ブルアカ少女ノ魔女裁判   作:すーぱーりっかちゃん

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ミカ『今度は、疑う順番を間違えない』

ミカ「……これってさ。私が壊したら、弁償することになるのかな」

 

鉄格子の向こうには、知らない廊下があった。

 

壁は白い。白すぎて、病院というより、病院の形をした何かに見える。天井近くの細い窓から差す光も、床に落ちたところだけ妙に青かった。

 

ミカは寝台に腰掛けたまま、片足を揺らした。

 

制服は着ている。翼もある。頭上のヘイローにも異常はない。

 

けれど、銃がなかった。

 

ポケットの端末も、髪を整えるための小さな鏡も。

 

代わりに左手首へ巻かれていたのは、銀色の細い輪だった。

 

留め具のない輪の内側に、黒い文字が浮かんでいる。

 

魔女候補。

 

その下には、聖園ミカ、と。

 

ミカ「趣味、悪……」

 

サオリ「格子の左端を狙え。壁には触るな」

 

聞こえた声に、揺らしていた足が止まった。

 

廊下の向かい側。別の牢の薄暗がりから、一人の少女が立ち上がる。

 

長い髪。見慣れたマスク。こちらをまっすぐ見る目。

 

忘れようと思って忘れられる顔ではなかった。

 

ミカ「どうして、あなたがいるの」

 

サオリ「私にも分からない」

 

ミカ「……そっか」

 

ミカは笑った。

 

何も面白くなかったけれど、ほかの顔を選ぶより簡単だった。

 

ミカ「じゃあ、今度は二人で閉じ込められちゃったんだ。変なの」

 

サオリ「聖園ミカ。今は――」

 

ミカ「指図しないで」

 

言ってから、廊下が静かになったことに気づいた。

 

向かいの牢だけではない。ほかにも呼吸の音がする。衣擦れがする。誰かが、鉄格子を握り直した。

 

サオリは言い返さなかった。

 

サオリ「分かった。だが、壁だけは避けてくれ」

 

ミカ「それも指図じゃんね」

 

ミカは立ち上がり、牢の扉に手をかけた。

 

鍵の構造を調べるまでもない。これくらいの鉄なら、曲げれば済む。

 

ただし、なるべく大きな音を立てないように。

 

そう思って力を込めたのに、蝶番が外れる音は、廊下中へ盛大に響いた。

 

コハル「ひゃっ!?」

 

ミカ「あ。ごめん」

 

扉を持ったまま、ミカは横を向いた。

 

隣の牢で、ピンク色の髪の少女が両手を胸の前に上げている。

 

ミカ「コハルちゃん?」

 

コハル「み、ミカ先輩……?」

 

胸の奥へ、違う種類の冷たさが落ちてきた。

 

自分だけではない。

 

サオリだけでもない。

 

コハルまで、ここにいる。

 

ミカ「待ってて。今、開けるから」

 

ヒナ「その扉、いったん床に置いてくれる?」

 

落ち着いた声が、少し離れた牢から届いた。

 

声の主を見て、ミカの指に力が戻る。

 

黒い翼。長い髪。小柄な体に、不釣り合いなほど大きなヘイロー。

 

空崎ヒナ。

 

ゲヘナの風紀委員長までいる。

 

ヒナ「誰かが近づいてから落とすと危ないわ。それと、開ける順番を決めましょう。全員が一度に動くと、廊下が塞がる」

 

ミカ「……私、そんな雑には扱わないけど」

 

ヒナ「そう。それならお願い」

 

咎めるでも、怯えるでもない。

 

ミカは返事の代わりに、扉を壁へ立てかけようとした。

 

サオリ「壁に触れさせるな!」

 

声が飛ぶのと、扉の端が白い壁を擦るのは、ほとんど同時だった。

 

銀色の輪が熱くなる。

 

次の瞬間、手に持った鉄扉が、ミカの側へ強く押し返された。

 

足が床を滑る。

 

踏ん張った靴底が短く鳴った。

 

ミカ「……っ」

 

腕が痺れていた。

 

壁は傷一つついていない。

 

扉の端だけが、自分で握り潰したように歪んでいた。

 

ユウカ「今の、何……?」

 

サオリ「外周の壁に加えた力が、輪を通じて戻ってくる。直接殴るな」

 

ミカは鉄扉を床へ寝かせた。

 

今度は、壁から離して。

 

ミカ「詳しいんだね」

 

サオリ「私も試した」

 

サオリが右手を上げる。

 

手袋の指の付け根が裂けていた。

 

それだけでは、嘘とも本当とも分からない。

 

ミカは向かいの牢へ歩き、扉を掴んだ。

 

ミカ「じゃあ、次はあなた」

 

サオリ「私より、ほかの――」

 

ミカ「そこにいられると、話しにくいから」

 

扉が軋む。

 

今度は蝶番を外さず、錠前の周囲だけを曲げた。

 

開いた隙間を見てから、サオリが一歩出てくる。

 

サオリ「助かる」

 

ミカ「そういうの、まだいい」

 

サオリの横を通り過ぎ、コハルの牢へ向かう。

 

その途中で、奥の牢から自分の名前が呼ばれた。

 

ナギサ「ミカさん」

 

今度こそ、足が止まった。

 

ナギサは鉄格子の内側に立っていた。髪も制服も乱れていない。ただ、右手で左手首の輪を覆っている。

 

その仕草だけで、ミカには十分だった。

 

ミカ「ナギちゃんまで?」

 

ナギサ「ええ。目が覚めたら、こちらに」

 

ミカ「……最悪」

 

ナギサ「その評価には同意します。ですが、まずは全員を外へ」

 

いつもと同じ言い方だった。

 

だからミカも、いつもに近い声を探した。

 

ミカ「うん。任せて。こういうのは得意だし」

 

ナギサ「存じています」

 

少しだけ、ナギサの指が緩んだ。

 

扉を順番に開けていく間に、人数が分かった。

 

ミカ、サオリ、ナギサ、コハル。

 

白洲アズサ。

 

空崎ヒナ、棗イロハ、鬼方カヨコ、伊草ハルカ。

 

早瀬ユウカ、生塩ノア。

 

小鳥遊ホシノ、砂狼シロコ。

 

十三人。

 

学校も立場も違う顔が、一本の廊下へ集められていた。

 

ハルカ「す、すみません、私、起きるのが遅くて……! 何もできなくて、すみません……!」

 

カヨコ「ハルカ。謝ることじゃない。怪我は?」

 

ハルカ「ない、です。たぶん……」

 

カヨコ「じゃあ、それでいい」

 

カヨコはハルカの手首を無理に掴まず、輪の見える位置へ自分の手を差し出した。

 

ハルカがそっと袖を上げる。

 

その向こうでは、ユウカがノアの顔を覗き込んでいた。

 

ユウカ「頭痛や吐き気は?」

 

ノア「ありません。ユウカちゃんこそ、さっきから眉間に皺が寄っていますよ」

 

ユウカ「こんな状況なんだから、当然でしょう」

 

ノア「そうですね。では、いつもより少しだけ、ということに」

 

ユウカ「ノア」

 

軽い応酬の途中でも、ノアの視線は廊下を確かめていた。

 

ホシノは最後の牢から出ると、肩を回して息を吐いた。

 

ホシノ「うへ~。おじさん、寝る場所にはあんまりこだわらないけど、ここはちょっとねえ」

 

シロコ「ホシノ先輩。出口はあっち。風が来てる」

 

ホシノ「ん。まずは見るだけ。飛び出さないでね」

 

シロコ「分かった」

 

アズサは、開いた牢の扉を一枚ずつ見ていた。

 

やがてサオリへ顔を向ける。

 

アズサ「サオリ。覚えていることは?」

 

サオリ「移動中だった。それ以降の記憶がない」

 

アズサ「私もだ。薬物の痕跡は判断できない」

 

サオリ「体調は」

 

アズサ「問題ない」

 

短い確認だった。

 

その短さに、二人の間にあるものが見えた気がして、ミカは目を逸らした。

 

イロハ「……とりあえず、ここに連れてきた方には言っておきたいですね」

 

ヒナ「何を?」

 

イロハ「拘束するなら、せめて起床時間を選んでほしいです」

 

ヒナ「今は何時かも分からないわ」

 

イロハ「では、その点も含めて苦情を」

 

ため息混じりの声に、コハルが一瞬だけ口元を緩めた。

 

その直後、廊下の先で鍵が回る音がした。

 

全員の視線が集まる。

 

開いた扉の向こうにいたのは、人間ではなかった。

 

黒い法衣をまとった、鳥の形の機械。

 

細い脚が床を叩くたび、硬い音が響いた。顔にあたる部分は白い仮面で覆われ、目の位置には縦長の穴が二つ開いている。

 

首から、十三本の鍵が下がっていた。

 

看守「起床を確認しました。収容者十三名、欠員なし」

 

ミカ「遅かったね。鍵、もういらないよ」

 

看守の仮面が、床に並んだ扉へ向いた。

 

看守「居室扉の破損を確認。居室間の移動は、昼間に限り許可されています」

 

ユウカ「そういう話ではありません。あなたが私たちを拉致したんですか?」

 

看守「私は当施設の看守です」

 

ユウカ「責任者を出してください」

 

看守「当施設の規則に関する説明は、食堂にて行います」

 

ヒナ「拒否した場合は?」

 

看守「説明を受ける機会が失われます」

 

カヨコ「……脅し方まで事務的だね」

 

看守が踵を返す。

 

その背へ、ミカは手を伸ばしかけた。

 

先にアズサが床を蹴った。

 

低く踏み込み、細い機械の脚を払う。

 

看守が傾くより早く、ヒナが法衣の背を押さえた。シロコが首元の鍵を抜き取る。

 

乾いた音が三つ続いて、看守は床へ伏せた。

 

ホシノ「おお。話が早い」

 

ヒナ「抵抗は?」

 

アズサ「ない。自重以外の力も感じない」

 

看守「案内が中断されました」

 

シロコ「鍵は本物。番号がある」

 

ミカ「そのまま押さえてれば、何か変わるかな」

 

看守「案内が中断されました」

 

イロハ「たぶん、壊れるまでそれを繰り返すだけですよ」

 

イロハは屈み、法衣の内側を覗いた。

 

イロハ「命令を受けて動いてるだけでしょう。これを殴っても、命令した相手は痛くない。腹立たしいことに」

 

サオリが、看守ではなく天井を見ていた。

 

小さな黒い半球が埋め込まれている。

 

サオリ「見られている」

 

ナギサ「でしたら、こちらが状況を把握することを優先しましょう。話を聞くことと、従うことは別です」

 

ヒナ「……そうね」

 

ヒナが手を離す。

 

看守は何事もなかったように立ち上がった。

 

奪われた鍵を取り返そうともしなかった。

 

その態度が、力を見せつけられるより嫌だった。

 

廊下の先にあった食堂は、十三人で使うには広すぎた。

 

長い卓に、十三枚の皿。

 

パン、スープ、水差し。食器は白い陶器で、刃物だけが置かれていない。

 

窓の向こうに海があった。

 

どこまでも灰色の海。

 

ミカは窓辺に寄り、左右を見る。切り立った崖と、細い石畳。遠くには灯台らしい塔が立っていた。

 

街がない。

 

道路も、線路も、飛行船も見えない。

 

ナギサが隣へ来た。

 

ナギサ「見覚えは?」

 

ミカ「ない。ナギちゃんは?」

 

ナギサ「私もです」

 

答えながら、ナギサは窓枠の内側を確かめた。

 

そこにも、左手首の輪と同じ銀色の線が埋め込まれている。

 

食堂の壁で、大きな画面が灯った。

 

表示されたのは、黒い文字だけだった。

 

『魔女矯正施設へようこそ』

 

コハル「矯正、って……」

 

看守「皆様は魔女の素質を認められ、当施設へ収容されました」

 

ユウカ「認めたのは誰ですか。基準は? 審査手続きは?」

 

看守「選定への異議申し立ては受け付けていません」

 

ユウカ「それでは認定ではなく、一方的な決めつけです」

 

画面の文字が切り替わる。

 

島の略図が現れた。

 

中央に収容棟。東に医務室と温室。西に礼拝堂。北に灯台。南は崖に囲まれた船着き場。

 

島の輪郭を、銀色の線が取り巻いていた。

 

看守「施設の外殻、および島外への境界には反響障壁が設置されています。登録された収容者による物理的干渉は、その収容者へ返還されます」

 

シロコ「投げた石も?」

 

看守「収容者の行為に起因する干渉として認識されます」

 

アズサ「無人の装置を介した場合は」

 

看守「同様です」

 

ホシノ「ふうん。ずいぶん広く取るねえ」

 

看守「内部の設備は、指定箇所を除き通常の物理法則に従います」

 

牢の扉は壊せた。

 

壁は壊せなかった。

 

ミカは痺れの残る手を、もう片方の手で握った。

 

看守「皆様のヘイローは、入島時に当施設へ接続されました」

 

ヒナ「……何をしたの」

 

看守「収容中、身体の致命的な損傷に対する保護は、通常通りに機能しません」

 

椅子が小さく鳴った。

 

ハルカの膝が、卓の脚に当たっていた。

 

看守「銃器その他の装備品は預かっています。ただし、日用品であっても、使い方によって生命を奪うことが可能です。ご注意ください」

 

コハル「そんな……確かめようがないじゃない」

 

ヒナ「確かめなくていい」

 

即座に返った声に、コハルが顔を上げた。

 

ヒナ「嘘でも、本当でも。怪我をしないように動く。それは変わらないわ」

 

看守は二人のやり取りを待たず、説明を続けた。

 

看守「収容者には、それぞれ一つの魔法が発現します。能力は精神の性質を反映し、使用と強い情動によって魔女化が進行します」

 

ミカ「……魔女、魔女ってさ」

 

声に出すつもりはなかった。

 

けれど看守の仮面がこちらを向き、ほかの何人かも振り返った。

 

ミカ「別の呼び方、思いつかなかったの?」

 

看守「規定の名称です」

 

ミカ「そ」

 

口元だけを上げる。

 

ナギサが何か言いかけたのを、ミカは窓の外を見ることで避けた。

 

画面に、新しい見出しが現れた。

 

『魔女裁判』

 

看守「収容者の死亡を、生存者三名以上が現場で確認した場合、死亡発見告知を行います。その後、調査時間を経て魔女裁判が開廷します」

 

ノア「死亡した方ではなく、生きている私たちを裁くんですね」

 

看守「裁判では、死亡を引き起こした魔女を特定してください」

 

カヨコ「犯人、じゃないんだ」

 

看守「過半数の指名を受けた収容者を、処刑対象として認定します」

 

スープの表面から、細い湯気が上がっていた。

 

その向こうで、コハルの口が開いたまま止まっている。

 

ユウカ「指名が間違っていた場合は?」

 

看守「指名された収容者が処刑されます」

 

ユウカ「……それでは、裁判の意味がありません」

 

ナギサ「正誤を判定する制度ではない、ということですね」

 

看守「皆様の判断が尊重されます」

 

ヒナ「責任を押しつけているだけでしょう」

 

ヒナの声が、いっそう低くなった。

 

ミカは画面を見つめた。

 

多数決。

 

誰かを選ぶ。

 

選んだ理由が正しいかどうかは、問われない。

 

そんなものは、よく知っている。

 

看守「投票の棄権は可能です。ただし、有効票が過半数に達するまで審理は継続され、居住区への帰還は認められません」

 

ホシノ「じゃあ、事件が起きなきゃ裁判もないんだね?」

 

看守「その通りです」

 

ホシノ「そっか。そこは覚えとこう」

 

イロハ「最初から、協力して帰る方法を説明してくれれば済むんですけどね」

 

看守「退所には、全収容者の審査完了が必要です」

 

ユウカ「審査の内容は?」

 

看守「公開されていません」

 

イロハ「はぁ……。働かせる気だけは一人前ですか」

 

説明を終えた看守が、壁際へ下がる。

 

止まっていた空気を動かしたのは、ユウカだった。

 

ユウカ「現時点で、相手の説明を事実と断定するのは危険です。ただし、危険性については本当だと仮定して対処しましょう」

 

ノア「まず、分かっていることと、聞かされただけのことを分けましょうか」

 

ノアが卓の端にあった紙束と鉛筆を引き寄せた。

 

食堂の備品らしく、紙の上端には献立を書くための罫線がある。

 

ノア「全員のお名前と、最後に覚えている場所から」

 

ミカ「それ、全部言わなきゃ駄目?」

 

自分でも分かるくらい、声が尖った。

 

ノアは鉛筆を止めた。

 

ノア「いいえ。話したくない事情まで、ここで話す必要はありません」

 

カヨコ「移動中、屋内、誰かと一緒だった。そのくらいでも手掛かりにはなる」

 

ナギサ「魔法についても同様にしましょう。発現したとして、無条件の公開を義務にはしません」

 

アズサ「戦力を把握できないのは不利だ」

 

ナギサ「ええ。ですが、能力を聞き出すこと自体が、収容した側の目的である可能性もあります」

 

サオリ「危険な作用がある場合は、少なくともその危険だけは共有する。能力の詳細とは分けられる」

 

ヒナ「それでいいと思う。誰かに使って試すことは禁止。本人が同意していても、安全性が分からないうちは駄目よ」

 

ミカはサオリを見た。

 

あの場で、人を傷つけるための判断をしていた口から、今は人を傷つけないための手順が出ている。

 

それが不自然だと思った自分を、少し遅れて嫌になる。

 

話し合いは、簡単には進まなかった。

 

探索に全員で行けば時間がかかる。分かれれば、互いの行動が見えなくなる。

 

刃物を一か所へ集める案には、アズサが首を振った。

 

アズサ「危険な物を完全には除けない。食器でも椅子でも武器になる」

 

ユウカ「だからといって、放置はできません」

 

カヨコ「管理できる物は管理する。それ以上のことを、管理できてると思わない。そこじゃない?」

 

ユウカ「……そうですね。その区別は必要です」

 

ナギサが紙へ簡単な取り決めを書き、ノアが施設側の規則とは別の紙へ記録する。

 

単独行動は避ける。

 

移動先と帰る時刻を残す。

 

異常があれば、判断を急がず共有する。

 

誰かの私物や体を、本人の了解なく調べない。

 

ただし、目の前に危険がある場合の介入は妨げない。

 

読み上げられた最後の一文で、ミカの指がわずかに止まった。

 

自分が暴れたら。

 

この中の誰が、止めるのだろう。

 

ナギサ「ミカさん」

 

ミカ「ん?」

 

ナギサ「署名を。賛成できない項目があれば、今のうちに」

 

ミカ「……ううん。大丈夫」

 

鉛筆を受け取る。

 

名前を書く手に、まだ少し痺れがあった。

 

朝食には誰もすぐ手をつけなかった。

 

ハルカが毒見を申し出て、カヨコに止められた。

 

カヨコ「ハルカだけに食べさせる理由がない」

 

ハルカ「で、でも、私なら……」

 

カヨコ「理由がないって言ったよ」

 

強い言い方ではなかった。

 

ハルカは俯き、差し出しかけた手を膝へ戻した。

 

食品の匂いと外観を確かめ、厨房の保存状況を見る。それ以上は道具がなければ分からない。

 

結局、全員が少量ずつ口にすることになった。

 

温かいスープは、驚くほど普通の味だった。

 

ミカ「……腹立つね」

 

ナギサ「何がです?」

 

ミカ「普通においしい」

 

ナギサはスプーンを置き、一拍だけ目を伏せた。

 

ナギサ「食事まで苦痛でないことは、幸いです」

 

ミカ「ナギちゃん、こういうときもちゃんとしてる」

 

ナギサ「ちゃんとして見せているんです」

 

小さな声だった。

 

ミカが顔を向けると、ナギサはもう水を飲んでいた。

 

その言葉について聞き返す前に、探索の組分けが始まった。

 

知り合い同士だけで固まらないこと。

 

けれど、不安の強い者を無理に引き離さないこと。

 

折り合いをつけた結果、ミカはイロハ、コハルと一緒に東側を調べることになった。

 

ミカ「……よろしく」

 

イロハ「はい。こちらこそ」

 

イロハは眠そうな顔のまま、食堂から持ってきた鉛筆を耳に挟んだ。

 

イロハ「壁を壊す前には、ひと声お願いしますね。巻き込まれるのは遠慮したいので」

 

ミカ「壊さないってば」

 

コハル「け、喧嘩は駄目だからね」

 

ミカ「してないよ」

 

イロハ「してませんよ」

 

声が重なった。

 

コハルが二人を交互に見て、ますます困った顔になる。

 

東へ続く渡り廊下には、窓が等間隔に並んでいた。

 

海へ向けて風見鶏が立っている。風は吹いているのに、その尾羽は動かない。

 

ミカがそれを見ている間、イロハは扉の位置を簡単な図へ落としていった。

 

医務室には包帯、消毒液、体温計。

 

薬品棚には鍵がかかっていた。

 

シロコが看守から取った鍵は、食堂で分担している。東側の札がついたものを試すと、三本目で開いた。

 

コハル「包帯は使える。薬も、名前が分かるものはあるけど……勝手に飲まない方がいいと思う」

 

イロハ「一覧だけ作って、施錠。鍵の所在も書いておきましょう」

 

ミカ「なんか、手慣れてるね」

 

イロハ「備品がどこにあるか分からないと、後で余計な仕事になるので」

 

イロハは棚の中の小瓶に触れず、ラベルを読み取っていく。

 

ミカは医務室の奥を見た。

 

白い衝立。二つのベッド。開かない窓。

 

寝かせられるための場所なのに、牢とあまり違わなかった。

 

コハル「ミカ先輩、手」

 

ミカ「え?」

 

コハル「さっきから、何回も握ってる」

 

言われて初めて、気づいた。

 

ミカは右手を開いてみせる。

 

ミカ「平気。ちょっとびりびりするだけ」

 

コハル「それ、平気って言わないから」

 

コハルは椅子を引いた。

 

座るように促されて、ミカは逆らう理由を探し、見つからずに腰を下ろす。

 

細い指が、手袋の端へ触れた。

 

コハル「外していい?」

 

ミカ「……うん」

 

指の関節が少し赤くなっていた。

 

コハルは動かせる範囲を確かめ、冷やすための布を用意する。

 

大袈裟に騒がれないことが、かえって落ち着かなかった。

 

ミカ「コハルちゃんってさ」

 

コハル「何?」

 

ミカ「怖くないの?」

 

コハルの指が止まる。

 

ミカは笑おうとした。

 

ミカ「ほら、私と一緒って――」

 

コハル「怖いに決まってるでしょ」

 

思っていたより強い声だった。

 

コハル「知らない場所に連れてこられて、変な輪をつけられて、死ぬかもしれないって言われて。怖くないわけ、ないじゃない」

 

布を絞る手が震えていた。

 

ミカは、それまで見ていなかった。

 

コハル「でも、手が痛いなら、そっちは今どうにかできるから」

 

冷たい布が、指の上へ置かれる。

 

ミカは黙って、その感触を受け取った。

 

近くで紙をめくっていたイロハが、視線を上げずに言った。

 

イロハ「痛いところは申告してくださいね。後で倒れられると、運ぶのが大変です」

 

ミカ「……私、重くないけど」

 

イロハ「体重の話はしてません」

 

コハル「そういう問題じゃないでしょ」

 

二人に言われて、今度の笑いは少しだけ自然に出た。

 

医務室を出る前に、イロハが洗い場の蛇口を確かめた。

 

水は出る。

 

コハルが使った布を洗っていると、イロハは棚から清潔な布をもう一枚取り出し、折り畳んで渡した。

 

イロハ「交換用です」

 

ミカ「そこまでしなくても」

 

イロハ「また戻ってくる方が面倒なので」

 

ミカは受け取った。

 

ゲヘナの生徒から渡された白い布を、しばらく見ていた。

 

その奥の温室は、湿った土の匂いがした。

 

背の高い葉が通路へ張り出し、硝子の天井には細い水滴がついている。

 

中央には浅い水盤があった。

 

水面に、三人のヘイローが映る。

 

コハル「花もある……」

 

イロハ「食べられるものがあると助かりますけど。知らない植物を試すのはやめましょう」

 

ミカ「私、そこまで何でも食べないよ?」

 

イロハ「名指しはしてませんよ」

 

入口の横には、温室の管理日誌が置かれていた。

 

どの日付にも、水やり済み、とだけ書いてある。

 

書き手の名前はない。

 

イロハが日誌をめくり、途中で手を止めた。

 

ミカ「何かあった?」

 

イロハ「紙が一枚、切り取られてますね」

 

綴じ目の近くに、細い紙片が残っていた。

 

新しいのか古いのかは分からない。

 

イロハはその頁の前後を記録し、日誌を元の位置へ戻した。

 

イロハ「今は、切り取られていたということだけで」

 

ミカ「誰かの秘密のメモ、とか?」

 

イロハ「かもしれませんし、鼻をかんだのかもしれません」

 

コハル「こ、この紙で?」

 

イロハ「おすすめはしませんね」

 

水盤の向こうに、裏口があった。

 

開けると細い搬入路が収容棟の裏へ続いている。地図には描かれていなかった道だ。

 

イロハが鉛筆を走らせる。

 

そのとき、廊下の側から足音が聞こえた。

 

ミカが振り返る。

 

入口にサオリが立っていた。

 

ミカ「……一人?」

 

サオリ「いや。アズサと空崎ヒナが、隣の設備室を確認している」

 

言葉通り、扉の向こうからヒナの声がした。

 

それでもサオリは、ミカではなく、温室の中を見ていた。

 

水盤。

 

高い植木棚。

 

裏口。

 

最後に、イロハ。

 

サオリ「ここは、もう調べたのか」

 

イロハ「見える範囲は。地下室でもあるなら別ですけど」

 

サオリ「そうか」

 

ミカ「何を探してるの?」

 

サオリ「出口につながるものだ」

 

ミカ「ここにあると思ったんだ」

 

サオリの返事まで、わずかに間があった。

 

サオリ「可能性は、潰しておきたい」

 

それだけ言って、サオリは植木棚へ近づいた。

 

鉢の裏を覗き、棚の脚に指を当てる。

 

揺らすのではなく、そこにある何かを確かめるような動きだった。

 

ミカの視線に気づくと、サオリは手を下ろした。

 

サオリ「棚が不安定だ。触れない方がいい」

 

ミカ「ふうん」

 

ミカは覚えておくことにした。

 

サオリが、温室へ来たこと。

 

棚を調べたこと。

 

それから、イロハを見たこと。

 

食堂へ戻る頃には、窓の光が高くなっていた。

 

卓には手描きの地図が広げられている。

 

船着き場には船がない。海へ下りる階段の途中で、手首の輪が警告音を出した。

 

灯台の扉は開くが、上階へ続く階段には銀色の線が走っている。

 

礼拝堂の地下には、十三席の円形法廷があった。

 

報告を聞くたび、部屋から出口が一つずつ消えていく気がした。

 

シロコ「保管庫も見つけた。銃はたぶん、その中」

 

ユウカ「たぶん?」

 

ホシノ「扉に名前が並んでたんだよね。でも、あそこは外壁と同じ。今は手が出せないかな」

 

アズサ「警備は薄い。監視設備はあるが、看守以外の移動物は確認できなかった」

 

ナギサ「侵入者を防ぐ施設ではなく、内側から出さないための施設なのでしょう」

 

ノアが全員の報告を紙へまとめる。

 

イロハは自分の図を、その横へ置いた。

 

イロハ「東側の搬入路が、配られた地図にありませんでした。これから見る場所も、地図を信用しすぎない方がよさそうです」

 

ノア「温室の裏口から、収容棟北側へ。分かりました」

 

鉛筆の先が動く。

 

ミカは何となく、その文字を目で追った。

 

読みやすい、整った字だった。

 

昼の食事が配膳口へ現れたのは、その直後だった。

 

壁の小扉が開き、台車が押し出される。

 

向こう側を見ようとシロコが屈んだときには、もう銀色の板が下りていた。

 

シロコ「……速い」

 

ホシノ「挟まれなくてよかったよ」

 

台車には十三人分の食事と、十三通の封筒が載っていた。

 

封筒には、それぞれの名前。

 

看守が壁際から一歩進む。

 

看守「個別審査資料を配布します。他者への開示義務はありません」

 

ミカは、自分の封筒を見た。

 

触りたくなかった。

 

けれど、触らずにいれば中身が消えるわけでもない。

 

封を切る。

 

中には、一枚の写真が入っていた。

 

壊れた壁。

 

瓦礫。

 

こちらへ向けられた銃口。

 

写真の隅には、白い小さなカードが重ねてある。

 

『あなたは、次に誰を憎みますか』

 

耳の奥で、細い音がした。

 

手首の輪が熱い。

 

写真の端が指の中で折れ曲がる。

 

ナギサ「ミカさん」

 

呼ばれている。

 

分かっていた。

 

それでも、顔を上げられなかった。

 

憎んだ相手。

 

憎む理由。

 

自分に都合のいい順番で並べたものが、頭の中へ押し寄せる。

 

ミカ「……見ないで」

 

隣の気配が止まった。

 

ミカ「お願い。今、見ないで」

 

ナギサ「分かりました」

 

ナギサは写真を取り上げなかった。

 

代わりに、卓の上の水をミカの手が届く位置へ寄せた。

 

向こうで椅子が倒れる。

 

ハルカ「ち、違……私は、そんな、また……」

 

カヨコ「ハルカ。こっち見て。封筒は閉じていい」

 

ユウカ「全員、読むのをやめてください! これは情報提供ではありません。明らかに心理的な干渉を狙っています!」

 

ノア「未開封のものは、そのままに。読んだ内容を今ここで説明する必要もありません」

 

ミカは写真を裏返した。

 

何も書かれていない白い面へ、親指を押しつける。

 

手首の熱は、すぐには引かなかった。

 

隣ではナギサが、自分の封筒を閉じていた。

 

中身は見えなかった。

 

ミカ「ナギちゃんは」

 

ナギサ「今は、話しません」

 

静かな答えだった。

 

ミカは頷いた。

 

聞かなかったことにするのではなく、今は聞かない。

 

そんな選び方もあった。

 

卓の向こうで、イロハが自分の封筒を裏返したまま、パンをちぎった。

 

イロハ「昼食時に配るものじゃありませんね」

 

ヒナ「食べられそう?」

 

イロハ「食べないと、向こうの仕事が一つ減る気がするので」

 

ヒナは何も言わず、自分の皿を引き寄せた。

 

ミカも、水を飲んだ。

 

一口だけでは喉のつかえは取れなかったけれど、もう一口なら飲めた。

 

食後、休憩を挟むことになった。

 

探索を続けたいアズサも、ハルカの顔色を見て反対しなかった。

 

眠る者は一人にしない。

 

封筒は本人が持つか、封をしたまま共同保管する。

 

ミカは自分の封筒を折り畳み、制服の内側へ入れた。

 

誰にも渡したくなかった。

 

捨ててしまえばいいと思ったのに、捨てるところを見られるのも嫌だった。

 

食堂の外へ出ると、サオリが廊下の窓際に立っていた。

 

左手首を右手で覆っている。

 

こちらへ気づいた途端、その手が離れた。

 

ミカ「さっきから、何してるの」

 

サオリ「考えていた」

 

ミカ「それは見れば分かるよ」

 

少し離れた場所で、コハルが待っている。

 

ミカは声を落とした。

 

ミカ「あなた、何か知ってるでしょ」

 

サオリはミカを見た。

 

否定がすぐに来ないことが、答えのように思えた。

 

サオリ「確かではない」

 

ミカ「何が?」

 

サオリ「……話せる形に、まだできない」

 

ミカは笑った。

 

乾いた笑いになった。

 

ミカ「便利だね、それ」

 

サオリ「そう聞こえるのは分かる」

 

ミカ「分かってて言うんだ」

 

サオリの視線が、ミカの手へ落ちた。

 

コハルに冷やしてもらった方の手。

 

サオリ「痛みは残っているか」

 

ミカ「話を変えないで」

 

サオリ「変えたつもりは――」

 

ミカ「そういう心配、今はされたくない」

 

言い切ってから、ミカは息を吸った。

 

サオリは動かなかった。

 

反論も、謝罪もない。

 

それがまた、ミカを苛立たせた。

 

ミカ「私、あなたを信じるって言ってないから」

 

サオリ「ああ」

 

ミカ「でも、何も聞かないとも言ってない」

 

初めて、サオリの表情がわずかに変わった。

 

ミカ自身、その言葉を続けるつもりだったのか分からなかった。

 

ミカ「知らないまま、あなたの言う通りにするのは嫌。だから何か言うなら、理由も言って」

 

サオリ「……分かった」

 

ミカ「さっきも聞いた、それ」

 

コハルのところへ戻る。

 

背中に、追いかけてくる足音はなかった。

 

午後の探索では、休憩する組と動く組を入れ替えた。

 

ミカはナギサ、コハルと礼拝堂へ向かった。

 

祭壇には何の聖印もなく、長椅子だけが整然と並んでいた。

 

トリニティの礼拝堂に似せている。

 

けれど、誰に祈る場所なのかは分からない。

 

ナギサが祭壇の埃を指先で確かめる間、ミカは後ろの扉を見た。

 

地下の法廷へ通じる階段。

 

扉の中央に、天秤の模様が彫られている。

 

ミカ「多数決で決めるんだって」

 

ナギサ「ええ」

 

ミカ「私、こういうとき不利じゃない?」

 

冗談めかして言った。

 

ナギサは埃を払う手を止めた。

 

ナギサ「不利にさせません」

 

ミカ「……ナギちゃんがそう言うと、ちょっと怖いんだけど」

 

ナギサ「票を集めるという意味ではありません」

 

ナギサはこちらへ向き直った。

 

ナギサ「事実と、印象を混同しないという意味です。私自身が」

 

ミカは扉から手を離した。

 

コハルは二人から少し離れた長椅子の間で、床へ落ちていた紙片を拾っている。

 

聞こえているかもしれない。

 

聞こえていないかもしれない。

 

ミカ「できるかな」

 

ナギサ「簡単ではないでしょうね」

 

ミカ「そこは、大丈夫って言わないんだ」

 

ナギサ「言い切って済ませられるなら、私たちは苦労していません」

 

胸の奥が、小さく痛んだ。

 

けれど、嫌な痛みだけではなかった。

 

ナギサは自分の左手首へ視線を落とす。

 

ナギサ「怖いときほど、分かったことにしたくなりますから」

 

ミカには返せる言葉がなかった。

 

代わりに、コハルが拾った紙を一緒に調べた。

 

古い設備点検票だった。日付は滲んでいて、読めなかった。

 

礼拝堂を出る頃、空はさらに暗くなっていた。

 

雨が来るらしい。

 

収容棟へ戻った三人を、廊下にいたユウカが呼び止めた。

 

ユウカ「東側で、棗さんを見かけませんでしたか?」

 

ナギサ「いいえ。私たちは礼拝堂に」

 

ミカ「イロハちゃん、どうかした?」

 

ユウカ「帰着予定を十分過ぎています。ノアと一緒に温室の記録を再確認していたんですが」

 

ミカはユウカの後ろを見た。

 

ノアが、地図の置かれた卓の前に立っている。

 

ノア「私は記録を照合するため、先に戻りました。棗さんは医務室の鍵を確認してから、すぐに戻ると」

 

ユウカ「別れるときは、隣の部屋まででも声をかける取り決めだったでしょう」

 

ノア「はい。判断が甘かったです」

 

ノアは言い訳をしなかった。

 

ユウカも、それ以上は責めなかった。

 

廊下の奥からヒナが来る。

 

ヒナ「私が見に行く。最後に別れた時刻は?」

 

ノア「十五時十分です。食堂の時計で確認しました」

 

ヒナ「今は十五時二十四分。まだ、大きく遅れているわけじゃない」

 

誰に言った言葉なのか、分からなかった。

 

ミカは一歩前へ出た。

 

ミカ「私も行く。場所、知ってるし」

 

ナギサ「私も――」

 

ヒナ「こちらに人を残して。戻ってきて、すれ違うかもしれない」

 

ナギサがミカを見る。

 

ミカは頷いた。

 

ミカ「見るだけ。何かあったら呼ぶ」

 

ノア「案内します」

 

三人で東側の渡り廊下へ入った。

 

雨が窓を叩き始めていた。

 

医務室の扉は、少しだけ開いていた。

 

中に人はいない。

 

薬品棚は閉まっている。洗い場には水滴が残り、清潔な布の置かれた棚が、一段だけ引き出されていた。

 

ヒナ「棗イロハ」

 

ヒナの声に返事はない。

 

ミカは温室へ続く扉を見た。

 

朝は閉まっていたそれが、半分ほど開いている。

 

向こうから、土の匂いがした。

 

それから、水の落ちる音。

 

規則正しく、一滴ずつ。

 

ミカ「イロハちゃん?」

 

返事の代わりに、何かが床を擦った。

 

ヒナが先に扉へ着く。

 

ミカも、その肩越しに中を見た。

 

水盤の横に、イロハが倒れていた。

 

横向きに。

 

いつもの、面倒くさそうな顔を隠すように。

 

その傍らで、サオリが膝をついている。

 

片手には白い布。

 

もう片方の手は、イロハの首元へ触れていた。

 

ミカの足が止まった。

 

イロハの頭上に、光がなかった。

 

ヒナ「離れて」

 

短い声だった。

 

サオリが顔を上げる。

 

サオリ「空崎ヒナ。まだ――」

 

ヒナ「手を離して。私が確認する」

 

サオリは布を床へ置き、両手を見える位置へ上げた。

 

ヒナがイロハの傍らへ膝をつく。

 

呼びかける。

 

肩に触れる。

 

その動きが、途中からほんの少しだけ速くなった。

 

ミカは温室へ一歩入った。

 

朝、イロハが見つけた切り取られた日誌。

 

水盤。

 

不安定だとサオリが言った棚。

 

全部が、同じ場所にあった。

 

同じ場所なのに、何も同じではなかった。

 

背後で、ノアが息を呑む音がした。

 

天井の拡声器が鳴った。

 

看守「死亡発見告知。収容者、棗イロハの死亡が確認されました」

 

ミカは、音の出ている方を見上げた。

 

意味が、入ってこなかった。

 

看守「三名以上の生存者による現場確認が成立しました。これより調査時間を開始します」

 

ヒナ「……黙って」

 

拡声器は止まらない。

 

看守「魔女裁判の開廷は、本日十八時です。収容者は――」

 

ヒナ「黙って」

 

二度目の声は、大きくなかった。

 

その方が、ミカには怖かった。

 

ヒナの指がイロハの襟元から離れる。

 

乱れた髪を、頬にかからない位置へそっと戻した。

 

ミカは、制服のポケットに手を入れた。

 

畳まれた布がある。

 

朝、渡されたもの。

 

また戻ってくる方が面倒だと言って。

 

ミカ「……ねえ」

 

誰に話しかけたのか、自分でも分からなかった。

 

ミカ「さっき、普通に話してたじゃん」

 

雨が硝子を叩く。

 

水盤の端から、床へ雫が落ちる。

 

サオリがミカを見ていた。

 

驚いている顔ではなかった。

 

そのことに気づいた瞬間、体の中のどこかが冷たくなった。

 

ミカ「どうして」

 

サオリ「……」

 

ミカ「どうして、あなたはそんな顔してるの」

 

サオリの唇が動く。

 

返事になる前に、ノアが静かに口を開いた。

 

ノア「まず、現場を保存しましょう。サオリさんが遺体に触れていたことも含めて、記録が必要です」

 

遺体。

 

その言葉で、イロハが人ではなく出来事になった気がした。

 

ミカの左手首が熱を持つ。

 

輪の内側に、黒い線が一本増えていた。

 

サオリがそれを見る。

 

サオリ「ミカ。手を開け」

 

名前で呼ばれた。

 

それさえ、今は腹立たしかった。

 

ミカ「私が、何すると思ってるの」

 

サオリ「お前自身を傷つけるな」

 

ミカは自分の手を見た。

 

握り締めた爪が、手袋越しに掌へ食い込んでいる。

 

ゆっくりと指を開く。

 

白い布が、床へ落ちた。

 

サオリの持っていたものと、同じ医務室の布だった。

 

ミカはそれを拾おうとして、止まった。

 

触らない方がいい。

 

現場を残さなければならない。

 

今落とした物だと、言わなければならない。

 

そんなことを考えられる自分が、ひどく薄情に思えた。

 

ミカ「その布。今、私が落とした。朝、イロハちゃんにもらったやつ」

 

ノア「……分かりました」

 

ノアが紙へ書きつける。

 

サオリは何も言わなかった。

 

ミカはその顔を見た。

 

知っている。

 

この人は、何かを知っている。

 

朝からずっと。

 

壁に触るなと言った。温室へ来た。棚を調べた。イロハを見た。

 

そして今、イロハの隣にいる。

 

並べれば、簡単だった。

 

簡単すぎた。

 

壊れた壁の写真が、頭の中へ浮かぶ。

 

次に誰を憎むのか。

 

誰かが、その問いの答えを用意している。

 

ミカはサオリへ近づいた。

 

ヒナが顔を上げる。

 

ヒナ「聖園ミカ」

 

ミカ「殴らないよ」

 

声が震えた。

 

震えたまま、続ける。

 

ミカ「まだ、何も聞いてないから」

 

サオリの目の前で止まった。

 

近くで見れば、その顔にも変化はあった。

 

顎へ力が入りすぎている。

 

指先が冷えている。

 

それから、ひどく疲れていた。

 

朝、牢から出てきたときよりも。

 

ミカ「あなたがここへ来たのは、いつ?」

 

サオリ「十五時十九分。廊下の時計を見た」

 

ミカ「イロハちゃんは、そのとき?」

 

サオリ「もう倒れていた」

 

ミカ「誰か、いた?」

 

サオリ「見ていない」

 

ミカ「どうして呼ばなかったの」

 

サオリの視線が、イロハへ動いた。

 

サオリ「呼吸を確かめた。戻せると思った」

 

ミカは息を止めた。

 

戻せる。

 

助けられる、ではなく。

 

サオリはすぐに口を閉じた。

 

その言い方を、ミカは頭の隅へ置いた。

 

ミカ「ノアちゃん」

 

ノア「はい」

 

ミカ「最初のところ、ちゃんと分けて書いて」

 

ノアの鉛筆が止まる。

 

ミカ「私たちが見たのは、サオリがここにいたこと。イロハちゃんに触ってたこと」

 

ノア「そのように記録しています」

 

ミカ「うん。じゃあ、それでいい」

 

自分に言い聞かせるように頷く。

 

見たこと。

 

聞いたこと。

 

思い込んだこと。

 

一緒にしてはいけない。

 

それがどれほど難しいか、ミカは知っていた。

 

サオリ「私を、庇う必要はない」

 

ミカ「庇ってない」

 

即座に返した。

 

ミカ「あなたがやったのかもしれないって、思ってるよ」

 

サオリは目を逸らさなかった。

 

ミカ「今だって。すごく」

 

喉の奥が詰まる。

 

振り返れば、イロハがいる。

 

さっきまで生きていた人が。

 

自分の手を心配して、交換の布まで持たせた人が。

 

ミカは一度だけ目を閉じ、開いた。

 

ミカ「でも、私がそう思ったからって、それが本当になるわけじゃない」

 

ヒナがゆっくり立ち上がった。

 

その顔から、何を考えているのかは読み取れなかった。

 

ただ、ミカとサオリの間へは入ってこなかった。

 

ヒナ「全員を呼ぶ。現場への出入りは、ここから記録して」

 

ノア「分かりました」

 

ヒナ「それから――誰であっても、裁判の前に勝手な処罰はさせない」

 

ミカは頷いた。

 

サオリにも、ヒナは同じ目を向けた。

 

ヒナ「あなたはここに残って。説明してもらうことがある」

 

サオリ「ああ」

 

廊下で足音が増え始める。

 

告知を聞いた誰かが、こちらへ走ってくる。

 

もうすぐ全員が知る。

 

イロハが死んだこと。

 

その傍らに、サオリがいたこと。

 

その二つの間に、どれほど簡単に一本の線が引かれるのか。

 

ミカは、床へ落とした白い布を見つめた。

 

拾ってくれた人はいない。

 

それでよかった。

 

今は、そこにあるという事実を、勝手に変えないでいてほしかった。

 

サオリ「ミカ」

 

ミカ「何」

 

サオリ「……すまない」

 

謝られる理由が、多すぎた。

 

だから、どれに対する謝罪なのかを決めつけなかった。

 

ミカ「それも、あとで聞く」

 

雨音の中で、サオリが小さく頷く。

 

ミカは温室の入口へ向き直った。

 

迎えるためではない。

 

誰かが最初の一言で、すべてを決めてしまわないように。

 

ミカ「今度は、疑う順番を間違えない」

 

言い終えても、手の震えは止まらなかった。

 

それでもミカは、サオリへ伸ばしかけていた拳を、もう一度、指の先まで開いた。

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