秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
京都大学には、古い建物が多い。これは別に珍しい話ではない。
京都という街そのものが、古いものを捨てるのがあまり得意ではないからだ。
新しい研究施設の隣に百年前の建物があり、その隣には江戸時代から残る石垣がある。
さらに、その上空を自動配送機が飛んでいる。
歴史というものは、普通なら時間の流れに沿って並ぶものだと思う。
古いものが過去にあり、新しいものが未来にある。ところが京都では、それらが全部同じ場所にいる。
過去と現在と未来が、狭い土地の上で肩を寄せ合って暮らしている。
私はそういう京都が嫌いではなく、むしろ好きだった。
ただし、古い建物の地下に何があるのかを調べることになると、話は少し変わる。
「ここね」
メリーが言った。
私は顔を上げ、目の前の建物を確認する。
旧人文科学研究棟。
大学の中でも、特に古い建物の一つだった。
「ずいぶん年季が入ってる。外壁の補修跡も多いし、窓枠も場所によって材質が違う。建てた時代と改修した時代が、建物の表面にそのまま残ってるみたいだね」
「それは褒めてるの?」
「もちろん。古い建物には、古い建物にしかない魅力があるでしょう。新しい施設は便利だけど、最初から完成した状態で建っているから、時間の積み重なりが見えにくいのよ」
「蓮子の『もちろん』は、あまり信用できないわ。さっきから、古い建物を見て楽しそうにしているのに、口調だけは調査報告みたいなんだもの」
「それは仕方ないよ。私は感動を数字や記録に置き換える癖があるから」
「それ、感動を半分くらい捨てていない?」
「捨ててない。保存形式を変えてるだけ」
メリーは呆れたように笑った。
研究棟は四階建てだった。
外壁には補修された跡がいくつもあり、窓枠の一部は新しいものに交換されている。
建物そのものが、何度も時代に合わせて服を着替えてきたように見えた。
「大学の資料では、建築されたのはかなり昔みたい」
「いつ頃?」
「近代化以前」
「ずいぶんざっくりしてるわね。建築年が分からないのか、それとも分かっていて公開していないのか、どちらなの?」
「そこまでは書かれていない。ただ、最初の記録が残っている時点ですでに研究施設として使われていたみたい」
「建物が建った時期より、使われ始めた時期の方が古いということ?」
「正確には、建物の前身があった可能性がある。何度か増築されているし、現在の外観も一度に作られたものではないみたい」
「それで、昔は何に使われていたの?」
私は端末を操作した。
「最初は人文学系の研究施設。その後、民俗学、宗教学、心理学、認知科学……いろいろな研究室が入ってる」
「ずいぶん節操がない建物ね。人間の信仰を調べていた部屋の隣で、人間の認知を調べていた時期もあるのかしら」
「学問なんて、だいたいそんなものじゃない? 研究対象が違っても、結局は人間が世界をどう理解するかを調べているわけだし」
「蓮子が言うと説得力があるわ。あなた、世界の方が間違っていると思ったら、迷わず世界を調べ直しそうだもの」
「褒めてる?」
「もちろん」
今度は私が疑った。
メリーは楽しそうに笑った。
こういうどうでもいい会話が、最近は増えてきた。
知り合ってまだ日が浅い。それなのに、彼女といると沈黙すらあまり気にならない。
変なことだと思う。
大学で友達ができること。それ自体は珍しくない。でも私たちは、普通の学生がするような話より、存在しない駅や、境界や、月の空白について話している。
それでも、不思議と居心地がよかった。
「地下は?」
メリーが聞いた。
「そこなんだよね」
私は画面を拡大した。
「公開されてる建物資料では地下二階まで。平面図も断面図も、地下二階で終わってる」
「二階までしかないことになっているのね」
「そう。少なくとも、大学が公開している資料の上では」
「でも、地下三階があるわ」
私はメリーを見る。
「資料に?」
「違う」
「じゃあ、どこで確認したの?」
「見えるの」
私は研究棟を見上げた。
少なくとも私には、普通の建物に見える。
「どこから見える?」
「建物の下」
「建物の下に、地下三階が見えるの?」
「そう」
「それは、建物を透視しているという意味?」
「そういう言い方をされると、少し違う気がするわ。壁の中を見ているわけじゃないもの」
「じゃあ、何を見ているの?」
「建物の形に重なっている、別の形。階段がある。廊下もある。部屋もある。でも、こちら側の建物とは少しずれているの」
「ずれている?」
「同じ場所にあるのに、同じ場所ではないみたいに見える」
「……それ、私には見えないでしょう」
「私には視えるの」
「便利だね」
「便利って言わないで」
「ごめん。悪気はなかった」
「分かってる。でも、私にとっては、ずっと厄介だったんだから」
メリーは少しだけ頬を膨らませた。
「子供の頃から、誰もいない場所に扉が見えたり、壁の向こうに階段が見えたりしたの。見えているものを説明しても、誰も信じてくれなかった。だから、便利な能力みたいに言われると、少し違うと思ってしまうのよ」
「そうだったね。ごめん」
私は端末を閉じた。
「じゃあ、調べよう」
「行くの?」
「行く。地下三階が本当にあるのか、メリーが見ているものと建物の構造がどこまで一致するのか、確認したい」
「地下三階に入るつもり?」
「まずは、あるかどうかを確認する。もし入口が見つかったら、その時に考える」
「蓮子の『その時に考える』は、だいたい『見つけたら入る』という意味でしょう」
「そんなことはないよ」
「では、もし地下三階への入口が見つかったら、どうするの?」
私は研究棟を見た。
「入る」
メリーはしばらく私を見ていた。
それから、呆れたように笑った。
「本当に、蓮子って怖いもの知らずね」
「さっき怖いって言ったでしょう。私は怖いものを知らないんじゃなくて、怖いものを知った上で近づいてしまうの」
「それは、怖いもの知らずより悪い気がするわ」
「そうかな」
「そうよ。怖いと分かっているのに、好奇心の方を優先するんだもの」
「でも、怖いからって見なかったことにしたら、ずっと気になるでしょう」
「気になっても、普通は帰るの」
「私は普通じゃないから」
「自分で言うのね」
「メリーも否定しないでしょう」
「否定できないのが悔しいわ」
その返事が妙に嬉しかった。
私たちは、もう一度研究棟を見上げた。
昼間の建物は、ただ古いだけに見えたけれど、メリーの目には、その下に別の階層が重なっている。
私には見えない。だからこそ、確かめたかった。
*****
夜になってから、私たちは研究棟へ向かった。
もちろん、正規の手続きはしていない。
これは言い訳のできない事実なので、調査ノートには書かないことにした。
大学の夜は静かだった。
昼間なら学生や研究者で賑わっている構内も、人が少なくなると別の顔を見せる。
木々の間から古い校舎が見える。
遠くでは自動運転車の走行音がする。未来的な風景なのに、足元には昔から変わらない石畳がある。
その組み合わせが妙に京都らしい。
「メリー」
「なに?」
「本当にここで合ってる? 昼間に見た時と、夜に見た時で、建物の印象がかなり違う。入口の位置を間違えていたら、私たちはただ古い校舎の周りを一周して帰ることになるよ」
「合ってるわ。建物の形は変わっていないもの」
「建物の形は、ね」
「蓮子、そういう言い方をすると、私まで不安になるでしょう」
「ごめん。でも、メリーが見ている地下三階は、夜になると変わったりしないの?」
「変わることはあるわ。境界は、見る人や時間によって形を変えるから」
「それは困るね。地図が役に立たない」
「だから、私がいるのでしょう?」
「頼りにしてる」
メリーは一瞬、黙った。
「……そういうことを、急に言うのはやめて」
「何か変なこと言った?」
「変ではないけど、調子が狂うの」
「じゃあ、今のは記録しておこう」
「記録しないで」
「調査上、重要な発言かもしれない」
「絶対に違うわ」
メリーの笑い声が夜の構内に小さく響いた。
私は少しだけ安心した。
怖い場所へ向かう時、隣にいる人が笑っていると、世界がまだ普通の形を保っているように思える。
「地下三階が見えてる?」
私は改めて尋ねた。
「見えてる」
「入口は?」
「まだ」
「じゃあ、何が見えてるの?」
メリーは建物を見つめた。
「階段」
「普通の?」
「普通じゃないわ」
「どう違う? 段数が多いとか、途中で折れているとか?」
「そういう違いではないの。下へ続いているように見えるけど、途中からこちらの世界ではなくなる」
「……それ、説明になってる?」
「私にもこれ以上は説明できないもの。階段の形は見えるけれど、どこから先が別の世界なのかは、目で見ても線を引けないのよ」
「境界なのに、境界線がないんだ」
「ええ。境界という言葉から、はっきりした線を想像しない方がいいわ。扉のように見える時もあるけれど、霧のように広がっている時もあるから」
「なるほど。つまり、境界は場所ではなくて、状態に近い?」
「たぶん。蓮子の言葉を借りるなら、こちら側と向こう側が同じ場所に重なっている状態」
「それなら、観測できるかもしれない」
「また研究の話を始めるのね」
「だって、今の説明はかなり重要だよ。境界が固定された構造ではなく、観測条件によって変化するなら、時間や光量、観測者の認識が関係している可能性がある」
「私の視ているものを、実験条件に分解するつもり?」
「できるならやってみたい」
「本当に、蓮子は蓮子ね」
「それ、褒めてる?」
「今度は褒めていないわ」
私たちは裏口へ回った。
古い扉には電子錠が付いていた。
「最新技術と古い建物の組み合わせって、こういう時に嫌ね」
「どうして? 電子錠なら、古い鍵より開ける方法が多いかもしれないでしょう」
「古い鍵なら、ピッキングというロマンがあるでしょう。錆びた鍵穴に細い道具を差し込んで、内部の仕組みを一つずつ探る。あれは古い建物への礼儀みたいなものだと思う」
「それは礼儀ではなくて、不法侵入の手順よ」
「言葉が厳しいなあ」
「事実を言っているだけ。しかも、今から私たちがしようとしていることも、十分に不法侵入に近いでしょう」
「近いんじゃなくて、たぶんそのものだね」
「認めるのが早いわ」
「認めた方が、後で反省しやすいから」
「反省するつもりはあるの?」
「調査が終わったら」
「終わらなかったら?」
「その時は、反省する暇がない」
私は学生証を取り出し、電子錠の認証部に近づける。
当然、拒否された。
赤いランプが点滅し、短い警告音が鳴る。
「駄目」
「でしょうね。学生証で立入制限区域に入れるなら、そもそも立入制限の意味がないもの」
「どうしよう」
「帰る?」
「嫌」
「即答なのね」
「ここまで来たんだから。少なくとも、入口の周辺だけでも調べたい」
「蓮子は、帰るという選択肢を最初から用意していないでしょう」
「用意はしてるよ。使う予定がないだけで」
私は扉を眺めた。
するとメリーが、私の肩越しに何かを見るような顔をした。
「待って」
「何?」
「少し右へ移動して」
「ここ?」
「もう少し。そう、そこで止まって」
私は言われた通りに動いた。
扉の横に、小さな管理用端末がある。
「これ?」
「ええ。さっきまで、扉の影に隠れて見えなかった」
「私には最初から見えていたけど」
「端末ではなくて、その周り。ここだけ境界が薄いの」
「境界が薄いと、何が起きるの?」
「こちら側のものと、向こう側のものが重なりやすくなる。見えないものが見えたり、触れないものに触れたりすることがあるわ」
「それは、かなり危険じゃない?」
「危険よ」
「先に言ってほしかった」
「今、言ったでしょう」
「もっと早く」
「蓮子が聞かなかったのよ」
端末を調べた所、電源は入っており、管理画面が起動する。
「……なるほど」
「何か分かった?」
「保守用の入口が残ってる。通常の認証とは別系統で、古い管理者用の手順がまだ生きているみたい」
「つまり、建物の裏口から入るより、こっちの方が簡単なの?」
「そう。正確には、簡単というより、古い仕組みが新しい仕組みに置き換えられずに残っている」
「それって、大学が忘れているだけでは?」
「たぶんね」
「忘れられたものが、地下へ続く入口を開けるのね」
「そう考えると、かなり物語らしい」
「物語にしないで。今から入るのは、現実の建物よ」
「現実の建物に、現実では説明できない地下階があるから困ってるんでしょう」
私は端末を操作し、古い認証画面が表示される。
いくつかの項目を確認し、保守用の入口を選択する。
画面に警告が出た。
旧設備への接続を開始します。現在の安全基準に適合しない可能性があります。
「安全基準に適合しない可能性があるって」
メリーが画面を覗き込んだ。
「どういう意味?」
「古い設備だから、今の基準では保証できないという意味だと思う」
「それは、入らない方がいいという意味では?」
「普通なら、そう判断する」
「普通なら?」
「私たちは普通ではないから」
「その言葉、便利に使いすぎよ」
私は確認ボタンを押し、扉の内部で古い機械が動く音がした。
しばらくしてロックが外れ、扉が開いた。
私たちは顔を見合わせた。
ほんの少しだけ、胸が高鳴った。
入ってしまえば、戻れない。
そんな大げさなことではないはずなのに。
私はそう自分に言い聞かせた。
「蓮子」
「うん」
「本当に入るの?」
「ここまで来て、扉を開けただけで帰るのは、さすがに悔しいでしょう」
「悔しいから入るの?」
「それだけじゃない。メリーが見ている階段が、この建物の中に本当に存在するのか確かめたい」
「私を信じているのね」
その言葉に、私は少しだけ考えた。
「信じているというより、メリーが見たものを、私も自分の方法で確かめたい」
「それは、信じているのと違うの?」
「たぶん、少し違う。でも、調べる価値があると思っている」
メリーは私を見た。
暗い廊下の入口で、その表情はよく見えなかったが、その声は穏やかだった。
「それで十分よ」
私たちは研究棟の中へ入った。
*****
研究棟の中は、昼間よりずっと広く感じた。
照明は最低限しか点いておらず、廊下の壁には古い研究室名が残っていた。
民俗学研究室。宗教学研究室。比較文化研究室。
文字の一部は剥がれ、部屋番号のプレートだけが新しいものに交換されている。
建物の中にも、外と同じように時代の重なりがあった。
「昼間に見た時より、廊下が長くない?」
私は歩きながら言った。
「長く見えるだけかもしれないわ」
「私の感覚では、入口から階段までの距離が、資料にある平面図より少し長い」
「蓮子の感覚が狂っている可能性は?」
「もちろんある。でも、私の感覚が狂っているなら、メリーの境界と比較できる」
「自分の間違いまで観測材料にするのね」
「間違いは、正しい結果を見つけるための重要なデータだから」
「そういうところは、少し羨ましいわ」
「どうして?」
「私は、視えたものが間違いかどうかを判断できないことがあるから。視えているのに、誰にも確認できない。そういう時、自分の目を信じていいのか分からなくなるの」
私は足を止めた。
「でも、今は私がいる」
「ええ」
「私には見えないものでも、メリーが見た場所を記録できる。距離や角度を測れる。写真を撮れる。音を録れる。全部が証明になるとは限らないけど、少なくとも一人で抱え込む必要はないよ」
メリーは少し驚いたように私を見た。
「蓮子は、時々そういうことを言うのね」
「どういうこと?」
「普段は、世界を面白がっているだけに見えるのに、急に真面目になる」
「私はいつも真面目だよ」
「それは、どうかしら」
「少なくとも、メリーの話を面白半分で聞いているわけじゃない」
「分かってる」
メリーは小さく笑った。
「だから、あなたと一緒にいると少し楽なの」
その言葉に、私は返事をしなかった。
返事をすると、何か大切なものを軽くしてしまいそうだった。
私たちは再び歩き始めると、廊下の奥に見覚えのない研究室名があった。
「認知境界研究室?」
私は足を止めた。
「そんな研究室、公開資料にあった?」
「なかったと思う。少なくとも、今の研究室一覧にはない」
「過去の資料には?」
「調べた範囲では見つからなかった。認知科学系の研究室があったことは記録されているけど、この名前は出ていない」
「名前だけが残っているのね」
「それも、誰かが意図的に残したみたいに見える」
メリーが看板を見つめる。
「何か感じる?」
「少し」
「境界?」
「ええ。看板の向こう側に、部屋があるように見える」
「向こう側って、壁の向こう?」
「そう。でも、普通の部屋ではないわ。机や棚があるように見えるけれど、全部が少しずつ違う。こちらの研究室を真似しているみたい」
「模倣された部屋?」
「そうかもしれない」
私は写真を撮った。
フラッシュが一瞬、廊下を白くし、その光の中で壁に貼られた古い研究者名簿が見えた。
何人かの名前。研究分野。在籍年度。
そして、その一番下に黒く塗りつぶされた欄があった。
「これ」
「何?」
「誰かが消してる。名前だけじゃない。研究テーマまで塗りつぶされている」
私は名簿に近づき、塗りつぶされた箇所を確認した。
黒い塗料は古く、周囲の紙が黄ばんでいるのに、塗りつぶされた部分だけが妙に濃かった。
後から消したのではなく、最初から見せないために塗られたようにも見える。
「古い資料だからじゃない?」
「だったら、全部消すでしょう。ここだけ、研究者一人分の欄が丸ごと消されている」
「大学が記録を整理した時に、在籍していたこと自体をなかったことにした可能性は?」
「それなら、なおさら調べる価値がある」
「蓮子は、情報が隠されていると分かると、余計に知りたくなるのね」
「隠されているものには、隠す理由があるから」
「理由があるとは限らないわ。単に、誰かが面倒で消しただけかもしれない」
「それでも、面倒で消すほどの何かがあったということになる」
「そうやって、どんなことでも謎に変えてしまうのね」
「謎があるから調べるんじゃないよ。調べると、謎が見つかるの」
「同じことに聞こえるわ」
「私には違う」
メリーは指を伸ばすが、触れる直前で止めた。
「どうしたの?」
「ここから下」
「地下?」
「うん。さっきから、下の方に境界が集まっている」
「地下三階?」
「それだけじゃない。地下二階の下に、別の階層が重なっている。階段も、廊下も、部屋もある。でも、こちら側の建物の構造とは一致していない」
「つまり、地下三階があるというより、地下二階の下に別の建物がある?」
「そう視える」
「それは、かなり重要な違いだね」
「蓮子は、そういうところを気にするのね」
「建物の地下に別の建物があるなら、単なる隠し階ではなく、構造そのものが二重になっている可能性がある。もし過去の研究者たちが意図的に作ったなら、大学が地下階を隠している理由も変わってくる」
「理由が、もっと悪いものになるかもしれないわ」
「そうだね」
メリーの声が少し低くなった。
私は彼女の横顔を見た。
さっきまでの好奇心だけではなく、その顔には緊張が走っていたが。
それでも、帰ろうとは言わなかった。
「怖い?」
私は尋ねた。
「怖いわ」
「帰る?」
「帰った方がいいと思う?」
「分からない。危険なら帰るべきだと思う。でも、危険かどうかを確認するために、もう少し調べたい」
「蓮子らしい答えね」
「メリーは?」
メリーは壁の向こうを見つめた。
「私も、もう少し見たい」
「じゃあ、行こう」
「ええ」
その返事には、さっきよりも強い決意があった。
*****
地下二階へ続く階段を見つけた。
そこまでは、公開資料と一致している。
私は段数を数えながら降りた。
一段。二段。三段。踊り場。さらに下へ。
地下二階。廊下。倉庫。
閉鎖された研究室。壁に残る古い掲示物。剥がれたポスター。誰かが置き忘れた椅子。
そこには、長い時間の後に残されたものだけがあった。
「ここまでの構造は、資料と一致している」
私は端末に記録した。
「階段の段数も、廊下の長さも、ほぼ誤差の範囲。少なくとも、地下二階までは普通の建物として説明できる」
「地下二階までは、ね」
「そう」
そして突き当たりに辿り着いたが、階段はそこで終わっていた。
「……ない」
私は言った。
「ええ」
メリーが答える。
「でも、ある」
彼女は壁を見ている。
「どこ?」
「あそこ」
私はただの壁に近づいたが、何度見ても古いコンクリート、それ以上のものには見えない。
私は壁の表面を照明で照らした。
「私には、何も見えない」
「分かってる」
「でも、メリーには見える?」
「ええ。壁の向こうに、扉がある」
「扉の形は?」
「古い木製。こちらの壁より少し奥にある。正面から見ているのに、斜めに置かれているように見えるわ」
「斜め?」
「扉の向こう側が、こちらの空間と完全には重なっていないから」
「それなら、開けられるの?」
「分からない」
「触れることは?」
「たぶん」
メリーは壁の前に立つと、静かに手を伸ばした。
ただ、空中に手をかざしている様に見える。
「ここ」
彼女が呟いた。
「何がある?」
「扉。今は、こちら側に近づいている」
「今は?」
「境界が動いているの」
「扉が動くの?」
「扉そのものではなくて、こちらの世界との重なり方が変わっている」
「それなら、時間を置くと消える可能性もある?」
「あるわ」
「だったら、今のうちに確認しよう」
「蓮子」
「うん」
「本当に、こういう時だけ迷わないのね」
「迷ってるよ。迷っているけど、迷っている間に消えたら、もっと後悔する」
「後悔するために入るの?」
「後悔しないために、確かめるの」
メリーは私を見た。
それから、壁に手を当てる。
当然、何も起きない。
私はそう思った。
けれど、次の瞬間。
壁の一部が、まるで水面のように揺れた。
「……え?」
私は思わず一歩下がった。
コンクリートの表面が波打っている。
光が歪み、壁のひび割れが水の底へ沈むように消えていく。
メリーの手の周囲だけ、空間の輪郭が崩れていた。
「メリー、今のは何?」
「分からない。私が開けたわけではないわ」
「でも、触ったでしょう」
「触れたのは境界よ。扉を開けたわけじゃない」
「境界に触れると、こうなるの?」
「いつもではない。ここは、向こう側の方から近づいてきているみたい」
「向こう側から?」
その言葉を聞いた瞬間。
壁の向こうから、何かがこちらを覗いているような気配がした。
私は息を止めた。
次の瞬間、そこに扉が現れた。
さっきまで何もなかった場所に、古い木製の扉。
私は言葉を失った。
理屈を考えようとした。
映像?投影?光学迷彩?錯覚?
どれも違う。
目の前にある扉は触れられ、古い木の匂いまでした。
私は恐る恐る手を伸ばし、扉の表面に触れた。
ざらついた木の感触。塗料の剥がれ。指先に残る、乾いた埃。
幻ではない。
少なくとも、私の手はそう判断していた。
「蓮子」
「うん」
「開ける?」
私は扉を見る。
中央には、奇妙な図形が刻まれていた。
円。直線。幾つもの角。
それらが互いに重なり、どこから始まってどこで終わるのか分からない。
図形というより、何かの言葉に見えた。
「これ、何だと思う?」
「分からない」
「メリーにも?」
「ええ。境界の形なら分かるけれど、そこに刻まれたものの意味までは見えない」
「図形そのものが、境界を表している可能性は?」
「あると思う。でも、私が見ている境界と同じものかどうかは分からないわ」
「円と直線が重なっている。閉じているようで、どこにも完全には閉じていない。幾何学的には、かなり不自然な形だね」
「不自然だから、意味があるの?」
「意味があるから、不自然に見えるのかもしれない」
「蓮子は、分からないものを見ると、すぐに意味を探すのね」
「メリーは探さないの?」
「私は、意味が分からないまま見てきたから」
その言葉に、私は返事をしなかった。
メリーは、ずっと一人でこの世界を見てきた。
扉。鏡。霧。亀裂。
誰にも説明できないものを、誰にも共有できないまま、私は今、その一部を初めて触っている。
「……ごめん」
「何が?」
「今まで、メリーが見てきたものを、簡単に便利だと言ったこと」
「もう気にしていないわ」
「でも、私はまだ、メリーが見ているものを全部理解できていない」
「理解しなくてもいいのよ」
「それでも、調べたい」
「どうして?」
「分からないものを、そのままにしておくのが嫌だから」
「それは、私と同じね」
「そうかもしれない」
メリーは扉を見た。
「でも、蓮子。ここから先は、今までの境界とは少し違うわ」
「何が違うの?」
「向こう側が、こちらを見ている」
私は扉の向こうを想像した。
暗い部屋。古い資料。誰もいない地下施設。
そして、こちらを見ている何か。
「それでも、開ける?」
メリーが尋ねた。
私は取っ手に手を伸ばした。
「開ける」
「怖くないの?」
「怖いよ」
「それでも?」
「それでも。メリーが一人で見てきたものを、今度は二人で見たいから」
メリーはしばらく黙っていた。
やがて、私の隣に立つ。
「それなら、私も一緒に見るわ」
私は手を伸ばした。
扉の取っ手に触れる。冷たい金属の感触。
その瞬間、向こう側から音がした。
小さな音だった。
カチ。カチ。カチ。
私は手を止めた。
「……何?」
メリーも聞いている。
カチ。カチ。カチ。
ひとつではない。
二つ。三つ。もっと。
音が増えていく。
小さな機械音が、規則正しく、しかし微妙にずれながら重なっていく。
カチ、カチ、カチ、カチ。
私は扉に耳を近づけた。
心臓の鼓動が少し速くなる。
これは何の音だ。
機械?装置?誰かがいる?
いや、もっと古い、もっと単純な。
私たちが昔から知っている音。
メリーが私の隣で息を呑んだ。
「蓮子」
「うん」
「これ、時計の音だわ」
「時計?」
「ええ。たくさんの時計が、同じ場所で別々の時間を刻んでいる」
「どうして分かるの?」
「境界の向こう側が、時間の形をしているから」
「時間の形?」
「説明できない。でも、あの音は、ただの機械音ではないわ。時間そのものが、こちら側へ漏れているみたい」
私は取っ手を握り直した。
手のひらに汗がにじんでいる。
「それなら、なおさら確認しないと」
「蓮子は、どんな時でも調査に戻るのね」
「戻らないと、怖さに負けそうだから」
「……正直ね」
「メリーは?」
「私も怖いわ。でも、あなたが隣にいるなら、見てみたい」
私はゆっくりと扉を開いた。
暗闇の向こうから、無数の時計が時を刻む音が聞こえてきた。