翌日。
「お、ミコちゃんやっほー! 待ってたよー!」
「こ、子安先輩……っ!! 昨日は本当に、本当にすみませんでしたぁぁ!!」
ミコちゃんは私を見つけるなり、入り口前で可愛らしくパタパタと駆け出すと、今にも往来でスライディング土下座をしそうな勢いで頭を深く下げている。
思わず呆気に取られてしまう。でも……。
「ぶっ……! あはははは! だから何に謝ってるの、ミコちゃん最高すぎる!! ここじゃ何だし、さぁ中入ろうか?」
ミコちゃんはオロオロしている。そんなに罪悪感なんて感じる必要ないのに、かわいいな本当に。初めて来る店で緊張している様子も、今更ながらなんか妹みたいで愛おしい。私は淡々と案内を済ませながら、「これがおすすめだよー」なんて声をかけていると、ミコちゃんの表情がやっと明るくなってくれた。
結局「頼んでもらっていいですか?」なんて上目遣いまでされたが最後、注文は私のおすすめに任されたので、二人して全く同じプレートになっちゃった。だって、私が食べたいものが一番美味しいからね。お姉さんだからそこは譲りません。
料理が運ばれてきてからは、大学生活の他愛のない話や、最近の秀知院の様子なんかをぽつぽつと話した。ミコちゃんはまだどこか硬かったけれど、美味しい料理を口にするたびに「……美味しいです」と少しずつ表情を和らげていく。そうして、お互いのプレートがある程度きれいに進んだ頃だった。
ふっと会話が途切れ、お皿とフォークが触れ合う小さな音だけが残る。窓の外へと視線を向けると、ちょうどそこには、冬だけではない「何かの終わり」を告げるような、いつになく穏やかなオレンジの夕陽が広がりはじめていた。
空間が、しっとりとしたオレンジ色に染まっていく。
私はグラスに手を伸ばし、トントン、と指先でガラスの縁を叩いた。
「さぁ、何かな?」
本当は、言いたいことなんて全部わかっている。けれど少しだけあざとく、わざとらしく小首を傾げて促してみる。やっぱり、彼女が小さな唇を開いて口にしたのは、予想通りの言葉だった。
「……私、勝ちました。でも……」
後が続いてこない。きっと、私にも、優くんのために伝えたかった言葉や、用意していたデートプランがあると思ってくれているのだろう。
恐る恐るこっちを覗き込む顔が、本当に申し訳なさそうで――これは不器用なんじゃなくて、本当に真面目で優しい子なんだなぁと思った。でも、そんなのただの邪推だから、助けてあげよっかな。私は心から喜んでいるから、今できる一番いい笑顔でミコちゃんに伝える。
「うん!! おめでとう!! ミコちゃんらしいよ。いきなりすぎて流石にビックリしたけど……。優くんが即答したんなら、私がこれから何をしても、いつの時点であっても、ミコちゃんの勝ちだったと思うよ」
「え……?」
ミコちゃんは驚きすぎて目を丸くしていた。そんなに見開いたら、その大きい目が落っこちちゃうよ?
ミコちゃんは知らない。私自身が、「友達以上恋人未満」という、自分で言ってしまうのも変だけど、美しくも残酷な境界線の檻の中で、夜明けがこないことに苦しんできたことを。
その檻は、私の石上優くんへの最大限の想いの結晶でもあった。私だって、優くんのことがちゃんと『好き』だったから。――いや、違う。今だって、ちゃんと『好き』だからだ。それはミコちゃんが言っている「愛」の定義を満たすほどの水準ではないかもしれないけれど……。
けれど、ミコちゃんには絶対に言えない。私がその一線を引いて逃げ回っていた、本当の理由。
お酒の力を借りてようやく言語化できたけれど、もしあの時、彼を受け入れていれば、目の前にいる可愛いミコちゃんを、ドロドロとした三角関係の中で徹底的に傷つけることになっていた。優しい彼をも巻き込んで、激しく敵対することになってしまう。私たち全員が、生々しい傷を負ってしまうのが、私は何よりも怖かったんだ。
傷つくことへの恐怖が、綺麗な苦しみの檻を作りあげた。恐怖からの逃げを罰するように、その檻は私をずっと心という内側から痛めつけ続けてきた。
そして、自覚している。自分の中には、昨日ミコちゃんが見せてくれた、あんな命懸けの熱量に勝るほどの「揺るぎない愛」が彼に対してあったのかと言われれば、なかったことを。
でも、彼への想いが全くないわけじゃない。やはり、どうしても『白黒つける』ということそのものが、怖くて仕方がなかったのが本音だ。当時から、『白』にすること、『白』にしに行くこと、その過程で誰かを不幸にするかもしれない現実から、ただ逃げ出したかったのだろう。
誰も知らなくていい。私が大学生になって、彼と会うことは減っても、優くんを思い出すたびに、そんな自分の「ずるさ」と「恐怖」、そして小さな「未練」が心を激しく掻き乱していたこと。そして何より、生来の「甘さ」が行動を中途半端にしてしまい、結局は『友達以上恋人未満』という都合のいい線引きに、私自身の心すら枯渇し始め、限界を迎えていたこと。
一昨日、生徒会室でミコちゃんに「私が勝ったら?」と大人の余裕で煽ってみせたのは、本当に余裕があったからなんかじゃなかった。
『この真っ直ぐなミコちゃんなら、私が引きずり続けているこの歪んだ好意と、欺瞞のような関係を、全部ぶっ壊してくれるかもしれない。全力で叩き壊してほしい。夜明けが欲しい』
私は心のどこかで、ミコちゃんのピュアな特攻にすべてを委ね、あの子の恋心のブースターになろうとしていたのだ。結果として、ミコちゃんは私の想定すら遥かに超えるスピードで、完璧にやり遂げてくれた。
私にとって、ミコちゃんの想定外の速攻こそ、実はこれ以上ない「ラッキーな敗戦」だった。
これでもう、伊井野ミコちゃんとは決着がつかないままだった恋の、歪なライバル同士ではなくなる。彼とは、友達以上『恋』人未満という、その『恋』のつく関係から、完全に降りることができる。
自分を含めた、誰かの心をへし折れることもなくなった。
私は結局、何もできなかった。いや、何もしなくてもよかったんだ。ミコちゃんがあっさり白黒をつけてくれたことで、私は、自分の心がもう痛まない、一番安全な場所へ着地させてもらった。
私、子安つばめは、この目の前にいる小さくて真っ直ぐで、どうしようもなく強情で愛らしい後輩に、救われたのだ。
……あれ、私、そんなに長い時間黙り込んじゃってた?
なんか、ミコちゃんが気まずそうに目を背けている。あはは、何か言わないと……!
「ありがとうミコちゃん。私、すっきりしたよ。でも、優くんともミコちゃんとも、『友達』はやめないからね?」
「は、はい!! ありがとうございます!! それを止める理由は、私にはありません。これからも、私たちをよろしくお願いします。……でも、嬉しいです。子安先輩に、一つだけでも勝てたこと」
「……!? そっか。でもねー」
私、そんなにすごくないんだけどなぁ。でも、嬉しいな。
私は悪戯っぽく、いつものように「ニヒヒッ」と八重歯を覗かせて笑ってみせた。
あっ、何かすごく楽になった気がする。私の笑顔は今、心からの爽快感に満ちていたに違いない。
もう一つ、ちゃんと言わなきゃ。ミコちゃんはちょっと、勝ち負けにこだわりすぎてるからね。私、実は自分も勝ったと思ってるんだもん。……負け惜しみなんかじゃない。私がこんなにスッキリして、心から嬉しいから、私も勝ったって――。
やばい、本当に泣きそう。
「二人が幸せなら、私、自分も勝った気がするんだよ」
私は思わず言葉を紡ぎながら、席を立ち上がった。今のオレンジの夕陽の角度なら、目元を伝った涙はきっと見えてはいないと思う。
「ありがとう。ミコちゃん」
ひらひらと手を振り、お代はレジですでにスマートに済ませて。なんとか一筋の涙を堪え切った私は、すっきりとした笑顔のミコちゃんを見送り、私も自分の家路につく。