会社が嫌だった。
仕事から逃げたかった。
異世界に行けたらいい。
そう思ったことだってある。
だが――。
本当に戻れなくなってみると、話はまるで違った。
「ねえ」
そんな僕の心を見透かしたように女性が尋ねた。
「あなたは、この世界に留まりたい?」
そして、少し間を置いて続ける。
「それとも、何としても元の世界に戻りたい?」
「…………」
突然の質問だった。
僕は答えを考えた。
この世界には、魔法がある。
ゲームのような能力がある。
ドラゴンだっている。
会社もない。満員電車もない。
毎朝、目覚まし時計に叩き起こされることもない。何より自分の体質改善ができるかもしれない。
一瞬だけ――。
「こっちのほうがいいんじゃないか?」
そんな考えが頭をよぎった。
だが。
次の瞬間、別の顔が浮かんだ。
家族。友人。学生時代の記憶。
くだらない飲み会。何気ない休日。
嫌だった仕事ですら、今となっては自分の人生の一部だった。
それらを全部捨てて、この世界で生きる。
それは、やっぱり違う。
「……どちらかと言うと、元の世界です」
僕は答えた。
「この世界は……面白そうではありますけど」
目の前に広がる草原を見る。
「ずっといたいとは思わないかも」
「……そう」
女性は小さく頷いた。
「それなら――」
彼女は僕を見る。
「君は、私についてきてもらうわ」
「え?いいんですか」
「うん」
「本当に?」
「ええ。マスターに聞いてみる」
「マスター?」
「私たちのチームのリーダー」
「チームがあるんですね!」
思わず声が弾んだ。
他にも話ができそうな人に出会えるかもしれない。
「リーダーは、この世界の攻略がかなり進んでるの」
女性はそう言って、少しだけ笑った。
本物の女性から笑みを浮かべられると心臓がドキリと鼓動を打つ。
「物知りだから、あなたのことも何か分かるかもしれない」
「わ、分かりました」
僕は即答した。
「ぜひお願いします」
それから、ふと思い出す。
「あの……」
「なに?」
「名前を伺ってもいいですか?」
「…………」
女性が黙った。
「あ」
まずかったか?また変なことを聞いたか?
「いや、嫌ならいいんです!」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
彼女は少し気まずそうに視線を逸らした。
「もしかして……」
嫌な予感がした。
「あなたも、本名を思い出せないんですか?」
「うん」
あっさりと頷く。
「皆、代わりにユーザーネームを使ってて……」
「皆さん思い出せないんですね」
「そう」
「じゃあ、そのユーザーネームを教えてください」
「……Echiko」
「え?」
「エチコよ」
なぜか少しムキになった。
「エチコ!ローマ字でね!」
「あ……いや……」
僕は言葉を選んだ。
「それは……災難でしたね」
「…………」
「よろしくお願いします、Echikoさん」
「……ピーマンも同じようなもんでしょ!」
「はい?」
「さっそく最寄りの町に戻るわ!」
Echikoは話を切り替えるように立ち上がった。
「このカードを持って『帰還』と唱えるだけ」
「カードなんてあるんですね」
「この世界では、いろいろね。これ割と貴重なのよ」
彼女がカードを取り出す。
「この世界は――クロシアって呼ばれてる」
「クロシア……」
「いろいろなゲームの要素が、ごちゃ混ぜになってるみたい」
「……いろいろって?」
「RPGだったり、アクション、シミュレーション、スポーツ、パズル、カード、街作りなど思いつく全ての要素が全部入ってるわ」
「……全部?」
「そう。全部」
「な、何それ……」
思わず乾いた笑いが漏れた。
異世界。
そう思っていた。
だが、話を聞けば聞くほど、ここは異世界というより――。
誰かが無茶苦茶な発想で作った、巨大なゲーム空間に近い。
RPGの隣でスポーツゲームをやり、そのさらに隣で街を作る。
そんな世界が本当に存在するなら、それはもはやゲームというより――。
「意味分かんないわよね」
Echikoが苦笑する。
「私も1年いるけど、いまだに全容を理解してない」
「1年いても……」
「うん」
その言葉が、また胸に引っかかった。
「さ、行くわよ」
彼女はカードを差し出した。
「これを持って『帰還』」
「分かりました」
カードを受け取る。
「帰還」
彼女が呟いた次の瞬間――。
バシュンッ!
空気が弾けた。
「え?」
目の前にいたEchikoの姿が、一瞬で消えた。
「……」
僕は固まった。
「ちょっと待って!」
気づけば辺りは夕焼けに染まりつつあり、遠くで得体のしれない大きな生き物がのそのそと動いている。どう見てもベテラン向けのモンスターだ。
慌ててカードを見る。
そして――。
「帰還!」
同じ言葉を口にした。
視界が白く弾ける。
次の瞬間――。
「…………」
目の前に広がったのは、石造りの建物が並ぶ街だった。
西洋風の町並み。
石畳。
木製の看板。
露店。
酒場らしき建物。
行き交う人々。
「……人だ」
思わず呟いた。
先ほどまでの静寂が嘘のようだった。
いかつい大男が歩いている。
可愛らしい服を着た町娘が笑っている。
小さな子供たちが路地を駆け回っている。
商人らしき男が大声で客を呼び込んでいる。
生きている。
街全体が、生き物のように動いていた。
「来たね」
背後から声がした。振り返るとEchikoさんがいた。
「じゃあとりあえず、あなたの服を買いに行くよ」
「服?」
自分の身体を見る。
確かに、今着ているのは明らかに初心者用の装備だった。
「でも、お金が……」
「お金はあるから大丈夫。それより、その初心者服は早めに変えておいたほうがいい」
「何かまずいんですか?」
Echikoの表情が少し曇った。
「他のプレイヤーに狙われるかも」
「え!?」
「町中での初心者狩りはリスクがあるから、やる人は少ないけどね」
「初心者狩り……」
ゲームでは聞き慣れた言葉。
しかし、ここではその意味が違う。
殺される。
現実の痛みを伴って。
「ここ、そんなに殺伐としてるんですか?」
「うん」
Echikoは平然と答えた。
「まあ、今はちょっと色々あってね」
「色々……?」
「私と一緒にいると、あなたも狙われるかも」
「…………」
僕は思わずEchikoさんの横顔を見た。
何かある。絶対に何かある。
こんな美人が1年間もこの世界で生き延びている。
しかもドラゴンを一撃で倒すほど強い。
そして、プレイヤーから狙われている。
――まさか。
実はとんでもない問題児なのでは?
男をたぶらかし。金を巻き上げ。
用済みになったら切り捨てる。
そうやって敵を大量に作った結果、賞金首のような存在になっているとか。
「…………」
あり得なくもない。
いや。
むしろ、そう考えるほうが自然なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、僕たちは一軒の店へ入った。
「何がいいかなー」
Echikoが服を手に取る。
どうやら僕の装備を選んでくれているらしい。
真剣な表情で服を選ぶ横顔を、ぼんやりと眺めた。
整った鼻筋。凛とした瞳。
すっきりとした輪郭。
その横顔には、どこか近寄りがたいほどの知性と落ち着きがあった。
それなのに――。
「これならいいかな」
服を僕に当てながら、Echikoは真剣にサイズを確認している。その姿を見ていると、先ほどまでの疑念が少しだけ馬鹿らしく思えてくる。
何より。
この世界で初めて出会った人間だ。
ドラゴンに襲われていた自分を助けてくれた。
少なくとも、今のところは信用していいのかもしれない。
ただ⋯⋯
僕の前で無防備な後ろ姿を見せているEchikoさん。
これは中々強烈だ。
ジャケットの裾に続く細い腰のラインは折れそうなほどにすっきりと引き締まり、その先でヒップへと柔らかく膨らんでいる。そしてそのなだらかに続くS字ラインから伸びる脚。
仕立ての良さそうなパンツスーツの黒い生地は動きに合わせてわずかに形を変え、その輪郭を隠すどころか、むしろ美しい曲線として影絵のように浮かび上がらせる。
前にかがむとピタリと張り付き、奥行きのあるヒップと合わせて、角度のあるパンティラインが浮かび上がっていた。
決して大げさな動きをしているわけではない。
それでも、真剣に服選びに取り組む彼女と、スーツという堅い印象の服装。その組み合わせが生み出す何気ない仕草は、隠しきれない女性としての魅力を滲ませていた。
そして、その凛とした雰囲気と女性らしい柔らかさとのギャップが、妙に艶めいて見える。
その破壊力に、僕はただ苦しめられるしかなかった。
「そういえば」
本人はそんなことなど一先気づかず、急に振り返ったため、僕は慌てて視線を側にある服に移した。
「RPG系でも、その中で好きな職業とかあったでしょ?」
「職業……」
「魔法使い? ベタに勇者?」
「あー……」
少し考える。
「万能な賢者が好きでした」
「賢者ね」
Echikoはすぐに棚を探し始めた。
「じゃあ、少しでも魔力や耐性が上がる装備がいいわね」
しばらくして、ローブのような服を取り出す。
「これなんかどう?」
鏡を見る。確かに魔法使いっぽい。
「うん。いいじゃない」
Echikoが満足そうに頷いた。
「中級の魔法使いっぽく見えるわ」
「中級……」
「それにモブNPCっぽい」
「…………」
「これなら安全ね」
「モブ……」
少し傷ついた。
しかし、目立たないほうが安全という理屈には納得するしかない。
「じゃあ、私は少し買い出ししてくるから」
「え?」
「その辺を適当に歩いてて」
Echikoは袋を手に取った。
「ぱっと見、他のプレイヤーはいなさそうだし。変な動きをしなければ、たぶんバレないから」
「バレないって……」
「じゃあ、またここで」
「ちょっと待って――」
呼び止めるより先に。
Echikoは人混みの中へ紛れていった。
「……ふー」
あっという間だった。
僕はその場に取り残される。
(Echikoさんは割と会話が苦じゃないな。サバサバしているからかな?)
それでも無理したのか疲労感が襲ってくる。
夕暮れの光が石畳を赤く染めている。
店先のランプが一つ、また一つと灯り始める。
遠くから笑い声が聞こえた。
知らない人々。
知らない街。
知らない世界。
そして――。
何も知らない自分。
「……クロシア、か」
小さく呟く。
Echikoさんは、まだ何かを隠しているような気がする。
1年間この世界にいるという彼女が、なぜ僕を助けたのか。
なぜ僕の出現位置が異常なのか。
なぜ同時接続数が、僕が現れた瞬間に増えたのか。
そして――。
僕に「死亡回数」が存在しないのはなぜなのか。
疑問は、いくらでも湧いてくる。
それでも。
今は、頼れる相手がEchikoさんしかいない。
吐き気や頭痛は起きていない。このくらいのコミュニケーションならば何とか耐えられるだろう。
僕は夕暮れに染まる街並みを見つめた。
赤く染まった空の向こう。
この世界のどこかに、元の世界へ帰る方法があるのだろうか。
それとも――。
僕は知らないうちに、もう一度人生を始めてしまったのだろうか。
答えは、まだ分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
この世界――クロシアでの物語は、今始まったばかりだった。