秘封幻界録 〜 The Vision of Albion. 作:ぴの光
鏡の中の少女が、こちらを見ていた。
私は息をすることさえ忘れていた。
地下資料室には、時計の音が響いている。
カチ、カチ、カチ。
規則正しく、だからこそ、目の前の光景だけが、ひどく不規則に思えた。
鏡の向こう、夜の京都。
そこを歩いていた少女が、立ち止まってこちらを見ている。
顔はメリーと同じだった。
髪も。輪郭も。目の形も。
少なくとも、鏡の中の遠い姿だけで判断するなら、間違える方が難しい。
「……メリー」
「ええ。見えているわ。あれは、私と同じ顔をしている。けれど、鏡に映った私の姿ではない。向こう側に立って、こちらを見ている別の誰かよ」
「今、私と同じものを見てる?」
「ええ。少なくとも、あなたが見ているものと私が見ているものに、大きな違いはないと思うわ。ただ、同じものを見ているからといって、それが同じ意味を持つとは限らないけれど」
メリーの声は、いつもより小さかった。
私は鏡へ一歩、足を踏み出した。
鏡の中の少女もまた、じっとこちらを見つめている。
けれど、向こう側からこちらが見えているのかどうかは分からない。ただ偶然、こちらを向いただけなのかもしれない。
そう考えようとしたけれど、無理だった。
偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
「顔が……」
「私でしょう? そう言いたいのね」
「うん。いや、正確には、メリーと同じ顔をした誰か。まだ本人だとは言い切れないけど、あれを見間違えるのは難しいと思う」
メリーは自分の顔に触れた。
鏡の中の少女も、こちらを見たまま動かない。
もちろん、向こうの少女が同じ動作をするわけではない。
それが逆に怖かった。もし鏡だったなら、私たちが右手を上げれば向こうも右手を上げる。
でも、これは違う。向こうには向こうの意思があると、そう思えてしまう。
「蓮子。昨日までなら、私はあれを『境界の向こう側』と呼んでいたと思うわ。こちらから見えない場所に、何か別の空間が続いているのだと考えていたでしょうね」
メリーが鏡を見つめた。
「でも、今は少し違う気がする。あれは単なる向こう側ではなくて、こちらとは別の場所として存在しているように見えるの」
「どう違う?」
「向こう側が、私たちを見ているからよ。こちらが一方的に覗いているだけなら、まだ未知の風景として扱えた。でも、あの少女がこちらを見返しているなら、向こうにも向こうの観測者がいることになるでしょう」
私は答えられなかった。
鏡の中の少女が、一歩歩いた。
こちらへ向かって来るわけではなく、ただ街の中を歩いている。
その向こうに、別の京都が広がっている。
*****
私たちは鏡の前に机を置いた。
ノートを開き、ペンを持つ。
こういうとき、手を動かしていると少しだけ落ち着く。
怖いものを怖いまま眺めているより、文字にした方がまだ扱いやすい。
だから私は書いた。
――鏡面内部に、現在の京都と類似した都市環境を確認。
少し考えて、続ける。
――ただし、複数の都市構造に相違あり。
「まず、京都だということから確認しよう」
私が言うと、メリーが横からノートを覗き込んだ。
「そこから確認するの? 見た目だけなら、もう京都だと判断してもよさそうだけれど」
「そこが一番大事だから。京都に似ているだけの街なのか、私たちの知っている京都と何らかの関係があるのかで、意味がまったく変わる」
「見れば京都だって分かるじゃない。山の位置も、道路の雰囲気も、建物の並びも、私たちが知っている京都によく似ているわ」
「メリーはね」
「蓮子は?」
「私は疑う担当。見た目が似ているから同じものだと決めつけると、あとで必ず痛い目を見るから」
「便利な役割分担ね。あなたが疑って、私が直感で拾う。そう考えれば、今までの調査もずいぶん説明がつくわ」
「でしょう? 私たち、意外と理にかなった組み合わせなのよ」
私は鏡を見た。
向こう側の道路には、こちらとよく似た標識があり、文字も日本語だ。
建物の配置にも京都らしい特徴がある。
しかし、完全に同じではない。
私は以前撮影した京都市街の写真を端末に表示した。
「まず、駅を見よう」
「京都駅?」
「そう。駅は都市の歴史や交通計画が反映されやすい。外観だけじゃなく、周辺の道路や線路の配置まで比較できれば、単なる似た街なのかどうか判断しやすい」
鏡の中の遠景に、駅らしき巨大な建築物が見える。
輪郭は京都駅に似ているが、現在の京都駅とは明らかに違っていた。
私は駅そのものを意識して見つめると、鏡の中の景色がゆっくりと変化した。
街全体を見渡していた視野が、少しずつ駅へ近づいていく。
建物の輪郭が大きくなり、屋根の構造や外壁の細部が見えるようになった。
機械を操作したわけではなく、ただ駅を詳しく見たいと思っただけだった。
「……今、近づいた?」
メリーが尋ねた。
「うん。私が駅を見たいと思ったからだと思う」
「蓮子が動かしたの? 鏡に触れていないのに?」
「何も触ってないよ。視線を向けただけ。正確には、視線というより、見たい対象を意識した感じかな」
私は鏡面から手を離したまま、もう一度、駅の屋根へ意識を向けた。
視野がさらに狭まり、屋根の継ぎ目まで見える距離になる。
「見たいものを意識すると、そこへ視点が寄るみたい」
「望遠鏡とは違うのね。倍率を変えているというより、鏡の中の景色そのものが、こちらの意識に合わせて位置を変えているように見えるわ」
「機械的な拡大じゃない。鏡の中の景色そのものが、見たい対象に合わせて変わってる」
「じゃあ、戻すにはどうするの? このまま駅の屋根だけを見続けることになったら、街全体との比較ができないでしょう」
私は駅から視線を外し、街全体を見渡すつもりで鏡の奥へ意識を広げた。
すると、近づいていた駅がゆっくり遠ざかり、再び京都の街並みが広がった。
「意識を広げれば、引いて見られる。対象を限定すれば寄るし、全体を把握しようとすれば引いていくみたい」
「便利ね。観測したいものを選べるなら、普通の鏡よりずっと使いやすいわ」
「便利すぎるのが問題だよ。見たいと思ったものが、どこまで見えるのか分からない。見える範囲に限界があるのか、こちらの知識に引っ張られているのかも不明だし」
「それでも、今は使える機能として扱うしかないでしょう。少なくとも、街全体を見渡す視野と、建物の細部を確認する視野を切り替えられることは分かったのだから」
「そうだね。まずは駅の構造を確認しよう」
私は駅の写真を端末に表示し、鏡の中の建物と並べて比較した。
「屋根の形が違う」
「ずいぶん細かいところを見るのね。遠くから見たときは、こちらの京都駅とほとんど同じ建物に見えたのに」
「細かいところほど嘘をつきにくいんだよ。大きな輪郭は似せられても、屋根の継ぎ目や柱の配置まで同じになる可能性は低い」
「人間みたい」
「それ、どういう意味?」
「大きなことを言う人ほど、細かいところでぼろが出るでしょう? 立派な主張をしていても、日常の小さな選択や言葉遣いに、その人の本当の考えが出るものよ」
「……なるほど。つまり、駅の屋根にも、その世界の歴史が出ているということ?」
「ええ。建物は人間より正直かもしれないわ。自分が何者かを説明しなくても、誰が、いつ、何のために作ったのかを形の中に残しているから」
私は少しだけ笑った。
メリーはこういうところがある。
話の途中で、こちらが予想していなかった方向へ話を転がす。
でも不思議と嫌いではない。
むしろ、彼女と話していると、自分一人では見つけられなかったものが見えることがある。
私は駅の構造を端末の写真と照合した。
「これ、現在の京都駅とは違う」
「建て替えたんじゃない? 京都駅は何度も姿を変えているし、向こう側の時間がこちらより進んでいるなら、別の建築物になっていても不思議ではないわ」
「それなら時代の違いを調べればいい。建て替えの時期や、周辺の道路計画まで確認すれば、未来の変化なのか、過去の分岐なのかを切り分けられる」
「つまり、歴史を調べるのね。見えている建物だけで判断せず、その建物がそこにあるまでの経緯を追う」
「そう。街は突然できないから」
私は大学のデータベースへ接続した。
京都の都市史。遷都の記録。京都駅の建築史。大学の沿革。道路計画。
検索結果が次々に表示されるが、もちろん向こう側の京都について直接調べることはできない。
だから、こちら側の歴史と照合し違いを探す。
その違いが、単なる未来の変化なのか。過去の違いなのか。
あるいはもっと別のものなのか。
「見つけた」
「何が? 駅の建て替え時期に、こちらの記録とは違う部分があったの?」
「大学。駅だけじゃなくて、大学の配置も確認できそう」
私は鏡の中の大学らしき建物を意識して見つめた。
街全体の景色が再びゆっくりと狭まり、建物の並びが近づいてくる。
こちらの大学と似ているが、校舎の配置が違った。
「中央図書館の位置が違う。それに、こっちにはない建物がある。道路の接続も少し違うし、正門から主要校舎までの動線も変わっている」
「大学そのものは存在するのね。名前や学部構成まで同じなのかしら」
「そこまではまだ読めない。でも、少なくとも同じ系統の大学が、同じ場所に近い位置で発展している」
「それなら、やっぱり京都なんだ。京都という名前だけが同じなのではなく、都市としての骨格がこちらと繋がっている」
「まだ分からない」
「またそれ? ここまで似ていても、まだ疑うの?」
「だって、京都に似た街が別に存在する可能性だってある。名前や建物が一致しているからといって、同じ歴史を共有しているとは限らない」
「そんなに京都に似た場所がある?」
「それを調べてるんでしょう。可能性が低いからといって、最初から捨てるわけにはいかない」
メリーは少し笑った。
「そうだったわね。あなたは、可能性が低いものほど最後まで残しておく人だったわ」
「それ、褒めてる?」
「褒めているつもりよ。少なくとも、私一人なら見落としていたものを、あなたは何度も拾い上げてきたから」
私は端末を操作した。
次に見るのは、遷都の時期だった。
現在の日本では、東京から京都への遷都が行われている。それによって、京都は再び日本の首都になった。
私たちが暮らす街の、当たり前の歴史。
ところが。
私は鏡の中の公共施設に掲げられた案内板を意識した。
視野がその場所へ寄り、遠くにあった文字が少しずつ読める大きさになる。
「……違う」
「何が?」
「遷都の年」
私は画面を見つめた。
向こう側に見える公共施設の案内板から、遷都に関する年号を読み取る。
ほんの数年、こちらとは違う。けれど、その数年の違いは大きい。
その後に起こったことは、少しずつ違っているはずだ。
「歴史が違う」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
「昔の京都じゃない。建物が古いから過去、建物が新しいから未来、という単純な話ではない。向こう側には向こう側の現在があって、その現在に至るまでの歴史がこちらとは違っている」
「うん。私もそう思うわ。時間が前後しているのではなく、同じような時間を別の経路で進んだ場所に見える」
「未来の京都とも限らない」
「じゃあ……」
メリーが鏡を見る。
「別の京都?」
「そう」
私は頷いた。
「私たちの知っている歴史とは、どこかで違う道を歩いた京都。遷都の時期が違い、駅の構造が違い、大学の配置も違う。それでも、京都としての特徴は残っている」
言葉にしてみると、奇妙だった。
歴史というものは一本の線ではない。
誰かの選択。偶然。事故。発明。戦争。
たった一つの出来事。
それらが積み重なって、今の世界を作っている。
ならば、どこか一つが違えば。
その先に、別の京都があってもおかしくない。
私はそこまで考えて、首を振った。
「……いや」
「どうしたの? 今の推測に、何か引っかかるところがあるの?」
「まだ、そういう話にするのは早い。証拠が少なすぎる。遷都の年が違うことは確認できたけど、それだけで世界全体の分岐を断定するのは危険だよ」
「でも、そう考えているでしょう? あなたはもう、向こう側を単なる過去や未来として見ていない」
「考えてる」
私は素直に認めた。
「だからこそ、慎重にしたい。考えが先に走ると、見たいものだけを見てしまうから」
メリーは何も言わなかったが、その代わり、鏡の中を見ている。
私は彼女の視線を追い、そして気づいた。
「メリー」
「分かってる」
「……あの二人?」
「ええ。さっきから、向こうの街の中に同じ二人が見えている。今度は、こちらを見ているように見えるわ」
街の向こう側に、二人の少女が歩いている。
一人は、さっきの少女。そして、もう一人。
その少女もまた、見覚えのある顔をしていた。
私だった。
正確には、私とよく似た少女。
髪型も。背格好も。歩き方まで。
違うのは服装くらいだった。
私は二人の姿を意識して見つめると、鏡の中の街並みが静かに後退し、二人の周囲だけが近づいてくる。
人の顔や服装が分かる距離まで視野が絞られた。
「……私?」
「たぶん。少なくとも、あなたと同じ顔をしているわ」
「たぶんって」
「だって、蓮子自身を見たことなんてないもの。毎日あなたの顔を見ているけれど、あなたを外側から観察した経験はないでしょう?」
「鏡なら毎朝見てるよ」
「そういう意味じゃなくて。鏡に映った自分と、他人から見た自分は、同じようでいて少し違うものよ」
メリーが笑った。でも、その笑顔にはいつもの余裕がなかった。
「向こうにも、私と蓮子がいる」
その言葉を聞いた瞬間、背中が冷たくなった。
別の京都。別の歴史。
それだけなら、まだ想像の中に収められるが、そこに私たちと同じ顔をした誰かがいる。
それは単なる都市の違いではない。
私たち自身の可能性が、鏡の向こうに存在している。
「……ねえ」
メリーが呟いた。
「向こうの私たち、何をしてるのかしら。街の様子を見ているだけなのか、それとも、私たちと同じように何かを調べているのかしら」
「分からない。今の距離では、二人が何を話しているのかも、何を持っているのかも判断できない」
「こっちと同じことをしている可能性は?」
「ある。でも、同じだと決めつけるのはまだ早い。向こうの二人が私たちと同じ目的で動いているのか、それとも別の理由であの場所にいるのか、今の段階では分からないから」
「あなたは、向こうの私たちまで疑うのね」
「疑っているというより、確認したいだけだよ。似ているからこそ、違いを見落としたくない」
私は鏡を見つめた。
向こうの私たちは、こちらには気づいていないようで、二人で何か話し込んでいる。
そして、こちら側のメリーが鏡へ近づくと。
向こう側のメリーが、突然こちらを向いた。
「……!」
私は思わず後ずさった。
「今の、見た? 向こうのメリーが、こちらの動きに反応したように見えた」
「ええ。偶然ではないと思うわ。私が近づいた後に、向こう側の私も顔を上げたもの」
向こう側のメリーが、何かを言っている。
鏡は音を通さず、声は聞こえない。
ただ、口の動きだけが見える。
「蓮子、何を言っているのか読める?」
「まだ無理。口の動きだけでは、似た音の言葉を区別できない」
「では、向こうの蓮子を見て。彼女が何か反応するかもしれない」
「分かってる」
向こう側の私がメリーに何かを伝え、それから二人でこちらを見た。
今度は偶然とは思えなかった。
向こうも、こちらを観測している。
私は無意識に、自分の手を鏡へ近づけた。
鏡に触れない、ほんの数センチ手前で止める。
鏡の向こうのもう一人の私も、同じように手を上げた。
その指先が、鏡面の向こうからこちらへ伸びてくる。
こちらにはその手が届くことはないけれど、その距離が、ひどく薄く感じられた。
世界と世界の間には、もっと巨大な隔たりがあるものだと思っていた。
宇宙より遠く。
時間より深く。
なのに今は、一枚の鏡があるだけだった。
「蓮子」
「うん。聞いている」
「帰った方がいい? これ以上、向こう側との接触を続けるのは危険かもしれないわ。相手がこちらを見ているなら、こちらの存在を知られたことになるもの」
私は鏡を見た。
向こうの私も、こちらを見ている。
その顔に浮かんでいる表情は、私には分からなかった。
恐怖なのか。好奇心なのか。それとも、私と同じ感情なのか。
「……まだ」
「まだ? あなたは、向こうの自分を見続けるつもりなの?」
「もう少しだけ見ていたい。あれが本当に私と同じ存在なのか、私とは違う人生を歩んだ誰かなのか、まだ何も分かっていないから」
メリーが隣に立った。
「私も残るわ。あなた一人に見せておくと、きっと無理をするでしょう。向こう側を知りたい気持ちは分かるけれど、あなたが自分を見失いそうになったら、私が止めるから」
「それ、心配してくれてる?」
「ええ。あなたが何を見つけても、あなた自身まで向こう側へ置いてこないようにするために」
それからしばらく、私たちは無言のまま、鏡の中の京都を眺めていた。
知らない街。知らない歴史。知らない人々。
そして、自分たちによく似た二人。
世界は一つだと思っていた。
少なくとも、昨日までは。
鏡の向こうにもう一つの可能性があり、その可能性がこちらを見ている。
私はノートを開いた。
新しいページの上に、今日の日付を書く。
その下に、短く記した。
――鏡の向こうには、京都がある。
ペンを止め、その下にもう一行追加する。
――そこには、私たちがいる。
書き終えたときだった。
鏡の向こうの私が、こちらへ向かって何かを指差した。
「……蓮子」
「見てる。あの指の向きなら、私たちの後ろにある机か、今書いたノートを指しているのかもしれない」
向こう側の私が、どこからか紙とペンを取り出し、何かを書き始める。
私は紙を見ようと意識を集中した。すると、向こう側の二人の姿がさらに近づき、紙を持つ手元が鏡の中で大きくなった。
文字の形を追える距離にはなったけれど、まだ細部までは読めない。
向こう側の私が、こちら側の私たちに向けて書いている。
何かを伝えようとしている。
そして最初の一文字が、鏡の向こうに現れた。