秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
扉を開けた瞬間、時間というものが部屋の中に散らばっているような気がした。
カチ。カチ。カチ。
ひとつひとつは小さな音なのに、それが何十、何百と重なっている。
規則正しいようで、規則正しくない。
早いものもあれば、遅いものもある。
同じ時刻を刻んでいる時計など、一つもないのかもしれない。
「……時計?」
私が呟くと、メリーが隣で答えた。
「たぶん時計だと思うわ。ただ、音しか聞こえないから、実際に何が置かれているのかまでは分からないの」
「たぶんなんだ。メリーにも見えないものがあるんだね」
「見えるのは境界であって、暗闇の中にある物体を透視できるわけじゃないもの。蓮子の期待には応えられなくて残念だけど」
「いや、そこまで期待してないよ。もし時計が何百個も置いてあるなら、かなり趣味の悪い研究室だと思っただけ」
「時計を集めること自体は、研究者にとって珍しくないでしょう。時間を測るために必要だったのかもしれないし、あるいは、時間そのものを観測していたのかもしれない」
「時間そのものを観測するって、どうやるの?」
「さあ。だから、ここに来たんでしょう?」
メリーの声には、いつもの軽い調子があった。
けれど、暗闇の奥から聞こえる無数の音を前にしても、彼女が本当に平気なのかは分からなかった。
私は端末デバイスのライトを点けた。
光が暗闇を細く切り裂く。
その先に、部屋があった。
想像していた資料室とはもっと狭いものだと思っていた。
もっと埃っぽくて、使われなくなった机や棚が雑然と並んでいるものだと思っていた。
ところが実際には、かなり広く、天井も高い。
左右の壁には本棚が並び、中央には大きな作業机がいくつも置かれている。
机の上には、紙束や器具のようなものが残されていた。
どれも長い間使われていないはずなのに、完全に放置された印象はない。
誰かが最後に立ち去ったあと、部屋だけがそのまま時間から取り残されたようだった。
「……これ、本当に大学の地下?」
「そうじゃなかったら、どこに見えるの?」
「分からない。少なくとも、私が知っている大学の地下には、こんな部屋はないよ」
「大学の資料に載っていなかったから、ここにあるんでしょうね」
「それ、理由になってる?」
「蓮子がいつも言っているでしょう。記録にないものほど、調べる価値があるって」
「私、そんなに無責任なこと言ってた?」
「言っていたわ。もっと格好よく、何度も」
私は静かに部屋の中へ一歩を踏み出した。その瞬間、足元でカサリと乾いた音が響く。
見下ろすと、それは床一面に散らばった古い研究資料だった。そのうちの一枚を拾い上げ、手元のライトで照らし出す。かすれた文字の並ぶ紙面は、しかし、まだ十分に判読可能だった。
民俗学。宗教学。天文学。認知科学。都市伝説。
それぞれなら大学のどこにでもありそうな分野だが、ここには全部がある。
しかも、単に保管されているだけではない。
資料の端には、同じ形式の番号が振られていて、分野の違う資料が、同じ規則で分類されている。
「変ね」
メリーが言った。
「何が?」
「普通、こんなに違う研究の資料を一か所に集めないでしょう? 民俗学と天文学なら、研究対象も方法も違う。まして都市伝説の調査報告まで同じ棚に並べるなんて、よほど共通した目的がなければ考えにくいわ」
「確かに。単なる倉庫なら、分野ごとに分けるはずだよね」
「それなのに、ここでは全部が同じものとして扱われている」
「同じもの?」
「少なくとも、ここで研究していた人たちは、そう考えていたんじゃないかしら」
私は棚を眺めた。
並べられた資料には分類番号が付いているが、日本十進分類法とは違う。
数字とアルファベット。その後ろに、短い記号が付いていた。
番号は資料の種類ではなく、観測された現象の順番を示しているようにも見える。
「これ、研究テーマじゃない」
「分かるの?」
「なんとなく。研究分野を示すなら、もっとまとまった記号になるはず。でもこれは、資料の内容よりも、資料が扱っている対象に番号を振っている感じがする」
「蓮子が『なんとなく』でそこまで考えられるなら、かなり信用できるわね」
「私だって、たまには感覚で生きるの」
「それはそれで怖いわ。いつも理屈っぽい人が感覚で判断すると、本人だけが気づかない危険を見落としそうだもの」
「じゃあ、メリーが横で見張っていてよ」
「私が?」
「境界が見えるんでしょう。危ないものがあったら教えて」
「危ないものと、ただ珍しいものの区別がつくとは限らないわ」
「それでも、私一人よりは安全だよ」
メリーは少し考えた。
「……それなら、できるだけ近くにいるわ」
その言葉が、妙に頼もしく聞こえた。
私は、表紙に『境界現象 観測記録』と書かれている一冊のファイルを取り出した。
その下にはずいぶん古い日付。
紙の端は黄ばんでいるが、表紙だけは何度も触られたように擦れていた。
「メリー」
「うん。見せて」
メリーが横から覗き込む。
しばらく黙っていたが、私は彼女が何かを読んでいるのか、それとも別のものを見ているのか判断できなかった。
「……境界」
「やっぱり?」
「ええ。タイトルだけじゃないわ。ファイル全体から、薄い境界の跡が出ている」
「資料から境界の跡が出るって、どういうこと?」
「説明しにくいわ。紙に何かが付着しているわけではないの。書かれた内容や、ここで扱われたものの記憶が、紙の向こう側に残っているように見える」
「それは、かなり説明しにくいね」
「でしょう?」
「でも、ここで研究していたのは、あなたが見ているものと同じなのかな」
「分からないわ。私が見ている境界と、研究者たちが観測していたものが同じだとは限らないもの」
「それでも、少なくとも関係はありそうだ」
「そうね。ここまで似た言葉を使っているなら、偶然とは考えにくいわ」
メリーは答えながら、ファイルのページをめくった。
そこには手書きの図があった。
円。線。交差する複数の境界。
そして、その中心に小さな黒い点。
図の横には、いくつかの数値と、判読しにくい注釈が書かれている。
「これ……」
「何?」
「私が見たことのある形に似てる」
背中が少し冷たくなり、私はファイルを机に置いた。
「じゃあ、昔から見えてた人がいた?」
「分からないわ。似ているだけで、同じものだとは言えない」
「でも、この記録がある」
「ええ。だから、私だけが見ていたわけではない可能性はある」
メリーは紙を撫でるように見つめた。
「……私だけじゃなかったのね」
その声は、とても小さかった。
私は何も言わなかった。
彼女が長い間、自分にしか見えないものを抱えてきたことは知っている。
家族にも理解されず、病院にも連れて行かれ、それでも見えるものを見えないことにはできなかった。
そんな彼女にとって、ここに残された記録は、単なる研究資料ではないのだろう。
自分の感覚が完全な孤独ではなかったと示す、初めての証拠なのかもしれない。
私はファイルをそっと閉じた。
「持って帰ろうか」
「駄目よ」
「どうして?」
「ここにあるから意味があるものかもしれない。番号や配置も含めて、研究の一部だった可能性があるわ」
「じゃあ、写真だけ撮る」
「それならいいと思う」
私は端末を取り出し、表紙とページを撮影した。
それから、棚の位置と番号も記録する。
メリーはその間、ファイルから目を離さなかった。
私は撮影を終えると、別の棚を調べ始めた。
*****
資料は、奇妙なほど多かった。
古い京都の地図。現在は存在しない寺社の記録。宗教儀礼の調査報告。月の観測記録。奇妙な夢を見た人間への聞き取り調査。「誰もいない駅」のような都市伝説。さらには、海外の神話や宗教に関する資料まである。
どれも単独で見れば、大学の研究対象として不自然ではないが、ここに集められていると、別の意味を持って見えた。
古い地図は、現在の京都と過去の京都を重ねるため。
宗教資料は、異界や死者の国に関する記録を探すため。
天文学の記録は、空の位置と時間のずれを調べるため。
都市伝説の報告は、現実の隙間に現れる場所を集めるため。
それぞれの資料が、同じ問いに向かっている。
世界の外側には、何があるのか。
「これ、全部同じ研究のために集められたのかな」
私は棚から一冊の報告書を抜きながら言った。
「そう考えるのが自然でしょうね」
「でも、研究室の名前も、研究者の名前もほとんど残ってない」
「意図的に消された可能性があるわ」
「大学が?」
「大学全体とは限らないけれど、少なくとも誰かが記録を整理したのは確かでしょうね」
「どうして隠す必要があるんだろう」
「研究が失敗したからかもしれない。あるいは、成功してしまったから」
私は手を止めた。
「成功したから隠す?」
「世の中には、知られない方が都合のいいこともあるでしょう」
「それは分かるけど、世界の境界を研究した結果を隠すって、かなり大げさじゃない?」
「蓮子は、昨日の研究棟で見たものを大げさだと思っているの?」
私は答えられなかった。
壁の前に現れた扉。その向こうに続く、存在しないはずの地下階。そして、今ここにある資料。
大げさなのは、研究者たちではない。
私たちがまだ、起きていることを正しく理解できていないだけだ。
その中に、私は見覚えのある名前を見つけた。
「ブレイク……?」
「誰?」
「ウィリアム・ブレイク」
「誰?」
「十八世紀から十九世紀にかけて活動した詩人で、画家でもあった人。天使や神話的な存在を描いた作品が多い」
「この研究と関係があるの?」
「分からない。でも、ここに名前がある以上、何かの手がかりにはなるかもしれない」
ファイルを開く。
そこには詩そのものではなく、いくつかの研究メモが挟まれていた。
想像力。人間。世界。永遠。分裂。そんな単語が並んでいる。
メモの一つには、ブレイクの作品に登場する人物や概念を、複数の世界の構造と結びつけようとした跡があった。
「ずいぶん文学的な研究ね」
「むしろ逆かもしれない」
「逆?」
「詩を鑑賞しているんじゃなくて、詩を材料にして世界の構造を考えていたんじゃないかな。ブレイクが描いた神話を、単なる創作ではなく、別の世界を認識するためのモデルとして扱っていたとか」
「それは、かなり危ない考え方ね」
「危ない?」
「詩に書かれたものを、現実の地図として使おうとしているもの」
「でも、昔の人は神話を地図みたいに扱っていたんじゃない?」
「そうかもしれない。でも、ここにあるのは昔話を信じるための資料ではなく、現実の構造を測るための資料でしょう」
自分で言っておいて、変な話だと思った。
文学研究者が詩を読む。
それなら分かるが、この部屋にあるのは、そんな穏やかな研究ではない。
ここに集められているものは、どうも一つの問題を別々の方向から眺めているように見えた。
宗教は、世界の外側を神話として記録する。
天文学は、世界の位置を空から測る。
民俗学は、境界の向こうから来たものを伝承として残す。
認知科学は、人間が見えないものをどう認識するかを調べる。
そして都市伝説は、現実の隙間に現れたものを噂として保存する。
方法は違っても、探しているものは同じだった。
「世界は一つなのか」
私は、古いメモに書かれていた言葉を読んだ。
その下には、別の筆跡でこう続いている。
一つである必要はあるのか。
「……これが研究テーマ?」
「たぶん」
「だとしたら、ずいぶん大きな話ね」
「大学院生がよくやるやつじゃない?」
「やらないと思うわ。少なくとも、普通の大学院生は存在しない階層を使って研究したりしないでしょう」
「研究者の情熱を甘く見ない方がいいよ」
「蓮子は、研究者なら何でも許されると思っているの?」
「許されるとは思ってない。でも、面白いことを考える人が、少しくらい変な場所に行くのは仕方ないんじゃないかな」
「その理屈だと、私たちもかなり危ない側にいるわね」
「私たちはまだ、研究者じゃないから大丈夫」
「研究者でなければ、地下に忍び込んでも大丈夫なの?」
「それは……」
私は言葉に詰まった。
メリーがこちらを見る。
「今のは、かなり苦しい言い訳だったわね」
「自覚はあるよ」
私たちは顔を見合わせ、笑った。
こんな状況なのに。
大学から存在を消された研究記録、その真ん中で、私たちは大学院生の研究テーマについてくだらない議論をしている。
妙に可笑しかった。
たぶん、怖いからだ。
怖いものを前にすると、人間はどうでもいいことを言いたくなる。
私の場合、それがいつも少し多い。
メリーも同じなのかもしれない。
彼女は笑っていたが、指先はファイルの端を強く押さえていた。
*****
さらに奥へ進むと、時計の音が大きくなった。
カチ。カチ。カチ。
さっきまで部屋全体に散らばっていた音が、次第に一つの方向へ集まっている。
音の出所を探して、私たちは資料棚の間を抜けた。
そこで、部屋がもう一つあることに気づいた。
入口には扉がなかったが、棚と棚の間に、人が一人通れるほどの隙間がある。
その向こうは、こちらより暗かった。
「……鏡?」
私は立ち止まった。
暗闇の中に、細長い光がいくつも浮かんでいる。
ライトを向けると、それが鏡の縁に反射した光だと分かった。
壁一面、鏡だった。
一枚や二枚ではない。
数える気にならないくらい大量の鏡が並んでいる。
大きさも形もばらばらだった。
古い姿見。丸い鏡。小さな手鏡。装飾の施された鏡。そして、何の飾りもない長方形の鏡。
すべてに番号が振られていて、数字はどこまでも続いている。
001。002。003。
鏡の間には、細い通路が残されている。
研究者たちは、ここを歩きながら一枚ずつ観測していたのだろう。
床には、机の部屋と同じ形式の番号が書かれた紙片が落ちていた。
鏡の番号。観測日時。天候。月の位置。そして、観測者の名前。
私は紙片を拾い上げた。
「鏡ごとに記録を取っていたみたい」
「何を見ていたのかしら」
「反射の違いとか、映るものの変化とか」
「それだけなら、こんなに大量の鏡は必要ないでしょうね」
「同じ場所に複数の鏡を置いて、映像を比較したかったのかもしれない」
「比較する対象が、普通の反射ではなかったら?」
私は答えず、鏡の列を見た。当然、鏡には私たちが映っている。
私が手を上げれば、鏡の中の私も手を上げる。
メリーが髪を触れば、向こうのメリーも同じ動きをする。
ただ、鏡が多すぎるせいで、私たちの姿が何重にも増えていた。
奥へ行くほど、私たちの姿は小さくなり、暗闇の中へ消えていく。
「普通の鏡に見える」
「そうね。少なくとも、今見えている範囲では」
「今見えている範囲では、っていう言い方が怖いな」
「ここでは、見えているものだけを信じるのは危険でしょう」
「それ、メリーが言うと説得力がある」
「蓮子が言っても、十分説得力があると思うわ」
「私は普通の人間だから、見えているものを信じるしかないよ」
「普通の人間は、存在しない地下室に入って、番号付きの鏡を調べたりしないわ」
「それは、普通の人間の定義が狭すぎるんじゃないかな」
メリーが一枚の鏡に近づく。
私は反射的に、その腕を掴んだ。
「触らない方がいいかな」
「今さら?」
「今さらだから言ってるの。さっきの扉みたいに、触ったら何かが起きる可能性もあるでしょう」
「触らなくても、見ているだけで起きることはあるわ」
「それはもっと早く言ってほしかった」
「今言ったから、まだ間に合うかもしれない」
私は苦笑した。
鏡には私たちが映っている。
私が手を上げれば、鏡の中の私も手を上げる。
メリーが髪を触れば、向こうのメリーも同じ動きをする。
その当たり前の反応を確認するたびに、私は少し安心した。
ここにある鏡が、すべて異常なものではないと、そう思いたかった。
「普通の鏡に見える」
「そうね」
「何か違う?」
「まだ分からない」
メリーは一枚ずつ鏡を見ていった。
001。002。003。004。
彼女の視線が流れていく。
鏡の前を通るたび、メリーの表情が少しずつ変わっていった。
最初は好奇心だった。次に、慎重な観察。そして、何かを探すような緊張。
「どう?」
「まだ何とも言えないわ。どの鏡も、こちら側の部屋を映している。ただ、境界の厚さが少しずつ違う」
「境界の厚さ?」
「鏡と、映っている場所の間にある隔たりのこと。薄いものもあれば、何重にも重なっているものもある」
「それは、鏡の種類や古さとは関係ないの?」
「関係ないみたい。新しそうな鏡でも厚いものがあるし、古い鏡でも薄いものがある」
「じゃあ、番号は境界の厚さを示している?」
「分からない。でも、番号順に並んでいるわけではなさそうね」
メリーは一枚の鏡の前で立ち止まり、しばらく見つめた。
「この鏡は、番号が若いのに境界が厚い」
「研究者が意図的に順番を崩したのかな」
「あるいは、番号が別の意味を持っているのかもしれない」
「例えば?」
「観測した順番。あるいは、失敗した回数」
「失敗した回数で鏡に番号を付ける研究者は嫌だな」
「成功した回数よりは、ありそうだけど」
彼女の視線が、さらに奥へ流れていく。
そして。
ある一枚の前で止まった。
「……これ」
「どうしたの?」
私はその鏡の番号を確認する。
番号は、017だった。
古びた鏡。枠には傷があり、表面にも細かな汚れが付いている。
見た目だけなら、この部屋の中で一番普通だった。
なのに、メリーだけが、そこから目を離さない。
「何が見える?」
「分からない」
「また?」
「うん。さっきまでの鏡とは、何かが違う。でも、違いを言葉にできない」
「境界が薄いの?」
「薄いというより、近い」
「何が?」
「向こう側が」
私は鏡を見たが、017には別の光景が映っていた。
そこに、私たちの姿はない。
鏡の中にあるのは、地下資料室ではなかった。
見慣れたようで、見慣れない夜の街だった。遠くには、京都タワーに似た塔が立っている。
ただし、私の知っている京都タワーとは少し形が違っていた。
塔の周囲に広がる街並みも、どこか現実の京都とは異なる。
それでも、京都を知っている人間なら、そう連想してしまう程度には似ていた。
「……京都?」
私が呟くと、メリーが首を振った。
「分からないわ」
「でも、似てる」
「ええ。京都に似ている。でも、私たちの知っている京都そのものではない」
私は鏡に顔を近づけた。
道路には車が走っており、建物の窓には明かりが灯っている。
街は生きているように見えたが、人の姿がない。
少なくとも、私たちには見つけられなかった。
「この鏡、私たちを映してない」
「ええ」
「最初から?」
「最初からよ」
メリーは鏡から目を離さずに答えた。
「ほかの鏡は、こちら側の部屋を反射している。でも、017だけは違う。最初から、こちら側ではない光景を映していた」
「じゃあ、これは今の京都じゃない?」
「そうね。少なくとも、私たちがいる京都ではないわ」
「別の時間?」
「時間だけなら、私たちがいない理由にはならない」
「別の場所?」
「街の形は似ているけれど、場所も完全には一致していない」
「別の世界?」
メリーは答えなかった。
その沈黙が、答えの代わりだった。
私は鏡の中の街を見つめた。
京都に似ている。けれど、私の知っている京都とは少し違う。
何より奇妙なのは――
そこに、私たちがいないことだった。
私は、無意識にメリーの手首を掴んだ。
メリーも私の腕を掴み返した。
互いに、相手がここにいることを確かめるように。
「……帰ろうか」
私が言った。
「うん。今は、そうした方がいいと思う」
メリーはそう答えた。けれど、彼女は鏡から目を離さなかった。
私も離せなかった。
あの中に何があるのか、どうして私たちがいないのか。そして、あれが本当に京都なのか。
知りたいことが多すぎる。
「メリー」
「なに?」
「明日、もう一度来よう」
少しだけ間があった。
「……怖くないの?」
「怖いよ」
私は正直に答えた。
「だから、調べたい」
メリーが笑った。
「そういうところ、蓮子らしいわ」
私たちは鏡に背を向けた。
その背後で017の鏡面が、ごく小さく揺れ、鏡の奥のどこかで、何かがこちらを見ている気がした。
カチ。カチ。カチ。
無数の時計の音が、私たちのいない光景の向こうからも聞こえていた。