「君は本当に、ここに来るまでのことを覚えてないの?」
改めて、女性が尋ねてきた。
その豊満な胸が近づいただけでクラクラする。
僕は腕を組み平静を装いながら記憶を探る。
「うーん……」
自分が何者なのか。
何をしていたのか。
どんな人生を送ってきたのか。
そこまでは思い出せる。
けれど、この世界に来る直前の記憶だけが、まるで誰かに切り取られたように存在しない。
「自分の過去のことは思い出せます。でも、なぜか名前も思い出せないんです」
「……そう」
女性は短く答えた。
そして、何かを考えるように空を見上げる。
「じゃあ、私そろそろ行くね」
「え?」
あまりにもあっさりした言葉に、思わず聞き返した。
「ちょ、ちょっと待って!」
女性が振り返る。
「どこに行くんですか? 僕も連れて行ってくれませんか?」
確かに幻滅した初心者の男を連れて行くメリットはどこにもない。僕にとっても長期間、女性と一緒にいるのはHPが削られる。
しかし今いる場所は、見渡す限りの草原。
しかも、ついさっきドラゴンに襲われたばかりだ。
あんな怪物がそこら中を歩き回っている場所に、一人で取り残されては命がいくつあっても足りない。こんな気持ち悪い言動をする男と一緒にいたくない気持ちは分かるが、せめて人のいる町や村まで連れて行ってほしい。
ところが――。
「いや。一回死ねばいいのよ」
「…………え?」
あまりにも自然な口調で、とんでもないことを言われた。
「一回死ねばいい?」
「そうそう」
「…………」
何だろう。
この人はこちらの常識を軽々と飛び越えてくる。
「この世界だったら、たぶん復活できるわ」
「復活……ゲームみたいにですか?」
「うん。たぶんね」
確かにゲームの世界では死んでも何らかのペナルティがあるだけで復帰は出来る。
しかし、この世界は本当にゲームの世界なのか確証がない。それに五感がリアルに近く痛覚もあるのでより現実感があるのだ。
「……何で『たぶん』を強調するんですか」
女性は少しだけ困ったように笑った。
「それはね……まだ仮説の段階だから」
「仮説……?」
「実際に『生き返ったぞー!』って戻ってきた人は、まだ確認されてないの」
「じゃあ全然ダメじゃないですか!」
思わず声が裏返った。
死ねば復活できる。
そんな話を平然とされたから一瞬納得しかけたが、よく考えれば肝心の実例がない。
「でも、死んだ人に似ている人が、新規プレイヤーとしてこの世界に現れるのよ」
「それだけ!? 復活と関係なさそうじゃないですか!」
「もちろん、それだけじゃないわ」
女性は腕を組んだ。
「もともと、皆そんなこと信じてなかったの」
その表情から、先ほどまでの軽さが少し消える。
「ある日、プレイヤー同士の大きな争いがあってね。一度にたくさんのプレイヤーが亡くなったことがあったの」
「……え」
胸の奥が冷たくなった。
ゲームの世界。
そう聞いてから、どこか現実感のないものとして受け止めていた。
だが――。
ここでは本当に、人が死ぬ。
「そして、その事件の後……新規プレイヤーが一気に増えたの」
「……」
「恐らく、死んだプレイヤーの数だけ」
「……偶然じゃないんですか?」
自分でも声が小さくなっているのが分かった。
「誰かに支配されていて、死んだ人間を補充しているとか……」
口にしてから、背筋が寒くなった。
支配。
補充。
まるで誰かが管理しているゲームサーバーに、プレイヤーがログインしているような構図だ。
この世界が単なる異世界ではなく、誰かによって作られた巨大な仮想空間なのだとしたら――。
「この世界では、『同時接続数』という数字を確認することができるの」
「……同時接続数?」
「ええ」
女性は、まっすぐ僕を見る。
「いかにもゲームにある、仮想空間へのユーザーログイン数よね」
「……」
「その数字が、開始以来ずっと――、3万4819人なの」
「…………」
言葉が出なかった。
34819人。
それは、あまりにも具体的な数字だった。
もし本当にこの世界が仮想空間なら、それだけの人数が同時に存在していることになる。
つまり――。
この世界には、自分以外にも数万人の人間がいる。
「でも……」
ようやく声を絞り出す。
「それだと、亡くなった分だけ新しい人が補充されている説のほうが、しっくり来るんですが……」
「そうね」
女性は頷いた。
「だから、あるプレイヤーが調べたの」
「調べた?」
「急激に増えた新規プレイヤーを、できるだけ探し出してヒアリングしたの」
僕は思わず唾を飲み込んだ。
「…………」
女性の口から、次の言葉が出てくるのを待つ。
「彼らには、既存プレイヤーとは違う共通項目があった」
「……何ですか?」
「死亡回数」
「…………」
心臓が、大きく跳ねた。
ドッドッドッドッ――。
自分の鼓動が耳の奥まで響いてくる。
「たぶん、あなたにもあるはずよ」
女性が続ける。
「メニューの中に」
――死亡回数。
その言葉が頭の中にこびりついた。
僕は、この世界に来るまでの記憶がない。
だが、ここに来たのは初めてだと思っている。
なら――。
自分は、本当に「初めて」なのか?
「いや……でも……」
声が震えた。
「明らかに、ここに来たのは初めてだ……」
「新規プレイヤーは全員、以前の記憶がなかったそうよ」
「……」
それ以上、何も言えなかった。
先ほど教えてもらったメニューの表示方法を思い出す。
メニュー。
そこに、自分の正体を示す何かがある。
確認すればいい。
ただ、それだけだ。
なのに――。
怖い。
もし、そこに「死亡回数」という項目があったら?
自分は一度死んだ。
そして、この世界で再び生きている。
そういうことになる。
輪廻。循環。
そんな言葉が頭をよぎった。
もし死んでも、この世界で再び生まれるのだとしたら。
元の世界へ戻れないどころか、死んだ後でさえ、この世界から逃げられない。
永遠に。
この世界の住人として。
「…………」
恐る恐る目を閉じる。
(メニュー)
頭の中で唱えた。
すると、先ほどのゲーム画面が浮かび上がった。
名前。
レベル。
系統。
ベースタイトル。
能力。
アイテム。
指先でページをめくるような感覚で、一つずつ表示を確認していく。
⋯⋯ない。
「……ないです」
「ない?」
女性は眉をひそめる。
「下のほうよ」
「…………」
もう一度探す。ない。
何度確認しても、「死亡回数」という項目は見当たらない。
「……本当にない」
「おかしいわね」
女性は腕を組んだ。
「そもそも、あなたの出現位置も異常なのよね」
「出現位置?」
「普通、新規プレイヤーはチュートリアル村に出現するの」
「……」
「なのにあなたは、あんな危険な草原に一人で寝ていた」
確かにそうだ。
「バグみたいなものかしら」
女性がじっと俺を見つめる。
その視線に、わずかな疑念が混じっていた。
「……もしかしてさ」
「はい?」
「あなた、嘘をついてない?」
「ええ!?」
思わず声が上ずった。
「どうしてですか!? 嘘なんてついてないですよ!」
「ベテランほど、自分のベースタイトルは他人に明かさないのよ」
「……」
「系統やベースタイトルによって、戦闘時の相性が変わるからね」
女性は僕を観察するように目を細める。
「あなた、最初にベースタイトルの話をしたときも、妙に濁してたし」
「そ、それは……」
言えるわけがない。
自分のベースタイトルが――。
『マンピース ―風俗王に俺はなる―』
などという、どう考えても女性に対して口に出せないタイトルだなんて。
「ちょっと恥ずかしかっただけですよ!」
「ふーん」
「マイナーすぎて言っても知らないと思いますし!」
「ふーん」
「それに系統は答えたじゃないですか!」
「……まあ、ドラゴンに殺されそうになってたときの動きは、完全に初心者だったしね」
「……もしかして」
僕はじっと彼女を見る。
「すぐ助けずに、遠くから見てたんですか?」
「遠かったし」
悪びれる様子もない。
「本当に村人だと思ってたの」
「ひどいですよ!」
「まあ、いいじゃない」
「よくないですよ……」
俺が肩を落とした、そのときだった。
「……ん?」
女性の表情が変わった。
「どうしました?」
「……嘘」
「え?」
彼女が目の前の何かを凝視している。
「増えてる」
「何がです?」
「同時接続数」
声がわずかに震えた。
「一人増えてる」
「……え?」
「3万4820人になってる!」
「僕……ですかね?」
「分からない。でも、この数は……」
彼女が言葉を切る。
「これまで
背筋に、ぞくりとしたものが走った。
「…………え?」
僕が驚いたのは、数字が変わったことだけではなかった。
「1年間……?」
その言葉のほうが、はるかに重かった。
「あなたは……」
思わず女性を見る。
「1年間、この世界にいるんですか?」
「うん」
彼女はあっさり答えた。
まるで、それが当たり前のことのように。
「こっちが現実なんじゃないかって思えてきたぐらいよ」
「…………」
言葉を失った。
1年もの間、この世界で過ごしている。
つまり――。
自分より先に、この世界へ来た人間がいて。
そして、その人間でさえ未だに元の世界へ戻れていない。
「……」
胸の奥が冷たくなる。
もしかすると。
自分は――。
一生、戻れないのではないか。
そんな考えが頭をよぎった。