこには何も表示されていない。
それなのに、見ていると、何かが隠されているような気がしてくる。
もちろん、錯覚だ。
人間は空白を見ると、そこに意味を作りたがる。
雲の形に動物を見つけるように。
暗い部屋に誰かの気配を感じるように。
私はそう自分に言い聞かせた。
でも、メリーの横顔を見ていると、簡単には納得できなかった。
昨日の建物。
再開発地区。
地下道。
そして今日の月。
メリーは何かを見ている。
私には見えない何かを。
そのことが、少しだけ悔しかった。
でも同時に、楽しくもあった。
私には見えない。
だから、見てみたい。
それだけだった。
*****
図書館を出ると、夕方の空が広がっていた。
昼間の熱が少しずつ冷め、大学の建物の影が長く伸びている。キャンパスの木々は風に揺れ、葉の隙間から薄い光がこぼれていた。
空には、月が出ていた。
まだ明るい空に、白い月が浮かんでいる。
私は歩きながら、その位置を確かめた。
星を見れば、今が何時なのか分かる。
月を見れば、今、自分がどこにいるのか分かる。
それは私にとって、時計を見ることや地図を開くことよりも自然な感覚だった。
月の位置と形を見れば、京都にいることが分かる。
少なくとも、いつもの京都にいるなら。
「蓮子」
「何?」
「月、好きね」
「好き」
「どうして?」
私は空を見た。
月は、思っていたよりずっと遠い。
なのに、人間はそこまで行けるようになった。
そのことが嬉しかった。
遠いものを遠いままにしておかない。
手が届かないなら、届くための方法を考える。
それは、人間のかなり好きなところだった。
「昔の人は、月を見ていたでしょう?」
「ええ。昔の人だけじゃなくて、今の人も見ているわ」
「でも、私たちは月を見るだけじゃなくて、月から地球を見られる」
私は、広告の中で見た青い地球を思い出した。
月面から見た地球は、きっと今まで知っていた地球とは違って見える。国境も、都市の区切りも、京都の街並みも、全部ひとつの青い球体の上に収まってしまう。
世界を見る場所が、一つ増える。
それは、少しだけ素敵なことだと思う。
「月から地球を見たら、今までとは違うことが分かるかもしれないね」
私が言うと、メリーはしばらく黙っていた。
それから、月を見上げたまま口を開いた。
「じゃあ、月から見ても見つからないものがあったら?」
「え?」
「人間がどれだけ遠くまで行っても、どれだけ高性能な機械を使っても、見つけられないものがあるとしたら?」
私は答えなかった。
月を見る。
そこにあるはずの地形。
さっき見た、地図の空白。
「……そのときは」
私は言った。
「もっと近づけばいい」
メリーがこちらを見た。
「蓮子らしいわ」
「でしょう?」
「近づけば、見えると思うの?」
「少なくとも、今よりは見える。遠くから分からないなら、近くへ行く。それが一番確実でしょう」
「近づいたことで、見えなくなるものもあるわ」
「どういう意味?」
「遠くからなら全体が見えるけれど、近づくと一部分しか見えなくなるでしょう。月全体を見ていた人が、月面の一つの石しか見られなくなるように」
「それでも、その石を調べることはできる」
「蓮子は、いつも調べるのね」
「調べるよ。分からないままにしておく方が嫌だから」
メリーは少しだけ笑った。
「じゃあ、やってみる?」
「何を?」
「月まで」
私は立ち止まった。
メリーは冗談を言っているようにも見えたし、本気で誘っているようにも見えた。
「今から?」
「そうじゃなくて」
彼女は肩をすくめた。
「まずは、もう少し詳しく調べてみましょう。あの空白が何なのか、月まで行かなくても分かるかもしれないわ」
「それなら賛成」
私は端末を取り出した。
公開されている月面地図。
私はいつものように、月を見上げた。
月の位置から、今いる場所を確かめる。
京都大学の構内。
いつもの場所。
そう分かるはずだった。けれど、端末に表示された地図を見て、私は眉をひそめた。
「現在地が合わない」
「どこになっているの?」
「どこにもなっていない」
私は画面を見せた。
そこには京都市内の地図が表示されている。
大学の建物も、道路も、周辺の施設も、正しく表示されている。
けれど、現在地を示す印だけが、どこにも置かれていなかった。
画面の端に、短い表示が出ている。
位置情報:特定不能
私はもう一度、月を見た。
月はそこにある。
いつも通りの月だった。
星を見れば、時刻が分かる。
月を見れば、場所が分かる。
それが私の能力だった。
今まで、一度も外れたことはない。
なのに。
月を見ても、場所が分からない。
「故障じゃないの?」
メリーが聞いた。
「端末の故障なら、他の天体も測れないはずだよ」
「試してみた?」
私はすぐに別の星を指定した。
距離が表示される。
太陽も表示される。
近くの人工衛星も、大学上空を通過するシャトルも、問題なく測定できた。
月だけが、測れない。
私はもう一度、月を指定した。
測定不能
その文字が、画面の中で静かに点滅している。
メリーは何も言わなかった。
ただ、月を見ていた。
私は初めて思った。
もしかすると。
月は、私が思っていたほど近くないのかもしれない。
あるいは――。
私たちが思っている「月」とは、最初から別のものなのかもしれない。