鳥のさえずりが聞こえる。
遠くから聞こえる波の音に混じって、小鳥たちの軽やかな声が朝の静寂を彩っていた。
やがてカーテンの隙間から差し込んできた朝日が、部屋の床をゆっくりと照らしていく。
僕は重たいまぶたをゆっくりと開いた。
視界に入ったのは、メルヘンチックな模様が描かれた天井。
「…………」
一瞬、ここがどこなのか分からなかった。
けれど、数秒もしないうちに昨日までの出来事が一気に蘇ってくる。
ここは現実世界ではない。
ゲームの世界――『クロシア』。
そして、今いる場所はアサクラさんが暮らす、あつ森をベースにした島。
(……夢じゃなかった)
その事実を改めて認識する。
会社に行く必要がない。
満員電車に乗る必要もない。
上司の顔色を窺いながら仕事をする必要もない。
……そもそも、会社へ行く方法がない。
現実世界に戻る術すら分からないのだから、当然と言えば当然なのだが。
諦めにも似た感情と、どこか解放されたような喜び。その二つが入り混じった、なんとも奇妙な気分だった。
「……会社、どうなってるんだろうな」
ふと呟く。
けれど、考えたところで答えは出ない。
僕は小さく息を吐き、ベッドから身体を起こした。
そして――もう一つ、昨夜の出来事を思い出す。
「…………」
アサクラさん。
夜遅くに部屋を訪ねてきた彼女。
可憐だった⋯⋯。
――すると。
「……ん?」
昨日の夜のアサクラさんとのやり取りを夢で見ていたのか、健全なまでに自分の息子は立派にそり立っていた。そこだけは妙に異世界仕様ではなく、元の世界と変わらないらしい。
昨夜の出来事を夢に見ていたせいなのか、あるいは単純に朝だからなのか。
どうやら『クロシア』は、何もかもがゲーム的というわけではないらしい。
少なくとも、このあたりだけは元の世界と大差ないようだった。
それはそれとして。
昨日、何時に出発するのかをちゃんと確認していなかった。
まだ時間があるのなら、外の様子を見ておこう。
そう思い、僕は身支度を整えて玄関へ向かった。
ドアを開けた瞬間――。
「……うわぁ」
思わず声が漏れた。気持ちのいい晴天だった。
朝日が海面に反射し、無数の光となってきらめいている。
穏やかな波が砂浜へ寄せては返し、潮の香りを運んでくる。
都会で暮らしていた頃なら、休日の旅行先でしか見ることのできなかったような景色だ。
「なんて、素晴らしい朝なんだ……」
思わず深呼吸する。
これまでの自分の生活とは、あまりにも違いすぎる。
ゴミゴミした街。
狭い部屋。
朝から人で溢れ返る駅。
それらとは正反対の、静かで穏やかな世界。
こんな場所で暮らせるなら――。
そんなことを考えていた、そのときだった。
砂浜のほうから、一定のリズムで足音が聞こえてきた。
視線を向ける。
「……あ」
Echikoさんだった。
彼女は朝から砂浜を走っていた。
朝日に照らされる姿は、まるでスポーツウェアの広告に出てくるモデルのようだ。
美形の顔立ちに、整ったスタイル。
走るという何気ない動作さえ、絵になっている。
……もっとも、僕にとっては別の意味で心臓に悪い。
こちらに気づいたEchikoさんが、走る速度を落とした。
「おはよー。ちゃんと寝れた?」
額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、彼女が笑う。
「お、おはようございます」
昨日までなら、こんな距離で女性と会話するだけでも死にそうになっていた。
それなのに。
少しずつだが、Echikoさんとは普通に話せるようになっている。
出会ってまだ一日程度だというのに、(彼女にとっては)もう敬語すら必要ないような雰囲気になっていた。
サバサバした性格だからだろう。変に気を遣わなくていい。それが僕にとっては、ありがたかった。
「ここは……のどかでいいところですね」
「でしょ?」
Echikoさんは海を振り返る。
「私も、ここに来ると唯一気が休まるんだよね。アサクラちゃんには感謝だよ」
「……そうなんですね」
改めて周囲を見渡す。
こんな場所で、アサクラさんのような穏やかな女性と暮らす。
毎朝、こんな海を眺めながら一日を始める。
(……もし僕に女性恐怖症さえなければ)
ここは、天国なのではないだろうか。
現実世界に戻れなくてもいい。
会社も。仕事も。人間関係も。
全部捨てて――ここで暮らす。
そんな人生も、案外悪くないのかもしれない。
「朝ご飯食べたら、9時くらいに出るから」
「……え?」
「準備しておいてね」
「あ、はい!」
Echikoさんは軽く手を振った。
どうやら、僕がこの島に永住するという選択肢は、最初から存在しないらしい。
(……アサクラさんは、ずっといていいって言ってたけどな)
もしEchikoさんに「僕、ここに住みます」と言ったら、どんな顔をするだろう。
彼女が現実世界へ戻ることを諦めていないのは明らかだ。
おそらく――。
(……絶対、反対されるだろうな)
そんなことを考えながらEchikoさんと別れ、僕は島を少し散策することにした。
しばらく歩いていると、花壇の前で水やりをしている女性を見つけた。
「あ」
アサクラさんだった。
昨夜とは雰囲気がまるで違う。
眼鏡をかけ、穏やかな笑顔を浮かべながら花に水を与えている。
昨夜の大人びた雰囲気が嘘のように、最初に会ったときの可憐で親しみやすい印象に戻っていた。
(……やっぱり、女性って分からない)
僕が近づくと、アサクラさんもこちらに気づいた。
「あら、おはようございます」
「お、おはようございます」
「疲れは取れましたか?」
「はい!ベッドがすごく寝心地よかったので、ばっちりです」
「ふふ。それはよかったです」
アサクラさんは女神のように微笑む。
「Echikoちゃんたちは高レベルのベテランばかりですから、あまり無理をなさらないでくださいね」
「高レベルのベテラン……」
マスターに会うという話だったが、どうやら一人の強者に会いに行くという程度の話ではないらしい。
その周囲には、僕には到底理解できないような猛者たちが集まっているのだろう。
「⋯⋯一体、何を聞きに行くんでしょうね」
「ごめんなさい。私、ゲームの攻略のお話は全然分からなくて」
「そうですか……」
「でも――」
アサクラさんは花に水をやりながら、優しく笑った。
「居心地のいい環境だけは、ちゃんと用意しておきますから」
胸の奥が、きゅん、と鳴った気がした。
(……この人が彼女だったら)
そんなあり得ない未来が、一瞬だけ頭に浮かぶ。
毎朝、この島から会社へ向かう。
玄関まで見送りに来てくれるアサクラさんに、
「行ってらっしゃい」なんて言ってもらう。
そして仕事が終われば、ここへ帰ってくる。
そんな生活――。
(……いやいやいや)
僕は慌てて頭を振った。
何を考えているんだ。
まだ出会って2日目だぞ。
それ以前に、ここは現実世界ですらない。
僕はそんな妄想を振り払うように、話題を変えた。
「そういえば、ここへ戻ってくる方法ってあるんですか?」
「もちろんありますよ」
アサクラさんは何でもないことのように答えた。
「島から出たら、森ですぐにブックマークしてください。そうすれば、テレポートカード等でいつでもここへ戻ってこられます」
「ブックマーク……」
ゲームでいうところの、訪れた場所を登録しておくシステムなのだろう。
つまり――。
(帰ってこられるんだ)
その事実に、僕は少し安心した。
正直に言えば、ここに戻ってきたいと思っている。
もし外の世界が、昨日までの戦闘以上に過酷な場所だったなら。
僕はきっと、ここへ逃げ帰ってくる。
「それじゃあ、また後で」
「はい。お気をつけて」
もう少しだけ話していたい。
そんな気持ちを胸の奥へしまい込み、僕はアサクラさんと別れた。
そして――時間はあっという間に過ぎた。
出立の時間。
僕はいそいそと昨日買ってもらった魔法使いの服に着替え、玄関の外へ出た。
「……あれ?」
そこには、すでにEchikoさんが立っていた。
しかし、僕は彼女の姿を見て目を丸くする。
「その服……」
昨日、銃撃によってボロボロになっていたはずの、警官を思わせるような服装。それが、完全に元通りになっている。
「何着も持ってるんですか?」
「ああ、これ?」
Echikoさんは自分の服を見下ろした。
「格闘がベースだから、一定時間経つと戦闘時の服も復活するのよ」
「……便利ですね」
格闘ゲームベースのプレイヤーとは、なんとも便利なものらしい。
しかし。
僕はふと疑問に思った。
「だったら……最初から服、破れなくてもよくないですか?」
「……雰囲気重視?」
「なるほど……」
ゲームにはゲームの事情があるらしい。
しかし、そう考えると昨日、僕の服が銃撃で破れなかった理由も気になってくる。
(……もしかして)
ふと、一つの可能性が頭に浮かんだ。
Echikoさんは、服が破れる演出のある格闘ゲームがベースなのではないだろうか。
そう考えると、思い当たるタイトルが一つある。
――『KOF』という格闘ゲーム。
あれには、女性キャラクターが負けた時に派手に服が破れる斬新なお色気演出があるゲームだった。
(もしKOFがベースなら……)
彼女の持っている技も、ある程度予想できるかもしれない。そして戦いに負けた時も⋯⋯。
僕は頭の中で、勝手にEchikoさんを想像し始めた。
……いや。
そんなことをしている場合ではない。
「それで、これから向かうところって、ここから結構遠いんですか?」
「うん。ここからさらに遠いよ」
Echikoさんは軽く伸びをする。
「でもテレポートを何回かハシゴするから、まあ30分くらいで着くかな」
「30分……辺境ですね」
「いや」
Echikoさんが振り返る。
「どちらかというと、ここが辺境なのよ」
「え?」
「今から行くところが中央都市」
「……中央都市?」
「うん。昨日行ったグランより、ずっと栄えてるよ」
「へえ……」
少しだけ興味が湧いた。
しかし、Echikoさんは続けた。
「ただ、今はイベント中だからプレイヤーだらけで、ちょっと危険だけど」
「…………」
嫌な予感がした。
「イベントって……何ですか?」
「週一でやってる攻城戦」
「攻城戦?」
「攻める側と守る側に分かれて、プレイヤー同士で戦う戦争イベント」
「…………」
嫌な予感が、確信に変わった。
プレイヤー同士の戦いは大規模MMOやソシャゲによくある資源を奪い合うイベントであり、ゲームをやりつくした上級者のエンドコンテンツとして用意されていることが多い。
「それ……めちゃくちゃ上級者向けのイベントじゃないですか?」
「まあ、そうだね」
「なんでそんなところに行くんですか!?」
「私たちのチームが、そのお城の所有権を持ってるから」
「…………」
この人は、時々さらっと、とんでもないことを言う。
ゲームでいうところの城の所有権。
それを維持しているチーム。
どう考えても弱小チームではない。
むしろ、こういう権益を確保しているチームほど、ゲームをやり込んだ強豪集団であることが多い。
「……もしかして」
僕は恐る恐る尋ねた。
「Echikoさんって……ガチ勢です?」
「ガチ勢?」
「その……ベテランっていうか」
「ああ、それなら」
Echikoさんは少し考える。
「私、一度も死んでないと思うから、強い部類かも」
「…………」
一度も死んでいない。
それをさらっと言うあたり、やはり普通ではない。
「なんと……」
「でも、ピーマンは戦う必要はないから」
「え?」
「そもそも、今回は攻めてくるチームもいないと思うし」
「……そうなんですか?」
「うん」
僕は少しだけ安心した。
とはいえ、攻城戦という言葉の物騒さは変わらない。
「でも……そんな争いの原因になるようなシステムがあるんですね」
「まあね」
Echikoさんは少しだけ表情を曇らせた。
「今は、みんなで協力しなきゃいけない局面なのに。こういうシステムがあるのは、あんまり良くないとは思う」
「……ですよね」
「でも、ちょっと変わった仕様もあってね」
「変わった仕様?」
「戦争イベント中に、その街で死んでもリセットされないの。アイテムや少しの経験値ロストはあるけど」
「……え?」
「レベルも消えない。記憶も消えない」
「それって……」
僕は言葉を失った。
この世界で死ぬことは、本来なら『リセット』を意味する。
レベルも。記憶も。積み上げてきたものも。
それが、このイベントでは適用されない。
「だから、死ぬのが怖くない?」
「まあ、そういう仕様だからね」
Echikoさんは肩をすくめる。
「だからお祭りみたいな感覚で参加するプレイヤーもいるよ」
「…………」
それでも僕には理解できなかった。
いくらゲームの仕様だと言われても、死ぬ瞬間の感覚までゲームになるとは限らない。
痛みは?恐怖は?死ぬ直前の感覚は?
昨日、自分が銃撃を受けたときの感覚を思い出す。あれは、とてもゲームとは思えなかった。
「街中でも戦闘が始まったりするんですか?」
「昔は、たまーにあったかな」
「たまに……」
「でも今は少ないよ。街中で暴れると、デメリットのほうが大きいから」
「そうですか……」
僕がまだ不安そうな顔をしていると、Echikoさんがこちらを見る。
そして、いつもの調子で笑った。
「ダイジョーブ、ダイジョーブ」
ぽん、と僕の肩を叩く。
「私がついてるから」
「……」
頼もしい。頼もしいのだが――。
(この人、思ったより大ざっぱなんだよな……)
出会った当初の冷静で完璧な強者という印象は、少しずつ崩れてきている。
とはいえ。昨日、僕を銃撃から守ってくれたのも彼女だ。結局のところ、僕には彼女を信じるしかない。
「それじゃあ、行くよ!」
「はい!」
僕とEchikoさんが歩き出そうとした時。
「気をつけて行ってらっしゃい」
振り返る。そこには、アサクラさんが立っていた。
朝の光を背に、穏やかな笑顔を浮かべている。
まるで、旅立つ家族を見送るような――そんな温かな表情だった。
「行ってきます!」
僕も小さく頭を下げる。
Echikoさんと並んで歩き出す。
背後には、穏やかな海と、アサクラさんの暮らす島。
そして前には――。
僕がまだ知らない、クロシアの中央都市が待っている。
そこでは、プレイヤーたちによる攻城戦が行われているという。
平穏な島を離れ、いよいよこの世界の中心へ向かおうとしていた。