秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
翌日の夜。
私たちは、また旧人文科学研究棟の前に立っていた。
我ながら、少しどうかしていると思う。
昨日あれほど妙なものを見たのだから、普通なら近づかない。少なくとも私は、そういう人間だと思っていた。
怪談を信じるかと聞かれれば、信じない。幽霊を見たと言われれば、まず錯覚か記憶違いを疑う。存在しない駅を見つけても、最初に考えるのは都市計画か地図の更新ミスだ。
それなのに、私はここへ戻ってきた。
「来ちゃったね」
私が言うと、隣のメリーが笑った。
「来ちゃった、じゃないでしょう。蓮子が昨日の帰り道からずっと、もう一度調べるべきだって言い続けていたんだから。私が止めなかったら、たぶん今朝からここに来ていたわ」
「そうだった?」
「そうだったわよ。朝食の間も、講義の途中も、昼休みも、ずっと鏡の話をしていたもの」
「忘れてないよ。ただ、実際に来てみると少しだけ後悔してる」
「少しだけ、という言い方をする時は、たいてい少しでは済まないのよね」
「昨日より三割くらい本気で後悔してる」
メリーは呆れたように肩をすくめた。
「それでも帰らないのは、後悔より好奇心の方が勝っているからでしょう?」
「……そういうことになるね」
私は古い研究棟を見上げた。
夜の建物は、昼間よりずっと大きく見える。窓のいくつかには明かりが灯っていた。誰かがまだ研究室に残っているのだろう。
大学という場所は不思議だ。夜になっても完全には眠らない。研究室では誰かが実験をしているし、図書館には遅くまで学生が残っている。未来の京都も同じだった。自動運転車が静かに道路を走り、空には物流ドローンの灯りが流れている。
世界は便利になった。人間が眠っている間にも、機械が働いてくれる。
それなのに、私たちは今から、誰にも知られていない地下室へ忍び込もうとしている。
文明とは何なのだろうか。
そんなことを考えていたら、メリーがこちらを覗き込んだ。
「蓮子、あまり難しい顔をしていると、また変なことを考えているってすぐ分かるわよ」
「失礼な。私はいつだって真面目に考えている」
「真面目に考えているからこそ、時々とんでもない結論に飛びつくのよ。昨日だって、鏡の中に京都が見えたからって、いきなり別の世界の話を始めたでしょう?」
「だって、普通の鏡に見えないものが映っていたんだから、普通ではない可能性を考えるのは当然でしょう」
「可能性を考えるのはいいけれど、結論を急がないで。あれが何なのかは、まだ何も分かっていないんだから」
「分かっていないから調べるんじゃない」
「その理屈で、私たちは何度も危ない場所へ行っているわ」
「でも、今のところ無事でしょう?」
「今のところ、という言葉を使う人は、たいてい無事ではなくなるのよ」
私は返事の代わりに、研究棟の入口へ向かった。
*****
建物へ入る前に、私は一度だけ空を見上げた。
京都の夜空は、未来になっても完全には明るくならない。都市の光に負けて見えなくなる星もあるけれど、見える星はまだ見える。
私は星の位置を確かめた。
「午後十一時四十七分」
私が言うと、メリーがこちらを見た。
「本当に、星を見るだけでそこまで分かるのね」
「星を見れば分かる。少なくとも、こっち側の時間ならね」
「その言い方だと、向こう側の時間も分かると思っているみたい」
「分かるかどうかを、これから確かめるんだよ」
「最初から鏡の中に星があると決めているの?」
「京都の夜の街が見えているなら、空もあるはずでしょう。もし空がないなら、それは街の映像か、切り取られた風景ということになる」
「蓮子は、鏡の中の空まで検証するつもりなのね」
「時間を調べるなら、時計より星の方が確実だから」
私はもう一度、空を見た。
午後十一時四十七分。
その時刻を、忘れないように頭の中へ刻み込み、私たちは研究棟の中へ入った。
*****
昨日と同じ階段を降りる。
地下二階。昨日見つけた、存在しないはずの扉。
今日は、もう驚かなかった。驚かないというより、驚く余裕がなかった。
扉の前に立つと、メリーが足を止めた。
「本当に開けるのね」
「ここまで来て帰るの?」
「帰るという選択肢も、理性的には十分ありだと思うわ。昨日の時点で、私たちは大学の記録から消された資料室と、番号を振られた大量の鏡を見つけた。普通なら、それだけで警察か大学の管理者に相談するべきよ」
「普通ならね」
「私たちは普通ではない、と言いたいの?」
「少なくとも、普通の学生はこんな時間に、立入禁止区域の扉の前で相談なんかしないと思う」
「それは自慢にならないわ」
「分かってる」
私は扉に手をかけ、扉が開かれる。
あの音がした。
カチ。カチ。カチ。
無数の時計。
昨日と変わらない。
「止まってないね」
私は呟いた。
「時計なんだから、動いていて当然じゃない?」
「そういう意味じゃないよ。昨日から誰も来ていないはずなのに、音が続いていることが気になるの。電池式ならともかく、あれだけの数が同じ部屋で動き続けているなら、電源か管理者が必要でしょう」
「つまり、誰かが今もここを使っている可能性がある?」
「可能性としてはある。だから、昨日より慎重に動く必要がある」
「そう言いながら、もう中へ入っているけれど」
「慎重に入っているんだよ」
「蓮子の慎重さは、ずいぶん前向きなのね」
メリーは小さく笑った。
地下資料室には、昨日と同じように古い資料が並んでいた。ただ、今日は目的が違う。
私たちは資料を調べに来たわけではない。
奥にある一枚の鏡。番号017。
それを調べるためだ。
私は鞄から小さな計測端末を取り出した。
「今日はちゃんと準備してきた」
「昨日は何も持ってこなかったのに、ずいぶん用意がいいのね。温度計だけでなく、光量や電磁波まで測るつもり?」
「温度、光量、電磁波。それから鏡面の反射率も確認する。少なくとも、普通の鏡と同じ性質を持っているのかどうかくらいは分かるはず」
「本格的ね。昨日は怖くて何もできなかったのに」
「昨日は、何を調べるべきか決めていなかったから。今日は違う。怖いものを怖いままにしておくと、想像だけが勝手に大きくなるでしょう」
「今日は怖くない?」
「怖いよ」
私は即答した。
「でも、怖いから調べる価値がある。正体が分からないものを放置しておく方が、私には落ち着かないんだ」
メリーは何も言わなかったが、少しだけ嬉しそうだった。
私は017の前に立った。
鏡は静かで、昨日と変わらず、古びた木枠。細かな傷。ところどころ黒ずんだ鏡面。
けれど、その中に映っているものだけが違う。
私たちの姿がない。
代わりに、街が見える。
「今日も同じ?」
私が尋ねると、メリーは鏡から目を離さずに答えた。
「ええ。少なくとも、私には昨日と同じものが見えているわ。ただ、昨日より少し明るい気がする。街の輪郭も、建物の窓も、昨日よりはっきりしている」
「明るさなら測れる」
私は端末を鏡へ向け、数値が表示される。
反射光。温度。湿度。
どれも、普通の鏡と大きく変わらない。
「数値だけを見る限り、鏡そのものは普通の範囲に収まっているわ。表面温度も、周囲の空気とほとんど同じ。光の反射も、少なくとも端末が異常を検出するほどではない」
「それなのに、映っているものだけが普通ではないのね」
「そういうことになる」
「物理的には?」
「今のところ、普通」
「今のところ、という言い方をする時は、たいてい普通ではないのよね」
「科学者は逃げ道を残すものなの。測定できない異常を、測定できた範囲だけで否定するわけにはいかないでしょう」
「便利な言葉ね。でも、蓮子がそうやって慎重に言葉を選ぶ時は、もう半分くらい答えが出ている気がするわ」
「答えじゃない。仮説だよ」
「その二つの違いを、蓮子は時々忘れるでしょう?」
「忘れてない。忘れていないけれど、仮説がなければ調査も始まらない」
私は鏡を覗き込んだ。
向こうには夜の街がある。
道路。建物。遠くを走る車。いくつかの明かり。
そして、その上に夜空が広がっている。
星が見えた。数は少ないけれど、確かに星空だった。
「空がある」
私が言うと、メリーも鏡の上方へ視線を向けた。
「ええ。昨日は暗くて見落としていたけれど、街の上にちゃんと空があるわ。雲の流れも見える。あれは、単なる背景画像には見えない」
「星の位置を確認する」
「もう時間を測るの?」
「時計より先にね」
私は鏡の中の星空を見上げた。
こちら側で見た星空とは、少し違っている。
同じ夜なのに、星の並びがわずかにずれていた。
こちら側では見えなかった星が、鏡の中では見えている。逆に、こちら側で見えていた星が、向こう側では見えない。
それでも、星の動きと配置から時刻を読むことはできた。
「……午前一時十二分」
メリーがこちらを見た。
「本当に分かったの?」
「分かった。少なくとも、私の能力が鏡の中の星にも通用するなら、向こう側の時刻は午前一時十二分」
「こちらは午後十一時四十七分だったわね」
「うん。時差は大体一時間程」
「それは、時計を見て判断したのではなく、星を見て判断したのよね?」
「そう。だから、時計が壊れている可能性とは別に考えられる」
私は鏡の中の星空を見つめた。
星は、こちら側の空と同じように動いている。
ただし、始まっている時刻が違う。
「昨日より、はっきり見える」
「ええ。昨日は街の輪郭しか分からなかったけれど、今日は道路の形や建物の配置まで見えるわ。あの大きな通りは、現在の京都のどこにもないと思う」
「私たちが知らない場所という可能性は?」
「もちろんあるわ。でも、街の構造が京都に似すぎている。山の位置、道路の傾斜、建物の密集の仕方。完全に同じではないけれど、無関係とも思えない」
私は目を細めた。
鏡の中の道路を走っている車を観察するが、見たことのない形をしている。
未来的というほどではない。むしろ、少し古い。私たちの京都ではもうほとんど見ないタイプの車だった。
「記録映像……かな」
「そう考えた理由を、もう少し詳しく聞かせて」
「過去に撮影された京都の映像を、何らかの方法で鏡に投影している可能性がある。だから、私たちの姿が映らない。鏡ではなく、映像を表示する装置なら説明はつく」
「でも、それなら向こうの街にいる人たちは、決められた動きを繰り返すはずでしょう?」
「映像なら、そうなるね」
「昨日から見ている限り、あの人たちは同じ動きをしていないわ。さっきの人は交差点を渡って、別の道へ進んだ。あの車も、同じ場所を何度も通っているわけではない」
「映像の編集という可能性もある」
「蓮子は、どんな現象でも映像にできると思っているの?」
「できるとは言っていないよ。可能性として残しているだけ」
「でも、誰が? 何のために? それに、何年前の映像なの?」
メリーの問いに、私はすぐには答えられなかった。
鏡の中の街は、過去の京都に見える部分と、現在の京都にはない部分を同時に持っている。
古い車が走っているのに、建物の一部は見たこともないほど新しい。
過去の記録映像なら、存在しない建築物を説明できない。
「そこが問題なんだ」
私は鏡の端へ視線を移した。
「記録映像の仮説は、今のところ一番簡単な説明だけれど、鏡の中の建物や人の動きまで考えると、無理がある」
「つまり、蓮子自身が最初に出した説明を、蓮子自身が疑っているのね」
「科学的に考えるなら、それが普通でしょう。自分に都合のいい仮説ほど、念入りに疑うべきだから」
「それなら、次は何を調べるの?」
「時間。星から読んだ時刻が、鏡の中の時計と一致するか確認する」
私は鏡の中を覗き込み、時計を探した。
大きな建物の壁面に取り付けられた時計。
針が動いている。
「向こうの時計を見つけた」
「星から読んだ時刻と同じなら、少なくとも時計の故障だけでは説明できないわね」
「そう。午前一時十二分を指しているはず」
私は時計を見た。
針は、午前一時十二分を示していた。
「一致している」
「本当に?」
「うん。星から読んだ時刻と同じだ」
メリーは鏡の中の時計と星空を交互に見た。
「それなら、向こう側には向こう側の時間がある」
「まだ断定はできないけれど、単なる記録映像の可能性はかなり低くなった」
「どうして?」
「どうして?」
私はすぐには答えなかった。
メリーの疑問はもっともだった。星と時計が一致していること自体は、記録映像でも説明できる。映像の中で時計が動くなら、同じ映像に記録された星も、それに対応して動くはずだ。そこを根拠にしてしまえば、私の推論は最初から崩れている。
「星と時計が一致していることだけなら、記録映像でも説明できる。映像の中で時計が進めば、同じ映像の中の星も動くはずだから」
「では、何が記録映像では説明しにくいの?」
「今のところ、決定的な証拠はない。ただ、いくつかの点が重なっている」
私は鏡の中を指差した。
「まず、星から読んだ時刻と時計の時刻が一致している。これは、向こう側の空と時計が同じ時間を示しているという意味ではあるけれど、それだけなら映像でも可能。だから、これだけでは証拠にならない」
「蓮子にしては、ずいぶん慎重ね」
「自分で出した仮説だからこそ、都合よく扱いたくないんだよ」
私は時計を見た。
午前一時十二分。
「次に、これから数分間、時計と星の動きを別々に記録する。時計だけでなく、星の配置も確認する。もし映像なら、二つが同期していること自体は当然だけれど、少なくとも同じ記録の中で一貫した動きをするはず」
「それは、向こう側に時間が流れていることの確認にはなっても、映像ではない証明にはならないわね」
「その通り。だから、街の動きも見る」
私は鏡の中の交差点へ視線を移した。
「人や車が、私たちの観測とは無関係に動き続けるか。さっき見た人が同じ場所へ戻るのか、別の道へ進むのか。映像なら、どこかに繰り返しや編集の痕跡があるはずだから」
「でも、長時間見なければ分からないでしょう?」
「分かってる。だから、今すぐ結論を出すつもりはない」
私はノートを開いた。
「現時点で言えるのは、鏡の中に見えているものが、こちら側の単純な反射や静止画ではないということ。記録映像の可能性は残っているけれど、建物の違い、時刻のずれ、街の動きまで含めると、説明に必要な仮定が多すぎる」
「仮定が多い説明は、あまり良くないの?」
「少なくとも、最初に採用する説明ではないね。向こう側に別の街があり、そこに独立した時間が流れていると考えた方が、今見えているものを少ない仮定で説明できる」
「それは、蓮子が昨日言っていた『別世界の京都』に近い考え方ね」
「近いけれど、まだ同じとは言えない。別の場所かもしれないし、別の時間かもしれない。あるいは、私たちの世界とは違う条件で成立した街かもしれない」
「それでも、向こう側と呼ぶのね」
「他に呼び方がないから」
メリーは鏡の中の街を見つめた。
「じゃあ、向こう側には向こう側の時間がある。こちらの時計を映しているのではなく、向こう側の空と時計が、向こう側の街に合わせて動いている」
「今のところは、そう考えるのが一番自然だと思う」
私はしばらく黙り、鏡の中の星空を見つめる。
星は、こちら側の星と同じように見える。
けれど、同じではない。
向こう側の時間に従って、向こう側の空を動いている。
それは、鏡の中に別の世界があるという考えを、少しだけ現実に近づけた。
「じゃあ、もう少し観測を続けよう」
「まだ調べるの?」
「うん。時計と星の位置を記録して、街の人や車の動きも追う。少なくとも、同じ場面が繰り返されるかどうかは確認したい」
「蓮子は、向こう側の時間を測るだけでは満足できないのね」
「時間が流れているなら、その時間の中で何が起きているのかを知りたい。時計だけを見ていても、世界があるとは言えないでしょう」
「世界があるかどうかを、人の動きで確かめるの?」
「人がいるなら、その人たちがこちらの都合とは無関係に行動しているかを見る。もし私たちが見ている間にも、予測できない出来事が起きるなら、少なくとも一枚の映像を再生しているだけでは説明しにくくなる」
「それでも、完全な証明にはならない」
「分かってる。だけど、観測を重ねれば、仮説のどちらが無理なく説明できるかは見えてくる」
メリーは少し考えてから、鏡の中の街を指差した。
「なら、あの人を見ていて。さっきから交差点の端に立っている人。あの人が次にどこへ行くのか、私たちには分からないでしょう?」
「分からないね」
「もし、私たちが見ている間に、あの人がこちらの予想とは違う行動をしたら?」
「それだけで映像ではないとは言えないけれど、記録映像の仮説をさらに複雑にする材料にはなる」
「蓮子は、最後まで言い切らないのね」
「言い切るために調べているんだよ」
その時、交差点の端に立っていた人が歩き出した。
こちらへ近づくのではなく、建物の陰へ向かっている。
その姿は、角を曲がると見えなくなった。
メリーが小さく息を吐いた。
「今の動き、昨日の映像にもあったかしら」
「昨日の記録を確認する」
私は端末に保存した写真とメモを開いた。
昨日、同じ場所に人影があった。
しかし、交差点の端に立っていたかどうかまでは記録していない。
「分からない。昨日は街の輪郭を見ていただけで、個々の人間の動きまでは追っていなかった」
「なら、今日は昨日より一つ多く見られたわね」
「そうだね」
私はノートに時刻を書き込んだ。
午前一時十七分。
星の位置も、先ほどよりわずかに変わっている。
それでも、記録映像の可能性は消えない。
消えないけれど、鏡の中の街が、こちらの観測とは無関係に時間を進めているように見えることも確かだった。
その考えは、あまりにも自然に胸へ入り込んでいき、だからこそ、怖かった。
「……これ、本当に鏡なのかしら」
メリーが呟いた。
私は鏡面を見つめた。
「少なくとも、普通の鏡じゃないことは確かだね」
「向こうに何かがあるように見える」
「そう見えるだけかもしれない」
「蓮子は、まだ疑ってるのね」
「疑うのが仕事みたいなものだから」
私は苦笑した。
「でも、さっきの現象まで見たら、私だって単なる光学現象とは思えなくなってきた」
「……これ、本当に鏡なのかしら」
メリーが呟いた。
私は鏡面を見つめた。
「少なくとも、普通の鏡じゃないことは確かだね」
「向こうに何かがあるように見える」
「そう見えるだけかもしれない」
「蓮子は、まだ疑ってるのね」
「疑うのが私の仕事みたいなものだから」
私は苦笑した。
「でも、さっきの現象まで見たら、単なる光学現象だとも言い切れなくなってきた」
「じゃあ、どういうものだと思う?」
「それが分からないから調べてるんでしょう」
メリーは少しだけ笑った。
「そうね。蓮子は、分からないものを分からないままにしておくのが嫌いだもの」
「メリーだって同じじゃない?」
「私は、分からないものを分からないまま眺めているのが好きなの」
「似てるようで、全然違うね」
「だから面白いんじゃない?」
私は答えず、もう一度鏡を見た。
向こう側の京都では、知らない人々が歩いている。
知らない建物があり、知らない時間が流れている。
それでも、どこか見慣れている。
その奇妙な感覚が、どうにも気持ち悪かった。
鏡なのに、こちらを映していない。
それなのに、確かに何かを映している。
私はその矛盾を、まだ言葉にできなかった。
*****
私たちは鏡の前に並んで座った。
机の上にはノート、計測端末、昨日撮った写真、古い研究資料。そして、017。
いつの間にか、鏡の調査だけで小さな研究になっており、ノートには、現実の時刻と鏡の中の時刻が並んでいる。
数字だけを見れば、単純な時差に見えるが、どの場所との時差なのかが分からない。そもそも、京都と同じ街並みを持つ場所が、別の時刻を示している理由を説明できない。
「名前をつけない?」
メリーが言った。
「何に? この現象に?」
「まずは、この鏡に。番号だけで呼ぶと、資料の中の一つみたいで嫌でしょう」
「番号017は、確かに味気ないね。でも、名前をつけると、何か正体が分かったような気にならない?」
「名前をつけることと、正体を理解することは別よ。私たちは、分からないものを分からないまま呼ぶために名前をつけるの」
「それは、ずいぶん哲学的な説明だね」
「蓮子がいつもやっていることでしょう。分からないものに仮説をつけて、観測して、また別の名前に置き換えている」
「それを言われると、反論しにくい」
私は少し考えた。
鏡の中に見えているものは、幻覚とは思えない。
しかし、現実の風景とも言い切れない。
見えているのに、触れられない。
存在しているように見えるのに、こちらの世界には存在しない。
「幻視鏡」
私は言った。
「見えているのは、こっちの世界じゃない。でも、幻覚とも思えない。だから、幻視鏡」
メリーはその名前を何度か口の中で転がすように呟いた。
「幻視鏡。見えているものが幻なのか、別の現実なのか、まだ分からないところがいいわね」
「でしょう?」
「ただ、少し恥ずかしい名前ではあるわ」
「名前なんて、ちょっと恥ずかしいくらいでいいの。あまり立派な名前をつけると、名前の方が現象を決めつけてしまうから」
「それ、根拠ある?」
「ない」
「ないんだ」
「でも、蓮子だって根拠のない仮説を大事にしているでしょう?」
「仮説には、これから根拠を集める予定があるんだよ」
「予定だけなら、私にもあるわ。いつか世界の境界を全部見つける予定」
私はメリーを見た。
彼女は冗談めかしていたけれど、その目は笑っていなかった。
メリーにとって、境界は単なる研究対象ではない。
彼女はずっと、私には見えない、こちら側と向こう側の間にある何かを見ている。
「……幻視鏡でいいと思う」
メリーが言った。
「本当に?」
「ええ。少なくとも、今の私たちにはそれ以外の名前をつけられないもの」
私たちは笑った。
その笑い声が、地下室の中で妙に響いた。
カチ。カチ。カチ。時計の音。
私たちの笑い声。
その二つだけが、この地下室には存在している。
そう思った。
――その時までは。
「ねえ」
メリーが言った。
「何?」
「触ってみない?」
メリーが鏡を指差した。
「鏡に? さっきまで、反射率や温度を測っていたのに、いきなり触るの?」
「測定だけでは分からないこともあるでしょう。鏡が本当にただの表面なのか、それとも別の何かを隔てているのか、確かめるには触れるしかないと思う」
「危なくない?」
「分からない」
「分からないんだ」
「分からないから確かめるのよ。もちろん、危険がありそうならすぐに離す。無理に押し込んだり、鏡を壊したりはしないわ」
「それ、私の台詞じゃない?」
「借りたの。蓮子がいつも言っているでしょう。危険かどうかを知るには、まず観測しなければならないって」
「私の言葉を、都合のいいところだけ使ってない?」
「研究には引用が必要なのよ」
「使用料を取るよ」
「後で払うわ。向こう側の通貨でよければ」
くだらない会話だった。
まずは、私一人で確かめるつもりで、右手を上げた。
「先に私が触る。表面温度や硬さに変化がないか確認するから、メリーは少し離れて見ていて」
「一人で大丈夫?」
「危険があれば、すぐに手を引く。少なくとも、いきなり二人で触るよりは、何が起きたのか判断しやすいでしょう」
「分かったわ。無理はしないで」
私は鏡の前に立った。
鏡の向こうには、誰もおらず、こちらの私だけが鏡の前にいる。
右手を伸ばし、指先が鏡面に触れた。
冷たい、ガラス特有の硬く滑らかな感触。
それだけだった。
鏡の中の街も、星空も、何も変わらない。
私は指先を少し動かした。
表面に傷はなく、押しても沈まない。
普通の鏡と同じだった。
「何か変化はある?」
メリーが尋ねた。
「今のところ何もない。温度も硬さも、普通のガラスと変わらない。少なくとも、触れた瞬間に反応するような仕組みではなさそう」
「鏡の中の街も?」
「変わっていない。時計も動いているし、人も歩いている。でも、私が触れたことには反応していない」
私は手を離した。
鏡面には、指紋すら残っていなかった。
「本当に何も起きないのね」
「うん。期待していたわけではないけれど、少しくらい変化があってもよかったのに」
「蓮子は、何か起きてほしかったの?」
「起きてほしいというより、起きるなら条件を知りたい。何も起きないことも、観測結果としては重要だから」
「そういうところが、やっぱり蓮子らしいわ」
メリーは鏡の前へ歩み寄った。
「では、次は私が触ってみる」
「待って。私の時と同じように、ゆっくり触れて。何か変化があったら、すぐに教えて」
「分かっているわ」
メリーは鏡の前に立った。
彼女の姿は、やはり鏡には映らない。
鏡の中では、知らない街の夜が続いている。
メリーが左手を伸ばし、指先が鏡面に触れた。
しばらく、そのまま動かない。
鏡は静かだった。
街の明かりも、星空も、何も変わらない。
「どう?」
「冷たいわ。硬さも普通のガラスと変わらない。蓮子が触った時と同じね」
「鏡の中は?」
「何も起きていないわ。少なくとも、私が触れたことに反応しているようには見えない」
メリーは指先を離した。
彼女も、しばらく鏡面を見つめていた。
「本当に何も起きない」
「うん」
「一人ずつ触って、何も起きなかった」
「そういうことになるね」
「では、触れること自体が条件ではないのかしら」
「あるいは、私たちがまだ条件を満たしていないか。触れる場所、触れ方、時間、あるいは別の要素が必要なのかもしれない」
「蓮子は、何でも条件に分解するのね」
「分解しないと、次に何を試せばいいのか分からないでしょう」
私はメリーの隣に立った。
二人で鏡を見る。
鏡の中には、私たちの姿がない代わりに、夜の街がある。
星空があり、時計があり、人々が歩いている。
こちら側とは違う時間が、向こう側で流れている。
それなのに、私たちの存在だけが、そこには届いていない。
「一人ずつでは何も起きなかった」
メリーが言った。
「ええ」
「でも、二人で見ていると、少しだけ違って見えるわ」
「何が?」
「鏡の中の街が、こちらを待っているような気がする」
「待っている?」
「うまく説明できないけれど、さっきまでより近く感じるの。街が近づいたわけではないのに、向こう側との距離が薄くなったみたい」
私は計測端末を確認した。
数値には変化がなく、光量も、温度も、反射率も、先ほどと同じだ。
けれど、メリーの言葉を聞いた後では、確かに鏡の中の街が少し鮮明になったように感じた。
「心理的な変化かもしれない」
「そうかもしれないわね」
「でも、確認はできる」
「どうやって?」
「もう一度、二人で触れてみる。今度は同時に」
メリーは私を見た。
「二人で触れることに意味があると思うの?」
「分からない。でも、一人ずつでは何も起きなかった。なら、条件を一つ変えて試す価値はある」
「それで何も起きなかったら?」
「その時は、また別の条件を考える」
「本当に、分からないものを分からないままにしておけないのね」
「メリーだって、ここに残っているでしょう?」
「私は、分からないものがどこへ繋がっているのか見たいの」
「それなら、目的は同じだね」
私たちは鏡の前に並んだ。
私は右手を上げ、メリーは左手を上げる。
さっきまでと同じ姿勢。
ただし、今度は二人で触れる。
「せーの、でいい?」
「子供みたいだけれど、その方がタイミングは合わせやすいわ。蓮子が勝手に触れて、私が遅れるよりはいいでしょう」
「分かった。では、三つ数えるよ」
私たちは鏡に手を近づけた。
「一」
鏡の中の街が、わずかに揺れた気がした。
「二」
メリーの指先が、鏡面のすぐ手前で止まる。
「三」
二人の指が同時に鏡面へ触れた瞬間、鏡の表面が揺れた。
「……え?」
水面。そんな言葉しか思いつかなかった。
ガラスだったはずの表面に、波紋が広がっている。
一つ。二つ。三つ。
私の指先から、メリーの指先から、同心円状の波が鏡いっぱいに広がっていく。
「蓮子、今のを見た? 鏡の表面が沈んだように見えたわ。ガラスが柔らかくなったというより、最初から水面だったみたいに」
「見てる。触れた瞬間に反射光が変化した。端末の数値も、さっきまでとは違う」
「何が起きているの?」
「分からない。少なくとも、普通のガラスでは説明できない。波紋が指先を中心に広がっているのに、表面には傷も歪みもない」
「私たちが同時に触れたから反応したのかしら」
「その可能性は高い。でも、まだ一回しか試していない。片方だけで触れた場合にどうなるかも、もう一度確認する必要がある」
「今すぐ?」
「……いや」
私は鏡から手を離せなかった。
「今は、まず何が起きているのかを見るべきだ」
鏡の向こうの街に変化が起き、ぼやけていた建物が突然鮮明になる。
道路の標識が読める。
窓の中にいる人間の姿まで見える。
車が走っている。
人が歩いている。
誰もこちらを見ていない。
「……人がいる」
「ええ。さっきまで見えていた人影が、ただの輪郭ではなくなっている。服の形も、歩き方も、顔の向きも分かるわ」
「これ、映像じゃない」
「そうね。少なくとも、私たちが知っている記録映像の仕組みでは説明できない」
メリーの声が微かに震えていた。
私は鏡に顔を近づけた。
現在の京都には存在しない、見知らぬ建物を見る。
巨大な塔。
奇妙な曲線を描いた屋根。
その間を、見知らぬ人々が歩いている。
服装も、少しだけ違う。
街そのものが違う。
「この塔、京都タワーに似ているけれど、形が違う。あの屋根も、現在の京都の建築様式にはないわ」
「でも、街の配置は京都に近い。山の位置も、道路の傾斜も、遠くに見える川の流れも、完全に別の場所とは思えない」
「つまり、京都に似た別の街?」
「ええ。少なくとも、現在の京都そのものではないわ」
私は鏡の中の人々を見た。
誰もこちらを見ていない。
彼らにとって、私たちは存在していない。
それなのに、街は動き、時計は進んでいる。
人々はそれぞれの目的を持って歩いている。
そこには、こちらから見えないだけで、こちらとは別の生活があるように思えた。
「ねえ、蓮子」
「うん」
「これ、本当は窓なのかもしれない」
「窓?」
「向こう側の景色を映しているのではなく、向こう側を見ている。鏡面は、こちらと向こうを隔てているだけ」
「それは、かなり大胆な仮説だね」
「でも、蓮子も同じことを考えているでしょう?」
私は答えなかった。
鏡の中の街を見ていると、確かにそう思えてくる。
これは映像ではなく、幻覚でもない。
向こう側に、別の場所がある。
そして、この鏡はそこへ通じる窓なのだ。
その考えは、あまりにも自然に胸へ入り込んできた。
だからこそ、怖かった。
「……まだ、窓とは断定できない」
私はようやく言った。
「でも、少なくとも、ただの鏡ではない」
「それで十分よ。名前をつけたばかりなのに、もう名前の意味を裏切らないで」
「幻視鏡は、あくまで仮の名前だよ」
「仮の名前でも、今はそれでいいわ」
メリーの声が、少しだけ近くに聞こえた。
私は鏡の中へ視線を戻した、その時。
鏡の中を、一人の少女が歩いている。
長い髪。細い身体。
こちらからでは顔はよく見えない。
少女は、何かを探すように街を歩いている。
人の流れに逆らうように、ゆっくりと進んでいた。
その歩き方に、私は妙な既視感を覚えた。
誰かに似ている。
けれど、誰に似ているのか考える前に、少女は立ち止まった。
突然。
まるで、こちらの視線に気づいたように。
ゆっくりと、こちらを向く。
その顔が見え、私は息を呑んだ。
鏡の向こうの少女は、メリーと瓜二つだった。