あつ森の世界のベッドは現実世界の寝床よりも居心地が良かった。新しい布団はふわふわしており、外も騒がしくない。
(いや⋯⋯これはマジですごい)
まさか究極のスローライフを実体験できるとは思わなかった。気を抜けばこの世界観に溶け込んでしまう気がする。
ずっとここにいたい。
そう思ってしまう。
ただ、これまでのEchikoさんの言葉を思い返す。
『この世界から出たいならマスターに合わせる』
そのような流れで連れてきてもらったような気がする。もし『留まりたい』と答えていたら放っておかれていたのだろうか。
でも、現実世界で理不尽なことに疲れ果て、毎日を生きることそのものに嫌気が差してしまった人なら。
……ここから出たくない、と思ってしまうかもしれない。
戦わなくてもいい。
何かに追われることもない。
ただ好きなように暮らして、毎日を穏やかに過ごす。
そんな世界を提示されたら、現実へ戻ることを躊躇する人がいても不思議ではなかった。
激動の一日だったので疲労感は凄まじいが、色々な事を思い出してしまい、寝つけない。
このまま寝てもそのまま朝まで寝てしまいそうだったので、僕は外を散策してみることにした。
外へ出ると、柔らかな夜風が頬を撫でた。
やはり、あつ森の世界だけあって――平和そのものだった。
静かな夜。柔らかな明かり。
どこからか聞こえてくる生活音。
夜風も程よく暖かい。
(現実世界の季節は……春だった気がするけど)
空を見上げる。
(ここも同じくらいの季節なのかな)
アサクラさんの島はかなり発展していた。
道路はきちんと舗装され、街灯が設置されている。住宅や施設も整然と並び、島というより、ちょっとした街に近い。
窓の明かりが灯っている家も多い。
中には、二足歩行の動物型の住民が暮らしているのだろう。
煙突からは白い湯気が立ち上り、どこからともなく夕飯の美味しそうな匂いまで漂ってきた。
ドラクエのノリだと人の住居にも勝手に入れるけど今は止めておこう。
ただ、中でキャラクター達が何をしているのかは気になってしまう。
(そういえば、透視って服以外にも効くんだっけ?)
Echikoさんに使ったときは、とんでもない能力だと思った。正直、最初は「何のためにこんな能力があるんだ」と思っていた。しかし、もし壁や建物まで透視できるのなら話は別だ。
迷宮やダンジョンで道に迷ったとき。
隠し部屋を探すとき。敵の待ち伏せを警戒するとき。意外と使い道は多い。
(今後のことを考えたら、自分の能力はちゃんと把握しておいたほうがいいよな)
僕は目の前の建物に意識を向けた。
「……透視」
視界が一瞬だけ変化する。
すると――
「おお」
壁の一枚が、まるで透明なガラスになったように消えた。その向こう側に、家の中の様子が見える。
動物型の住民が、楽しそうに夕飯を作っていた。
「へぇ……」
鍋をかき混ぜたり、食器を並べたりしている。
本当にゲームの世界なんだな、と改めて実感する。
これは使える。迷宮なんかで道に迷ったときには、かなり便利そうだ。
調子に乗った僕は、隣の建物にも視線を向けた。
「……透視」
また壁が消える。
「はは。ゲームしてる」
家の中では、別の動物がテレビゲームらしきものを遊んでいた。ゲームの世界の中で、さらにNPCの動物がゲームをしている。なんとも不思議な光景だった。
「……あの建物も炊事かな?」
煙突から湯気が上がっている。何気なく、もう一度能力を使った。
その瞬間――
「うおおっ!?」
僕は反射的に視線を逸らした。
そこにあったのは――Echikoさんだった。
予想していなかった人物が突然視界に入り、脳が一瞬で処理能力を失う。服の上からでも分かった究極のプロポーション。それが完全に無防備な状態でさらけ出されているのだ。
(まずい……!)
慌てて透視を解除する。
心臓が異常な速度で鼓動している。
……マンピース。
やはり、この能力はどうしようもないところで、とんでもない性能を発揮する。
最初は呪いのようにしか思えなかった。
だが、能力そのものを冷静に考えれば、情報収集という意味ではかなり有用なのかもしれない。
(……あながち、無駄な能力じゃないのかもしれないな)
まるで。
女性恐怖症の僕が、この世界を生き抜けるように――
段階的に用意された能力のようだった。
……もっとも。
そんなことを考えている場合ではない。
このあと、僕には特大イベントが待っている。
Echikoさん。そして、アサクラさん。
美人でスタイリッシュな女性と、清楚で可愛らしい女性。その二人と――夕食。
僕にとっては、モンスターの大群に突っ込むより恐ろしいミッションである。
食事をしながら女性と会話する。そんな経験、最後にしたのは母親とだった気がする。
何を話せばいい?
そもそも、まともに食事を口へ運べるのか?
胃が受け付けてくれなかったら?
緊張で吐いたら?
女性恐怖症が発動して、また変な汗をかいたら?
次から次へと、最悪の未来が頭の中に浮かんでくる。
(このままだと……本当にゲロを吐くかもしれない)
どうする。
体調不良を装って欠席するか?
しかし、それではせっかく夕飯をご馳走してくれるアサクラさんに申し訳ない。
それに、Echikoさんからこの世界のことを聞ける貴重な機会でもある。
何より――
逃げてばかりでは、永遠にこの恐怖症を克服できない。僕は深く息を吸った。
(……よし)
行こう。
多少吐きそうになっても、死ぬわけじゃない。
たぶん。
時間になると、アサクラさんの家へ呼ばれた。
大きな居間に通される。
そして――
「うわぁ~~! おいしそう!」
目の前に並べられた料理を見て、Echikoさんが子供のように目を輝かせた。
テーブルの上には、色とりどりの料理が所狭しと並んでいる。
「……」
僕は思わず彼女を見つめた。
普段はクールで、何を考えているのか分かりにくい人なのに。
こういうところを見ると、案外、裏表のない人なのかもしれない。
それに――
今はパンツスーツではない。無防備な私服姿。
先ほど風呂場のあられもない姿を思い出してしまう。
ここは彼女にとって、本当に気を抜ける場所なのだろう。
……僕を男としてまったく意識していない、とも言える。
でも。そのほうが、僕としてはありがたかった。
一方、アサクラさんは
なぜか先ほどよりキラキラしている気がする。(メガネも外している)
「今日はお久しぶりのお客様なので、たくさん作ってみましたわ!」
アサクラさんが嬉しそうに手を広げる。
「さぁ召し上がれ」
「いただきま~す!」
Echikoさんは、待たされていた犬のような勢いで料理に箸を伸ばした。
「……」
僕は少し面食らった。もっとこう、上品なお食事会になるものだと思っていたのだ。
けれど――
(こ、これなら……あまり気にならないかもしれない)
少しだけ肩の力が抜けた。
ただ。問題は――
「……」
アサクラさんが、やたらと僕を見ている気がする。
「あ、あの?」
「はい?」
「いえ……」
目が合う。その瞬間、心臓が跳ねた。
「ピーマンさんも、たくさん食べてくださいね」
「は、はい……。いただきます」
僕は目の前にあった唐揚げを一つ取った。
――カリッ。
薄い衣が砕ける小気味よい音が口に響く。
その直後、熱々の肉汁がじゅわっと広がる。
鶏肉は驚くほど柔らかく、噛むたびに肉の旨味が滲み出してくる。醤油と生姜の風味がほどよく効いていて、決して濃すぎない。それなのに、噛みしめるほど味が深くなる。
衣の香ばしさ。
鶏肉のジューシーな旨味。
そして鼻へ抜けていく、生姜の爽やかな香り。
う、うまい⋯⋯!
五感を刺激する香ばしさと肉汁の饗宴だ。
アサクラさんみたいな人が奥さんだったらどれだけ毎日が幸せだろう。
まぁ結婚なんて僕には縁のない話だけど。
そんなことを考えていると、アサクラさんが口を開いた。
「ピーマンさんはここに来てどれくらいなの?」
「こ、この世界にですか?1日です⋯⋯」
「1日?それじゃあリセットしてるのね」
「リセット⋯⋯ってもしかして死ぬことですか?」
「うん。私は2回死亡回数があって、今は3カ月目なの」
死亡回数がある事を当たり前のようにアサクラさんは話す。
「2回⋯⋯その頃の記憶はやはりないのですか⋯⋯?」
「そうねぇ。チュートリアル村で訓練する所からしか覚えてないのよ」
「そうですか⋯⋯」
「Echikoちゃんに出会ってなかったら何度もやり直すことになってしまっていたかもしれない
わ。ピーマンさんもこの子に出会えて良かったわね」
アサクラさんが猛烈な勢いで食べているEchikoさんのほうを見やった。
Echikoさんは出会った当初、全然僕を連れていってくれる気配なかったですけど。
Echikoさんにその無言の訴えが届いたのか、彼女は食事を止めて「だって男だし」と弁解してきた。
「しかし、そんなにこの世界は生き抜くのに厳しいんですか?」
何気ない問いかけにEchikoさんの表情が変わった。
さっきまで美味しそうに料理を頬張っていた彼女の顔から、笑みが消える。
「現状は誰も現実世界に戻れてなくてカオスな状況だからね。低レベルの人や戦いに不向きで平和なゲームをベースにしてる人たちが犠牲になってるの」
「犠牲⋯⋯まさか」
「脱出を諦めて普通の生活を送る者もいいとして、徒党を組んで他プレイヤーを狩って私腹を肥やす者が出てきた。奪ったアイテムや経験値を使って、自分たちだけが豊かになろうとしてる」
僕は言葉を失った。
想像していた以上に、この世界は荒れている。
「マジですか……」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「何とか⋯⋯ならないんですかね?」
Echikoさんは迷いなく答えた。
「だから、私たちのチームはまだ攻略を諦めてない」
彼女の目が真っ直ぐになる。
「恐らく、脱出する方法は……ゲームの攻略、その先にある」
その言葉には、確かな意志があった。
ふと見ると、Echikoさんの口元に米粒がひとつ付いている。
なのに、本人は気づいていない。
真剣な表情で、世界の未来について語っている。
でも、その目だけは本気だった。
「ピーマンさんも、ここに避難しに来たのね」
その横でアサクラさんが、ほっとしたように笑った。
「私ずっと一人で退屈していたところだったの。Echikoちゃん、あんまり帰ってきてくれないし」
「他の非戦闘系プレイヤーがいたら、呼びたいとは思ってるけど……」
「あら、嬉しいわ!」
アサクラさんの顔が明るくなる。
「賑やかになりそうね」
「ただ――」
Echikoさんの声が少し低くなる。
「本当に気を許せる人じゃないと危険だよ」
そして、僕を見る。
「ピーマンは明日、城に連れてくから大丈夫」
……。
今の言葉。引っかかった。
僕は気を許せる人じゃないということでしょうか。
いや、そもそも「城に連れていく」というのも気になる。
「ええ……」
アサクラさんの表情が曇った。
「ピーマンさんも出て行かれるの?それに、今のお城は危険じゃない?」
「マスターに聞きたいことがあるんだ」
Echikoさんはそう答えた。
「……そうなの」
アサクラさんは少し寂しそうに笑った。
「Echikoちゃんばかり、危険な目に遭わせちゃってごめんなさいね」
「何言ってるの」
Echikoさんが笑った。
「私はアサクラちゃんの美味しい料理が食べられて、すっごい幸せだよ」
「まあ……!」
二人は楽しそうに笑い合う。仲睦まじい光景だった。
けれど。
僕の頭には、別の言葉が残っていた。
――お城は危険。
Echikoさんは、そんな場所へ僕を連れていこうとしている。いったい、そこで何を確認するつもりなのだろう。マスターとは何者なのか。
そして、なぜ僕をそこへ連れていく必要があるのか。
考え始めれば、疑問はいくらでも浮かんでくる。
女性二人を前にしているというのに、不思議と女性恐怖症を意識する余裕はなかった。
次々と飛び出してくる話に気を取られているうちに――
気がつけば、夕食は無難に終わっていた。