ミカは、扉のところで足を止めたまま、返事をしなかった。
返事を探す必要が、なかった。
ミカ「知ってる」
ユウカ「知っていますか」
ミカ「四日ぶん、あなたの数字を見た」
ミカ「一回も合わなかったことがない」
ユウカは、十三脚の椅子を左から右へ見た。
ユウカ「では、聖園さん」
ユウカ「私の計算を、信じますか」
ミカ「信じる」
ユウカ「根拠は」
ミカ「ない」
ミカ「でも、あなたが自分の魔法を最初に疑ったの、私は聞いてた」
ミカ「あれ、疑ってる人の言い方じゃないんだよ」
ミカ「あれは、間違ってたら困る人の言い方」
ユウカが、そこでようやく振り向いた。
目のまわりが、一度濡れたあとの乾き方をしていた。
ユウカ「私は、名前を出せません」
ミカ「うん。名前は使わない」
ミカ「使うのは、数の方」
ミカ「人が九なら、九じゃない一人ぶんの場所が、どこかにあるじゃんね」
ミカ「その場所って、たぶん人の形じゃないと思うの」
ユウカ「……場所」
ミカ「登録される場所」
ミカ「数えてある場所に、一つだけ何も入ってないところがあったら」
ユウカの息が、そこで一度止まって、すぐに戻った。
ユウカ「保管庫です」
ミカ「うん」
ユウカ「十三人分の預かり品です。中は誰も見ていません」
ミカ「開けるよ」
ユウカの目が、数を受け取るときの目に戻っていた。
ユウカ「あの扉は外壁と同じ材質です。殴れば、返ってきます」
ミカ「殴らない」
ミカが夜に声をかけたのは、四人だった。
ユウカ。ヒナ。シロコ。サオリ。
ミカ「保管庫を開けたい。理由は着いてから言う」
ヒナだけが、それに一つ返した。
ヒナ「五つ目に触れるわね。私が承認したことにするわ」
ミカ「……ずるいじゃんね」
保管庫は、収容棟の裏の行き止まりにあった。
扉は外壁と同じ灰色で、継ぎ目が見えないほど平らだった。
その表面に、十三の名前が刻まれていた。
一つだけ、刻みの縁が新しかった。
ミカは、その一つを見ないようにして、扉の中央を見た。
中央に、掌ほどの錠があった。
錠だけが、居室の扉のものと同じ黒い鉄だった。
ミカ「じゃあ、順番を決める」
ミカ「私の魔法は、私が壊した物だけを、壊れる直前に戻せる」
ミカ「生き物には効かない。二度は効かない」
ミカ「逆に言うと、私が壊した物なら、壊す直前まで戻る」
ヒナ「……開けて、見て、戻す」
ミカ「そう」
ヒナ「戻ったら、開けた形跡が消えるのね」
ミカ「消える。見た人だけが、見たことになる」
ヒナは、黙ってからシロコを見た。
シロコ「道の跡を見た」
シロコ「四日目の三人の線。そのあと、誰も来てない」
シロコ「今日も、私たちだけ」
ユウカが、扉の前に立った。
扉に手を近づけ、触れる直前で止めた。
ユウカ「聖園さん。返ってくるのは、何に対してですか」
ミカ「力じゃないの」
ユウカ「力だと、私は思っていました。でも、名前が反響障壁です」
ユウカ「反響は、鳴ったものに対して起きます」
ユウカは、手のひらを扉にゆっくり置いた。
置いて、体重をかけた。
肩が入るところまで、押した。
何も起きなかった。
ユウカ「押しても、返りません」
ユウカ「外殻に、かなりの力を加えています」
ユウカは手を離し、人差し指の関節で扉を一度だけ叩いた。
小さい音がした。
ユウカの左手首が、一度跳ねた。
ユウカは、その手首を反対の手で押さえて、息を吐いた。
ユウカ「叩くと、返ります。今の分だけ、返りました」
ヒナ「音ね」
ユウカ「はい。壁が鳴った分だけ返ります」
ユウカ「収容者が加えた力、という言い方は正しくありませんでした」
ユウカ「正しくは、収容者が鳴らした分、です」
ミカは、錠を見た。
座金が灰色の扉に埋まっていて、境目に髪一本ぶんの隙間があった。
ミカ「じゃあ、鳴らさないで壊すやつを探す」
ミカ「錠は扉と別の材質。居室の扉と同じ」
サオリ「一日目に壊したな」
ミカ「壊した。殴ってない」
ミカ「かんぬきのところに指を入れて、内側へ曲げた」
ミカ「音は、外れるときのカチって音だけ」
ヒナ「その手が、ここで使えるの」
ミカ「隙間が細い。指が入らない」
ユウカが、錠の前に膝をついて、目を閉じた。
閉じている時間が、匙のときより長かった。
ユウカ「錠の中の部品は、七つです」
ユウカ「かんぬきは一本。隙間は、上に三、横に一」
ユウカ「単位は言えません。比だけ言います」
ユウカ「上の隙間が、横の三倍あります」
ミカ「上から入る」
ユウカ「細いものなら通ります。指は通りません」
サオリが、外していた右手の手袋を裏返した。
裂け目のところに、細い金具の留め具が縫い込まれていた。
サオリは、それを歯で噛んで引き抜いた。
サオリ「使え」
ミカ「あなた、それ、手袋が閉まらなくなるじゃん」
サオリ「閉まらなくていい」
ミカ「……借りる」
ミカは、金具を上の隙間から差し込んで、指先だけで奥を探った。
当たった場所を、指の腹で確かめた。
ミカ「かんぬきの背中に当たってる」
ミカ「これを内側へ押して曲げる。曲げれば受けから外れる」
ヒナ「押す方向は」
ミカ「扉と平行。扉の面を押さない。錠の中だけを押す」
ユウカ「それなら、外殻は鳴りません」
ユウカ「ただし、一度でも滑って扉に当たれば鳴ります」
ミカ「滑らないよ」
ユウカ「滑ります」
ユウカ「人の手は、力を入れると震えます」
ユウカ「震える幅は、力の量に比例します」
ユウカ「ですから、力を一度にかけないでください。私が数を言います」
ユウカ「一つで、髪の毛一本ぶんだけ押してください」
ミカ「何回」
ユウカ「四十一」
ヒナが、ミカの後ろに立って両手を上げた。
ヒナ「盾を張ったわ。あなたの側にだけ」
ミカ「これ、返しは止められるの」
ヒナ「止められない。二日目に試したもの」
ヒナ「返しは、外から来ないの。内側から出るのよ」
ミカ「じゃあ何のため」
ヒナ「錠が外へ飛んだときのため」
ヒナ「そういうものは、外から来るわ」
サオリが、ミカの左肩に手を置いた。
サオリ「触れている」
ミカ「肩代わり」
サオリ「そうだ」
ミカ「あなた、昨日の火傷まだ治ってないじゃんね」
サオリ「関係ない」
サオリ「ミカ」
サオリ「私は、間に合わなかった回数を三回覚えている」
サオリ「四回目を覚えたくない」
ミカは、それに返す言葉を持たなかった。
持たないので、金具を握り直した。
握って、指の先まで一度開いて、また握った。
ミカ「ユウカちゃん。数えて」
ユウカ「一」
ミカは、髪の毛一本ぶんだと思う量を押した。
ユウカ「二」
金具の先が、かんぬきの背中を滑らずに保っていた。
保つために固定した手首が、十を越えたところから震え始めた。
ユウカ「十一」
ユウカ「聖園さん。息を止めないでください」
ユウカ「止めると、次の数で大きく震えます」
ミカ「うん」
シロコが、ミカの手元を見て、何も言わなかった。
言わないことが、シロコの手伝い方だった。
ユウカ「二十一」
二十一で、金具の奥に抵抗が生まれた。
曲がり始めると、力が一気に通りやすくなる。
ミカは、そこで指を緩めた。
ミカ「待って。今から通る」
ミカ「通るから、押しすぎる」
ユウカ「では、残りの二十を、四十に割ります」
ユウカ「一つで、半分ぶん」
ミカ「それ、数えられるの」
ユウカ「数えられます。私は、間違えません」
ユウカの声が、そこで少し変わった。
朝の食堂で椀を置いたときと、同じ変わり方だった。
同じなのに、向きが逆だった。
ユウカ「一」
ミカは、半分ぶんを押した。
三十を越えたあたりで、指先の感覚が消えた。
消えても、金具の位置は手が覚えていた。
ユウカ「三十九」
ユウカ「四十」
鉄が、受けの縁から離れた。
音は、二つした。
一つは、かんぬきが曲がりきる音。
もう一つは、扉が自分の重みで内側へ動く音。
どちらも、外殻を鳴らさなかった。
ミカの左手首は、熱くならなかった。
サオリの手が、肩から離れた。
サオリ「来なかった」
ミカ「来なかった」
ヒナ「開ける」
ヒナが押すと、扉は開いた。
中は暗く、埃と油の匂いがした。
シロコが、厨房から持ってきた灯りを掲げた。
壁の三面が棚で、縦に十三の区画に割られていた。
区画ごとに、下の縁に名札があった。
金属の板に文字を打ったもので、扉の刻みと同じ字だった。
手前の区画に、黒い箱と銃と、端末が二つ。
名札には、鬼方カヨコと打たれていた。
次に、伊草ハルカ。銃と、たたんだ布と、小さな守り袋。
次に、棗イロハ。銃と、菓子の箱と、髪を結ぶ紐。
菓子の箱は、封が切られていなかった。
ミカは、そこで一度立ち止まった。
立ち止まったことを、誰にも言わなかった。
次の区画の名札を、ミカは読まなかった。
読まなくても、誰の名前かは分かっていた。
サオリが、そこで動かなくなった。
ミカは、灯りを少しずらした。
ずらしたのは、見せないためだった。
ヒナが、区画の名札を順に読んでいった。
声を使わず、唇だけが動いていた。
最後の区画に、灯りが当たった。
名札があった。
金属の板に、生塩ノアと打たれていた。
打ち方も、字の大きさも、他と同じだった。
棚板の上に、何もなかった。
空だった。
風は入らなかった。入る場所がなかった。
ユウカ「……回収漏れです」
ユウカ「持ち込みがなければ、預かり品はありません」
ユウカ「私物を何も持っていなかった人は、空になります。それだけの話です」
ユウカは区画に近づいて、棚板に指を伸ばし、途中で止めた。
ユウカ「聖園さん。他の区画の棚板を、見てください」
ミカは、隣の区画を見た。
棗イロハの区画だった。
箱を持ち上げると、その下に埃のない四角が残っていた。
紐のところにも、細い線の形で跡があった。
棚板の埃は、物の形に沿って途切れていた。
生塩ノアの区画の埃は、均一だった。
縁から縁まで、同じ厚さで、同じ色だった。
途切れているところが、一つもなかった。
ユウカ「置いてあった物をあとで持ち出したなら、跡が残ります」
ユウカ「この棚板には、一度も、何も置かれていません」
ユウカは、自分の胸のあたりで手を握った。
震えないように、力を入れていた。
ユウカ「入所したら、私物は預かられます。銃も端末も全部です」
ユウカ「私は、一日目に取り上げられました。私の区画に、あります」
ユウカは、そこで言葉を切った。
ユウカ「聖園さん。私は今、名前を言いそうになりました」
ミカ「言わないで」
ユウカ「言いません。言いませんが、私は数えました」
ユウカ「棚が十三。物が入っている区画が十二」
ユウカ「人が、九」
ミカは、棚の一番端に手を置いた。
触れた埃の均一な面が、冷たかった。
ヒナ「聖園ミカ。戻して」
ヒナ「戻す前に、見たものを口に出して」
ヒナ「同じ物を見たという記録は、四人で持つ」
シロコ「棚は十三。空は一つ」
サオリ「空の区画に、名札がある」
ユウカ「空の区画の埃だけ、均一です」
ヒナ「私は、名札の文字が他と同じ打ち方だと見た」
ミカ「……私は、そこに一度も物が置かれてないと見た」
ヒナ「いいわ。出て」
ミカが最後に出て、扉を引いて閉めた。
閉めた扉に、両手を置いた。
手のひらの下に、曲がったかんぬきの感触はなかった。
だから、覚えている方を使った。
自分が壊した。
自分が、四十一と四十で押した。
押した最後の半分ぶんを、まだ手が覚えている。
ミカは、目を閉じなかった。
鉄の音がした。
外れる音の逆の音だった。
かんぬきが受けに入って、七つの部品が元の並びに戻った。
扉は、鳴らなかった。
ミカは、手を離した。
離した手が、扉の表面から二寸ほどのところで止まって、下りなかった。
左手首が、熱かった。
袖をずらした。
黒い線が、十三本あった。
昼の廊下で、十本だった。
三本、増えていた。
ミカの右手が、震え始めた。
震えが、手首から肘まで来た。
拳を握ろうとして、握れなかった。
ミカ「あ、これ」
ミカ「ちょっと、やば」
ヒナの手が、ミカの右腕を掴んで、自分の脇に挟んだ。
ヒナ「吸ってから吐いて。私が数えるから」
ミカ「あなたが数えるの、下手じゃんね」
ヒナ「うるさい」
ヒナは、数えなかった。
数えずに、ただ挟んだままにしていた。
挟まれている腕の震えが小さくなるまで、五十くらいかかった。
サオリが、ミカの手首の輪の上に指を二本置いた。
何も起きなかった。
起きないことを、確かめたのだと分かった。
ヒナ「聖園ミカ。あなた、名前を言わないのね」
ミカ「言わない」
ヒナ「なぜ」
ミカ「四人で見たものは、四人ぶんの根拠でしょ」
ミカ「それで名前を言うと、四人が票を持つことになる」
ミカ「票を入れた人は、あとで自分を責める」
ミカ「私は、それを二日前に見たの」
ヒナが、ミカの腕を離した。
ヒナ「明日の朝、全員に見せるわ」
ミカ「開けるの、私だけど」
ヒナ「そうよ。あなたに、もう一度払わせる」
ヒナ「承認する立場で言っているの。嫌なら断って」
ミカ「断らないよ」
ヒナ「……そう」
ヒナ「朝食のあと。話す順番は、私が決める」
ヒナ「あなたが決めると、あなたの結論から始まるから」
ミカ「それ、正しいじゃんね」
ヒナ「正しくないわ。でも、順番は誰かが決めないといけないの」
石の壁を回り込んで、収容棟の廊下に戻った。
夜の当番は二組で、北側の外周がホシノとシロコだった。
シロコは、保管庫に来ていた。
だから、この時間、外周にはホシノが一人でいた。
ミカが気づいたときには、シロコが先に走り出していた。
外周に近い廊下は、片側が外壁で、窓がなかった。
継ぎ目に、細い銀の線が入っていた。
その線の前に、ユウカが立っていた。
立ったまま、動いていなかった。
ミカが名前を呼ぶより先に、ユウカの左手首が光った。
銀の輪が、内側から白く光った。
光りながら、熱を持った。
熱を持ったことは、離れていたのに分かった。
空気の匂いが変わったからだった。
ユウカが、自分の手首を見た。
見た顔が、驚いていなかった。
驚くより先に、数えようとした顔だった。
ユウカ「……七」
ユウカ「違います。今、七じゃない」
ミカは、走った。
走った距離は、十歩もなかった。
その十歩の間に、外壁が鳴った。
鳴ったのは、誰も触っていない壁だった。
鳴り方が、内側から鳴らされたようだった。
ユウカの体が、その音に合わせて傾いた。
押されたのでも引かれたのでもなかった。
位置が、少しずれた。
ずれた場所に、ユウカの形の輪郭だけが遅れて残った。
ミカは、そこで理解を諦めた。
理解より先に、手を伸ばした。
届かなかった。
届く前に、別の手が届いた。
ホシノの手だった。
ホシノは、ユウカの襟のあたりを掴んでいた。
掴んだ手を、そのままユウカの首の後ろに当てた。
ホシノ「早瀬ちゃん。おやすみ」
ユウカの膝が、抜けた。
抜けた瞬間に、ホシノがもう片方の手でユウカを突き飛ばした。
突き飛ばした方向は、外壁から離れる方だった。
力の入れ方が、乱暴だった。
乱暴でなければ、間に合わなかった。
ユウカの体が、廊下の内側の床を滑った。
滑って、ミカの足に当たって止まった。
当たったユウカは、目を閉じていた。
眠っている顔から、痛みの形が消えていた。
消えていることに、ミカは一瞬だけ安心した。
安心した直後に、音がした。
外壁が、二度目に鳴った。
一度目より、短かった。
短いのに、大きかった。
鳴ったのは壁で、返ったのは壁ではなかった。
ホシノが、床に膝をついた。
膝から先に落ちて、肩が壁に触れないように体を捻った。
捻ったのは、たぶん癖だった。
床の石についた両手が、動かなかった。
ホシノの頭の上で、ヘイローの光が揺れた。
揺れて、片側が薄くなった。
薄くなった側から、輪の形が消えていった。
消え方が、灯りを絞るときと同じだった。
速くなかった。
速くないことが、いちばん悪かった。
シロコ「ホシノ先輩」
シロコの声が、廊下の端から来た。
来てから、シロコ本人が来た。
膝をついて、背中に手を置いた。
シロコ「先輩」
ホシノ「うへ〜」
ホシノ「シロコちゃん、前を歩いてって言ったのに」
シロコ「戻った」
ホシノ「戻っちゃったねえ」
ホシノ「早瀬ちゃん、寝てる?」
ミカ「寝てる」
ホシノ「そっか。じゃあ、いいや」
ミカは、ホシノの横に膝をついた。
つく前に、拳を握っていた。
握った拳が、開かなかった。
ミカ「ホシノちゃん」
ホシノ「ミカちゃん」
ミカ「そんなの頼んでない」
ホシノ「うん。頼まれてないよ」
ホシノ「頼まれたら、やってないもん」
ホシノ「頼まれたら、それ、順番になっちゃうでしょ」
ホシノ「次は誰の番、みたいになるの。それは、やだなあ」
ホシノは、そこで少し笑った。
笑い方が、いつもと同じだった。
ホシノ「一日目に、おじさん言ったんだけどさ」
ホシノ「事件が起きなきゃ裁判もない。そこは覚えとこう、って」
ホシノ「言ったのに」
ホシノ「誰も、覚えててくれなかったねえ」
誰も、それに返事をしなかった。
返事をする資格が、その場の誰にもなかった。
ホシノ「シロコちゃん」
シロコ「うん」
ホシノ「四日目にね、先に帰る準備しときなさいって言ったでしょ」
シロコ「言った」
ホシノ「あのとき、頷かなかったよね」
シロコ「うん」
ホシノ「今は」
シロコ「頷かない」
ホシノ「……そっか」
ホシノ「頑固だなあ」
シロコは、泣かなかった。
顔も歪めなかった。
背中に置いた手だけ、位置を変えなかった。
変えないために、腕が固くなっていた。
ホシノ「シロコちゃん。線、見ないでね」
ホシノ「おじさんが今日どこ通ったか、ぜんぶ見えちゃうもんね」
ホシノ「見ないでいいよ。あんまり、面白い道じゃないから」
ヘイローの光が、片側だけになった。
長いあいだ、誰も動かなかった。
ホシノ「ミカちゃん。順番、決めた?」
ミカ「決めた」
ホシノ「じゃあ、やって」
ホシノ「間違えても、いいよ」
ミカ「間違えない」
ホシノ「うへ〜。かっこいいねえ」
それが、最後だった。
最後の一言が、いつもの相槌だった。
光が消えた。
消える音はしなかった。
床の石が、灯りを返さなくなった。
それで、消えたことが分かった。
シロコが、ホシノの背中から手を離して、床の上に置いた。
置いて、それ以上動かさなかった。
ヒナが、廊下の端から声を出した。
低かった。怒っているときの、ヒナの声だった。
ヒナ「錠前サオリ。砂狼シロコ。聖園ミカ」
ヒナ「私が四人目」
ヒナ「現場を確認する」
ヒナ「小鳥遊ホシノの死亡を、確認する」
ヒナは、そこで一度言葉を止めた。
ヒナ「これを言うのは、私の仕事よ」
ヒナ「誰にもやらせない」
告知が鳴るまでに、二十ほど数える間があった。
ゴクチョー「死亡発見告知」
ゴクチョー「収容者、小鳥遊ホシノ」
ゴクチョー「生存者三名以上による現場確認を、確認しました」
脚の音が、一定の間隔で廊下の奥から来た。
ゴクチョー「調査時間を設定しません」
ミカ「……なに」
ゴクチョー「規定により、これを最終の魔女裁判とします」
ゴクチョー「開廷は、六日目の午前八時。礼拝堂地下」
ゴクチョー「議題は、死亡を引き起こした魔女の特定です」
ヒナ「なぜ最終なの」
ゴクチョー「残余の審査未完了者が、規定数を下回りました」
コハル「……え」
コハルの声だった。いつ来たのか、分からなかった。
ナギサが、その後ろに立っていた。
二人とも、廊下の角で止まっていた。
ゴクチョー「補足します」
ゴクチョー「現在、審査未完了の収容者は、八名です」
ミカは、その数を聞いて、口の中で数えた。
ミカ。サオリ。ヒナ。シロコ。ナギサ。コハル。ハルカ。ユウカ。ノア。
九だった。
コハル「あの、八って言った?」
ゴクチョー「現在、審査未完了の収容者は、八名です」
コハル「同じこと言われた」
コハル「けど、あの、九人いるんだけど」
ゴクチョー「回答は用意されていません」
脚の音が、来たときと同じ速さで遠ざかった。
コハルは、その場に座り込んだ。
座り込んで、ホシノの方を見ないようにしていた。
見ないようにしながら、喋り続けていた。
コハル「私、数えるの得意じゃないけど、でも九だよ」
ナギサは、答えなかった。
答えずに、ホシノの傍まで歩いて、膝をついた。
手を合わせなかった。
合わせる代わりに、名前を言った。
ナギサ「小鳥遊ホシノさん」
ナギサ「……それだけです」
ナギサ「私は、これ以上、何も言いません」
ナギサ「言えば、重くなりますから」
コハルが、喋るのをやめなかった。
やめないことが、コハルの手だった。
ホシノの怖いものが、静かになることだったのを、ミカは覚えていた。
コハルも、覚えていた。
ハルカが来たのは、少しあとだった。
来て、廊下の途中で止まって、そこから先へ進まなかった。
ハルカ「ご、ごめんなさい」
ハルカ「わ、私が、怖いって言えてたら」
ハルカ「みんなの怖いのが、少し私に来て」
ヒナ「伊草ハルカ」
ハルカ「はい」
ヒナ「今のは、あとで私に言って」
ヒナ「ここで言うと、あなたの言葉が誰かの理由になるわ」
ハルカ「……はい」
サオリは、ホシノに触らなかった。
触ろうとして、手を止めて、下ろした。
下ろしてから、ミカにだけ聞こえる声で言った。
サオリ「四回目だ」
ミカ「……」
サオリ「触っても、何も移らない」
サオリ「移るものが、もう無い」
ノアが来たのは、いちばん最後だった。
控室から、記録の束を抱えて来た。
崩れないように、下から支える持ち方だった。
ノアは、廊下の手前で足を止めて、床の上のホシノを見た。
それから、眠っているユウカを、少し長く見た。
ノア「早瀬さんは、眠っているだけですね」
ミカ「……眠ってる」
ノア「よかったです」
ノアは、記録の束を胸の前で持ち直した。
ノア「記録しますか」
ミカは、その言葉を、二回聞いた気がした。
実際は一回だった。
ノア「三つ目の項目に沿って、見たことと思ったことを分けます」
誰も答えなかった。
答えないので、ノアは待った。
急かす気配が、一つもなかった。
ヒナ「……記録して。全部書いて」
ノア「はい。空崎さんに確認していただきます」
ノアは、廊下の壁際に膝をついた。
鉛筆が、紙の上を動いた。
字は、読みやすく、整っていた。
ミカは、その手元を見ながら、拳を握っていた。
開いたら、何をするか分からなかった。
六日目の朝は、鳥の声がしなかった。
島に鳥がいないことを、ミカはその朝に初めて意識した。
ユウカが目を覚ましたのは、六時だった。
医務室の寝台の上だった。
ミカは、その横に座って、何も言わずに待った。
ユウカは、天井を見た。
それから、自分の左手首を見た。
輪は、そこにあった。熱くなかった。
ユウカ「……聖園さん」
ミカ「うん」
ユウカ「私は、生きています」
ミカ「生きてる」
ユウカ「そうですか」
ユウカは、寝台の上で体を起こした。
足を床に下ろして、着いたことを二度確かめた。
ユウカ「聖園さん。数を言ってください」
ミカ「ユウカちゃん」
ユウカ「数なら、私が受け取れます」
ミカは、答えなかった。
答える前に、ユウカが目を閉じて、すぐに開けた。
ユウカ「八」
ユウカ「この建物の中に、八です」
ユウカ「昨日は、九でした」
ユウカは、寝台の縁を掴んだ。
掴んだ指が、白くなった。
ユウカ「小鳥遊さんですか」
ミカ「……うん」
ユウカ「私を突き飛ばして、眠らせたのは」
ミカ「ホシノちゃん」
ユウカ「あれは、痛い人のための魔法です」
ユウカ「私は、痛くありませんでした」
ユウカ「痛くない人に、逆向きに使ったんです」
ユウカは、泣かなかった。
泣かない代わりに、数え直した。
ユウカ「私の魔法は、人を一つ少なく返します」
ユウカ「実際は、九人います」
ユウカ「ゴクチョーは、審査未完了が八名だと言いました」
ミカ「……あなた、寝てたじゃんね」
ユウカ「下江さんが、廊下で言っていました」
ユウカ「私の数と、施設の数が、合いました」
ユウカ「合ってはいけない方で、合いました」
ミカは、立ち上がった。
ミカ「ユウカちゃん。歩ける?」
ユウカ「歩けます」
ミカ「じゃあ、行こ。見せるものがあるの」
朝食は、誰も作らなかった。
配膳口から出てきた台車は、そのままにされた。
ヒナが全員を集めたのは、七時だった。
九人が並ぶと、行き止まりが狭かった。
ノアは、いちばん後ろに立っていた。
ヒナ「これから、聖園ミカが扉を開けるわ」
ヒナ「方法は、あとで説明する。先に見て」
コハル「……開くんですか、それ」
ヒナ「開くの。昨日の夜、四人で開けて、閉めた」
ミカは、扉の前に立った。
サオリが、何も言わずに後ろから肩に手を置いた。
ユウカが、錠の前に膝をついて、数え始めた。
ユウカ「四十一」
ユウカ「一」
二度目は、一度目より早かった。手が覚えていたからだった。
覚えていることは、いいことではなかった。
四十で、鉄が受けから離れた。
扉が開いた。
シロコが灯りを持って前に出て、棚に灯りを当てた。
誰も、声を出さなかった。
コハルが、自分の名札の前で足を止めた。
区画の中の小さな鞄に手を伸ばして、引っ込めた。
コハル「……私の、ある」
コハル「ちゃんと、ある」
ハルカが、鬼方カヨコの区画の前で動けなくなった。
ナギサが、ハルカの背中に手を置いた。
置いて、何も言わなかった。
言わないことを、ナギサは選んでいた。
灯りが、最後の区画に届いた。
名札に、生塩ノアと打たれていた。
棚板は、空だった。
埃が、縁から縁まで均一だった。
九人が、それを見た。
自分の目で、見た。
誰も、名前を口に出さなかった。
出す前に、全員が同じ方を向いてしまったからだった。
向いた先に、ノアが立っていた。
記録の束の持ち方も、顔色も、息の速さも、いつもと同じだった。
ノアは、棚を見た。
見て、自分の名札を確かめるように、少し首を傾けて、戻した。
それから、鉛筆を持ち直した。
ノア「記録しますか」
誰も、答えなかった。
海の音が、石の壁の向こうで一度大きくなった。
風は吹いていた。
風見鶏の尾羽は、動かなかった。
ノア「見たこと」
ノア「保管庫の棚に十三の区画があり、そのうち一つが空である」
ノア「空の区画の名札には、生塩ノアと打たれている」
ノア「棚板の埃が均一で、物が置かれた跡がない」
ノア「どなたに書いていただきますか」
ミカは、ノアの顔を見た。
見て、目を離せなかった。
怖がっている人の顔ではなかった。
怖がっていない人の顔でもなかった。
顔の後ろに、探す場所がなかった。
コハルが二日前に言った言い方が、そのまま合っていた。
机の上に、何も置いてない。
ヒナ「……記録して」
ノア「はい」
ヒナ「あなたが書いて。見たことも、思ったことも」
ノア「はい」
ノア「思ったことも、書きます」
ノアは、膝をついた。
鉛筆が、紙の上を動いた。
速さは、いつもと同じだった。
書き終えて、ノアはその一枚をヒナに差し出した。
ノア「私が書いたものを、私が持っていてはいけません」
ノア「そう決めましたよね」
ヒナは、それを受け取って、読まなかった。
読まずに、二つに折って、上着の内側に入れた。
ヒナ「八時に、法廷で読むわ」
ミカは、そこで膝をついた。
それから、上着の内側から、四つに畳んだ白い布を取り出した。
一日目に、イロハから交換用だと言われて渡されたものだった。
返す相手が、もういなかった。
三日目に洗って、五日目に乾いて、それからずっと持っていた。
ミカは、その布を広げずに掌の上に載せて、上から包んだ。
包んだ手に力を入れて、抜いて、指の先まで、開いた。
開いた手の上に、白い布があった。
ミカは、立ち上がった。
立ち上がるときに膝が鳴って、その音を九人が聞いた。
右手に白い布。
左手に、四人の署名が入った紙と、埃の写しを取った紙片。
どちらも、軽かった。
軽いのに、持ち替えられなかった。
ミカは、拳を握らなかった。
握らずに、開いたままの手で、後ろを向いた。
後ろに、九人がいた。
そのうちの一人を、まっすぐ見た。
ミカ「……ノアちゃん。次は、あなたの番」