秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
翌朝、私は自分の顔を鏡で三回確認した。
一回目。寝癖がひどかった。
二回目。目の下に少し隈があった。
三回目。ちゃんと私だった。
「……よし」
何が「よし」なのかは、自分でもよく分からない。
昨夜、廃駅で見た少女の顔が頭から離れなかった。
私と同じ顔。同じ髪。同じ背丈。
暗闇の中でこちらを見ていた。
あれが夢だったと言われたら、私はたぶん怒る。
夢なら、もっと都合のいいものを見る。
月旅行の抽選に当たるとか。
試験前日に講義の内容が全部頭に入るとか。
そういう夢なら大歓迎だ。
よりによって、自分と同じ顔をした知らない少女なんて、趣味が悪すぎる。
私は鏡から離れた。
今日メリーに会い、昨日のことを調べる。
それだけだと、少なくとも最初はそう思っていた。
*****
大学へ着くと、メリーはすでに図書館の前にいた。
長い髪を風になびかせながら、ベンチに座っている。
私に気づくと、彼女は読んでいた本を閉じた。表紙には、古い京都の地図が描かれている。
「おはよう、蓮子。ずいぶん早いのね。昨日のことが気になって、あまり眠れなかったのかしら」
「おはよう。メリーも早いじゃない。私は、あの少女が夢じゃなかったことを確認するために来たの」
「夢じゃなかったことを確認するために、私に会いに来たの?」
「そういう言い方をすると、私がかなり不安定な人間みたいに聞こえるね」
「実際、今朝は鏡を三回見たでしょう?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「どうして知ってるの?」
「顔に書いてあるもの。寝不足と、少しだけ自分を疑っている顔」
「そんなに分かりやすい?」
「ええ。だから、まずはあの少女について調べましょう。あなたが自分を疑わなくて済むように」
私はメリーの隣に座った。
「うん。まず、あの少女について調べよう」
「具体的には、何を調べるつもり?」
「監視カメラ。廃線跡の周辺にあるものを、できるだけ確認する」
メリーが少し目を丸くした。
「そんなものまで調べられるの? あの場所は大学の敷地からも離れているし、個人が勝手に映像を見られるとは思えないけれど」
「大学の敷地内なら、申請すれば一部の映像は確認できる。廃駅の周辺も、旧道の交差点や近くの施設に設置されたカメラの記録なら、研究目的ということで閲覧できる可能性がある」
「ずいぶん現実的ね。昨夜、あんなものを見た翌朝にする話とは思えないわ」
「幽霊を探すのにも、現代社会の手続きは必要なの。怪異だからって、いきなり山へ分け入る必要はないでしょう」
「幽霊って決めつけているの?」
「決めつけてないよ。人間かもしれないし、映像の乱れかもしれないし、私たちの認識の問題かもしれない。だから調べる」
私は端末を開き、昨夜の時刻と場所を入力した。
「なるほど。見えないものを、まず見える記録から追いかけるのね」
「そう。私にはそれしかできないから」
「それしか、ではないでしょう。あなたは、見えたものを疑って、疑ったものを確かめることができる」
メリーはそう言って、私の端末を覗き込んだ。
「それは、私にはできないことだわ」
その言葉の意味を、私はまだ深く考えなかった。
*****
結果から言えば、監視カメラには何も映っていなかった。
該当する時間帯を全部確認した。
私たちの姿は映っている。
駅舎へ入るところも、出てくるところも。
私が何度も端末デバイスを確認しているところまで、きれいに記録されている。
音が聞こえ始めた時刻も、私たちが線路の先を見た時刻も、映像の中では確認できた。
なのに、あの少女だけがいない。
私は映像を何度も巻き戻したが、少女が立っていたはずの場所には、暗い線路跡と、風に揺れる草しか映っていない。
私たちが同じ方向を見ていることは分かる。
メリーが何かを指差していることも分かる。
けれど、そこには何もない。
「……どういうこと?」
私は映像を止めた。
「私に聞かれても、答えようがないわ。少なくとも、カメラにはあの子の姿が記録されていないみたいね」
メリーは画面を見たまま答えた。
「蓮子には、やっぱり視えてなかった?」
「ううん。私には、見えていた」
メリーがこちらを向いた。
「視えていた?」
「うん。昨日、あの子の姿を見た。顔も、髪も、服も、立っていた場所も覚えている。月明かりが顔を照らした瞬間まで、はっきり覚えてる」
「でも、今見返している映像には?」
「映っていない。そこにいたはずの少女だけが、きれいに抜け落ちている」
「そう」
メリーは小さく息を吐いた。
その息には、安心よりも疲れが混じっていた。
私はその横顔を見た。
「メリー」
「なに?」
「あの子、本当にいたの?」
言った瞬間、自分でも少し嫌な質問だと思った。
疑っているつもりはなかったが、証拠がない以上、確認する必要はある。
そう考えた自分が、ひどく冷たい人間に思えた。
メリーはすぐには答えなかった。
画面の中の暗闇を見つめたまま、しばらく黙っている。
「……いたわ」
「どうして分かる?」
「視たから」
「私も見た。でも、私が見たのは、たぶん姿だけだったんだと思う」
「姿だけ?」
「うん。そこに女の子が立っていた。それは覚えている。でも、あの子が何だったのかは分からない。どうしてそこにいたのかも、どこから来たのかも、私には見えていなかった」
メリーは画面の中の暗闇を見つめた。
「私には、あの子がそこに立っているのが視えた。顔も、服も、立っていた場所も、あなたと同じ姿をしていたことも、全部覚えている。でも、あなたが見たものと、私が視たものは、同じではなかったのかもしれない」
「どう違うの?」
「まだ、うまく説明できないわ」
「それでも、いたと思う?」
メリーはようやく私を見た。
「蓮子は、私が視たものを信じられない?」
責めるような声ではなかった。
だからこそ、私はすぐに答えられなかった。
科学的には、証拠がない。
監視カメラに映っていないため、物理的な痕跡もない。
なら、普通なら「見間違い」という結論になる。でも、昨日のメリーの顔を思い出した。
あれは、見間違えた人の顔ではなかった。
怖がっていて、驚いていた。
そして何より、私に何かを伝えようとしていた。
もしメリーがただの見間違いをしていたのなら、あんなふうに私を止めようとはしなかったはずだ。
「……分かった」
私は端末を閉じた。
「何が分かったの?」
「もう一度調べよう」
メリーが私を見る。
「それは、私の話を信じるという意味?」
「違う」
「違うの?」
「まだ、信じるとか、信じないとか、そういう段階じゃないと思う」
私は立ち上がった。
「ただ、見えているのに記録されていないなら、記録されない理由を探せばいい。私には少女の姿が見えた。でも、メリーには私とは違う何かも見えていたんでしょう?」
メリーはしばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「それは、信じるよりも蓮子らしい答えね」
「そう?」
「ええ。あなたは、誰かの言葉をそのまま信じる代わりに、確かめることで相手の隣に立とうとするから」
「そんな大げさなものじゃないよ。単に、分からないままにしておくのが嫌なだけ」
「それでも、私には十分よ」
その声は、昨日までより少し近かった。
私はその意味を考えながら、もう一度、映像の再生ボタンを押した。
*****
午後。
私たちは不法占拠した部室にいた。
窓から差し込む光が、机の上に細長い四角形を作っている。
机の上には、昨日の調査記録が広げられている。
廃線跡の地図。駅舎の写真。音声データ。監視カメラの時刻表。
そして、私のメモ。
その中で一番大きく書かれているのが、
「少女はどこから来た?」
という文字だった。
私はその下に、いくつかの可能性を書き足していた。
映像に映らない人間。音だけの列車。廃駅に残った過去の記録。私たちの認識のずれ。
どれも決定的ではないが、どれも完全には否定できない。
「蓮子」
メリーが、しばらく黙っていた私に声をかけた。
「ん?」
「一つ話しておきたいことがあるの」
「何?」
メリーは窓の外を見た。
校舎の向こうに、古い木々と研究棟の屋根が見えている。
「私には、境界が視える」
私はペンを止めた。
「境界?」
「ええ」
メリーは少し迷うように視線を落とした。
「正確には、世界と世界の継ぎ目みたいなもの。子供の頃から、ときどき見えていたの」
「世界と世界の……継ぎ目?」
「うん」
私は黙った。
聞き間違いかと思ったが、メリーが冗談を言っているようには見えない。
「……もう一度、言ってくれる?」
「世界と世界の継ぎ目が見えるの。普段、私たちが一つの世界だと思っている場所に、別の世界が重なっている。その重なり方が、場所によって違って視えるのよ」
「壮大だね」
「そう?」
「だって、世界と世界だよ。普通なら、もっと小さなものから説明を始めるでしょう。例えば、光の屈折とか、視覚情報の処理とか」
「私も最初は、そういうものだと思っていたわ。でも、何年も視ていると、単なる見間違いでは説明できないことが増えていったの」
「でも、本当に世界と世界の継ぎ目だと分かるの?」
「分かるというより、そうとしか呼べないの。ほかの言葉では、視えているものの性質をうまく説明できないから」
メリーは、机の上に置かれた私のメモを指先でなぞった。
「例えば、ここに書かれている『少女はどこから来た?』という問い。私には、あの子がどこかから歩いてきたようには見えなかった」
「じゃあ、どう見えたの?」
「境界の向こう側から、こちら側を覗いていたように見えたわ」
私はペンを握り直した。
「どんなふうに?」
「場所によって違うわ。境界そのものの形が、いつも同じとは限らないの」
「例えば?」
「扉に見えることもある」
「扉?」
「ええ。普通の扉と変わらないこともあるし、壁の途中に輪郭だけ浮かんでいることもある。向こう側に何かあるような感じがするのに、取っ手に触れようとしても、そこまで手が届かないの」
「他には?」
「鏡に見えることもあるわ」
「鏡?」
「何も映していないのに、向こう側だけが見える鏡。こちらの部屋を映す代わりに、別の場所や、別の時間のようなものが見えることがある」
「それはちょっと怖い」
「蓮子が言う?」
「私は地下道が怖いから」
「まだ言ってるのね。地下道は、ただ暗くて狭いだけでしょう?」
「その『ただ』が怖いの。暗くて狭い場所に、何がいるか分からないから」
「境界の向こう側も、何がいるか分からないわよ」
「だから怖いんでしょう」
メリーが笑った。
私も少し笑った。
笑える話ではないはずなのに、彼女と話していると、どうしてもいつもの調子に戻ってしまう。
「他には、どんな形があるの?」
「霧だったり、亀裂だったりするわ」
「壁に入った亀裂?」
「壁に見えることもあるけれど、空間そのものに入っている亀裂。そこだけ景色の奥行きが合わなくて、向こう側に別の風景が覗いているように見えるの」
「それは、目の錯覚とは違うの?」
「写真を撮ると、普通の景色に戻っていることが多いわ」
「多い、ということは、例外もある?」
「あるわ。でも、写真に残ったものが本当に境界だったのか、私には判断できない」
その言葉だけは、妙に重かった。
私はメモを取る。
扉、鏡、霧、亀裂。
形は違うが、メリーは全部を「境界」と呼んでいる。
「いつから見えていたの?」
「子供の頃から」
「最初は怖かった?」
「……うん。怖かったわ」
メリーは少しだけ視線を落とした。
「だって、誰にも見えないものがえるんだもの。私が指差しても、そこには何もないと言われる。私にははっきり見えているのに、周りの人には壁や廊下しか見えていない。その違いが、子供の私には理解できなかった」
「家族にも?」
「見えないって言われた。最初は、私が嘘をついていると思われたわけではないの。ただ、疲れているとか、怖い夢を見たとか、そういうふうに説明された」
「病院とかには?」
「連れて行かれたこともあるわ。視力検査も、脳の検査も、いろいろ受けた。結果はいつも正常だったけれど、正常だと言われるたびに、私の見ているものだけが間違いだと決められていくような気がした」
私はそれ以上、すぐには聞けなかった。
聞けば聞くほど、彼女の過去に踏み込んでしまう気がした。
けれど、メリーは自分から話を続けた。
「ある日、家の廊下に扉があったの」
「普通の扉?」
「最初は、そう見えたわ。木製で、古い金具がついていて、家の中にあっても不思議ではないような扉だった」
「開けた?」
「開けられなかった」
「鍵がかかっていたの?」
「違うの。鍵穴も、取っ手も、ちゃんと見えていた。でも、手を伸ばしても、そこへ触れる前に距離が変わるの。近づいているはずなのに、扉だけが少し遠ざかるみたいに」
「それは……かなり怖いね」
「ええ。何度も試したわ。子供だったから、開けられないなら開けられるまで試せばいいと思っていたの」
「それで?」
「何度目かに、開ける必要がないって、なんとなく分かったの」
「どういう意味?」
メリーは少し笑った。
「向こう側に行くための扉じゃなかったから」
「扉なのに?」
「扉の形をしていただけで、通り抜けるためのものではなかったのよ。こちらと向こうを分けるために、そこに視えていた」
私はその言葉を書き留めた。
書きながら、少し妙な気分になった。
メリーの話は非合理的だ。
けれど、彼女の説明には妙な一貫性があり、思いつきで話している感じがしない。
境界は、何かを通すための道ではない。
世界と世界を分けるために存在している。
だから、扉に見えても開かない。
鏡に見えても映さない。
亀裂に見えても、そこから落ちることはない。
「それから?」
「いろいろあったわ」
「例えば?」
「学校の廊下が、実際より長く見えたりした。友達と一緒に歩いているのに、私だけが途中に別の廊下を見つけるの」
「その廊下には入った?」
「入らなかった。入ってはいけない気がしたから」
「階段は?」
「階段の途中に、存在しない踊り場が見えたことがあるわ。上から見ても、下から見ても、そこにあるように見える。でも、実際に足を置こうとすると、ただの段差に戻っているの」
「鏡は?」
「鏡の中だけ、部屋の形が違ったことがある。私の後ろにあるはずのない窓が映っていたり、誰もいない場所に人影が立っていたり」
私は顔を上げた。
「それ、全部同じもの?」
「分からないわ。少なくとも、私には同じ種類のものに見える」
「じゃあ、どうして境界だと思うの?」
メリーは少し考えた。
「向こう側に行けそうで、行けないから」
「……なるほど」
それは、妙に分かりやすかった。
世界と世界の間。
そこには何かがあるが、それは道ではない。
境目なのだ。
私は新しいページを開いた。
「研究できるかもしれない」
「やっぱりそうなるのね」
「何が?」
「蓮子なら、私の話を聞いたら、怖がるか、病院を勧めるか、研究を始めるかのどれかだと思っていたの。あなたは最後を選んだのね」
「だって、面白いじゃない」
「私が何年も悩んできたことを、面白いで片づけるの?」
「ごめん。そういう意味じゃない」
「では、どういう意味?」
メリーは少しだけ身を乗り出した。
責めているわけではないだろう。
ただ、私が何を考えているのか確かめようとしている。
「メリーが見ているものが、本当に世界の境界なら、今まで誰も記録できなかった現象を観測できるかもしれない。場所によって形が変わるなら、条件を比較できる。時間や天候、建物の構造、周囲の人間の数。何か共通点があるかもしれない」
「やっぱり、研究の話なのね」
「うん。でも、メリーを実験台にしたいわけじゃないよ」
「そう言いながら、もう観測項目を考えているでしょう?」
「……少しだけ」
「少しだけ?」
「かなり」
メリーは呆れたように息を吐いた。
けれど、その表情には嫌悪よりも、どこか嬉しそうなものが混じっていた。
「私が何年も見てきたものを、蓮子は新しい科学現象として扱うのね」
「扱えるかもしれない、だよ。まだ何も分かっていないから」
「私には、ずっと怖いものだったわ」
「今も?」
「今も怖い。でも、怖いからといって、見なかったことにはできないでしょう?」
「それなら、私たちは似ているね」
「どこが?」
「私は分からないものが怖い。だから調べる。メリーは見えてしまうものが怖い。でも、見えてしまった以上、無視できない」
メリーはしばらく私を見ていた。
「蓮子は、私のことを変だと思わないの?」
「変だと思うよ」
「即答するのね」
「でも、私も変だから。変な人が二人集まったら、変なものを調べるにはちょうどいいでしょう」
「それは、慰めになっているのかしら」
「たぶん」
「また、たぶん」
メリーは笑った。
私は少し考えてから言った。
「でも、研究できると思う」
「……どうして?」
「だって、メリーには見えている」
「それだけ?」
「それだけで十分だよ」
メリーが黙った。
私は続ける。
「私には見えない。でも、メリーには見える。だったら、まずはその違いを調べればいい。私が見えないからといって、メリーの見ているものまで存在しないことにはならない」
「蓮子」
「うん?」
「あなた、変な人ね」
「よく言われる」
「褒めてないわ」
「知ってる」
メリーは笑った。
その笑顔は、どこか昔から知っている人のように見えた。
まだ出会って数日なのに不思議だった。
私は、彼女の話を完全に理解したわけではない。
境界が何なのかも。
少女がどこから来たのかも。
なぜ私と同じ姿をしていたのかも。
何一つ分かっていないが、メリーが見たという事実だけは、もう疑いたくなかった。
*****
私はノートを閉じかけて、ふと手を止めた。
メリーが自分のことを話してくれた。
境界が見えること。
子供の頃から、それを一人で抱えていたこと。
誰にも理解されなかったこと。
それを聞いた今、私だけが何も返さないのは、少し不公平な気がした。
「メリー」
「なに?」
「私も、一つ話しておきたいことがある」
メリーは、先ほどまでの柔らかな表情を少しだけ引き締めた。
「蓮子にも、境界が見えるの?」
「そういうものではないと思う。でも、私にも、人には説明しにくいことがある」
私は窓の外を見た。
昼の空には星がないが、私にとっては、時計を見るのと同じくらい当たり前のことだった。
だからこそ、誰かに説明したことはなかった。
「私ね、星を見れば時間が分かるの」
メリーは瞬きをした。
「時間が?」
「正確には、星の位置から今が何時なのか分かる。時計を見なくても、だいたいの時刻なら判断できる」
「星を見ただけで?」
「うん。子供の頃からそうだった。夜空を見上げると、今が何時なのかが分かるの。どうしてそうなるのかは、私にも説明できない。ただ、星の並びを見れば、時間が読める」
メリーは驚いたまま、私の顔を見ていた。
「それは、今まで誰かに話したことがあるの?」
「ないよ。話しても信じてもらえないと思っていたし、私自身も、それが特別な能力だとは考えていなかった。私にとっては、目がいいとか、暗算が得意とか、そういうものに近かったから」
「でも、普通は星を見ただけで時間なんて分からないわ」
「最近は、そうかもしれないね。昔の人なら、星や月から時刻を読むこともあったでしょう。だから、少し変わった感覚を持っているだけだと思っていた」
「それだけ?」
メリーの問いには、先ほど私が彼女に向けたのと同じ響きがあった。
私は少し迷ってから、続けた。
「月を見れば、今いる場所も分かる」
メリーの表情が変わった。
「場所まで?」
「月の見える位置や形、周囲の星との関係から、今いる場所を判断できる。少なくとも、普段ならそうだった」
「普段なら?」
「昨日は、分からなかった」
私は廃駅で見上げた月を思い出した。
月はそこにあった。
星も見えていた。
なのに、いつものように場所を特定できなかった。
「だから、昨日のことが余計に気になっているの。私の能力が間違ったのか、それとも、あの場所が私の知っている世界の位置関係から外れていたのか。メリーが言う境界と関係している可能性もあると思っている」
メリーはしばらく黙っていた。
やがて、窓の外へ視線を向ける。
「あなたも、ずっと一人でそれを抱えていたのね」
「抱えていたというほど大げさじゃないよ。誰かに話す必要を感じなかっただけ」
「私も、最初はそう思っていたわ。説明できないものを説明しようとすると、かえって自分が変に見えるから」
「分かる」
「本当に?」
「うん。私も、星を見れば時間が分かるなんて言ったら、変な顔をされると思っていた」
「私は、変な顔をしている?」
「少しだけ」
「あなたが言うと、褒め言葉に聞こえるわね」
「褒めてるから」
メリーは小さく笑った。
けれど、その笑顔はすぐに真剣なものへ戻った。
「蓮子の能力は、私のものと似ているのかもしれないわ」
「どこが?」
「私は、世界の境界を見る。あなたは、世界の時間と場所を読む。どちらも、普通の人には見えないものを見ている」
「でも、私のはもっと理屈っぽいよ。星の位置を計算しているだけかもしれない」
「それなら、昨日どうして場所が分からなかったの?」
私は答えられなかった。
「計算に必要な条件が、あの場所では崩れていたのかもしれない。星の見え方が違ったとか、磁場や大気の状態が特殊だったとか、まだ説明の可能性はある」
「そうやって、すぐに別の説明を探すのね」
「探さないと、怖いから」
正直に言うと、メリーは少し目を細めた。
「蓮子も怖いの?」
「怖いよ。分からないものは怖い。だから、分かる形にしたい」
「私とは逆ね」
「逆だから、ちょうどいいのかもしれない」
「どうして?」
「私は、見えたものを理屈にしようとする。メリーは、理屈になる前のものを見つける。二人で調べれば、片方だけでは見落とすものも見つかるでしょう」
メリーは、私の言葉をしばらく考えていた。
「それは、私の能力を信じるということ?」
「信じるというより、使わせてほしい」
「ずいぶん研究者らしい言い方ね」
「でも、メリーを道具にしたいわけじゃない。私の能力も、同じように使っていいよ」
「私が?」
「うん。星や月を見て分かったことがあれば、遠慮なく聞いて。私も、メリーに見えたものを教えてほしい」
「お互いに、見えないものを補うのね」
「そういうこと」
メリーは、机の上のノートを見た。
そこには、彼女の話した境界の形が並んでいる。
扉。鏡。霧。亀裂。
私はその横に、新しい項目を書き加えた。
星。月。時間。場所。
「これで、秘密は半分ずつね」
メリーが言った。
「半分ずつ?」
「あなたが私の秘密を知って、私があなたの秘密を知った。どちらか一方だけが隠し事をしている関係ではなくなったでしょう?」
「隠していたつもりはないけど」
「私もよ。でも、話さなかったことは、隠していたことと少し似ているわ」
「じゃあ、これでお互い様」
「ええ。お互い様ね」
その言葉が、妙に心地よかった。
私たちはまだ出会って数日しか経っていない。
それなのに、互いに誰にも話していなかったことを話している。
普通なら、もっと時間が必要なのかもしれない。
けれど、私たちの間には、最初から何かを急いでいるような感覚があった。
世界のどこかで、何かがこちらを見ている。
その視線に追いつくために、私たちは互いの秘密を預け合っている。
そんな気がした。
*****
夕方、私たちは大学の構内を歩いていた。
調査ノートを片手に、昨日の廃駅の場所を地図に書き込む。
その隣には、月面地図の空白。
さらに、その下には一昨日届いた謎のメール。
バラバラの出来事。
廃駅。少女。月。境界。大学。
まだ何も繋がっていないが、私はこういう答えが出ていない状態が好きだった。
分からないものが、少しずつ形を持ちはじめる。
それは不安でもあったが、同時に、私たちだけが見つけた秘密のようでもあった。
「蓮子」
「なに?」
メリーが立ち止まった。
私は数歩進んでから振り返る。
メリーは、古い研究棟を見上げていた。
京都大学の敷地内には、最新鋭の研究施設と古い建物が混在している。
その研究棟も、かなり古く、外壁には年月の跡が残り、窓のいくつかは使われていない。
私は何度も通った場所であり、何も変わったところはない。
「どうしたの?」
メリーは答えず、ただ建物を見ている。
その視線は、建物の外壁や窓を追っているようで、実際にはその向こうにある何かを探しているようだった。
「メリー?」
しばらくして、彼女が小さく言った。
「……あそこ」
「何?」
「あそこ、境界が何重にも重なってる」
私は研究棟を見るが、何もない。
古い建物があるだけだ。
「何重にも、というのは?」
「一つの場所に、一つだけではないということ。扉の向こうに別の扉があって、そのさらに向こうに鏡があるみたいに、いくつもの境界が重なっているの」
「それは、今まで見た中でも多い方?」
「多いなんてものじゃないわ。あの建物、外から見えているよりずっと深い」
「建物の中が?」
「建物だけじゃない。時間や場所そのものが、何層にも折り重なっているように視える」
私は研究棟を見上げたが、何もない。
古い窓。剥がれた壁。閉ざされた入口。
それだけだ。昨日までなら、そこで終わっていた。
しかし今日は違った。
私は少しだけ目を細めた。
不思議なものは見えないが、それでもメリーが見ているものを、見てみたいと思った。
彼女が子供の頃から一人で見続けてきたものを、私にも見えるようになるまで。
「中に入れるかな」
私が言うと、メリーは少し驚いたようにこちらを見た。
「入るつもり?」
「調査するなら、外から眺めているだけでは足りないでしょう。建物の構造、使用状況、過去の記録。調べられるものは全部調べたい」
「蓮子、今の話を聞いていた?」
「聞いていたよ。だからこそ、何重にも重なっているなら、どこに重なっているのか確認したい」
「私が言っているのは、普通の建物ではないかもしれないということよ」
「普通の建物じゃないなら、なおさら調べる価値がある」
メリーは呆れたように私を見た。
「あなた、本当に怖くないの?」
「怖いよ」
「でも、入るの?」
「怖いから、準備してから入る。何も考えずに入るよりは、ずっと安全でしょう」
「そういうところが、怖いもの知らずに見えるのよ」
「違う。怖いものを怖いままにしておくのが嫌なだけ」
メリーはしばらく黙っていた。
それから、研究棟へ視線を戻した。
「……分かったわ。調べましょう」
「本当に?」
「ええ。ただし、私が帰ると言ったら、あなたも帰ること」
「理由は?」
「境界が重なりすぎている場所は、視ているだけでも疲れるの。長くいると、どこがこちら側なのか分からなくなることがあるから」
私はその言葉を聞いて、初めて少しだけ不安になった。
「それは、危険なの?」
「危険かどうかは、まだ分からないわ。でも、分からないものを調べるなら、分からないまま無茶をしないことが大切でしょう?」
「それ、私の台詞じゃない?」
「あなたから学んだのよ」
メリーはそう言って、少しだけ笑った。
私は、いつの間にか調査ノートを開いていた。
新しいページに日付、場所を書き、その下に、今日初めて書く言葉。
「境界について」
ペン先が紙の上を滑る。
不思議と手が震えなかった。
私はもう、メリーの話を「嘘かもしれない」とは思っていなかった。
証明は、まだできず証拠もない。
それでも彼女が見たと言うなら、私はそこから始めてみようと思った。
たぶん、それが私たちの調査の最初の一歩だった。
そして、古い研究棟の窓の一つが、誰も触れていないのに、ゆっくりと開いた。