草を撫でるように、柔らかな風が吹いていた。
さらさらと揺れる草原。その隙間から漂ってくるのは、まるで花畑にいるかのような甘く爽やかな香りだった。
遠くでは、小さな川が一定のリズムを刻んでいる。
さらさら、さらさら――。
その音を聞いているだけで、張り詰めていた心がゆっくりと解きほぐされていくようだった。
どこまでも穏やかで、静かな世界。
少なくとも――ほんの数秒前までは、そう思っていた。
「……ん……」
まぶたの向こうから、鋭い光が差し込んでくる。
「……まぶし……」
顔をしかめながら、ゆっくりと目を開いた。
最初に飛び込んできたのは、燦々と降り注ぐ太陽だった。
雲は一片もない。
どこまでも続く、青。
あまりにも鮮やかな空に、思わず目を細める。
「……え?」
そこでようやく、自分が横たわっている場所がおかしいことに気づいた。
会社の休憩室でもない。
自宅のベッドでもない。
ましてや、電車の座席でもない。
背中に触れているのは、柔らかな草。
頬を撫でているのは、都会では感じることのなかった清涼な風だった。
「……ここ、どこ?」
上半身を起こす。
そして――言葉を失った。
視界いっぱいに広がっていたのは、見渡す限りの草原だった。
遠くには青々とした森があり、そのさらに向こうには、霞むほど巨大な山々が連なっている。
どこかの観光地なのか。
映画の撮影セットなのか。
それとも――。
「……ファンタジー……?」
思わずそんな言葉が口から漏れた。
その直後だった。
視界の端を、何かが横切った。
「……ん?」
目を凝らす。
草むらから飛び出してきたのは、小動物だった。
大きさはリスほど。
しかし、顔立ちはどこかタヌキに似ている。
「……何あれ?」
見たことのない生き物が、こちらを気にする様子もなく草原を駆け抜けていく。
さらに空を見上げれば――。
「……え?」
蛇のように細長い身体。
そこに、トンボのような透明な羽根が生えている。
それが空を滑るように飛んでいた。
「……いやいやいや」
思わず額を押さえる。
「なんで蛇が飛んでんの?」
頭が追いつかない。
ここはどこだ。
どうして自分はこんな場所にいる。
そもそも――。
「……早く会社に戻らないと……」
口にした瞬間だった。
胸の奥に、何かが引っかかった。
「……会社?」
その言葉をきっかけに、頭の奥に霧がかかったような記憶が、少しずつ浮かび上がってくる。
子供の頃から周りの子とも遊ばせてもらえず、ゲームもさせてもらえなかった。そして学業に明け暮れた結果、ほどほどの大学を卒業した。
そして、昔から憧れていたゲームソフトメーカーに就職した。
密かに憧れて、夢だった仕事。
ゲームを作る側になれる。
そう思っていた。
――最初の頃は。
しかし現実は甘くなかった。
終電。休日出勤。積み上がる仕様書。
鳴り止まないチャット。
気づけば「好きなゲームを作る仕事」は、「ゲームを見るだけで疲れる仕事」へと変わっていた。
いつしか、こう思うようになった。
――もう異世界にでも逃げたい。
仕事もない。人間関係もない。
何もかも放り出して、どこか遠くへ行ってしまいたい。
「……それが……叶った?」
冗談のような考えだった。
しかし、目の前の光景を見れば、冗談とも言い切れない。
異世界。
そんな言葉が頭をよぎる。
だが――。
「……いや、待て」
そこで重大な問題に気づいた。
そもそも、自分はどうやってここへ来た?
「……」
考える。
考える。
しかし――思い出せない。
昨日何をしていたのか。
どこにいたのか。
どうしてここで寝ているのか。
まるで、そこだけ綺麗に切り取られてしまったかのように、記憶が存在しなかった。
「……記憶喪失?」
そして、もう一つ。
自分の名前。
「……僕の名前……」
思い出そうとする。
だが、頭の中に浮かんできたのは――。
『ピーマン』
「……」
しばし沈黙。
「いや、それ名前じゃないだろ」
ネットにログインするとき、適当に使っていたユーザーネームだ。
なぜよりによって、それだけ覚えている。
「……どうなってるんだ、これ」
頬をつねる。
「痛っ」
普通に痛かった。
「……夢じゃない」
周囲を見回す。風に揺れる草。
遠くを走る謎の動物。空を飛ぶ謎の生物。
どれもこれも、妙に生々しい。
しかも――。
「……体も、そのままか」
手を見る。腕を見る。身体を確認する。
どうやら見慣れた自分自身のままだ。
異世界転生といえば、最強の美少年になったり、美少女になったりするものではないのか。
鏡がなくても分かる。
冴えない。いつもの自分だ。
「異世界に来てまで、この顔かぁ……」
別に顔に大きな不満があるわけではない。
ただ――。
せっかくなら、もう少しこう……人生が楽しくなりそうな見た目になっていてもよかったのではないだろうか。
「……まあ、贅沢言ってる場合じゃないか」
立ち上がる。足元の感触は確かだった。
土を踏む。草を踏む。風が頬を撫でる。
太陽が少しずつ位置を変えていく。
世界は、あまりにも現実的だった。
「……誰か……」
人の姿を探す。
しかし――。
広い。とにかく広い。
都会なら、少し歩けば誰かに出会う。
コンビニもある。駅もある。交番もある。
だが、この草原には――。
「……誰もいない」
声が風に溶けていく。
その代わりに、腹の虫が鳴った。
「……」
さらに喉が渇いている。
「水……」
そう思った瞬間、遠くから水音が聞こえた。
さらさら、さらさら。
「……あっちか」
水音を頼りに、斜面を下っていく。
やがて草の間から、細い流れが姿を現した。
川と呼ぶにはあまりにも小さい。
だが、澄んだ水が岩の間を流れている。
「水!」
思わず駆け寄った。しゃがみ込み、両手ですくう。
透明な水が手のひらからこぼれ、腕を伝っていく。
冷たい。気持ちいい。
乾ききった喉が、その水を求めて悲鳴を上げている。
天然水には細菌や寄生虫がいる。
そんな話をどこかで聞いたことがある。
だが――。
(……ちょっとだけなら)
背に腹は代えられない。口を近づける。
その瞬間だった。
「……グルルルル……」
「…………」
背後から、低い唸り声。
空気が変わった。
さっきまでの穏やかな草原が、突然、別の場所になったように感じる。
冷たい汗が背中を伝った。
(……何?)
振り返りたくない。
だが、見なければならない。
ゆっくり。本当にゆっくりと振り返る。
「…………」
目の前には――。
ワニのような頭があった。
「…………」
目が合った。
「…………」
数秒。
「うおおおおおおおおおおっ!?」
絶叫した。
反射的に飛び退く。
金縛りが一気に解けたように後ずさりをした瞬間、すくっていた湧き水を前方にぶち撒けてしまう。ワニらしき生き物はその水が少しかかったのか怪訝な顔をすると見る見る上空に上がっていく。
「え!?飛んだ……」
わけではなかった。ワニのような頭には長い首がついておりその先には恐竜を連想させる胴体とコウモリのような大きな羽根がついていたのだ。
頭の中で、ある言葉が完成する。
「ドラゴン……?」
神話やゲームの中でしか見たことのない存在。
「な……なんでーーーー!?」
平和そうな草原に似つかわしくない神話上の伝説の生き物がいきなり現れたのだ。わけの分からない場所でドラゴンに生きたまま食べられて死ぬ。全く想像もしていなかった人生の終わり方を連想し、感動よりも真っ先に絶望が心を支配する。そして後から徐々に恐怖心が波となって押し寄せてくる。
こちらを食料と認識しているのだろう。ドラゴンが口を開けると牙の間の唾液が伸びているのが分かった。
(い、嫌だ。死にたくない。
自分は童貞である。
中高一貫の男子校。
理系の大学。
女性とお付き合いする機会は皆無だった。
いや、チャンスがあったとしても自分は失敗していただろう。
ならばお金で解決するしかない。
就職後、貯めたお金で意を決して夜の街に繰り出した。しかし店の前にいる黒服さんにひよってラーメンを食べただけで帰っていた。
何でこうなってしまったのか。人生がどこかで狂ってしまったのか。自問自答をしてきたこともあったが、もう考えないようにしていた。
とにかく死ぬ前に一度でいいからしてみたい。
この世に生を受けた喜びを味わえずして死ぬのは死んでも死にきれない。
それだけだった。
これまでの自慰行為が走馬灯のように頭の中を流れていく。
(なんで……こんな時に……!!)
そしてドラゴンが飛びかかってきた。
「――っ!」
目を閉じる。
だが。
ドゴォォォンッ!!
「…………?」
衝撃音が大地を揺らした。
恐る恐る目を開く。
そこには、地面に倒れ伏したドラゴンがいた。
「……え?」
何が起きた?
ドラゴンの背中には、何かが直撃したような跡が残っている。
砂埃が舞う。
そして、その向こう側に――。
一人の人影が立っていた。
「ん?」
女性の声。
凛としていて、よく通る声だった。
「君、もしかして村人じゃなくて……プレイヤー?」
女性がこちらへ歩いてくる。
そして、膝に手を置いて顔を覗き込んだ。
その瞬間。
ふわり、と甘い香りが鼻をくすぐった。
「……」
思わず、視線が止まった。
警官を思わせる帽子と革ジャンの下には
白いシャツと、細身の黒いネクタイ。
黒のパンツスーツ。
無駄のない、洗練された服装だった。
シャツの襟元はきっちりと整えられているものの、ネクタイはわずかに緩められている。
かっちりとした仕事着のようでありながら、どこか肩の力が抜けた雰囲気もあった。
茶色がかったショートカットの髪は、首元で軽やかに揺れている。
切れ長の瞳。
すっと通った鼻筋。
凛とした眉と、整った顔立ち。
知的で近寄りがたいほど端正なのに、その表情には不思議と冷たさがない。
立っているだけで目を引く。
派手な装飾など何ひとつ身につけていないのに、むしろ飾らないことが、その美しさを際立たせていた。
「おーい」
女性が顔を近づける。
「聞いてます?」
「……」
「もしかして死にかけ?」
「……う……あ、あの」
「はい?」
「こ、ここ……そういう風俗ですか?」
「…………」
女性が瞬きをした。
数秒の沈黙。
やってしまった。
何を言っているんだ僕は。
小さい頃から女性との会話は母親ぐらいとしかせず、そのまま大人になった。
だから女性とのコミュニケーションの仕方が分からなかった。
そしていつからか女性が大の苦手になり、今日まで極力関わらずに生きてきたのだ。
ただ、決して興味がないわけではなかった。むしろ好きなほうだと思う。しかし、女性が同じ空間に長くいるだけでも冷や汗が出て、具合が悪くなってしまうのだ。
社会人になってから同僚と会話を試みたが、何を喋っていいのか分からず、いつもぶっ飛んだことを言ってしまい、相手をひかせてしまう。
次第に寄りついてくれる女性はいなくなった。
避けてくれたほうがこちらも身が楽だ、と次第に思うようになっていった。
今回も同じパターンだ。
いま対面している女性は僕の言動に引いているに違いない。
やがて――。
「あー……」
何かを納得したように頷いた。
「プレイヤーだね」
「え?」
怒らない。
驚きもしない。
ただ、妙に納得した顔をしている。
僕がそういう人種だと割り切ったのだろう。
「名前は?」
「……ピーマン」
「……」
名前と言えばこれしか思い浮かばない。
「自分でもよく分からなくて……」
「なるほど」
女性は特に追及しなかった。
「じゃあ、ここがどこかも分からない?」
「はい⋯⋯。あの、この生き物は本物なんですか?」
「一応ね。倒したのは私」
「やっぱり……」
改めて倒れているドラゴンを見る。
巨大だ。
どう見ても、人間が一人でどうにかできる相手には見えない。
「あなたは……何者なんですか?」
「うーん⋯⋯プレイヤー?と言えばいいかな。それより、君の系統は?」
女性は首を傾げた。
「系統?」
「そう」
「SとかMとか?」
自分はどちらかといえば――。
「違う」
女性が即答した。
「ゲームの系統。RPGとか、スポーツとか、アクションとか」
「え、それが何です?」
「分かんないかぁ。完全に初心者なんだろうけど⋯⋯なんでこんなとこに⋯⋯」
女性はあごに手を当てて真剣に考え込んでいる。
「いや……気づいたらここに寝そべってて……」
「ここで起きたの?”チュートリアル村”じゃなくて?」
「……チュートリアル?」
その言葉に、背筋がざわついた。
やはり――。
「ここって……もしかしてゲームみたいな世界なんですか?」
「たぶん」
女性も確信があるわけではないらしい。
そのときだった。
倒れていたドラゴンの身体が、淡い光の粒へと変わっていく。
「……え?」
次の瞬間。
まるで最初から何も存在していなかったかのように、ドラゴンは完全に消滅した。
「……マジか」
そして――。
ピロリロリーン♪
「……?」
どこからともなく、軽快な電子音が響いた。
「レベルアップかな。良かったね。私と一緒に倒した判定よ」
女性が平然と言う。
「え?」
なぜか頭の中に『レベルが56に上がった』という言葉が浮かび上がり、続けて機械音声が聞こえてくる。
『衝撃波(入門)を覚えた』
『透視(入門)を覚えた』
「⋯⋯」
「どう?」
「……レベルが上がったみたいです。技も2つ覚えました」
いかにもゲームらしい。
が、レベルの上がり方がいきなり56とは早すぎる気がする。
あのドラゴンは相当強くて経験値が多かったのだろうか。
(それにしては覚えた技は初期っぽいけど⋯⋯)
「じゃあメニューって唱えてみて」
「メニュー?」
「頭の中で」
半信半疑のまま、心の中で唱える。
(メニュー)
すると、視界の奥にゲーム画面のようなウィンドウが浮かび上がった。
そこには――。
名前:ピーマン
レベル:56
系統:RPG
ベースタイトル:『マンピース ―風俗王に俺はなる―』
能力
・衝撃波(入門)
・透視(入門)
「…………」
「どうしたの?」
「……なんでもないです」
なんでもなくない。
大問題だ。
『名前』がピーマンであることは最早どうでもいい。
しかし問題は『ベースタイトル』だった。
何に使われる項目なのか知らないが、よりによって――。
昔、女性が苦手な体質を克服しようと大学時代に唯一のめり込んだ、妙に記憶に残っているエロゲーのタイトルが表示されている。
「『系統』は?」
「あ、RPGです」
「なるほど」
女性は頷いた。
「ガッツリ系だね」
「何がですか?」
「プレイヤーにはゲームジャンルが系統として備わっているんだけど、RPGは今からだとまぁ厳しいってこと」
「え?」
意味が分からない。
だが、「厳しい」と言われると、なんか悔しい。
「でも技を二つ覚えましたよ」
「初期技でしょ?メラとかじゃない?」
「……はい」
(名前的にはそんな程度かと思います)
衝撃波(入門)。
透視(入門)。
どう考えても序盤の技。
『マンピース』というエロゲーの初期技だ。
そしてたしか内容はエロ寄り⋯⋯
攻撃力は皆無で戦闘向きではない。
「ぼ、僕の技はそこそこ強いんです」
言われっぱなしも嫌なので少し見栄を張ってみる。
すると
「へぇー。じゃあ試しに私にやってみなよ」
「え!?」
「ノーガードで受けてあげる」
心臓が跳ねた。
この人に?
本当に?
頭の中で、二つの能力を確認する。
衝撃波(入門)。
攻撃寄りだが、下方から風を起こし対象の衣服を持ち上げる技。
形状と色の判別を行い対象の趣味嗜好などの情報を取得出来る。
ーーそして
透視(入門)。
サーチ系能力であり、対象の上着を透かして見ることができる。
相手が隠し持っているモノを識別出来る。
どちらを使う?
相手に影響がある『衝撃波』か?
しかしスカートを履いていない者に放ったところで風を感じるだけだろう。
やはりここは少しでも効果がある『透視』だ。
彼女が本当に人間であるか分からない現状、少しでも情報を得ておく必要がある。
ついでに今の自分が
(大分時が経っているんだ。少しぐらい改善されているはず)
「い⋯⋯いいんですね?」
「いいんで早くしてください。ここ夜になると結構危険なんで」
「わ、わかった。透視!」
呟いた。
瞬間。
「…………」
彼女の上着と帽子が消え、目の前にははち切れんばかりの豊満な胸があらわになる。白いシャツは、彼女の豊かな胸元に沿って張り詰めていた。
かろうじて現状を維持しているボタンとボタンの間には、わずかな隙間さえ許さないほどの緊張が走っている。布地は大きく膨らんだ輪郭を隠しきれず、呼吸のたびに重力に逆らいながらゆっくりと上下する。そのたび、薄い生地が内側から押し返されるように揺れ、理性では意識すまいとしていた視線まで引き寄せてしまう。
それは単なる大きさだけではなかった。
シャツという端正でありふれた衣服が、彼女の身体によってまるで別の意味を与えられている。きちんと閉じられた襟元と、その下に隠しきれない柔らかな曲線。その対照が、かえって想像力を刺激した。
今にも張り詰めた糸が切れてしまいそうな危うさ。けれど、彼女はそんな視線など気にも留めず、涼しい顔でこちらを見つめている。
その無自覚さが、何よりも僕を惑わせた。
見てはいけない。
そう思うほど、目を逸らすことが難しくなる。
結局のところ、惹きつけていたのは、その豊かな胸元そのものだけではなかった。
完璧に整えられた装いの中に、それだけでは収まりきらない女性らしさが滲んでいること――その危うい対比こそが、僕の視線を離さなかったのだ。
「…………っ」
処理できない。色々な光景がフラッシュバックして甦る。脳が追いつかない。
「……え?」
女性が首を傾げる。
「どうしたの?」
「…………」
鼻の奥が熱くなる。
そして――。
「ぶっ!」
「ええっ!?」
鼻血が噴き出した。
「ちょっと、大丈夫!?汗もすごいわよ」
「だ、大丈夫です……」
「”
「……たぶん、まだ制御できてないんです」
ゲームの名前を言えるわけがなく適当な言い訳をする。
だが――。
頭の中では、別のことを考えていた。
凄まじい破壊力だ。
今際の際だったから気にすることなくかろうじて会話が出来たが、この女性は服を着ていても分かる相当なポテンシャルの持ち主だ。
透視が上着1枚でなかったら逆に僕はやられていたかもしれない。
そして思い出してきた。
このゲームの能力は――。
最初こそ大したことがない。ただ、レベルは速攻でチート級に上がっていき、死ににくくなる。
そして能力を極めていけば。
とんでもないことになる。
序盤では役に立たないように見える能力が、後半になるほど化けていく。
そして、その中でも――。
このゲームの能力は、妙に自由度が高かった。
「…………」
女性が訝しげな目を向けてくる。
「本当に大丈夫?」
「……はい」
鼻血を拭う。
そして、口元が緩みそうになるのを必死にこらえた。
会社。残業。
満員電車。退屈な日常。
そんなものは、どうでもよくなる。
もし本当にここがゲームの世界なら。
もし、この世界で『マンピース』を極めることができたなら。
「……もしかして」
自分は――。
この世界で、とんでもない力を手に入れられるのではないか。
そして僕の人生を大きく狂わすきっかけとなった女性恐怖症という体質に打ち勝つことが出来るのではないか。
そう思った瞬間。
これまで感じていた不安が、ほんの少しだけ薄れた。
代わりに胸の奥から湧き上がってきたのは――。
抑えきれない期待だった。
思わず笑みがこぼれる。
自分の「くだらない人生」が、好転するかもしれないと思える時が来るとは。
目の前では、女性が怪訝そうな顔をしている。
「……何でそんな嬉しそうなの?」
「いえ」
答えながら、僕は空を見上げた。
雲一つない青空。
その向こうには、まだ見たこともない世界が広がっている。
ドラゴン。未知の生物。
ゲームのシステム。
そして――。
自分だけが持つ、奇妙な能力。
「……ちょっと、良くなってきたかもしれません」
異世界に来てしまった理由は分からない。
元の世界へ戻れるのかも分からない。
自分の本当の名前すら思い出せない。
それでも。
この世界には――。
これまでの人生にはなかった「何か」がある。
そして僕は、まだ知らない。
このくだらないゲームの能力が――。
やがて、この世界そのものを大きく揺るがすことになるなどということを。
初回だけ文字数とAIイラスト多めにしてます(´Д`)
ありふれたジャンルだけとオリジナルで連載初めてみました。