温室の入口へ最初に着いたのは、ユウカだった。
走ってきたのに、境目のところで足を止める。
濡れた靴底が、土の上で短く鳴った。
ユウカ「……入って、いいんですか」
ヒナ「入口から二歩まで。それ以上は、記録を取ってから」
ユウカは頷き、その場に膝を折った。
中を見て、それから目を伏せた。
後から来た者たちが、順に同じ場所で止まる。
誰も、まだ何も言わなかった。
コハル「イロハ先輩……?」
小さな声だった。
答える者がいないことが、答えになった。
ハルカが息を吸い込む音がして、カヨコがその肩を後ろから押さえた。
カヨコ「ハルカ。見なくていい」
ハルカ「で、でも」
カヨコ「見なくていいって言った」
カヨコはハルカの体を、少しだけ入口の外へ向けた。
それから、自分は中へ目をやった。
カヨコの顔からは、何も読み取れなかった。
アズサ「このままにはしておけない」
最初にそれを口に出したのは、アズサだった。
アズサ「温度と湿度がある。時間が経つほど、分かることが減る」
ユウカ「だからこそ、動かすべきではありません。現場の位置関係が最大の情報です」
アズサ「情報のために置いておくのか」
ユウカ「そういう話ではありません」
言い返してから、ユウカは口を閉じた。
自分の声が硬すぎたことに、気づいたらしかった。
ナギサ「両方を満たす順番があります」
ナギサが一歩前へ出た。
ナギサ「記録を先に、すべて取ります。位置、向き、周囲の物、床の状態。その上で医務室へお運びする」
ホシノ「うへ~。……おじさんも、それがいいと思うよ」
ホシノ「順番が決まってないと、みんな自分の善いことをやっちゃうからねえ」
ヒナが硝子天井を仰ぎ、それから頷いた。
ヒナ「記録はノアさんとユウカに。図はナギサさん。私が位置を読み上げる」
ユウカ「触れる必要が出た場合は」
ヒナ「その都度、全員に言ってから」
紙をめくる音がした。
ミカは、その全部を入口の内側で聞いていた。
聞きながら、一歩も動かなかった。
ミカ「触らないで」
自分の声だと、遅れて気づいた。
ヒナ「聖園ミカ」
ミカ「記録は好きなだけ取ればいいよ。数えても、書いても、図にしても」
ミカ「でも、誰も、この子に手を置かないで」
温室の中の空気が、少しだけ止まった。
ユウカ「……運ぶ人が必要です」
ミカ「私がやる」
ユウカ「聖園さんは、体格的には確かに――」
ミカ「そういう理由で言ってない」
ミカは自分の手を見た。
朝、冷やしてもらった方の手。
その掌に、まだ布の感触が残っている気がした。
ミカ「イロハちゃん、面倒くさがりだったから」
ミカ「知らない人に触られるの、絶対に嫌がる」
誰も、それを否定しなかった。
シロコが黙って前へ出て、ミカの隣に立った。
シロコ「ん。二人の方がいい」
ミカ「……うん」
記録が終わるまで、四十分ちかくかかった。
ヒナが位置を読み上げ、ナギサが図に落とし、ユウカとノアがそれぞれ別の紙に書いた。
同じことを二人に書かせたのは、ユウカの提案だった。
あとで食い違いが出れば、それも情報になる、と。
ミカはその間、水盤の縁だけを見ていた。
雫が落ちる。
水面が揺れて、また平らになる。
平らになるところまでを、何度も目で追った。
ヒナ「外傷はない」
読み上げの最後に、ヒナはそう言った。
ヒナ「打撲も、擦過も、圧迫の跡も。服の乱れもないわ」
ユウカ「争っていない、ということですか」
ヒナ「そう見える。倒れたときの姿勢も、自分で倒れたのに近い」
コハル「じゃ、じゃあ、事故ってことも……」
ヒナ「あるかもしれない。でも、あの子のヘイローがない」
コハルの唇が動いて、音にならなかった。
ヒナ「ここでは、致命的な損傷に保護が働かないと言われたわ。裏を返せば、致命的でないものでは、ああはならない」
アズサ「何かは、確実に働いた」
ヒナ「ええ」
ミカは、頭の中で言葉を並べ直した。
傷がない。
争っていない。
それでも死んでいる。
三つを並べると、人の形をした答えが出てこなかった。
温室のいちばん奥に、サオリが立っていた。
ヒナに残れと言われた場所から、一歩も動いていない。
両手は、ずっと見える位置に下げたままだった。
ヒナ「錠前サオリ。ここへ来た理由を、もう一度」
サオリ「棗イロハを探していた」
ヒナ「誰かに頼まれて?」
サオリ「いや。帰着が遅れていると、廊下で聞いた」
ヒナ「聞いた相手は」
サオリ「……覚えていない。名前までは見なかった」
ヒナは、それを書き取っているナギサの手元を確かめた。
ナギサ「そのまま記録します。曖昧なものを、こちらで整えないように」
ミカは、サオリの方を見なかった。
見れば、また余計なことを考える。
考えたことを、事実の顔で並べてしまう。
それだけは、しないと決めていた。
ノアが自分の紙に時刻を書いた。
ノア「十五時四十分です。ここからを、私たちの調査時間として使いましょうか」
ユウカ「終了は十八時。移動時間を引くと、実質は二時間十分です」
ナギサ「では、組を分けます。単独行動は今回も禁止で」
紙の上に、四つの塊ができた。
温室に、ヒナとナギサとサオリ。
医務室と東側の経路に、ミカとコハルとシロコ。
時間と動線の検証に、ユウカとノアとホシノ。
収容棟の全室と、全員の所在の聞き取りに、カヨコとハルカとアズサ。
ユウカ「錠前さんを一人にしないのは分かります。ですが、聞かれる側を現場に置くのは」
ヒナ「現場を一番よく見ているのが本人だからよ。それに、嘘をつくならその場で確かめられる」
サオリ「私は構わない」
ミカ「そういうの、自分で言わないでくれる?」
言ってから、ミカは口を閉じた。
自分の声が、また尖っていた。
ナギサ「では、そのように。十七時四十分に食堂へ集合します」
運ぶのは、結局ミカとシロコだった。
ヒナが両手を空けて先を歩き、扉を開けた。
医務室の白い衝立の向こう、二つ並んだ寝台の片方に、ミカはイロハを横たえた。
髪が肩から落ちる。
ミカは、それを頬にかからない位置へ戻した。
ヒナが朝そうしたのと、同じ動きになった。
シロコ「布、かける?」
ミカ「……うん」
棚から新しい布を出そうとして、ミカは手を止めた。
棚は、朝と同じように一段だけ引き出されたままだった。
ミカ「コハルちゃん。ちょっと来て」
入口に立っていたコハルが、おそるおそる近づく。
ミカ「朝、この段。どうだった?」
コハル「え、と……閉まってた、と思う」
ミカ「思う、じゃなくて」
コハル「閉まってた」
コハルは自分の手を握った。
コハル「イロハ先輩が、ミカ先輩に渡す布を出したとき、私、見てたから。取ったあと、ちゃんと閉めてた」
コハル「あの人、そういうところ、きっちりしてたでしょ」
ミカ「……してた」
言ってから、過去の形で話したことに気づいた。
ミカは息を吸って、それを飲み込んだ。
シロコ「じゃあ、朝より後に、誰かが開けた」
ミカ「イロハちゃん自身かもしれないけどね」
シロコ「うん。でも、開けた」
シロコの言い方は、いつも一番少ない語数で必要なことだけを残す。
ミカは、その簡潔さに助けられた。
東側の鍵は、医務室の卓の上にあった。
薬品棚は施錠されている。数も合っている。
イロハは、確かにここへ来て、鍵を確かめて、置いた。
そこまでは分かった。
その先が、分からなかった。
渡り廊下に、足音が三つ増えたのは十六時半を回った頃だった。
ユウカとノア、それにホシノ。
ユウカ「聖園さん。ここを通ります。二分ほど、誰も動かないでいてください」
ミカ「何するの」
ユウカ「歩きます」
ユウカは廊下の端に立ち、片手を上げた。
ユウカ「ノア。もう一度、確認させてください。棗さんと別れた時刻は」
ノア「十五時十分です。食堂の時計で確認しています」
ユウカ「別れた場所は温室ではなく、食堂ですね」
ノア「はい。温室の記録を持って、二人で食堂まで戻りました。そこで棗さんが、医務室の鍵を確かめてくると」
ユウカ「そのとき、食堂にほかに誰かいましたか」
誰も手を挙げなかった。
少し離れたところで、カヨコが首を振った。
カヨコ「あたしは十五時前に出てる」
ユウカ「では、十五時十分という時刻は、ノアの申告だけが根拠です。そう記録します」
ノア「ええ。そう書いてください」
ノアは嫌な顔ひとつしなかった。
むしろ、自分から鉛筆を差し出した。
ミカは、それを見ていた。
自分が疑われる位置に置かれることを、この子は当たり前のように受け入れる。
できることではない、と思った。
ユウカ「始めます」
ユウカが歩き出した。
早足でも、走りでもない。荷物を持たない人間が、急ぐ用のあるときに出す速さ。
ホシノが指を折って数を取り、ノアが紙に書いていく。
食堂の扉から医務室の扉まで、二分四十秒。
医務室の扉から温室の入口まで、二十秒。
ユウカ「棗さんが医務室に着いたのは、およそ十五時十三分」
ノア「十三分の方が近いと思います。棗さんは、私より少し歩くのがゆっくりでしたから」
ユウカ「……妥当です。そう書きます」
ノアの鉛筆が、迷いなく動いた。
読みやすい字だ、とミカはまた思った。
こういう人が記録係でよかった、とも。
ユウカ「錠前さんの到着が十五時十九分。廊下の時計です。あれは食堂の時計と同期しています。二台とも見比べました」
ホシノ「じゃあ、空いてるのは」
ユウカ「九分です」
九分。
口の中で、ミカもその数を転がした。
朝からずっと動いていた一日の中の、たった九分。
ユウカ「そのうち、棗さんが医務室から温室へ移る二十秒を除くと、温室で使えた時間は最大六分弱」
ユウカ「六分で、外傷を残さず死亡させ、痕跡を残さず離脱できるか。検証します」
ユウカは温室へ入り、裏口から搬入路へ抜けた。
ホシノが数を取り続ける。
三分ほどで、収容棟の北側からユウカが戻ってきた。
息は少し上がっていたが、髪も服も乱れていない。
ユウカ「可能です」
言ってから、ユウカは自分の言葉に納得していない顔をした。
ユウカ「ですが、おかしいんです」
ミカ「何が」
ユウカ「私は今、土の上を二往復しました。靴の裏を見てください」
差し出された靴底に、黒い土がついていた。
ユウカ「温室の床にも、うっすら足跡が残ります。私のものが、今、増えました」
ユウカ「ですが、ヒナさんが記録した時点で、床にあった足跡は棗さんと錠前さんのものだけです」
ホシノ「掃いた、とか?」
ユウカ「掃けば掃いた跡が出ます。ありませんでした」
ユウカ「六分で人を殺して、足跡を残さず、道具も残さず、争いもさせない。……できすぎています」
ミカは、渡り廊下の窓から外を見た。
雨は上がりかけていた。
海へ向いた風見鶏が、灰色の空を背負って立っている。
風は吹いている。
尾羽は、朝から一度も動いていなかった。
ミカ「ユウカちゃん。もう一つ、数えてほしいものがあるんだけど」
ユウカ「何ですか」
ミカ「温室の日誌。あの、切り取られてた頁」
ミカ「あれ、朝の時点でもう切られてた。私と、コハルちゃんと、イロハちゃんで見た」
ユウカの手が止まった。
ノア「……棗さんの記録が残っています」
ノアが紙束の下から、一枚を抜き出した。
簡単な図と、几帳面な走り書き。
切り取り一枚。前後の日付を記録。今は、切り取られていたということだけで。
イロハの字だった。
ミカは、その紙を受け取らなかった。
受け取ったら、返す相手がいないことを、はっきり思い知る気がした。
ユウカ「朝、私たちは全員、同じ廊下にいました」
ユウカ「牢から出るまで、誰も一人になっていません」
ホシノ「……そっか」
ホシノ「じゃあ、あの紙を切った人は、おじさんたちが目を覚ます前に、ここにいたんだねえ」
誰も、それを引き取らなかった。
十八時。
礼拝堂の地下へ下りる階段は、思っていたより長かった。
扉の中央の天秤が、下りてくる者を一人ずつ通す。
円形の法廷には、十三の椅子が等間隔に並んでいた。
背もたれの上端に、細い銀の帯が走っている。
その帯に、名前が浮かんでいた。
聖園ミカ。錠前サオリ。静山ナギサ。
時計回りに読んでいくと、二つ隣の椅子で目が止まった。
棗イロハ。
名前だけが、まだそこにあった。
誰も、その椅子には座らなかった。
誰も、その椅子を動かさなかった。
コハル「……座っちゃ、だめだよね」
ヒナ「ええ。そのままで」
看守「開廷します。議題は、収容者・棗イロハの死亡を引き起こした魔女の特定です」
看守は円の中心に立っていた。
白い仮面の穴が、順に十二人を舐めていく。
看守「過半数の指名を受けた収容者を、処刑対象として認定します」
ナギサ「発言の手順を決めます。よろしいですか」
ナギサが立ち上がった。
ナギサ「まず事実の確認。次に各自の所在。最後に質問。感想と推測は、必ずそう断ってから述べてください」
ナギサ「それから、誰かの発言中に遮らないこと。ここで一番危険なのは、大きな声が事実に見えることです」
誰も反対しなかった。
ユウカが立ち、紙を広げた。
外傷なし。ヘイローなし。争いの跡なし。
医務室の布の棚が、朝以降に開けられたこと。
日誌の頁が、朝より前に切られていたこと。
そして、九分。
数字が読み上げられるたび、円の空気が硬くなっていった。
ユウカが座るのを待って、椅子が一つ鳴った。
サオリ「私が最も疑わしい」
立ち上がったのは、サオリだった。
ざわめきは起きなかった。
全員が、それを予想していたからだ。
サオリ「理由を挙げる。四つある」
サオリ「一つ。遺体の傍にいたのは私だ。三人がそれを見た」
サオリ「二つ。今朝、私は温室へ行った。棚を調べ、棗イロハを見ている」
サオリ「三つ。反響障壁の性質を、私は誰より早く知っていた。試したからだ。試す人間は、ほかのことも試す」
サオリ「四つ。私は以前、人を殺すための場所にいた」
最後の一つを言うとき、サオリの声は同じ高さのままだった。
サオリ「以上だ。私を指名するのが、いま最も筋が通る」
ミカは、掌の中の布を握った。
朝、渡された白い布。
現場の記録が終わったあと、ヒナが返してくれたものだ。
ミカ「……何それ」
サオリ「事実だ」
ミカ「事実を並べれば偉いと思ってる?」
サオリ「思っていない」
ヒナ「錠前サオリ」
ヒナの声が、いつもより低くなった。
ヒナ「自分から並べる人間は、たいてい一つ隠すのよ」
サオリは、否定しなかった。
サオリ「隠している。だが、今の議題とは関係がない」
ユウカ「関係の有無を決めるのは、あなたではありません」
サオリ「そうだ。だから、隠していると言った」
ユウカが言葉に詰まった。
ナギサが手元へ書きつける。
ナギサ「保留として記録します。今は追及しません。追及すれば、答えが出るまで帰れなくなりますから」
アズサ「サオリ」
初めて、アズサが口を開いた。
アズサ「布は」
サオリ「床に落ちていた。拾った」
ユウカ「棚から出したのではなく?」
サオリ「私は医務室の棚に触れていない」
ユウカ「棚が開いていたのは、見ましたか」
サオリ「……見ていない」
ユウカ「見ていないのか、開いていなかったのか」
サオリ「見ていない」
サオリは、確かでないことを一言も言わなかった。
その徹底が、ここでは全部裏目に出ていた。
ミカには、それが分かった。
分かったところで、疑いは消えなかった。
看守「投票を行います。棄権は可能です」
最初の投票は、すぐに終わった。
看守「有効票、四。錠前サオリ、三。聖園ミカ、一」
ミカは、思わず笑った。
乾いた音になった。
ミカ「へえ」
看守「過半数に達していません。審理を継続します」
コハル「ま、待って、今の……誰が」
看守「投票は無記名です」
コハル「そんなの……!」
ヒナ「コハル。座って」
コハルは唇を噛んで座った。
ミカは、円をひと巡り見渡さないようにした。
見れば、探してしまう。
探せば、勝手に見つけてしまう。
二回目の投票も、三回目も、数字は動かなかった。
棄権が減らない。
法廷の照明は、一度も落ちなかった。
その間に、同じ話が三度繰り返された。
九分。足跡。棚。日誌。
言葉が擦り切れて、意味が薄くなっていくのが分かった。
ユウカ「もう一度、確認します。錠前さんが温室に着いたのは」
サオリ「十五時十九分だ」
ユウカ「それを見た人は」
サオリ「いない」
ユウカ「……先ほどと同じ答えです」
サオリ「同じ質問だからだ」
誰かが小さく咳をした。
その音が、やけに大きく響いた。
ホシノ「ねえ、看守さん。水は?」
看守「審理中の給食および給水は行いません」
ホシノ「うへ~……。そういうところだよねえ」
ホシノは背もたれに体を預け、帽子のつばを下げた。
眠っているように見えて、そうでないことは、ミカにも分かった。
時間の感覚が薄くなっていく。
四回目の集計のあと、円の端で椅子が鳴った。
ハルカの膝が震えていた。
ハルカ「ご、ごめんなさい」
カヨコ「ハルカ」
ハルカ「わ、私が、入れれば……終わるなら……」
カヨコがハルカの背に手を回し、そのまま体重を預けさせた。
カヨコ「息、吐いて。吸うのは後でいい」
ハルカ「でも、みんな、帰れなくて」
カヨコ「あんたが決めなきゃいけない理由がない」
カヨコの手は、ハルカの肩を叩かなかった。
ただ、動かないように置かれているだけだった。
ミカは、その手を見ていた。
このまま朝まで続けば、ハルカが一番先に壊れる。
次はコハルだろう。
そして誰かが、いちばん少ない痛みで済む相手を探し始める。
ミカの頭の回転は、こういうときに速すぎる。
そのことを、ミカは自分でよく知っていた。
ミカ「ねえ」
全員がこちらを向いた。
ミカ「さっきから、ずっと引っかかってたんだけどさ」
ミカ「私たち、何を訊かれてる?」
ユウカ「棗さんの死亡を引き起こした人物を――」
ミカ「違う」
ミカ「犯人じゃない。魔女を特定しろって言われてる」
ミカは、円の中心の看守を見た。
ミカ「わざわざ分けたよね、その言葉」
看守「規定の名称です」
ミカ「じゃあ聞くね。死んだ人を指名するのは、規則で禁止されてる?」
円が、完全に静かになった。
看守「収容者の指名に、生死の条件はありません」
ミカは、握っていた布を膝の上へ置いた。
ミカ「なら、イロハちゃんを指名しよう」
最初に立ち上がったのは、ユウカだった。
ユウカ「……死者に、罪を着せるんですか」
ミカ「うん」
ユウカ「本気で言っているんですか」
ミカ「本気だよ」
ユウカ「棗さんは何もしていません。それは、あなたが一番よく知っているはずでしょう」
ミカ「知ってる」
ハルカ「そんなの……そんなの、だめです……」
ハルカの声が、途中から形をなくした。
カヨコが受け止めたが、止めはしなかった。
ミカ「正しくないよ。私だって分かってる」
ミカ「でも、正しいのが出てくるまで待ってたら、この中の誰かが先に潰れる」
ミカ「私たちが選べるのは、正解じゃない。今より悪くならない方だけ」
ミカ「イロハちゃんは、もう、これ以上傷つかない」
言い終えて、ミカは自分の声が平坦だったことに気づいた。
平坦にしないと、最後まで言えなかった。
サオリ「ミカ」
ミカ「何」
サオリ「お前が言う必要はなかった」
ミカ「誰かが言うんだから、同じでしょ」
サオリ「同じではない」
ミカは、それに答えなかった。
答え方が分からなかった。
ヒナ「……それは、私が言うべきだった」
ヒナが両手を膝の上で組んでいた。
ヒナ「私が仕切ると言ったのよ。なら、一番汚い案を出すのも私の役目だった」
ミカ「じゃあ、次はヒナちゃんがやってよ」
ヒナ「ええ。次は私が言うわ」
軽い言い方に聞こえないよう、ヒナはそこで一度言葉を切った。
ヒナ「聖園ミカ。あなたの案に賛成する。でも、これを正しいことにはしない」
アズサ「賛成する。合理的だ」
アズサの声には、何の色もなかった。
その短さが、ミカの喉の奥を少しだけ焼いた。
ホシノ「うへ~……。おじさんも賛成かな」
ホシノ「今日ここで誰かが減るより、ずっといいよ。……いいって言い方は、変だけどねえ」
シロコ「ん。……分かった」
カヨコ「あたしも賛成。ハルカは棄権していい」
ハルカ「い、いえ……私も、入れます」
カヨコ「無理しなくていいよ」
ハルカ「無理じゃ、ないです」
ハルカ「イロハさんに、あとで、ちゃんと謝るので」
コハル「……私も」
コハルは涙を拭いもせずに手を挙げた。
コハル「私、この人の名前書くの、絶対嫌だから。嫌だけど、書く」
コハル「嫌だってことは、覚えておく」
ノア「棗さんのお名前が、こういう形で残るのは残念です」
ノア「……ですが、私も賛成します。記録には、この場の全部を書き残します」
最後まで座っていたのは、ナギサだった。
ナギサはゆっくり立ち上がり、ミカの方を向いた。
ナギサ「ミカさん。一つだけ、確認させてください」
ミカ「うん」
ナギサ「これは、棗さんを守るための案ですか」
ナギサ「それとも、私たちを守るための案ですか」
ミカは、膝の上の布を見た。
嘘は、いくらでも思いついた。
思いついたものは、どれも聞こえがよかった。
ミカ「……私たちのため」
ナギサの肩から、力が抜けた。
ナギサ「そう答えてくださって、よかった」
ナギサ「棗さんのためだと言われていたら、私は反対しました」
ナギサ「賛成します」
看守「投票を行います」
紙が回ってきた。
小さな四角い紙と、短い鉛筆。
ミカは、自分の膝の上でそれを広げた。
棗、と書いた。
一画目で、鉛筆の先が紙に食い込んだ。
朝、耳に鉛筆を挟んでいた横顔が浮かぶ。
備品の場所を気にして、鍵の一覧を作って、交換用ですと言って布を押しつけた人。
ミカは手を止めなかった。
止めたら、書けなくなると分かっていたからだ。
棗イロハ、と最後まで書いて、紙を二つに折った。
鉛筆の音が、十二人分。
そのうち二つは、動かなかった。
看守「有効票、十。棗イロハ、十」
看守「過半数を確認しました。棗イロハを処刑対象として認定します」
息を吐いた者がいた。
吐いたことを、すぐに恥じた顔をした者がいた。
ミカは、どちらでもなかった。
ただ、二つ隣の空いた椅子を見ていた。
看守「ただし対象はすでに――」
看守の脚が、一度だけ床を叩いた。
看守「審査完了として処理されます」
誰も、すぐには意味を取れなかった。
最初に立ち上がったのは、またユウカだった。
ユウカ「今、何と言いましたか」
看守「当該収容者の審査は、完了しています」
ユウカ「審査……個別審査資料の、あの封筒のことですか」
看守「はい」
ユウカ「棗さんは、回答していません。封筒は未開封のまま、食堂に――」
看守「死亡した収容者は、審査完了として処理されます」
ユウカの唇が、ゆっくり動いた。
ユウカ「死亡が、審査完了……?」
看守「そのとおりです」
ユウカ「では」
そこで、ユウカの声がわずかに掠れた。
ユウカ「退所条件を、もう一度言ってください」
看守「全収容者の審査完了をもって、退所を許可します」
法廷の空気が、音を立てずに落ちた。
コハルが椅子から半分ずり落ちる。
ハルカは、もう震えてもいなかった。
ホシノ「……つまり」
ホシノの声は、いつもより少しだけ低かった。
ホシノ「全員死ねば出られる、ってこと?」
看守「そのように解釈することも可能です」
ヒナが目を閉じた。
ナギサの指が、書きかけの紙の上で止まった。
ユウカは、握っていた紙を潰した。
ユウカ「……最初から、そういう設計だったんですね」
ユウカ「協力すれば帰れるように見せて、実際には、殺し合っても同じ場所に着く」
ユウカ「どちらでも構わない。そう言っているんです、これは」
サオリが立ったまま、看守を見ていた。
顎に力が入りすぎている。
朝、廊下で見たときと同じ顔だった。
看守「本日の審理を終了します。居住区への帰還を許可します」
照明が一段だけ落ちた。
誰も、立ち上がらなかった。
ミカは、まだ二つ隣の椅子を見ていた。
銀の帯の上で、棗イロハという名前が、変わらずそこにあった。
消えてもいない。
増えてもいない。
ただ、置かれている。
一番先に階段へ向かったのは、シロコだった。
シロコはホシノの袖を掴み、引くのではなく、握ったままそこに立っていた。
ミカが立ち上がったとき、隣にナギサがいた。
ミカ「……ナギちゃん」
ナギサ「はい」
ミカ「私さ。今、イロハちゃんを二回殺したね」
言葉にすると、思っていたより簡単な形をしていた。
ナギサ「違います」
ミカ「同じでしょ。あの子の名前を、あの子が何もしてないことのために使った」
ナギサ「使いました。それは事実です」
ナギサは誤魔化さなかった。
その誠実さが、今は少し痛かった。
ナギサ「ですが、あなたが今日したことと、人を殺すことは、別のものです」
ナギサ「混ぜてしまえば楽になります。だから、混ぜないでください」
ミカ「ナギちゃんって、そういうとこ、ずるいよね」
ナギサ「ええ。存じています」
階段の下から、まだ誰かの啜り泣きが聞こえていた。
ミカは一度そちらを見て、それから前を向いた。
ナギサ「それでも、あなたは誰も殺しませんでした」
ミカ「……まだ、ね」
法廷の照明が、最後の一段まで落ちた。
ミカは、掌の中の白い布を握り締めた。
乾いていたはずのそれが、指の間で少しだけ湿っていた。