秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
夜の京都には、昼間には見えないものがある。
これは怪談ではない。
少なくとも、私はそう思っていた。
昼間は人間が多すぎる。
車が走り、店が開き、学校に学生がいて、観光客が道を塞ぐ。
人間というのは不思議な生き物で、自分たちが大勢いるだけで世界を正常に見せてしまう。
誰もいなくなると、街の形が少し変わる。
道路はただの舗装された地面になり、建物はただの箱になり、駅は人間を待つ巨大な機械になる。
そして、時々。
本来なら存在しないはずのものが、妙に目立つ。
「ここで合ってる?」
私は端末デバイスの地図と、古い鉄道路線図を交互に見た。現在の地図には、私たちが歩いている道しか表示されていない。けれど、古い路線図には、ここから北へ向かって伸びる線が残っている。廃止された年月日も、駅の数も、資料によって微妙に違っていた。
「合ってるわ。少なくとも、昔の路線が通っていた場所には来ているはずよ」
メリーが答える。
「本当に? この辺り、地図によって線路の位置が十メートルくらいずれてるんだけど」
「十メートルなら、夜道では誤差の範囲でしょう?」
「調査でその言い方をする人、初めて見た」
「でも、蓮子がいるから大丈夫よ。私が見失っても、蓮子が数字で見つけてくれるでしょう?」
「数字は道案内じゃないよ。少なくとも、今のところは」
「じゃあ、今日は道案内もお願い」
「……分かった。任せて」
メリーは満足そうに笑った。
私はもう一度、画面を確認した。現在地を示す青い点は、廃線跡の上にある。古い路線図を重ねると、線路はこの先に続いているはずだった。
「それにしても、どうしてこんな場所を見つけたの?」
「昨日のメールを調べていたら、古い掲示板の記録が出てきたの。そこに、この駅の噂が書かれていたわ」
「大学の立入禁止区域と、測定不能の月、誰もいない駅。ずいぶん都合よく怪しいものが続くね」
「蓮子がそういうものを見つけているだけじゃない?」
「私が?」
「ええ。普通の人は、立入禁止のメールを受け取っても、わざわざ地下資料室を探しに行こうとは思わないでしょう?」
「それはメリーも同じでしょう」
「私は蓮子についてきているだけよ」
「その言い方だと、私が悪いことに誘っているみたいじゃない」
「違うの?」
「違うよ。私は、面白そうなものを見つけたら確認したいだけ」
「それを世間では、悪いことに誘うと言うのよ」
「世間の定義が厳しすぎる」
メリーが笑う。
私も少し笑った。
調査というものは、始める前が一番楽しい。
仮説を立て、必要なものを用意し、情報を集め、そして現地へ向かう。
答えが出るまでの時間は、宝箱の蓋を開ける直前に似ている。
中身が金貨なのか、石ころなのか。
あるいは、何も入っていないのか。
開けるまでは分からない。
だから楽しい。
今日の宝箱は、京都市内にあるらしい「誰もいない駅」だった。
*****
噂の始まりは、古い掲示板だった。
数年前に廃止された路線の跡地を夜中に歩いていると、駅のホームが見える。
しかし、その駅は現在の地図には存在せず、午前零時になると列車が来る。
ただし、誰もその列車を見たことがない。
――という話。
「典型的な都市伝説ね」
私はそう言った。
「そうかしら。都市伝説にしては、ずいぶん具体的よ。廃線の場所も、駅が見える時間も、列車が来る時刻も書かれているわ」
「具体的だから本物とは限らないよ。むしろ、具体的な方が誰かの作り話らしいでしょう?」
「でも、蓮子は来たじゃない」
「それは、噂が本物かどうかを確認するため」
「つまり、噂に説得されたのね」
「そういう言い方はやめて」
「廃線、深夜、誰もいない駅、幽霊列車。四暗刻」
「麻雀?」
「気分」
「蓮子って時々よく分からないわ」
「メリーにだけは言われたくない」
廃線跡は、思っていたより歩きやすかった。
線路は撤去されており、枕木だけがところどころ残され、雑草がその間から伸びている。
昔ここを列車が走っていた。
今は、風が走っている。
私たちは線路跡を歩いた。
街灯は少ないが、完全な暗闇ではない。
京都の街は、夜になってもどこか明るい。
古い町並みの向こうに、未来の光が浮かんでいる。
その景色は美しかったが、少しだけ寂しかった。
「昔は、ここを列車が走ってたんだね」
私が言うと、足元に残った枕木を見ながら、メリーが答えた。
「ええ。今よりずっとたくさんの人が、この線路を使っていたのかもしれないわ」
「たくさんの人を乗せて、毎日同じ場所を往復していた」
「そう。朝には人を街へ運んで、夜には人を家へ帰していた。そういう時間が、何十年も続いていたのよ」
「今は誰もいない」
「そうね。線路がなくなっただけじゃなくて、線路を必要とする人もいなくなったのかもしれないわ」
メリーの声は、いつもより静かだった。
私たちの足音だけが続く。
ざっ。ざっ。ざっ。
妙に規則正しい、昔の列車の音を真似しているみたいだった。
「蓮子」
「なに?」
「もし、この先に本当に駅があったらどうする?」
「まず、駅舎の構造を確認する。次に、現在の地図と古い資料を照合する。それから、音や光の発生源を調べる」
「ずいぶん具体的ね」
「調査だからね。見つけたあとで慌てるより、先に手順を決めておいた方がいいでしょう?」
「私は、見つけてから考える方が好きよ」
「それは手順じゃなくて、行き当たりばったり」
「でも、蓮子が考えてくれるでしょう?」
「私を便利な調査装置みたいに扱わないで」
「そんなつもりはないわ。蓮子は、私が見つけたものに名前をつけてくれる人だもの」
「名前?」
「ええ。私には見えても、それが何なのか分からないことが多いから」
私は少しだけ黙った。
メリーは、時々こういうことを言う。
冗談のようでいて、冗談ではない。
「……怖くない?」
私が聞くと、メリーは歩みを緩めた。
「何が?」
「この先にあるもの。噂通りなら、誰もいない駅がある。しかも、午前零時に列車が来る。普通なら、もう少し怖がってもいいと思うけど」
「蓮子は怖いの?」
「怖いよ」
「意外ね」
「何が意外なのよ。私だって人間なんだから、暗い廃線を一人で歩かされたら怖いに決まってるでしょう」
「一人じゃないじゃない」
「……そういう問題じゃないの」
「じゃあ、どういう問題?」
「隣にメリーがいるから怖くない、って言ったらどうする?」
メリーは一瞬、目を丸くした。
「たぶん、明日の朝まで自慢するわ」
「やっぱり言わない」
「残念ね」
「それに、怖いのは暗闇じゃない」
「じゃあ、何が怖いの?」
「分からないもの」
私はそう答えてから、少し考えた。
「分からないものが怖いから、調べるんだと思う。調べて、名前をつけて、仕組みを理解できれば、少なくとも自分が何を怖がっているのかは分かるでしょう?」
「それでも、分からないまま残るものがあったら?」
「そのときは、もっと調べる」
「やっぱり蓮子ね」
メリーが笑った。
その笑い声が暗い廃線跡に響き、すぐに夜の中へ溶けていった。
*****
廃線跡の先に、それはあった。
駅舎。
小さな木造の建物だった。
屋根は古く、壁もところどころ剥がれているけれど、建物そのものは不思議なほどきれいだった。
周囲の雑草は伸び放題なのに、駅舎の前だけは人が歩ける程度に地面が見えている。誰かが手入れをしているようにも見えたが、近づいてみると、草が踏み倒されているだけだった。
「……あった」
私は思わず声を落とした。
地図にはなく、現在の鉄道路線にもない。
なのに、そこにある。
「本当に駅舎ね」
メリーが言った。
「少なくとも、駅舎に見える」
「駅舎と別の建物を見分ける方法ってあるの?」
「入口の位置、待合室の構造、線路側に開いた窓、それから屋根の形。駅舎として使われていた可能性は高いよ」
「蓮子は、建物にも詳しいのね」
「詳しいわけじゃない。資料を読んだだけ」
「それを詳しいと言うのよ」
「じゃあ、メリーは境界に詳しい」
「それは褒めているの?」
「半分」
「残り半分は?」
「変人」
「それはお互い様でしょう?」
「確かに」
私は駅舎の正面に立った。
古い看板が掛かっているが、そこに書いてある文字は読めなかった。
いや、読めないというより。
「……おかしい」
「何?」
「文字がない」
「あるでしょう?」
「違う」
私は看板に近づいた。
文字のようなものが書かれているが、意味が読み取れない。
漢字でもない。ひらがなでもない。外国語でもない。
線の組み合わせは確かに文字らしく見えるのに、どの文字体系にも当てはまらない。読めないというより、読むための入口が見つからない。
なのに、なぜか「駅名が書いてある」と分かる。
「何だろう、これ」
私は写真を撮り、画面を見る。
そこには、ただ古い看板が写っていたが、文字は消えている。
「……写真には残らない」
メリーが言った。
「そうみたい。撮影した瞬間に消えたのか、最初から写っていなかったのかは分からないけど」
「でも、蓮子には見える?」
「意味は分からないけど、あるのは分かる。看板に何かが書かれていること自体は、肉眼なら確認できる」
「私には違って視える」
「どう?」
メリーは駅舎の奥を指差した。
「あそこ」
私は見る。
待合室。古いベンチ。窓。壁。
そして、その向こう。
「……何もないよ」
「あるわ」
「どこ?」
「ホーム」
私は目を凝らしたが、見えない。
駅舎の奥には壁しかなく、線路もない。
ホームが存在する余地などない。
「本当に? 壁の向こうにあるってこと?」
「壁の向こうというより、壁がある場所に重なっている感じね」
「重なっている?」
「ええ。こちら側の駅舎と、別の駅舎が同じ場所に置かれているみたい」
「それなら、少なくとも壁か床に何かしらの干渉が出るはずだけど」
「蓮子の世界では、そうなのね」
「私の世界というか、普通の世界ではね」
「私には、ホームが見えるわ」
「どんなホーム?」
「古い。けれど、壊れてはいない。屋根もあるし、照明もついている」
「照明?」
「白い光。こちらの駅舎の窓から漏れている光とは違うわ」
「色は?」
「少し青い。月明かりに似ているけれど、月明かりよりずっと冷たい」
私はもう一度、駅舎の奥を見た。
何もない、ただの壁。
メリーが見ているものを、私は見ることができない。
その事実が、いつもより強く意識された。
「じゃあ、どんなホーム?」
「長いわ」
「どれくらい?」
「ずっと」
「それ、測定不能ってこと?」
「たぶんね」
メリーは楽しそうに笑った。
「昨日の月みたい」
その言葉に、私は少しだけ笑えなくなった。
昨日の「測定不能」。
今日の「ずっと」。
偶然だと、そう思いたかった。
私は駅舎の壁に手を触れた。
冷たい木材の感触がある。
向こう側に空間があるような振動はない。
「少なくとも、ここにホームはない」
「蓮子には、ね」
「私の手には、ね」
「じゃあ、私の目にはある」
「……そういう言い方をされると、反論できない」
「反論しなくていいわ。蓮子が測って、私が見る。それでいいでしょう?」
メリーの言葉は穏やかだったが、穏やかさがかえって不安を煽った。
私たちは同じ場所に立ち、同じ駅舎を見ている。
それなのに、見えているものが違う。
その違いを、まだ私はうまく扱えなかった。
*****
私たちは駅舎の前で待つことにした。
午前零時まで、あと十五分。
噂では、この時間に列車が来る。
私は端末デバイスから録音アプリを起動した。念のため、周囲の音を拾う小型マイクも接続する。駅舎から線路跡までの距離を測り、風向きと気温も記録した。
メリーはカメラを構えている。
「準備は?」
「録音機器は起動済み。時刻の同期も確認した。もし音が聞こえたら、発生時刻と音量の変化を記録する」
「ずいぶん本格的ね」
「メリーは?」
「カメラの準備はできているわ。駅舎と、あなたが見ているものと、私が見ているものを、できるだけ同じ画角に収めるつもり」
「それ、できるの?」
「できるかどうかを試すのが調査でしょう?」
「その通りだけど、失敗したときのことも考えておいて」
「失敗したら、失敗したという結果が残るわ」
「前向きだね」
「蓮子が数字を集めるなら、私は失敗を集めるの」
「失敗を集めてどうするの?」
「いつか、何かの形になるかもしれないでしょう?」
妙な会話だった。でも、こういうのが私たちには合っている。
調査方法も、いつの間にか決まってきた。
私は数字を見る。
時刻。距離。音。位置。
メリーは境界を見る。
見えるもの。見えないもの。存在している場所。存在していない場所。
私たちは同じものを見ているのに、見えている世界が違う。
だから一緒にいる意味がある。
私は数字を信じ、メリーは自分の目を信じる。
どちらか一方だけでは、たぶん足りない。
午前零時まで、あと三分。
私は星を見る。
秒まで確認する。
十一時五十九分五十五秒。
五十六。五十七。五十八。五十九。
――零時。
その瞬間、遠くから音がした。
ごうん。
いや、これは鐘ではない。
低く、長い、地面の下から響いてくるような音。
そして次第に、規則正しい振動が混ざっていく。
ガタン。ゴトン。ガタン。ゴトン。
列車の音だ。
私は立ち上がった。
「来る」
思わず声が出た。
「ええ。聞こえるわ」
メリーも立ち上がった。
音は確かに近づいている。
線路はないが、列車の音だけが近づいてくる。
私は星を見た。
時刻。音の発生地点。到達時間。
頭の中で計算する。
条件を変えて何度も考える。
「おかしい」
「何が?」
「音が速すぎる」
「どれくらい?」
「この距離なら、聞こえるまで数秒以上かかる。今の音は、発生したと思った瞬間にはもう近くまで来ている」
「音源が、実際にはもっと近いのではないの?」
「それなら、最初からもっと大きく聞こえるはずだよ。遠くから近づいているように聞こえるのに、音量の変化が小さすぎる」
私は音源の方向を見る。
線路の向こうには何もないが、音だけが近づいてくる。
ガタン。ゴトン。ガタン。ゴトン。
「反射音じゃない?」
メリーが言った。
「違う」
「どうして?」
「反射なら音の方向が変わる。建物や地形に当たって戻ってくるなら、少なくとも左右の音量差が変化するはず。でも、今は音源がずっと正面にあるように聞こえる」
「地下を走っている可能性は?」
「地下なら、地面の振動が先に来る。今聞こえているのは、空気を伝わる音に近い」
「じゃあ、空中を走っているのかしら」
「列車が?」
「京都なら、空中交通路くらいあるでしょう?」
「空中交通路を走る車両は、こんな音を出さないよ。それに、音の高さが違う」
「じゃあ?」
「分からない」
音がさらに近づき、私は無意識に息を止めていた。
列車が来る、そう思った。
次の瞬間、音が消えた。
突然だった。
まるで、世界から切り取られたみたいに静寂。
風の音だけが残る。
「……来なかった」
私が呟く。
「ええ。音だけだったわね」
「何だったんだろう」
「列車」
「見てないけど」
「聞いたでしょう?」
「音だけ」
「列車は、音だけでも列車よ」
「それは定義として乱暴すぎる」
「でも、蓮子は列車の音だと判断したのでしょう?」
「似ているとは思った。でも、似ていることと、列車であることは違う」
「じゃあ、何だと思うの?」
「今のところは、列車に似た音。発生源不明。移動経路不明。音量変化に矛盾あり」
「ずいぶん味気ない名前ね」
「調査記録としては正確だよ」
私は残っている録音データを確認した。
確かに、列車のような音が録音されているが、波形を見ると妙だった。
音が近づいているのに、音量がほとんど変化していない。
遠くから近づく音なら、普通は大きくなる。
なのに、ずっと同じ。
「……これ」
私は画面を見つめた。
「何?」
「この音、こっちに来てない」
「でも聞こえたわ」
「うん」
「じゃあ?」
「私たちのところを通ったんじゃなくて」
私は線路跡を見るが、何もない。
「最初から、ここにあったんだ」
言ってから、自分でも嫌な感じがした。
列車は来ていないが、音だけが来た。
いや、音すら来ていない。
私たちのいる場所に、最初から存在していた音を、私たちが聞いただけ。
そんなことがあるのか。
物理学的には、……ない。
少なくとも、私の知っている世界では。
「蓮子」
メリーの声がした。
「なに?」
返事がない。
私は振り返った。
メリーは駅舎の向こうを見ていた。
その顔から、さっきまでの楽しそうな表情が消えている。
「どうしたの?」
「……ホームがある」
「まだ?」
「違う」
「さっき見えていたホームが、今は別の場所に移ったの?」
「そうじゃないわ。ホームはずっとそこにある。でも、今はホームより近くに、別のものが見える」
メリーはゆっくりと線路の先を指差した。
「今度は、別のもの」
私はその方向を見る。
暗闇。廃線跡。古い街灯。
何もない。
何も――。
「蓮子」
メリーの声が、今度は少し震えていた。
「そこ……」
指先の向こうには、暗闇の中、誰かが立っている。
最初は、ただの人影だと思った。
学生だろうか。
こんな時間に?こんな場所に?
私は目を細め、距離を測ろうとした。
身長。位置。輪郭。街灯からの距離。
でも、分からない。
距離を測るための基準になるものが、どこにもない。
人影は街灯の光を受けているように見えるのに、地面には影を落としていなかった。
その人影が、こちらへ少し近づき、月明かりが、その顔を照らす。
私は息を呑んだ。
見間違えるはずがなかった。
そこに立っていたのは――。
私だった。
いや、正確には。
隣を見ると、メリーも同じように凍りついている。
そして、暗闇の向こうにいる少女もこちらを見ていた。
三人の視線が、夜の京都の真ん中で重なった。
私は、自分の心臓の音を聞いた。
規則正しく、生きている証拠が鳴り響く。
なら、あそこにいる「私」は、一体何なのだろう。