ミカ「……これってさ。私が壊したら、弁償することになるのかな」
鉄格子の向こうには、知らない廊下があった。
壁は白い。白すぎて、病院というより、病院の形をした何かに見える。天井近くの細い窓から差す光も、床に落ちたところだけ妙に青かった。
ミカは寝台に腰掛けたまま、片足を揺らした。
制服は着ている。翼もある。頭上のヘイローにも異常はない。
けれど、銃がなかった。
ポケットの端末も、髪を整えるための小さな鏡も。
代わりに左手首へ巻かれていたのは、銀色の細い輪だった。
留め具のない輪の内側に、黒い文字が浮かんでいる。
魔女候補。
その下には、聖園ミカ、と。
ミカ「趣味、悪……」
サオリ「格子の左端を狙え。壁には触るな」
聞こえた声に、揺らしていた足が止まった。
廊下の向かい側。別の牢の薄暗がりから、一人の少女が立ち上がる。
長い髪。見慣れたマスク。こちらをまっすぐ見る目。
忘れようと思って忘れられる顔ではなかった。
ミカ「どうして、あなたがいるの」
サオリ「私にも分からない」
ミカ「……そっか」
ミカは笑った。
何も面白くなかったけれど、ほかの顔を選ぶより簡単だった。
ミカ「じゃあ、今度は二人で閉じ込められちゃったんだ。変なの」
サオリ「聖園ミカ。今は――」
ミカ「指図しないで」
言ってから、廊下が静かになったことに気づいた。
向かいの牢だけではない。ほかにも呼吸の音がする。衣擦れがする。誰かが、鉄格子を握り直した。
サオリは言い返さなかった。
サオリ「分かった。だが、壁だけは避けてくれ」
ミカ「それも指図じゃんね」
ミカは立ち上がり、牢の扉に手をかけた。
鍵の構造を調べるまでもない。これくらいの鉄なら、曲げれば済む。
ただし、なるべく大きな音を立てないように。
そう思って力を込めたのに、蝶番が外れる音は、廊下中へ盛大に響いた。
コハル「ひゃっ!?」
ミカ「あ。ごめん」
扉を持ったまま、ミカは横を向いた。
隣の牢で、ピンク色の髪の少女が両手を胸の前に上げている。
ミカ「コハルちゃん?」
コハル「み、ミカ先輩……?」
胸の奥へ、違う種類の冷たさが落ちてきた。
自分だけではない。
サオリだけでもない。
コハルまで、ここにいる。
ミカ「待ってて。今、開けるから」
ヒナ「その扉、いったん床に置いてくれる?」
落ち着いた声が、少し離れた牢から届いた。
声の主を見て、ミカの指に力が戻る。
黒い翼。長い髪。小柄な体に、不釣り合いなほど大きなヘイロー。
空崎ヒナ。
ゲヘナの風紀委員長までいる。
ヒナ「誰かが近づいてから落とすと危ないわ。それと、開ける順番を決めましょう。全員が一度に動くと、廊下が塞がる」
ミカ「……私、そんな雑には扱わないけど」
ヒナ「そう。それならお願い」
咎めるでも、怯えるでもない。
ミカは返事の代わりに、扉を壁へ立てかけようとした。
サオリ「壁に触れさせるな!」
声が飛ぶのと、扉の端が白い壁を擦るのは、ほとんど同時だった。
銀色の輪が熱くなる。
次の瞬間、手に持った鉄扉が、ミカの側へ強く押し返された。
足が床を滑る。
踏ん張った靴底が短く鳴った。
ミカ「……っ」
腕が痺れていた。
壁は傷一つついていない。
扉の端だけが、自分で握り潰したように歪んでいた。
ユウカ「今の、何……?」
サオリ「外周の壁に加えた力が、輪を通じて戻ってくる。直接殴るな」
ミカは鉄扉を床へ寝かせた。
今度は、壁から離して。
ミカ「詳しいんだね」
サオリ「私も試した」
サオリが右手を上げる。
手袋の指の付け根が裂けていた。
それだけでは、嘘とも本当とも分からない。
ミカは向かいの牢へ歩き、扉を掴んだ。
ミカ「じゃあ、次はあなた」
サオリ「私より、ほかの――」
ミカ「そこにいられると、話しにくいから」
扉が軋む。
今度は蝶番を外さず、錠前の周囲だけを曲げた。
開いた隙間を見てから、サオリが一歩出てくる。
サオリ「助かる」
ミカ「そういうの、まだいい」
サオリの横を通り過ぎ、コハルの牢へ向かう。
その途中で、奥の牢から自分の名前が呼ばれた。
ナギサ「ミカさん」
今度こそ、足が止まった。
ナギサは鉄格子の内側に立っていた。髪も制服も乱れていない。ただ、右手で左手首の輪を覆っている。
その仕草だけで、ミカには十分だった。
ミカ「ナギちゃんまで?」
ナギサ「ええ。目が覚めたら、こちらに」
ミカ「……最悪」
ナギサ「その評価には同意します。ですが、まずは全員を外へ」
いつもと同じ言い方だった。
だからミカも、いつもに近い声を探した。
ミカ「うん。任せて。こういうのは得意だし」
ナギサ「存じています」
少しだけ、ナギサの指が緩んだ。
扉を順番に開けていく間に、人数が分かった。
ミカ、サオリ、ナギサ、コハル。
白洲アズサ。
空崎ヒナ、棗イロハ、鬼方カヨコ、伊草ハルカ。
早瀬ユウカ、生塩ノア。
小鳥遊ホシノ、砂狼シロコ。
十三人。
学校も立場も違う顔が、一本の廊下へ集められていた。
ハルカ「す、すみません、私、起きるのが遅くて……! 何もできなくて、すみません……!」
カヨコ「ハルカ。謝ることじゃない。怪我は?」
ハルカ「ない、です。たぶん……」
カヨコ「じゃあ、それでいい」
カヨコはハルカの手首を無理に掴まず、輪の見える位置へ自分の手を差し出した。
ハルカがそっと袖を上げる。
その向こうでは、ユウカがノアの顔を覗き込んでいた。
ユウカ「頭痛や吐き気は?」
ノア「ありません。ユウカちゃんこそ、さっきから眉間に皺が寄っていますよ」
ユウカ「こんな状況なんだから、当然でしょう」
ノア「そうですね。では、いつもより少しだけ、ということに」
ユウカ「ノア」
軽い応酬の途中でも、ノアの視線は廊下を確かめていた。
ホシノは最後の牢から出ると、肩を回して息を吐いた。
ホシノ「うへ~。おじさん、寝る場所にはあんまりこだわらないけど、ここはちょっとねえ」
シロコ「ホシノ先輩。出口はあっち。風が来てる」
ホシノ「ん。まずは見るだけ。飛び出さないでね」
シロコ「分かった」
アズサは、開いた牢の扉を一枚ずつ見ていた。
やがてサオリへ顔を向ける。
アズサ「サオリ。覚えていることは?」
サオリ「移動中だった。それ以降の記憶がない」
アズサ「私もだ。薬物の痕跡は判断できない」
サオリ「体調は」
アズサ「問題ない」
短い確認だった。
その短さに、二人の間にあるものが見えた気がして、ミカは目を逸らした。
イロハ「……とりあえず、ここに連れてきた方には言っておきたいですね」
ヒナ「何を?」
イロハ「拘束するなら、せめて起床時間を選んでほしいです」
ヒナ「今は何時かも分からないわ」
イロハ「では、その点も含めて苦情を」
ため息混じりの声に、コハルが一瞬だけ口元を緩めた。
その直後、廊下の先で鍵が回る音がした。
全員の視線が集まる。
開いた扉の向こうにいたのは、人間ではなかった。
黒い法衣をまとった、鳥の形の機械。
細い脚が床を叩くたび、硬い音が響いた。顔にあたる部分は白い仮面で覆われ、目の位置には縦長の穴が二つ開いている。
首から、十三本の鍵が下がっていた。
看守「起床を確認しました。収容者十三名、欠員なし」
ミカ「遅かったね。鍵、もういらないよ」
看守の仮面が、床に並んだ扉へ向いた。
看守「居室扉の破損を確認。居室間の移動は、昼間に限り許可されています」
ユウカ「そういう話ではありません。あなたが私たちを拉致したんですか?」
看守「私は当施設の看守です」
ユウカ「責任者を出してください」
看守「当施設の規則に関する説明は、食堂にて行います」
ヒナ「拒否した場合は?」
看守「説明を受ける機会が失われます」
カヨコ「……脅し方まで事務的だね」
看守が踵を返す。
その背へ、ミカは手を伸ばしかけた。
先にアズサが床を蹴った。
低く踏み込み、細い機械の脚を払う。
看守が傾くより早く、ヒナが法衣の背を押さえた。シロコが首元の鍵を抜き取る。
乾いた音が三つ続いて、看守は床へ伏せた。
ホシノ「おお。話が早い」
ヒナ「抵抗は?」
アズサ「ない。自重以外の力も感じない」
看守「案内が中断されました」
シロコ「鍵は本物。番号がある」
ミカ「そのまま押さえてれば、何か変わるかな」
看守「案内が中断されました」
イロハ「たぶん、壊れるまでそれを繰り返すだけですよ」
イロハは屈み、法衣の内側を覗いた。
イロハ「命令を受けて動いてるだけでしょう。これを殴っても、命令した相手は痛くない。腹立たしいことに」
サオリが、看守ではなく天井を見ていた。
小さな黒い半球が埋め込まれている。
サオリ「見られている」
ナギサ「でしたら、こちらが状況を把握することを優先しましょう。話を聞くことと、従うことは別です」
ヒナ「……そうね」
ヒナが手を離す。
看守は何事もなかったように立ち上がった。
奪われた鍵を取り返そうともしなかった。
その態度が、力を見せつけられるより嫌だった。
廊下の先にあった食堂は、十三人で使うには広すぎた。
長い卓に、十三枚の皿。
パン、スープ、水差し。食器は白い陶器で、刃物だけが置かれていない。
窓の向こうに海があった。
どこまでも灰色の海。
ミカは窓辺に寄り、左右を見る。切り立った崖と、細い石畳。遠くには灯台らしい塔が立っていた。
街がない。
道路も、線路も、飛行船も見えない。
ナギサが隣へ来た。
ナギサ「見覚えは?」
ミカ「ない。ナギちゃんは?」
ナギサ「私もです」
答えながら、ナギサは窓枠の内側を確かめた。
そこにも、左手首の輪と同じ銀色の線が埋め込まれている。
食堂の壁で、大きな画面が灯った。
表示されたのは、黒い文字だけだった。
『魔女矯正施設へようこそ』
コハル「矯正、って……」
看守「皆様は魔女の素質を認められ、当施設へ収容されました」
ユウカ「認めたのは誰ですか。基準は? 審査手続きは?」
看守「選定への異議申し立ては受け付けていません」
ユウカ「それでは認定ではなく、一方的な決めつけです」
画面の文字が切り替わる。
島の略図が現れた。
中央に収容棟。東に医務室と温室。西に礼拝堂。北に灯台。南は崖に囲まれた船着き場。
島の輪郭を、銀色の線が取り巻いていた。
看守「施設の外殻、および島外への境界には反響障壁が設置されています。登録された収容者による物理的干渉は、その収容者へ返還されます」
シロコ「投げた石も?」
看守「収容者の行為に起因する干渉として認識されます」
アズサ「無人の装置を介した場合は」
看守「同様です」
ホシノ「ふうん。ずいぶん広く取るねえ」
看守「内部の設備は、指定箇所を除き通常の物理法則に従います」
牢の扉は壊せた。
壁は壊せなかった。
ミカは痺れの残る手を、もう片方の手で握った。
看守「皆様のヘイローは、入島時に当施設へ接続されました」
ヒナ「……何をしたの」
看守「収容中、身体の致命的な損傷に対する保護は、通常通りに機能しません」
椅子が小さく鳴った。
ハルカの膝が、卓の脚に当たっていた。
看守「銃器その他の装備品は預かっています。ただし、日用品であっても、使い方によって生命を奪うことが可能です。ご注意ください」
コハル「そんな……確かめようがないじゃない」
ヒナ「確かめなくていい」
即座に返った声に、コハルが顔を上げた。
ヒナ「嘘でも、本当でも。怪我をしないように動く。それは変わらないわ」
看守は二人のやり取りを待たず、説明を続けた。
看守「収容者には、それぞれ一つの魔法が発現します。能力は精神の性質を反映し、使用と強い情動によって魔女化が進行します」
ミカ「……魔女、魔女ってさ」
声に出すつもりはなかった。
けれど看守の仮面がこちらを向き、ほかの何人かも振り返った。
ミカ「別の呼び方、思いつかなかったの?」
看守「規定の名称です」
ミカ「そ」
口元だけを上げる。
ナギサが何か言いかけたのを、ミカは窓の外を見ることで避けた。
画面に、新しい見出しが現れた。
『魔女裁判』
看守「収容者の死亡を、生存者三名以上が現場で確認した場合、死亡発見告知を行います。その後、調査時間を経て魔女裁判が開廷します」
ノア「死亡した方ではなく、生きている私たちを裁くんですね」
看守「裁判では、死亡を引き起こした魔女を特定してください」
カヨコ「犯人、じゃないんだ」
看守「過半数の指名を受けた収容者を、処刑対象として認定します」
スープの表面から、細い湯気が上がっていた。
その向こうで、コハルの口が開いたまま止まっている。
ユウカ「指名が間違っていた場合は?」
看守「指名された収容者が処刑されます」
ユウカ「……それでは、裁判の意味がありません」
ナギサ「正誤を判定する制度ではない、ということですね」
看守「皆様の判断が尊重されます」
ヒナ「責任を押しつけているだけでしょう」
ヒナの声が、いっそう低くなった。
ミカは画面を見つめた。
多数決。
誰かを選ぶ。
選んだ理由が正しいかどうかは、問われない。
そんなものは、よく知っている。
看守「投票の棄権は可能です。ただし、有効票が過半数に達するまで審理は継続され、居住区への帰還は認められません」
ホシノ「じゃあ、事件が起きなきゃ裁判もないんだね?」
看守「その通りです」
ホシノ「そっか。そこは覚えとこう」
イロハ「最初から、協力して帰る方法を説明してくれれば済むんですけどね」
看守「退所には、全収容者の審査完了が必要です」
ユウカ「審査の内容は?」
看守「公開されていません」
イロハ「はぁ……。働かせる気だけは一人前ですか」
説明を終えた看守が、壁際へ下がる。
止まっていた空気を動かしたのは、ユウカだった。
ユウカ「現時点で、相手の説明を事実と断定するのは危険です。ただし、危険性については本当だと仮定して対処しましょう」
ノア「まず、分かっていることと、聞かされただけのことを分けましょうか」
ノアが卓の端にあった紙束と鉛筆を引き寄せた。
食堂の備品らしく、紙の上端には献立を書くための罫線がある。
ノア「全員のお名前と、最後に覚えている場所から」
ミカ「それ、全部言わなきゃ駄目?」
自分でも分かるくらい、声が尖った。
ノアは鉛筆を止めた。
ノア「いいえ。話したくない事情まで、ここで話す必要はありません」
カヨコ「移動中、屋内、誰かと一緒だった。そのくらいでも手掛かりにはなる」
ナギサ「魔法についても同様にしましょう。発現したとして、無条件の公開を義務にはしません」
アズサ「戦力を把握できないのは不利だ」
ナギサ「ええ。ですが、能力を聞き出すこと自体が、収容した側の目的である可能性もあります」
サオリ「危険な作用がある場合は、少なくともその危険だけは共有する。能力の詳細とは分けられる」
ヒナ「それでいいと思う。誰かに使って試すことは禁止。本人が同意していても、安全性が分からないうちは駄目よ」
ミカはサオリを見た。
あの場で、人を傷つけるための判断をしていた口から、今は人を傷つけないための手順が出ている。
それが不自然だと思った自分を、少し遅れて嫌になる。
話し合いは、簡単には進まなかった。
探索に全員で行けば時間がかかる。分かれれば、互いの行動が見えなくなる。
刃物を一か所へ集める案には、アズサが首を振った。
アズサ「危険な物を完全には除けない。食器でも椅子でも武器になる」
ユウカ「だからといって、放置はできません」
カヨコ「管理できる物は管理する。それ以上のことを、管理できてると思わない。そこじゃない?」
ユウカ「……そうですね。その区別は必要です」
ナギサが紙へ簡単な取り決めを書き、ノアが施設側の規則とは別の紙へ記録する。
単独行動は避ける。
移動先と帰る時刻を残す。
異常があれば、判断を急がず共有する。
誰かの私物や体を、本人の了解なく調べない。
ただし、目の前に危険がある場合の介入は妨げない。
読み上げられた最後の一文で、ミカの指がわずかに止まった。
自分が暴れたら。
この中の誰が、止めるのだろう。
ナギサ「ミカさん」
ミカ「ん?」
ナギサ「署名を。賛成できない項目があれば、今のうちに」
ミカ「……ううん。大丈夫」
鉛筆を受け取る。
名前を書く手に、まだ少し痺れがあった。
朝食には誰もすぐ手をつけなかった。
ハルカが毒見を申し出て、カヨコに止められた。
カヨコ「ハルカだけに食べさせる理由がない」
ハルカ「で、でも、私なら……」
カヨコ「理由がないって言ったよ」
強い言い方ではなかった。
ハルカは俯き、差し出しかけた手を膝へ戻した。
食品の匂いと外観を確かめ、厨房の保存状況を見る。それ以上は道具がなければ分からない。
結局、全員が少量ずつ口にすることになった。
温かいスープは、驚くほど普通の味だった。
ミカ「……腹立つね」
ナギサ「何がです?」
ミカ「普通においしい」
ナギサはスプーンを置き、一拍だけ目を伏せた。
ナギサ「食事まで苦痛でないことは、幸いです」
ミカ「ナギちゃん、こういうときもちゃんとしてる」
ナギサ「ちゃんとして見せているんです」
小さな声だった。
ミカが顔を向けると、ナギサはもう水を飲んでいた。
その言葉について聞き返す前に、探索の組分けが始まった。
知り合い同士だけで固まらないこと。
けれど、不安の強い者を無理に引き離さないこと。
折り合いをつけた結果、ミカはイロハ、コハルと一緒に東側を調べることになった。
ミカ「……よろしく」
イロハ「はい。こちらこそ」
イロハは眠そうな顔のまま、食堂から持ってきた鉛筆を耳に挟んだ。
イロハ「壁を壊す前には、ひと声お願いしますね。巻き込まれるのは遠慮したいので」
ミカ「壊さないってば」
コハル「け、喧嘩は駄目だからね」
ミカ「してないよ」
イロハ「してませんよ」
声が重なった。
コハルが二人を交互に見て、ますます困った顔になる。
東へ続く渡り廊下には、窓が等間隔に並んでいた。
海へ向けて風見鶏が立っている。風は吹いているのに、その尾羽は動かない。
ミカがそれを見ている間、イロハは扉の位置を簡単な図へ落としていった。
医務室には包帯、消毒液、体温計。
薬品棚には鍵がかかっていた。
シロコが看守から取った鍵は、食堂で分担している。東側の札がついたものを試すと、三本目で開いた。
コハル「包帯は使える。薬も、名前が分かるものはあるけど……勝手に飲まない方がいいと思う」
イロハ「一覧だけ作って、施錠。鍵の所在も書いておきましょう」
ミカ「なんか、手慣れてるね」
イロハ「備品がどこにあるか分からないと、後で余計な仕事になるので」
イロハは棚の中の小瓶に触れず、ラベルを読み取っていく。
ミカは医務室の奥を見た。
白い衝立。二つのベッド。開かない窓。
寝かせられるための場所なのに、牢とあまり違わなかった。
コハル「ミカ先輩、手」
ミカ「え?」
コハル「さっきから、何回も握ってる」
言われて初めて、気づいた。
ミカは右手を開いてみせる。
ミカ「平気。ちょっとびりびりするだけ」
コハル「それ、平気って言わないから」
コハルは椅子を引いた。
座るように促されて、ミカは逆らう理由を探し、見つからずに腰を下ろす。
細い指が、手袋の端へ触れた。
コハル「外していい?」
ミカ「……うん」
指の関節が少し赤くなっていた。
コハルは動かせる範囲を確かめ、冷やすための布を用意する。
大袈裟に騒がれないことが、かえって落ち着かなかった。
ミカ「コハルちゃんってさ」
コハル「何?」
ミカ「怖くないの?」
コハルの指が止まる。
ミカは笑おうとした。
ミカ「ほら、私と一緒って――」
コハル「怖いに決まってるでしょ」
思っていたより強い声だった。
コハル「知らない場所に連れてこられて、変な輪をつけられて、死ぬかもしれないって言われて。怖くないわけ、ないじゃない」
布を絞る手が震えていた。
ミカは、それまで見ていなかった。
コハル「でも、手が痛いなら、そっちは今どうにかできるから」
冷たい布が、指の上へ置かれる。
ミカは黙って、その感触を受け取った。
近くで紙をめくっていたイロハが、視線を上げずに言った。
イロハ「痛いところは申告してくださいね。後で倒れられると、運ぶのが大変です」
ミカ「……私、重くないけど」
イロハ「体重の話はしてません」
コハル「そういう問題じゃないでしょ」
二人に言われて、今度の笑いは少しだけ自然に出た。
医務室を出る前に、イロハが洗い場の蛇口を確かめた。
水は出る。
コハルが使った布を洗っていると、イロハは棚から清潔な布をもう一枚取り出し、折り畳んで渡した。
イロハ「交換用です」
ミカ「そこまでしなくても」
イロハ「また戻ってくる方が面倒なので」
ミカは受け取った。
ゲヘナの生徒から渡された白い布を、しばらく見ていた。
その奥の温室は、湿った土の匂いがした。
背の高い葉が通路へ張り出し、硝子の天井には細い水滴がついている。
中央には浅い水盤があった。
水面に、三人のヘイローが映る。
コハル「花もある……」
イロハ「食べられるものがあると助かりますけど。知らない植物を試すのはやめましょう」
ミカ「私、そこまで何でも食べないよ?」
イロハ「名指しはしてませんよ」
入口の横には、温室の管理日誌が置かれていた。
どの日付にも、水やり済み、とだけ書いてある。
書き手の名前はない。
イロハが日誌をめくり、途中で手を止めた。
ミカ「何かあった?」
イロハ「紙が一枚、切り取られてますね」
綴じ目の近くに、細い紙片が残っていた。
新しいのか古いのかは分からない。
イロハはその頁の前後を記録し、日誌を元の位置へ戻した。
イロハ「今は、切り取られていたということだけで」
ミカ「誰かの秘密のメモ、とか?」
イロハ「かもしれませんし、鼻をかんだのかもしれません」
コハル「こ、この紙で?」
イロハ「おすすめはしませんね」
水盤の向こうに、裏口があった。
開けると細い搬入路が収容棟の裏へ続いている。地図には描かれていなかった道だ。
イロハが鉛筆を走らせる。
そのとき、廊下の側から足音が聞こえた。
ミカが振り返る。
入口にサオリが立っていた。
ミカ「……一人?」
サオリ「いや。アズサと空崎ヒナが、隣の設備室を確認している」
言葉通り、扉の向こうからヒナの声がした。
それでもサオリは、ミカではなく、温室の中を見ていた。
水盤。
高い植木棚。
裏口。
最後に、イロハ。
サオリ「ここは、もう調べたのか」
イロハ「見える範囲は。地下室でもあるなら別ですけど」
サオリ「そうか」
ミカ「何を探してるの?」
サオリ「出口につながるものだ」
ミカ「ここにあると思ったんだ」
サオリの返事まで、わずかに間があった。
サオリ「可能性は、潰しておきたい」
それだけ言って、サオリは植木棚へ近づいた。
鉢の裏を覗き、棚の脚に指を当てる。
揺らすのではなく、そこにある何かを確かめるような動きだった。
ミカの視線に気づくと、サオリは手を下ろした。
サオリ「棚が不安定だ。触れない方がいい」
ミカ「ふうん」
ミカは覚えておくことにした。
サオリが、温室へ来たこと。
棚を調べたこと。
それから、イロハを見たこと。
食堂へ戻る頃には、窓の光が高くなっていた。
卓には手描きの地図が広げられている。
船着き場には船がない。海へ下りる階段の途中で、手首の輪が警告音を出した。
灯台の扉は開くが、上階へ続く階段には銀色の線が走っている。
礼拝堂の地下には、十三席の円形法廷があった。
報告を聞くたび、部屋から出口が一つずつ消えていく気がした。
シロコ「保管庫も見つけた。銃はたぶん、その中」
ユウカ「たぶん?」
ホシノ「扉に名前が並んでたんだよね。でも、あそこは外壁と同じ。今は手が出せないかな」
アズサ「警備は薄い。監視設備はあるが、看守以外の移動物は確認できなかった」
ナギサ「侵入者を防ぐ施設ではなく、内側から出さないための施設なのでしょう」
ノアが全員の報告を紙へまとめる。
イロハは自分の図を、その横へ置いた。
イロハ「東側の搬入路が、配られた地図にありませんでした。これから見る場所も、地図を信用しすぎない方がよさそうです」
ノア「温室の裏口から、収容棟北側へ。分かりました」
鉛筆の先が動く。
ミカは何となく、その文字を目で追った。
読みやすい、整った字だった。
昼の食事が配膳口へ現れたのは、その直後だった。
壁の小扉が開き、台車が押し出される。
向こう側を見ようとシロコが屈んだときには、もう銀色の板が下りていた。
シロコ「……速い」
ホシノ「挟まれなくてよかったよ」
台車には十三人分の食事と、十三通の封筒が載っていた。
封筒には、それぞれの名前。
看守が壁際から一歩進む。
看守「個別審査資料を配布します。他者への開示義務はありません」
ミカは、自分の封筒を見た。
触りたくなかった。
けれど、触らずにいれば中身が消えるわけでもない。
封を切る。
中には、一枚の写真が入っていた。
壊れた壁。
瓦礫。
こちらへ向けられた銃口。
写真の隅には、白い小さなカードが重ねてある。
『あなたは、次に誰を憎みますか』
耳の奥で、細い音がした。
手首の輪が熱い。
写真の端が指の中で折れ曲がる。
ナギサ「ミカさん」
呼ばれている。
分かっていた。
それでも、顔を上げられなかった。
憎んだ相手。
憎む理由。
自分に都合のいい順番で並べたものが、頭の中へ押し寄せる。
ミカ「……見ないで」
隣の気配が止まった。
ミカ「お願い。今、見ないで」
ナギサ「分かりました」
ナギサは写真を取り上げなかった。
代わりに、卓の上の水をミカの手が届く位置へ寄せた。
向こうで椅子が倒れる。
ハルカ「ち、違……私は、そんな、また……」
カヨコ「ハルカ。こっち見て。封筒は閉じていい」
ユウカ「全員、読むのをやめてください! これは情報提供ではありません。明らかに心理的な干渉を狙っています!」
ノア「未開封のものは、そのままに。読んだ内容を今ここで説明する必要もありません」
ミカは写真を裏返した。
何も書かれていない白い面へ、親指を押しつける。
手首の熱は、すぐには引かなかった。
隣ではナギサが、自分の封筒を閉じていた。
中身は見えなかった。
ミカ「ナギちゃんは」
ナギサ「今は、話しません」
静かな答えだった。
ミカは頷いた。
聞かなかったことにするのではなく、今は聞かない。
そんな選び方もあった。
卓の向こうで、イロハが自分の封筒を裏返したまま、パンをちぎった。
イロハ「昼食時に配るものじゃありませんね」
ヒナ「食べられそう?」
イロハ「食べないと、向こうの仕事が一つ減る気がするので」
ヒナは何も言わず、自分の皿を引き寄せた。
ミカも、水を飲んだ。
一口だけでは喉のつかえは取れなかったけれど、もう一口なら飲めた。
食後、休憩を挟むことになった。
探索を続けたいアズサも、ハルカの顔色を見て反対しなかった。
眠る者は一人にしない。
封筒は本人が持つか、封をしたまま共同保管する。
ミカは自分の封筒を折り畳み、制服の内側へ入れた。
誰にも渡したくなかった。
捨ててしまえばいいと思ったのに、捨てるところを見られるのも嫌だった。
食堂の外へ出ると、サオリが廊下の窓際に立っていた。
左手首を右手で覆っている。
こちらへ気づいた途端、その手が離れた。
ミカ「さっきから、何してるの」
サオリ「考えていた」
ミカ「それは見れば分かるよ」
少し離れた場所で、コハルが待っている。
ミカは声を落とした。
ミカ「あなた、何か知ってるでしょ」
サオリはミカを見た。
否定がすぐに来ないことが、答えのように思えた。
サオリ「確かではない」
ミカ「何が?」
サオリ「……話せる形に、まだできない」
ミカは笑った。
乾いた笑いになった。
ミカ「便利だね、それ」
サオリ「そう聞こえるのは分かる」
ミカ「分かってて言うんだ」
サオリの視線が、ミカの手へ落ちた。
コハルに冷やしてもらった方の手。
サオリ「痛みは残っているか」
ミカ「話を変えないで」
サオリ「変えたつもりは――」
ミカ「そういう心配、今はされたくない」
言い切ってから、ミカは息を吸った。
サオリは動かなかった。
反論も、謝罪もない。
それがまた、ミカを苛立たせた。
ミカ「私、あなたを信じるって言ってないから」
サオリ「ああ」
ミカ「でも、何も聞かないとも言ってない」
初めて、サオリの表情がわずかに変わった。
ミカ自身、その言葉を続けるつもりだったのか分からなかった。
ミカ「知らないまま、あなたの言う通りにするのは嫌。だから何か言うなら、理由も言って」
サオリ「……分かった」
ミカ「さっきも聞いた、それ」
コハルのところへ戻る。
背中に、追いかけてくる足音はなかった。
午後の探索では、休憩する組と動く組を入れ替えた。
ミカはナギサ、コハルと礼拝堂へ向かった。
祭壇には何の聖印もなく、長椅子だけが整然と並んでいた。
トリニティの礼拝堂に似せている。
けれど、誰に祈る場所なのかは分からない。
ナギサが祭壇の埃を指先で確かめる間、ミカは後ろの扉を見た。
地下の法廷へ通じる階段。
扉の中央に、天秤の模様が彫られている。
ミカ「多数決で決めるんだって」
ナギサ「ええ」
ミカ「私、こういうとき不利じゃない?」
冗談めかして言った。
ナギサは埃を払う手を止めた。
ナギサ「不利にさせません」
ミカ「……ナギちゃんがそう言うと、ちょっと怖いんだけど」
ナギサ「票を集めるという意味ではありません」
ナギサはこちらへ向き直った。
ナギサ「事実と、印象を混同しないという意味です。私自身が」
ミカは扉から手を離した。
コハルは二人から少し離れた長椅子の間で、床へ落ちていた紙片を拾っている。
聞こえているかもしれない。
聞こえていないかもしれない。
ミカ「できるかな」
ナギサ「簡単ではないでしょうね」
ミカ「そこは、大丈夫って言わないんだ」
ナギサ「言い切って済ませられるなら、私たちは苦労していません」
胸の奥が、小さく痛んだ。
けれど、嫌な痛みだけではなかった。
ナギサは自分の左手首へ視線を落とす。
ナギサ「怖いときほど、分かったことにしたくなりますから」
ミカには返せる言葉がなかった。
代わりに、コハルが拾った紙を一緒に調べた。
古い設備点検票だった。日付は滲んでいて、読めなかった。
礼拝堂を出る頃、空はさらに暗くなっていた。
雨が来るらしい。
収容棟へ戻った三人を、廊下にいたユウカが呼び止めた。
ユウカ「東側で、棗さんを見かけませんでしたか?」
ナギサ「いいえ。私たちは礼拝堂に」
ミカ「イロハちゃん、どうかした?」
ユウカ「帰着予定を十分過ぎています。ノアと一緒に温室の記録を再確認していたんですが」
ミカはユウカの後ろを見た。
ノアが、地図の置かれた卓の前に立っている。
ノア「私は記録を照合するため、先に戻りました。棗さんは医務室の鍵を確認してから、すぐに戻ると」
ユウカ「別れるときは、隣の部屋まででも声をかける取り決めだったでしょう」
ノア「はい。判断が甘かったです」
ノアは言い訳をしなかった。
ユウカも、それ以上は責めなかった。
廊下の奥からヒナが来る。
ヒナ「私が見に行く。最後に別れた時刻は?」
ノア「十五時十分です。食堂の時計で確認しました」
ヒナ「今は十五時二十四分。まだ、大きく遅れているわけじゃない」
誰に言った言葉なのか、分からなかった。
ミカは一歩前へ出た。
ミカ「私も行く。場所、知ってるし」
ナギサ「私も――」
ヒナ「こちらに人を残して。戻ってきて、すれ違うかもしれない」
ナギサがミカを見る。
ミカは頷いた。
ミカ「見るだけ。何かあったら呼ぶ」
ノア「案内します」
三人で東側の渡り廊下へ入った。
雨が窓を叩き始めていた。
医務室の扉は、少しだけ開いていた。
中に人はいない。
薬品棚は閉まっている。洗い場には水滴が残り、清潔な布の置かれた棚が、一段だけ引き出されていた。
ヒナ「棗イロハ」
ヒナの声に返事はない。
ミカは温室へ続く扉を見た。
朝は閉まっていたそれが、半分ほど開いている。
向こうから、土の匂いがした。
それから、水の落ちる音。
規則正しく、一滴ずつ。
ミカ「イロハちゃん?」
返事の代わりに、何かが床を擦った。
ヒナが先に扉へ着く。
ミカも、その肩越しに中を見た。
水盤の横に、イロハが倒れていた。
横向きに。
いつもの、面倒くさそうな顔を隠すように。
その傍らで、サオリが膝をついている。
片手には白い布。
もう片方の手は、イロハの首元へ触れていた。
ミカの足が止まった。
イロハの頭上に、光がなかった。
ヒナ「離れて」
短い声だった。
サオリが顔を上げる。
サオリ「空崎ヒナ。まだ――」
ヒナ「手を離して。私が確認する」
サオリは布を床へ置き、両手を見える位置へ上げた。
ヒナがイロハの傍らへ膝をつく。
呼びかける。
肩に触れる。
その動きが、途中からほんの少しだけ速くなった。
ミカは温室へ一歩入った。
朝、イロハが見つけた切り取られた日誌。
水盤。
不安定だとサオリが言った棚。
全部が、同じ場所にあった。
同じ場所なのに、何も同じではなかった。
背後で、ノアが息を呑む音がした。
天井の拡声器が鳴った。
看守「死亡発見告知。収容者、棗イロハの死亡が確認されました」
ミカは、音の出ている方を見上げた。
意味が、入ってこなかった。
看守「三名以上の生存者による現場確認が成立しました。これより調査時間を開始します」
ヒナ「……黙って」
拡声器は止まらない。
看守「魔女裁判の開廷は、本日十八時です。収容者は――」
ヒナ「黙って」
二度目の声は、大きくなかった。
その方が、ミカには怖かった。
ヒナの指がイロハの襟元から離れる。
乱れた髪を、頬にかからない位置へそっと戻した。
ミカは、制服のポケットに手を入れた。
畳まれた布がある。
朝、渡されたもの。
また戻ってくる方が面倒だと言って。
ミカ「……ねえ」
誰に話しかけたのか、自分でも分からなかった。
ミカ「さっき、普通に話してたじゃん」
雨が硝子を叩く。
水盤の端から、床へ雫が落ちる。
サオリがミカを見ていた。
驚いている顔ではなかった。
そのことに気づいた瞬間、体の中のどこかが冷たくなった。
ミカ「どうして」
サオリ「……」
ミカ「どうして、あなたはそんな顔してるの」
サオリの唇が動く。
返事になる前に、ノアが静かに口を開いた。
ノア「まず、現場を保存しましょう。サオリさんが遺体に触れていたことも含めて、記録が必要です」
遺体。
その言葉で、イロハが人ではなく出来事になった気がした。
ミカの左手首が熱を持つ。
輪の内側に、黒い線が一本増えていた。
サオリがそれを見る。
サオリ「ミカ。手を開け」
名前で呼ばれた。
それさえ、今は腹立たしかった。
ミカ「私が、何すると思ってるの」
サオリ「お前自身を傷つけるな」
ミカは自分の手を見た。
握り締めた爪が、手袋越しに掌へ食い込んでいる。
ゆっくりと指を開く。
白い布が、床へ落ちた。
サオリの持っていたものと、同じ医務室の布だった。
ミカはそれを拾おうとして、止まった。
触らない方がいい。
現場を残さなければならない。
今落とした物だと、言わなければならない。
そんなことを考えられる自分が、ひどく薄情に思えた。
ミカ「その布。今、私が落とした。朝、イロハちゃんにもらったやつ」
ノア「……分かりました」
ノアが紙へ書きつける。
サオリは何も言わなかった。
ミカはその顔を見た。
知っている。
この人は、何かを知っている。
朝からずっと。
壁に触るなと言った。温室へ来た。棚を調べた。イロハを見た。
そして今、イロハの隣にいる。
並べれば、簡単だった。
簡単すぎた。
壊れた壁の写真が、頭の中へ浮かぶ。
次に誰を憎むのか。
誰かが、その問いの答えを用意している。
ミカはサオリへ近づいた。
ヒナが顔を上げる。
ヒナ「聖園ミカ」
ミカ「殴らないよ」
声が震えた。
震えたまま、続ける。
ミカ「まだ、何も聞いてないから」
サオリの目の前で止まった。
近くで見れば、その顔にも変化はあった。
顎へ力が入りすぎている。
指先が冷えている。
それから、ひどく疲れていた。
朝、牢から出てきたときよりも。
ミカ「あなたがここへ来たのは、いつ?」
サオリ「十五時十九分。廊下の時計を見た」
ミカ「イロハちゃんは、そのとき?」
サオリ「もう倒れていた」
ミカ「誰か、いた?」
サオリ「見ていない」
ミカ「どうして呼ばなかったの」
サオリの視線が、イロハへ動いた。
サオリ「呼吸を確かめた。戻せると思った」
ミカは息を止めた。
戻せる。
助けられる、ではなく。
サオリはすぐに口を閉じた。
その言い方を、ミカは頭の隅へ置いた。
ミカ「ノアちゃん」
ノア「はい」
ミカ「最初のところ、ちゃんと分けて書いて」
ノアの鉛筆が止まる。
ミカ「私たちが見たのは、サオリがここにいたこと。イロハちゃんに触ってたこと」
ノア「そのように記録しています」
ミカ「うん。じゃあ、それでいい」
自分に言い聞かせるように頷く。
見たこと。
聞いたこと。
思い込んだこと。
一緒にしてはいけない。
それがどれほど難しいか、ミカは知っていた。
サオリ「私を、庇う必要はない」
ミカ「庇ってない」
即座に返した。
ミカ「あなたがやったのかもしれないって、思ってるよ」
サオリは目を逸らさなかった。
ミカ「今だって。すごく」
喉の奥が詰まる。
振り返れば、イロハがいる。
さっきまで生きていた人が。
自分の手を心配して、交換の布まで持たせた人が。
ミカは一度だけ目を閉じ、開いた。
ミカ「でも、私がそう思ったからって、それが本当になるわけじゃない」
ヒナがゆっくり立ち上がった。
その顔から、何を考えているのかは読み取れなかった。
ただ、ミカとサオリの間へは入ってこなかった。
ヒナ「全員を呼ぶ。現場への出入りは、ここから記録して」
ノア「分かりました」
ヒナ「それから――誰であっても、裁判の前に勝手な処罰はさせない」
ミカは頷いた。
サオリにも、ヒナは同じ目を向けた。
ヒナ「あなたはここに残って。説明してもらうことがある」
サオリ「ああ」
廊下で足音が増え始める。
告知を聞いた誰かが、こちらへ走ってくる。
もうすぐ全員が知る。
イロハが死んだこと。
その傍らに、サオリがいたこと。
その二つの間に、どれほど簡単に一本の線が引かれるのか。
ミカは、床へ落とした白い布を見つめた。
拾ってくれた人はいない。
それでよかった。
今は、そこにあるという事実を、勝手に変えないでいてほしかった。
サオリ「ミカ」
ミカ「何」
サオリ「……すまない」
謝られる理由が、多すぎた。
だから、どれに対する謝罪なのかを決めつけなかった。
ミカ「それも、あとで聞く」
雨音の中で、サオリが小さく頷く。
ミカは温室の入口へ向き直った。
迎えるためではない。
誰かが最初の一言で、すべてを決めてしまわないように。
ミカ「今度は、疑う順番を間違えない」
言い終えても、手の震えは止まらなかった。
それでもミカは、サオリへ伸ばしかけていた拳を、もう一度、指の先まで開いた。