ブルアカ少女ノ魔女裁判   作:すーぱーりっかちゃん

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ミカ『もう傷つかない人を、選ぶ』

温室の入口へ最初に着いたのは、ユウカだった。

 

走ってきたのに、境目のところで足を止める。

 

濡れた靴底が、土の上で短く鳴った。

 

ユウカ「……入って、いいんですか」

 

ヒナ「入口から二歩まで。それ以上は、記録を取ってから」

 

ユウカは頷き、その場に膝を折った。

 

中を見て、それから目を伏せた。

 

後から来た者たちが、順に同じ場所で止まる。

 

誰も、まだ何も言わなかった。

 

コハル「イロハ先輩……?」

 

小さな声だった。

 

答える者がいないことが、答えになった。

 

ハルカが息を吸い込む音がして、カヨコがその肩を後ろから押さえた。

 

カヨコ「ハルカ。見なくていい」

 

ハルカ「で、でも」

 

カヨコ「見なくていいって言った」

 

カヨコはハルカの体を、少しだけ入口の外へ向けた。

 

それから、自分は中へ目をやった。

 

カヨコの顔からは、何も読み取れなかった。

 

アズサ「このままにはしておけない」

 

最初にそれを口に出したのは、アズサだった。

 

アズサ「温度と湿度がある。時間が経つほど、分かることが減る」

 

ユウカ「だからこそ、動かすべきではありません。現場の位置関係が最大の情報です」

 

アズサ「情報のために置いておくのか」

 

ユウカ「そういう話ではありません」

 

言い返してから、ユウカは口を閉じた。

 

自分の声が硬すぎたことに、気づいたらしかった。

 

ナギサ「両方を満たす順番があります」

 

ナギサが一歩前へ出た。

 

ナギサ「記録を先に、すべて取ります。位置、向き、周囲の物、床の状態。その上で医務室へお運びする」

 

ホシノ「うへ~。……おじさんも、それがいいと思うよ」

 

ホシノ「順番が決まってないと、みんな自分の善いことをやっちゃうからねえ」

 

ヒナが硝子天井を仰ぎ、それから頷いた。

 

ヒナ「記録はノアさんとユウカに。図はナギサさん。私が位置を読み上げる」

 

ユウカ「触れる必要が出た場合は」

 

ヒナ「その都度、全員に言ってから」

 

紙をめくる音がした。

 

ミカは、その全部を入口の内側で聞いていた。

 

聞きながら、一歩も動かなかった。

 

ミカ「触らないで」

 

自分の声だと、遅れて気づいた。

 

ヒナ「聖園ミカ」

 

ミカ「記録は好きなだけ取ればいいよ。数えても、書いても、図にしても」

 

ミカ「でも、誰も、この子に手を置かないで」

 

温室の中の空気が、少しだけ止まった。

 

ユウカ「……運ぶ人が必要です」

 

ミカ「私がやる」

 

ユウカ「聖園さんは、体格的には確かに――」

 

ミカ「そういう理由で言ってない」

 

ミカは自分の手を見た。

 

朝、冷やしてもらった方の手。

 

その掌に、まだ布の感触が残っている気がした。

 

ミカ「イロハちゃん、面倒くさがりだったから」

 

ミカ「知らない人に触られるの、絶対に嫌がる」

 

誰も、それを否定しなかった。

 

シロコが黙って前へ出て、ミカの隣に立った。

 

シロコ「ん。二人の方がいい」

 

ミカ「……うん」

 

記録が終わるまで、四十分ちかくかかった。

 

ヒナが位置を読み上げ、ナギサが図に落とし、ユウカとノアがそれぞれ別の紙に書いた。

 

同じことを二人に書かせたのは、ユウカの提案だった。

 

あとで食い違いが出れば、それも情報になる、と。

 

ミカはその間、水盤の縁だけを見ていた。

 

雫が落ちる。

 

水面が揺れて、また平らになる。

 

平らになるところまでを、何度も目で追った。

 

ヒナ「外傷はない」

 

読み上げの最後に、ヒナはそう言った。

 

ヒナ「打撲も、擦過も、圧迫の跡も。服の乱れもないわ」

 

ユウカ「争っていない、ということですか」

 

ヒナ「そう見える。倒れたときの姿勢も、自分で倒れたのに近い」

 

コハル「じゃ、じゃあ、事故ってことも……」

 

ヒナ「あるかもしれない。でも、あの子のヘイローがない」

 

コハルの唇が動いて、音にならなかった。

 

ヒナ「ここでは、致命的な損傷に保護が働かないと言われたわ。裏を返せば、致命的でないものでは、ああはならない」

 

アズサ「何かは、確実に働いた」

 

ヒナ「ええ」

 

ミカは、頭の中で言葉を並べ直した。

 

傷がない。

 

争っていない。

 

それでも死んでいる。

 

三つを並べると、人の形をした答えが出てこなかった。

 

温室のいちばん奥に、サオリが立っていた。

 

ヒナに残れと言われた場所から、一歩も動いていない。

 

両手は、ずっと見える位置に下げたままだった。

 

ヒナ「錠前サオリ。ここへ来た理由を、もう一度」

 

サオリ「棗イロハを探していた」

 

ヒナ「誰かに頼まれて?」

 

サオリ「いや。帰着が遅れていると、廊下で聞いた」

 

ヒナ「聞いた相手は」

 

サオリ「……覚えていない。名前までは見なかった」

 

ヒナは、それを書き取っているナギサの手元を確かめた。

 

ナギサ「そのまま記録します。曖昧なものを、こちらで整えないように」

 

ミカは、サオリの方を見なかった。

 

見れば、また余計なことを考える。

 

考えたことを、事実の顔で並べてしまう。

 

それだけは、しないと決めていた。

 

ノアが自分の紙に時刻を書いた。

 

ノア「十五時四十分です。ここからを、私たちの調査時間として使いましょうか」

 

ユウカ「終了は十八時。移動時間を引くと、実質は二時間十分です」

 

ナギサ「では、組を分けます。単独行動は今回も禁止で」

 

紙の上に、四つの塊ができた。

 

温室に、ヒナとナギサとサオリ。

 

医務室と東側の経路に、ミカとコハルとシロコ。

 

時間と動線の検証に、ユウカとノアとホシノ。

 

収容棟の全室と、全員の所在の聞き取りに、カヨコとハルカとアズサ。

 

ユウカ「錠前さんを一人にしないのは分かります。ですが、聞かれる側を現場に置くのは」

 

ヒナ「現場を一番よく見ているのが本人だからよ。それに、嘘をつくならその場で確かめられる」

 

サオリ「私は構わない」

 

ミカ「そういうの、自分で言わないでくれる?」

 

言ってから、ミカは口を閉じた。

 

自分の声が、また尖っていた。

 

ナギサ「では、そのように。十七時四十分に食堂へ集合します」

 

運ぶのは、結局ミカとシロコだった。

 

ヒナが両手を空けて先を歩き、扉を開けた。

 

医務室の白い衝立の向こう、二つ並んだ寝台の片方に、ミカはイロハを横たえた。

 

髪が肩から落ちる。

 

ミカは、それを頬にかからない位置へ戻した。

 

ヒナが朝そうしたのと、同じ動きになった。

 

シロコ「布、かける?」

 

ミカ「……うん」

 

棚から新しい布を出そうとして、ミカは手を止めた。

 

棚は、朝と同じように一段だけ引き出されたままだった。

 

ミカ「コハルちゃん。ちょっと来て」

 

入口に立っていたコハルが、おそるおそる近づく。

 

ミカ「朝、この段。どうだった?」

 

コハル「え、と……閉まってた、と思う」

 

ミカ「思う、じゃなくて」

 

コハル「閉まってた」

 

コハルは自分の手を握った。

 

コハル「イロハ先輩が、ミカ先輩に渡す布を出したとき、私、見てたから。取ったあと、ちゃんと閉めてた」

 

コハル「あの人、そういうところ、きっちりしてたでしょ」

 

ミカ「……してた」

 

言ってから、過去の形で話したことに気づいた。

 

ミカは息を吸って、それを飲み込んだ。

 

シロコ「じゃあ、朝より後に、誰かが開けた」

 

ミカ「イロハちゃん自身かもしれないけどね」

 

シロコ「うん。でも、開けた」

 

シロコの言い方は、いつも一番少ない語数で必要なことだけを残す。

 

ミカは、その簡潔さに助けられた。

 

東側の鍵は、医務室の卓の上にあった。

 

薬品棚は施錠されている。数も合っている。

 

イロハは、確かにここへ来て、鍵を確かめて、置いた。

 

そこまでは分かった。

 

その先が、分からなかった。

 

渡り廊下に、足音が三つ増えたのは十六時半を回った頃だった。

 

ユウカとノア、それにホシノ。

 

ユウカ「聖園さん。ここを通ります。二分ほど、誰も動かないでいてください」

 

ミカ「何するの」

 

ユウカ「歩きます」

 

ユウカは廊下の端に立ち、片手を上げた。

 

ユウカ「ノア。もう一度、確認させてください。棗さんと別れた時刻は」

 

ノア「十五時十分です。食堂の時計で確認しています」

 

ユウカ「別れた場所は温室ではなく、食堂ですね」

 

ノア「はい。温室の記録を持って、二人で食堂まで戻りました。そこで棗さんが、医務室の鍵を確かめてくると」

 

ユウカ「そのとき、食堂にほかに誰かいましたか」

 

誰も手を挙げなかった。

 

少し離れたところで、カヨコが首を振った。

 

カヨコ「あたしは十五時前に出てる」

 

ユウカ「では、十五時十分という時刻は、ノアの申告だけが根拠です。そう記録します」

 

ノア「ええ。そう書いてください」

 

ノアは嫌な顔ひとつしなかった。

 

むしろ、自分から鉛筆を差し出した。

 

ミカは、それを見ていた。

 

自分が疑われる位置に置かれることを、この子は当たり前のように受け入れる。

 

できることではない、と思った。

 

ユウカ「始めます」

 

ユウカが歩き出した。

 

早足でも、走りでもない。荷物を持たない人間が、急ぐ用のあるときに出す速さ。

 

ホシノが指を折って数を取り、ノアが紙に書いていく。

 

食堂の扉から医務室の扉まで、二分四十秒。

 

医務室の扉から温室の入口まで、二十秒。

 

ユウカ「棗さんが医務室に着いたのは、およそ十五時十三分」

 

ノア「十三分の方が近いと思います。棗さんは、私より少し歩くのがゆっくりでしたから」

 

ユウカ「……妥当です。そう書きます」

 

ノアの鉛筆が、迷いなく動いた。

 

読みやすい字だ、とミカはまた思った。

 

こういう人が記録係でよかった、とも。

 

ユウカ「錠前さんの到着が十五時十九分。廊下の時計です。あれは食堂の時計と同期しています。二台とも見比べました」

 

ホシノ「じゃあ、空いてるのは」

 

ユウカ「九分です」

 

九分。

 

口の中で、ミカもその数を転がした。

 

朝からずっと動いていた一日の中の、たった九分。

 

ユウカ「そのうち、棗さんが医務室から温室へ移る二十秒を除くと、温室で使えた時間は最大六分弱」

 

ユウカ「六分で、外傷を残さず死亡させ、痕跡を残さず離脱できるか。検証します」

 

ユウカは温室へ入り、裏口から搬入路へ抜けた。

 

ホシノが数を取り続ける。

 

三分ほどで、収容棟の北側からユウカが戻ってきた。

 

息は少し上がっていたが、髪も服も乱れていない。

 

ユウカ「可能です」

 

言ってから、ユウカは自分の言葉に納得していない顔をした。

 

ユウカ「ですが、おかしいんです」

 

ミカ「何が」

 

ユウカ「私は今、土の上を二往復しました。靴の裏を見てください」

 

差し出された靴底に、黒い土がついていた。

 

ユウカ「温室の床にも、うっすら足跡が残ります。私のものが、今、増えました」

 

ユウカ「ですが、ヒナさんが記録した時点で、床にあった足跡は棗さんと錠前さんのものだけです」

 

ホシノ「掃いた、とか?」

 

ユウカ「掃けば掃いた跡が出ます。ありませんでした」

 

ユウカ「六分で人を殺して、足跡を残さず、道具も残さず、争いもさせない。……できすぎています」

 

ミカは、渡り廊下の窓から外を見た。

 

雨は上がりかけていた。

 

海へ向いた風見鶏が、灰色の空を背負って立っている。

 

風は吹いている。

 

尾羽は、朝から一度も動いていなかった。

 

ミカ「ユウカちゃん。もう一つ、数えてほしいものがあるんだけど」

 

ユウカ「何ですか」

 

ミカ「温室の日誌。あの、切り取られてた頁」

 

ミカ「あれ、朝の時点でもう切られてた。私と、コハルちゃんと、イロハちゃんで見た」

 

ユウカの手が止まった。

 

ノア「……棗さんの記録が残っています」

 

ノアが紙束の下から、一枚を抜き出した。

 

簡単な図と、几帳面な走り書き。

 

切り取り一枚。前後の日付を記録。今は、切り取られていたということだけで。

 

イロハの字だった。

 

ミカは、その紙を受け取らなかった。

 

受け取ったら、返す相手がいないことを、はっきり思い知る気がした。

 

ユウカ「朝、私たちは全員、同じ廊下にいました」

 

ユウカ「牢から出るまで、誰も一人になっていません」

 

ホシノ「……そっか」

 

ホシノ「じゃあ、あの紙を切った人は、おじさんたちが目を覚ます前に、ここにいたんだねえ」

 

誰も、それを引き取らなかった。

 

十八時。

 

礼拝堂の地下へ下りる階段は、思っていたより長かった。

 

扉の中央の天秤が、下りてくる者を一人ずつ通す。

 

円形の法廷には、十三の椅子が等間隔に並んでいた。

 

背もたれの上端に、細い銀の帯が走っている。

 

その帯に、名前が浮かんでいた。

 

聖園ミカ。錠前サオリ。静山ナギサ。

 

時計回りに読んでいくと、二つ隣の椅子で目が止まった。

 

棗イロハ。

 

名前だけが、まだそこにあった。

 

誰も、その椅子には座らなかった。

 

誰も、その椅子を動かさなかった。

 

コハル「……座っちゃ、だめだよね」

 

ヒナ「ええ。そのままで」

 

看守「開廷します。議題は、収容者・棗イロハの死亡を引き起こした魔女の特定です」

 

看守は円の中心に立っていた。

 

白い仮面の穴が、順に十二人を舐めていく。

 

看守「過半数の指名を受けた収容者を、処刑対象として認定します」

 

ナギサ「発言の手順を決めます。よろしいですか」

 

ナギサが立ち上がった。

 

ナギサ「まず事実の確認。次に各自の所在。最後に質問。感想と推測は、必ずそう断ってから述べてください」

 

ナギサ「それから、誰かの発言中に遮らないこと。ここで一番危険なのは、大きな声が事実に見えることです」

 

誰も反対しなかった。

 

ユウカが立ち、紙を広げた。

 

外傷なし。ヘイローなし。争いの跡なし。

 

医務室の布の棚が、朝以降に開けられたこと。

 

日誌の頁が、朝より前に切られていたこと。

 

そして、九分。

 

数字が読み上げられるたび、円の空気が硬くなっていった。

 

ユウカが座るのを待って、椅子が一つ鳴った。

 

サオリ「私が最も疑わしい」

 

立ち上がったのは、サオリだった。

 

ざわめきは起きなかった。

 

全員が、それを予想していたからだ。

 

サオリ「理由を挙げる。四つある」

 

サオリ「一つ。遺体の傍にいたのは私だ。三人がそれを見た」

 

サオリ「二つ。今朝、私は温室へ行った。棚を調べ、棗イロハを見ている」

 

サオリ「三つ。反響障壁の性質を、私は誰より早く知っていた。試したからだ。試す人間は、ほかのことも試す」

 

サオリ「四つ。私は以前、人を殺すための場所にいた」

 

最後の一つを言うとき、サオリの声は同じ高さのままだった。

 

サオリ「以上だ。私を指名するのが、いま最も筋が通る」

 

ミカは、掌の中の布を握った。

 

朝、渡された白い布。

 

現場の記録が終わったあと、ヒナが返してくれたものだ。

 

ミカ「……何それ」

 

サオリ「事実だ」

 

ミカ「事実を並べれば偉いと思ってる?」

 

サオリ「思っていない」

 

ヒナ「錠前サオリ」

 

ヒナの声が、いつもより低くなった。

 

ヒナ「自分から並べる人間は、たいてい一つ隠すのよ」

 

サオリは、否定しなかった。

 

サオリ「隠している。だが、今の議題とは関係がない」

 

ユウカ「関係の有無を決めるのは、あなたではありません」

 

サオリ「そうだ。だから、隠していると言った」

 

ユウカが言葉に詰まった。

 

ナギサが手元へ書きつける。

 

ナギサ「保留として記録します。今は追及しません。追及すれば、答えが出るまで帰れなくなりますから」

 

アズサ「サオリ」

 

初めて、アズサが口を開いた。

 

アズサ「布は」

 

サオリ「床に落ちていた。拾った」

 

ユウカ「棚から出したのではなく?」

 

サオリ「私は医務室の棚に触れていない」

 

ユウカ「棚が開いていたのは、見ましたか」

 

サオリ「……見ていない」

 

ユウカ「見ていないのか、開いていなかったのか」

 

サオリ「見ていない」

 

サオリは、確かでないことを一言も言わなかった。

 

その徹底が、ここでは全部裏目に出ていた。

 

ミカには、それが分かった。

 

分かったところで、疑いは消えなかった。

 

看守「投票を行います。棄権は可能です」

 

最初の投票は、すぐに終わった。

 

看守「有効票、四。錠前サオリ、三。聖園ミカ、一」

 

ミカは、思わず笑った。

 

乾いた音になった。

 

ミカ「へえ」

 

看守「過半数に達していません。審理を継続します」

 

コハル「ま、待って、今の……誰が」

 

看守「投票は無記名です」

 

コハル「そんなの……!」

 

ヒナ「コハル。座って」

 

コハルは唇を噛んで座った。

 

ミカは、円をひと巡り見渡さないようにした。

 

見れば、探してしまう。

 

探せば、勝手に見つけてしまう。

 

二回目の投票も、三回目も、数字は動かなかった。

 

棄権が減らない。

 

法廷の照明は、一度も落ちなかった。

 

その間に、同じ話が三度繰り返された。

 

九分。足跡。棚。日誌。

 

言葉が擦り切れて、意味が薄くなっていくのが分かった。

 

ユウカ「もう一度、確認します。錠前さんが温室に着いたのは」

 

サオリ「十五時十九分だ」

 

ユウカ「それを見た人は」

 

サオリ「いない」

 

ユウカ「……先ほどと同じ答えです」

 

サオリ「同じ質問だからだ」

 

誰かが小さく咳をした。

 

その音が、やけに大きく響いた。

 

ホシノ「ねえ、看守さん。水は?」

 

看守「審理中の給食および給水は行いません」

 

ホシノ「うへ~……。そういうところだよねえ」

 

ホシノは背もたれに体を預け、帽子のつばを下げた。

 

眠っているように見えて、そうでないことは、ミカにも分かった。

 

時間の感覚が薄くなっていく。

 

四回目の集計のあと、円の端で椅子が鳴った。

 

ハルカの膝が震えていた。

 

ハルカ「ご、ごめんなさい」

 

カヨコ「ハルカ」

 

ハルカ「わ、私が、入れれば……終わるなら……」

 

カヨコがハルカの背に手を回し、そのまま体重を預けさせた。

 

カヨコ「息、吐いて。吸うのは後でいい」

 

ハルカ「でも、みんな、帰れなくて」

 

カヨコ「あんたが決めなきゃいけない理由がない」

 

カヨコの手は、ハルカの肩を叩かなかった。

 

ただ、動かないように置かれているだけだった。

 

ミカは、その手を見ていた。

 

このまま朝まで続けば、ハルカが一番先に壊れる。

 

次はコハルだろう。

 

そして誰かが、いちばん少ない痛みで済む相手を探し始める。

 

ミカの頭の回転は、こういうときに速すぎる。

 

そのことを、ミカは自分でよく知っていた。

 

ミカ「ねえ」

 

全員がこちらを向いた。

 

ミカ「さっきから、ずっと引っかかってたんだけどさ」

 

ミカ「私たち、何を訊かれてる?」

 

ユウカ「棗さんの死亡を引き起こした人物を――」

 

ミカ「違う」

 

ミカ「犯人じゃない。魔女を特定しろって言われてる」

 

ミカは、円の中心の看守を見た。

 

ミカ「わざわざ分けたよね、その言葉」

 

看守「規定の名称です」

 

ミカ「じゃあ聞くね。死んだ人を指名するのは、規則で禁止されてる?」

 

円が、完全に静かになった。

 

看守「収容者の指名に、生死の条件はありません」

 

ミカは、握っていた布を膝の上へ置いた。

 

ミカ「なら、イロハちゃんを指名しよう」

 

最初に立ち上がったのは、ユウカだった。

 

ユウカ「……死者に、罪を着せるんですか」

 

ミカ「うん」

 

ユウカ「本気で言っているんですか」

 

ミカ「本気だよ」

 

ユウカ「棗さんは何もしていません。それは、あなたが一番よく知っているはずでしょう」

 

ミカ「知ってる」

 

ハルカ「そんなの……そんなの、だめです……」

 

ハルカの声が、途中から形をなくした。

 

カヨコが受け止めたが、止めはしなかった。

 

ミカ「正しくないよ。私だって分かってる」

 

ミカ「でも、正しいのが出てくるまで待ってたら、この中の誰かが先に潰れる」

 

ミカ「私たちが選べるのは、正解じゃない。今より悪くならない方だけ」

 

ミカ「イロハちゃんは、もう、これ以上傷つかない」

 

言い終えて、ミカは自分の声が平坦だったことに気づいた。

 

平坦にしないと、最後まで言えなかった。

 

サオリ「ミカ」

 

ミカ「何」

 

サオリ「お前が言う必要はなかった」

 

ミカ「誰かが言うんだから、同じでしょ」

 

サオリ「同じではない」

 

ミカは、それに答えなかった。

 

答え方が分からなかった。

 

ヒナ「……それは、私が言うべきだった」

 

ヒナが両手を膝の上で組んでいた。

 

ヒナ「私が仕切ると言ったのよ。なら、一番汚い案を出すのも私の役目だった」

 

ミカ「じゃあ、次はヒナちゃんがやってよ」

 

ヒナ「ええ。次は私が言うわ」

 

軽い言い方に聞こえないよう、ヒナはそこで一度言葉を切った。

 

ヒナ「聖園ミカ。あなたの案に賛成する。でも、これを正しいことにはしない」

 

アズサ「賛成する。合理的だ」

 

アズサの声には、何の色もなかった。

 

その短さが、ミカの喉の奥を少しだけ焼いた。

 

ホシノ「うへ~……。おじさんも賛成かな」

 

ホシノ「今日ここで誰かが減るより、ずっといいよ。……いいって言い方は、変だけどねえ」

 

シロコ「ん。……分かった」

 

カヨコ「あたしも賛成。ハルカは棄権していい」

 

ハルカ「い、いえ……私も、入れます」

 

カヨコ「無理しなくていいよ」

 

ハルカ「無理じゃ、ないです」

 

ハルカ「イロハさんに、あとで、ちゃんと謝るので」

 

コハル「……私も」

 

コハルは涙を拭いもせずに手を挙げた。

 

コハル「私、この人の名前書くの、絶対嫌だから。嫌だけど、書く」

 

コハル「嫌だってことは、覚えておく」

 

ノア「棗さんのお名前が、こういう形で残るのは残念です」

 

ノア「……ですが、私も賛成します。記録には、この場の全部を書き残します」

 

最後まで座っていたのは、ナギサだった。

 

ナギサはゆっくり立ち上がり、ミカの方を向いた。

 

ナギサ「ミカさん。一つだけ、確認させてください」

 

ミカ「うん」

 

ナギサ「これは、棗さんを守るための案ですか」

 

ナギサ「それとも、私たちを守るための案ですか」

 

ミカは、膝の上の布を見た。

 

嘘は、いくらでも思いついた。

 

思いついたものは、どれも聞こえがよかった。

 

ミカ「……私たちのため」

 

ナギサの肩から、力が抜けた。

 

ナギサ「そう答えてくださって、よかった」

 

ナギサ「棗さんのためだと言われていたら、私は反対しました」

 

ナギサ「賛成します」

 

看守「投票を行います」

 

紙が回ってきた。

 

小さな四角い紙と、短い鉛筆。

 

ミカは、自分の膝の上でそれを広げた。

 

棗、と書いた。

 

一画目で、鉛筆の先が紙に食い込んだ。

 

朝、耳に鉛筆を挟んでいた横顔が浮かぶ。

 

備品の場所を気にして、鍵の一覧を作って、交換用ですと言って布を押しつけた人。

 

ミカは手を止めなかった。

 

止めたら、書けなくなると分かっていたからだ。

 

棗イロハ、と最後まで書いて、紙を二つに折った。

 

鉛筆の音が、十二人分。

 

そのうち二つは、動かなかった。

 

看守「有効票、十。棗イロハ、十」

 

看守「過半数を確認しました。棗イロハを処刑対象として認定します」

 

息を吐いた者がいた。

 

吐いたことを、すぐに恥じた顔をした者がいた。

 

ミカは、どちらでもなかった。

 

ただ、二つ隣の空いた椅子を見ていた。

 

看守「ただし対象はすでに――」

 

看守の脚が、一度だけ床を叩いた。

 

看守「審査完了として処理されます」

 

誰も、すぐには意味を取れなかった。

 

最初に立ち上がったのは、またユウカだった。

 

ユウカ「今、何と言いましたか」

 

看守「当該収容者の審査は、完了しています」

 

ユウカ「審査……個別審査資料の、あの封筒のことですか」

 

看守「はい」

 

ユウカ「棗さんは、回答していません。封筒は未開封のまま、食堂に――」

 

看守「死亡した収容者は、審査完了として処理されます」

 

ユウカの唇が、ゆっくり動いた。

 

ユウカ「死亡が、審査完了……?」

 

看守「そのとおりです」

 

ユウカ「では」

 

そこで、ユウカの声がわずかに掠れた。

 

ユウカ「退所条件を、もう一度言ってください」

 

看守「全収容者の審査完了をもって、退所を許可します」

 

法廷の空気が、音を立てずに落ちた。

 

コハルが椅子から半分ずり落ちる。

 

ハルカは、もう震えてもいなかった。

 

ホシノ「……つまり」

 

ホシノの声は、いつもより少しだけ低かった。

 

ホシノ「全員死ねば出られる、ってこと?」

 

看守「そのように解釈することも可能です」

 

ヒナが目を閉じた。

 

ナギサの指が、書きかけの紙の上で止まった。

 

ユウカは、握っていた紙を潰した。

 

ユウカ「……最初から、そういう設計だったんですね」

 

ユウカ「協力すれば帰れるように見せて、実際には、殺し合っても同じ場所に着く」

 

ユウカ「どちらでも構わない。そう言っているんです、これは」

 

サオリが立ったまま、看守を見ていた。

 

顎に力が入りすぎている。

 

朝、廊下で見たときと同じ顔だった。

 

看守「本日の審理を終了します。居住区への帰還を許可します」

 

照明が一段だけ落ちた。

 

誰も、立ち上がらなかった。

 

ミカは、まだ二つ隣の椅子を見ていた。

 

銀の帯の上で、棗イロハという名前が、変わらずそこにあった。

 

消えてもいない。

 

増えてもいない。

 

ただ、置かれている。

 

一番先に階段へ向かったのは、シロコだった。

 

シロコはホシノの袖を掴み、引くのではなく、握ったままそこに立っていた。

 

ミカが立ち上がったとき、隣にナギサがいた。

 

ミカ「……ナギちゃん」

 

ナギサ「はい」

 

ミカ「私さ。今、イロハちゃんを二回殺したね」

 

言葉にすると、思っていたより簡単な形をしていた。

 

ナギサ「違います」

 

ミカ「同じでしょ。あの子の名前を、あの子が何もしてないことのために使った」

 

ナギサ「使いました。それは事実です」

 

ナギサは誤魔化さなかった。

 

その誠実さが、今は少し痛かった。

 

ナギサ「ですが、あなたが今日したことと、人を殺すことは、別のものです」

 

ナギサ「混ぜてしまえば楽になります。だから、混ぜないでください」

 

ミカ「ナギちゃんって、そういうとこ、ずるいよね」

 

ナギサ「ええ。存じています」

 

階段の下から、まだ誰かの啜り泣きが聞こえていた。

 

ミカは一度そちらを見て、それから前を向いた。

 

ナギサ「それでも、あなたは誰も殺しませんでした」

 

ミカ「……まだ、ね」

 

法廷の照明が、最後の一段まで落ちた。

 

ミカは、掌の中の白い布を握り締めた。

 

乾いていたはずのそれが、指の間で少しだけ湿っていた。

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