メッセージに驚きはなかった。むしろ、ずっと待っていた終電が到来する前の予告ベルが鳴ったかのような、奇妙な安堵さえ混ざっていたと思う。
「ちょうどいいや。それなら、実家に帰りますかねぇ」
酔いが回ってきたせいなのかな。暗い部屋の中、普段は鍵をかけているはずの言葉が、止めどなく脳裏に浮かんでくる。
大学という広い世界に出て2年が経つ。けれど、どれだけ華やかな席に身を置いても、私の心の片隅には、石上優くんという不器用な男の子がくれた「命懸けの純情」が、永遠の特等席として残り続けているんだ。
彼への気持ちを言い表すなら、一言では到底言えない……。それが特別で、少しディープなものであることを、私は絶対に否定できない。
「なら、その『特別』って何?」と誰かに聞かれても、そんなことは恥ずかしくて人には言えない。「じゃあ付き合ってみたらいいじゃん?」と言われたって、それは……。
何度でも思う。私は彼に対して、特別な感情を持っていることは認めている。だけど、怖かった。どうしても、あと一歩が踏み込めなかった。
もし、あの時私が彼と恋人同士になっていたら、と考えてみる。
彼が浮気をするような男じゃないことなんて、分かっている。そんな軽い男の子なんかじゃない。彼の良さをプレゼンしようと思ったらすぐに何時間でもできるくらいには、彼自身のことも知ったし、知ろうとした。きっと恋人を幸せにするために、どんな痛みすら耐えてくれる、そんな誠実な人。
でも、彼のことを真剣に見つめれば見つめるほど、嫌でも視界に入ってきてしまう人がいた。それが今、私にメッセージをくれている、伊井野ミコちゃんだ。
あの子は彼のことが好きだ。周りへの態度や、私と話している彼を見るあの切ない眼差しは、告白しているのと何も変わらなかった。私は彼女のその複雑な思いも知っている。
白銀くんやかぐやちゃん、みんなあの子のいじらしさには気づいていた。
ミコちゃんは純粋で、頑張り屋で、可愛くて、本当に良い子。だから、どれだけ彼のことが好きだとしても、もし私と彼が恋人同士なら、彼を後からあの手この手で奪うような汚い真似をしないことだって知っている。その代わり、あの子はきっと、自分の『好き』という気持ちに必死で蓋をして、一人でその痛みに耐えるのだと思う。そして周りもそんな彼女をみて耐えられなくなる…。
誰もいない部屋なのを良いことに、当時胸に押し込めた本音が、ぽろぽろと口から溢れ始めてしまう。
「優くんのことを考えると、どうしてもミコちゃんが浮かんじゃう。あの時も、それが一番怖かったんだよ……」
当時自分が最も恐れたものはなんだったのかの答えは口にすると簡単で、半分は嫉妬、半分は焦りだった。
「もし私が優くんの手を取ってしまえば、大好きな彼を誰よりも近くで支え続け、無自覚のまま完全に恋い焦がれていたミコちゃんの心を、私の手で完膚なきまでにへし折ることになるから。あの子が壊れていく姿なんて、私は知りたくないし、見ていられないもん……。そんな姿を見るくらいなら、自分が一歩引いて、恋に白黒つけない方がまだ耐えられる。だから……彼への特別な感情は、誰も傷つかない『友達以上恋人未満』ってことにしたんだよね……」
そこまで言って、私はハッと我に返った。
「――って、これじゃまるでミコちゃんのせいにしてるみたいじゃん。違う違う! 私が白黒つけることから逃げた言い訳に、あの子の優しさを利用しただけ。私の、ずるさのせいなんだよ……」
突然のミコちゃんからの呼び出しの意図を察することは簡単だ。彼女から見れば、私は一応、いまだ彼の手を握るか否かを選ぶことができる立場にいるらしい。つまりラスボス?。
私の中では『友達以上恋人未満』ということで、答えは出ていたつもりだったのにな……。
今更ながら彼の想いに応える。それが、かつて私が経験した、あのドロドロとした裏切りの三角関係の引き金になりかねない。いや、今度は自分が、自分の『好き』という感情のせいで可愛い後輩たちに深い傷を負わせてしまうことになってしまうもっと残酷な結果になってしまうかもしれない。
本当は、自分だって傷つきたくないし、誰も傷つけたくない。
みんな、大好きな良い人たちだから。
だから私は、『友達以上恋人未満』という、誰も侵せない、けれど誰も幸せになれない夜の世界に美しい檻を作って、そこに彼の偶像を縛り付け、自分自身をも閉じ込めて、今もその中で飛び回っている。つばめって名前にぴったりじゃん……。
私自身に傷がつかないように。
『友達以上恋人未満』と伝えた私の高校卒業が、時間と物理的な距離によって、いつかお互いを優しく忘却させてくれることを確信してたけど、そんなに簡単じゃなかったな。
ミコちゃんの呼び出しに応じたあの日、秀知院の生徒会室の扉を開けたとき、赤黒い西日の中に立っていたミコちゃんの姿は、痛々しいほどに真っ直ぐだった。
かつて、彼女が無意識に纏っていた刺々しさは2年会わない間にすっかり消えていて驚いた。凛としようと力を込めつつも、丸腰の彼女は、友達としてすぐにでも連れて帰りたいと思うほど愛らしかった。
私は、感動を抑え切れず生徒会室を歩き回った。壁の掲示物、精度高く磨かれた歴代の盾……そして冷たく備わる本革のソファ。彼、ここによく座ってたなぁと思い出す。机でよくPCを広げたり、ゲームをしてたな……。感傷に浸りすぎて思わず指で机を撫でてしまう。その間、ミコちゃんは何も言わずに待ってくれていた。本当に良い子だなぁ。
そして彼女と向き合う。先ほどより強張っているのがわかった。呼び出しの意図なんてわかっている。
「……優くんのことでしょ?」
すると、空気がすぐに変わった。
小さな体が大きく見えるほどの迫力で、恋する乙女として圧倒的な力で私を射抜いてきた。
『私、伊井野ミコは、石上優を……本気で愛しています』
その言葉の質量に、私の魂は激しく揺さぶられた。
『愛している』
硬派でちょっとウブだったはずの彼女が声で叫ぶには相当勇気がいる言葉だと思ったが、向けられた相手には一番心に響く重い想いが詰まったフレーズだ。あの時彼から私に向けられたのも、こんな質量だったことを思い出す。そんな彼に対し、自分が返してあげられなかった言葉。今は私が彼女から受け取っているけれど、私の心の何かを一瞬で焼き尽くすほどの、純度100%の烈火。
『貴方はどうなんですか?』『徹底的に白黒つけさせていただきます』
ミコちゃんは強いな。だからこそ、ちょっと残酷だ。だって、彼に対するこの割り切れない感情を、『愛』なんていう明確な言葉では、私ははっきりと答えることができないんだもん。でも……。
「好きだよ? じゃあさ、私が今から優くんを『私の恋人にする』って言ったら、ミコちゃんは身を引いてくれるの?」
「愛しているか否か」の質問に対しては、ただ「好きだよ」とだけサラッと答えて、それ以上突っ込まれないように、そこからは駆け足気味に言葉を続けた。ちょっと意地悪な、大人になって身につけたずるい揺さぶりで、自分の揺らぎを上書きするように。
どうしてこんな挑発的なことを口走ってしまったのかと、すぐに少し反省する。
彼を『恋愛』の枠で愛し切ることができなかった私とは違って、本気の愛を見せてくれた彼女の恋を、本当は応援したいとまで思っているのに……。
私の彼への想いが足りないって、真っ直ぐな彼女に全否定されたような気がして、ちょっと悔しかったからなのかな……。
私の、みっともない意地悪。
優くんが私にしてくれた告白を、彼が私をずっと追いかけてくれていた時間を、誰よりも近くで見続けてきたミコちゃんは、私の放ったずるいアドバンテージに、一瞬「勝てない」と感じてしまったのだろう。小さな手を震わせ、大きな凛々しい目は今にも涙がこぼれそうだった。それなのに。あの子は最後に、堂々と「勝ちます。根拠はありません。でも、私、勝ちますから」と言い放ったのだ。その、一切のブレがない彼女の瞳を見た瞬間、私は何故か、完敗を認めざるを得なかった。
ああ、よかった。この子なら、優くんを世界一幸せにできる。私が作ってしまったあのずるい関係を、全部、力任せに終わらせてくれる。
本能的に、そんな気がした。
でも、目の前であんなに熱い決意を見せつけられた以上、私もちゃんと受けて立つ。このまますんなり、白旗を上げて席を譲るわけにはいかない。彼女が自分の手で優くんを捕まえるその瞬間まで、私はこの勝負の盤面から降りてあげない。
だって、私がちゃんと本気で「好き」になった男の子がかかっているんだもん。それに、まだ負けが決まったわけじゃない。たとえ負けるにしても、負け方くらい、自分で綺麗に選びたいじゃない。
でも、この小さくて可愛くて、呆れるほど真っ直ぐな後輩の特攻によって、自分自身を窮屈に締め付けていた「灰色の檻」から、ようやく救い出してもらえるんだという予感に、胸の奥がじんわりと軽くなっていく。
私は、心から笑っていたと思う。だからこそ、いつものように強者のフリをしたサムズアップを彼女に掲げて、生徒会室を後にした。
「ふぅ……よし!!」
これから、週末に向けてどう過ごそうかな。部屋に入る前にあれほど肌を刺した、冬の廊下の冷気すら、今の私には、驚くほど澄み切って優しく感じられたのだった。
どうしてもセリフを長々と書いてしまう癖があるようです。