夜のあいだに、ミカは廊下を三度歩いた。
一度目は水を飲むためだった。
二度目には、理由がなかった。
三度目に、厨房の明かりがついているのを見つけた。
配膳口の銀色の板は下りたままで、その手前で、ホシノが鍋を火にかけていた。
ホシノ「うへ~。……見つかっちゃったねえ」
ミカ「何してるの」
ホシノ「お湯。沸かしてるだけだよ」
ミカ「こんな時間に?」
ホシノ「こんな時間だから、かなあ」
湯気が立つまで、ホシノは鍋の縁を見ていた。
ミカは調理台に寄りかかった。
刃物は、最初から一本もない。
棚の上には、昨日の夕食で誰も手をつけなかったパンが、布をかけて置かれていた。
ホシノ「ミカちゃん、寝てないでしょ」
ミカ「ホシノちゃんも」
ホシノ「おじさんは寝たよ。三十分くらい」
ホシノ「これでも、寝るのは得意なんだ」
白い椀が二つ出てきて、片方に湯が注がれた。
それから、棚のパンが半分に割られ、片方だけが皿に載る。
ホシノ「はい」
ミカ「いらない」
ホシノ「そっか」
皿は下げられなかった。
ホシノは自分の椀に息を吹きかけ、ゆっくり飲んだ。
説教が来る、とミカは思っていた。
食べなさい、とか。
昨日のことは仕方なかった、とか。
どちらも来なかった。
ホシノ「昨日ね」
ミカ「うん」
ホシノ「看守さんが言ってたでしょ。事件が起きなきゃ裁判もないって」
ミカ「言ってた」
ホシノ「おじさん、あれ、覚えとこうって言ったんだ」
ホシノ「まだ覚えてるよ」
ミカは、椀から立つ湯気を見た。
ミカ「……役に立った?」
ホシノ「今んとこ、全然」
あっさり言われて、ミカは少しだけ笑った。
ホシノ「でもさ。ああいうのは、順番の話だから」
ホシノ「裁判をどうにかしようとする時点で、もう遅いんだよねえ」
ホシノ「昨日のミカちゃんは、遅くなってから、いちばんましなやつを引っぱり出した」
ホシノ「あれは、あれでよかったと思う」
ミカ「よくないよ」
ホシノ「うん。よくない」
ホシノ「よくないけど、あれでよかった」
二つは同時に立つ、という言い方だった。
ミカは、その並べ方を頭の中でもう一度なぞった。
ミカ「……ずるいよ、それ」
ホシノ「おじさん、説教が下手なんだ」
ホシノ「だから、ずるい言い方しか残ってないの」
ミカは皿へ手を伸ばした。
パンは硬くなっていた。
噛むと、顎の付け根が痛んだ。
ずっと歯を食いしばっていたらしいと、そのとき初めて分かった。
ホシノ「うへ~。よかった」
ミカ「何が」
ホシノ「明るくなる前に食べる人がいると、朝が来た感じがするじゃない」
窓の外は、まだ灰色だった。
海と空の境目だけが、少しずつ薄くなっていく。
その手前に、風見鶏が立っている。
風はある。
尾羽は、動かなかった。
朝食の席で、最初に声を上げたのはコハルだった。
コハル「……あれ」
コハル「私の輪、線が増えてる」
袖をまくった腕が、卓の上へ差し出される。
銀色の内側に、細い黒の線が二本走っていた。
ユウカ「昨日は一本でしたか」
コハル「一本だった。絶対」
ユウカが自分の袖を上げた。
二本。
ナギサも、ハルカも、ヒナも、順に袖を上げていく。
ユウカ「全員、昨日より一本増えています。例外はありません」
ユウカ「聖園さんは」
ミカは手袋を外し、袖を上げた。
三本。
二本の者たちの視線が、そこで少し止まった。
ミカ「昨日、一本増えたところ、見られてるし」
ミカ「今さらでしょ」
自分の声が硬くなったのが、自分で分かった。
ヒナ「数えるのはいいけど、多い少ないで人を並べないで」
ユウカ「並べません。基準のないものを並べても、意味がありませんから」
壁際の看守へ、ユウカが顔を向けた。
ユウカ「魔女化の進行について、説明を」
看守「使用と情動により進行します」
ユウカ「上限は。何本で、どうなりますか」
看守「回答は用意されていません」
ユウカ「用意されていないのですか。それとも、答えないのですか」
看守「回答は用意されていません」
カヨコ「……同じこと二回言うのが、答えだね」
ナギサが配膳口の台車を確かめ、皿を数え直した。
ナギサ「配膳は、十二人分でした」
ナギサ「昨日と、一つ違います」
誰も、それを引き取らなかった。
ハルカは、配られたパンに手をつけていなかった。
膝の上で、両手が固く重なっている。
カヨコ「ハルカ」
ハルカ「はい」
カヨコ「食べな」
ハルカ「……はい」
スプーンが皿に当たって、乾いた音を立てた。
その音に、ハルカ自身が跳ねた。
ハルカ「す、すみません」
カヨコ「謝るところじゃない」
ハルカ「でも、あの、私」
ハルカ「……こわい」
小さな声だった。
言った本人が、いちばん驚いた顔をした。
次の瞬間、食堂の空気が変わった。
ミカには、それをうまく説明できなかった。
胃の下のあたりに、朝からずっと石のようなものがあった。
それが、急に半分の重さになった。
なくなったのではない。軽くなった。
コハル「……え」
コハル「なんで」
シロコ「ん」
シロコ「息が、しやすい」
ホシノが帽子のつばを上げた。
ヒナが自分の胸元へ手を当てた。
全員が、同じ順番で同じ顔をした。
ただ一人を除いて。
ハルカの唇から、色が引いていた。
両手が震え、椅子の背に爪が立っている。
カヨコ「ハルカ」
カヨコの動きが、いちばん速かった。
背中へ手を回し、体重を受け止める。
ハルカ「だい、じょうぶ、です」
ハルカ「……あ」
ハルカ「線が」
袖の下で、輪の内側の線が三本になっていた。
ユウカ「今、何をしましたか」
ハルカ「な、何も……ただ、怖いって……」
ユウカ「口に出した。それだけですか」
ハルカ「……はい」
誰も、すぐには言葉を続けなかった。
ミカは自分の中の石を確かめた。
軽い。
軽くなった分がどこへ行ったのかは、目の前にあった。
ハルカ「私」
震えたまま、ハルカが顔を上げた。
ハルカ「私、役に立てました……?」
その声には、はっきりと喜びがあった。
ミカの喉の奥が詰まった。
カヨコ「それは違う」
カヨコの声は、大きくなかった。
カヨコ「あんたが重くなった分、こっちが軽くなっただけ。全部で見たら、何も減ってない」
カヨコ「持つ場所が変わっただけのことを、役に立ったとは言わないよ」
ハルカ「で、でも、みんなが楽になるなら」
カヨコ「ハルカが一人で持つ理由がない」
ハルカの口が閉じた。
カヨコは、背中の手を離さなかった。
アズサ「有用だ」
短く言ったのは、卓の端にいたアズサだった。
アズサ「恐怖で判断が鈍る場面はある。そこで使えば、全体の判断は上がる」
アズサ「ただし、伊草ハルカの消耗が先に来る。使う場面を決めておくべきだ」
ミカ「決めない」
思ったより強い声が出た。
ミカ「そういうのを決めた時点で、たぶん、もう終わりだから」
アズサはミカを見た。
反論はしなかった。
アズサ「……そうか」
それだけだった。
ヒナ「当面は使わない。それでいいわね」
ヒナ「ハルカ。怖いときに怖いと言うのは、やめなくていい」
ヒナ「ただ、私たちのために言うのはなし」
ハルカが、小さく頷いた。
頷きながら、まだ震えていた。
その場を動かしたのは、ユウカの声だった。
ユウカ「籠のパンが、十七個あります」
コハル「……え?」
ユウカ「布の下です。十七」
全員が籠を見た。
カヨコが布を取り、ハルカが数え、コハルが数え直した。
コハル「……十七」
ユウカ「私は、数えていません」
ユウカ「見た瞬間に、そこにありました。数という形で」
ユウカは椅子の背に手を掛け、部屋を一度見渡した。
ユウカ「椅子、十三。床のタイル、四百八十六。鍵は、十三本のうち、この部屋に四本」
シロコが鍵束を出して確かめ、頷いた。
ホシノ「うへ~。便利だねえ」
ユウカ「便利です。認めます」
ユウカ「調査の速度が、はっきり変わります」
ミカ「じゃあさ」
軽い気持ちだった。
場の空気を戻すつもりで言った。
ミカ「今、この部屋に人は何人?」
ユウカが顔を上げる。
口が、途中まで開いた。
そこで止まった。
ユウカは食堂をゆっくり見回した。
一人ずつ、顔をなぞるように。
それから、卓の下で指を折った。
数えなくていいはずの人が、指を折っていた。
コハル「ユウカさん?」
ユウカ「……いえ」
ユウカ「疲れているんだと思います。昨日から、まともに寝ていませんから」
ユウカ「今の質問は、記録しないでください」
ノア「はい」
ノアの鉛筆は、素直に止まった。
ミカは、それ以上聞かなかった。
聞かない方がいい種類の沈黙だと、そのときは思った。
食器を下げに立ったシロコが、途中で足を止めた。
シロコ「……線がある」
ホシノ「線?」
シロコ「床。人が通ったところに、残ってる」
シロコは屈み、何もない床に指を這わせた。
シロコ「ホシノ先輩、夜中に厨房行った」
ホシノ「うへ~」
シロコ「ミカも」
全員がこちらを向いた。
ミカ「……行ったよ。お湯もらいに」
シロコ「三回」
ミカは、返事をしなかった。
一度目は水を飲むため。
二度目には、理由がなかった。
理由のない一度が、床の上に線として残っている。
シロコ「……ごめん」
ミカ「別に。減るもんじゃないし」
シロコ「見ないようにする」
ミカ「いいよ、そんなの」
シロコ「よくない」
シロコは、それきり床を見なくなった。
正確には、床を見ないように歩くようになった。
その歩き方の方が、ミカには少し痛かった。
悲鳴が上がったのは、その直後だった。
コハル「ひゃっ……!」
コハルが椅子ごと後ろへ下がった。
両手で顔を覆い、指の間からハルカの方を見ている。
ハルカ「え、あ、私、何か」
コハル「ちが……違う、ハルカ先輩じゃなくて」
コハル「ハルカ先輩の、うしろ」
ミカは振り返った。
何もない。
白い壁と、椅子と、朝の光だけだ。
コハル「大きいの。人の形じゃなくて。……手だけ、いっぱいある」
コハル「こっち向いてる」
ハルカ「……あ」
ハルカの顔が、また白くなった。
何が見えているのか、本人には心当たりがあるらしかった。
誰も、それを聞かなかった。
ヒナ「コハル。目を閉じて」
コハル「閉じても、見える……」
ヒナ「じゃあ、こっちを見て。私の顔を」
コハルはヒナを見た。
それから、また悲鳴を飲み込んだ。
ヒナは、表情を変えなかった。
ヒナ「見えた?」
コハル「……見えた」
ヒナ「言わなくていいわ」
コハルは口を押さえたまま、何度も首を振った。
コハル「なんで」
声が、途中で崩れた。
コハル「なんで、私なの」
コハル「私、いちばん怖がりだよ。廊下の音でも跳ねるし、暗いのだって嫌だし」
コハル「なのに、なんで、怖いものを見る魔法なの」
コハル「そんなの、ずっと怖いままじゃない」
答える者はいなかった。
答えを持っている者が、この部屋にいなかった。
ミカは、コハルの隣の椅子に座った。
昨日の朝、この子が自分にしたのと同じ順番で。
椅子を引いて。
手の届く距離まで来て。
それから、何も言わずに待った。
ミカ「……私、うまいこと言えないんだけどさ」
コハル「うん」
ミカ「コハルちゃんの魔法、たぶん、いちばん役に立つ」
コハル「そんなの、慰めじゃない」
ミカ「慰めだよ」
コハル「……ミカ先輩、正直すぎ」
コハルは少し笑って、それから泣いた。
泣いている間、ミカは何も言わなかった。
廊下へ出たのは、そのすぐあとだった。
昨日ミカが外した居室の扉は、通行の邪魔になるので、廊下の端に重ねて置かれている。
壁からは離してある。
その一番上が、滑った。
ちょうど横を、コハルが通っていた。
ミカが動くより早く、ヒナの手が上がった。
音がした。
鉄が、床ではないものに当たる音だった。
扉はコハルの頭の上で一度止まり、それから横へ落ちた。
二人の間に、うっすらと光の面が残っていた。
すぐに消えた。
コハル「ひ、ヒナ先輩……?」
ヒナ「……動かないで」
ヒナは、自分の手を見ていた。
ユウカ「今のは、空崎さんですね」
ヒナ「たぶん」
ヒナは重なった扉の一枚に手を掛け、少しだけ持ち上げて、離した。
鉄が床を叩く。
何も起きなかった。
もう一度やった。
やはり、何も起きなかった。
三度目に、ヒナは自分の掌を見てから、手を下ろした。
ヒナ「……そういうことね」
ナギサ「ヒナさん」
ヒナ「私に向かってくるものには、出ないみたい」
ヒナ「人に向かっているときだけ、出る」
言い方は、いつもと同じ落ち着きだった。
落ち着いているほど、ヒナの声は低くなる。
ミカは、昨日それを聞いている。
ヒナ「よくできてるわ、この島」
ヒナ「性格を見て配ってる」
コハル「ヒナ先輩、それ」
ヒナ「都合はいいのよ。私が最後まで残るなら、全員分張れる」
ミカ「やめてよ」
自分の声が、廊下に響いた。
ミカ「そういう計算、しないで」
ヒナ「してないわ」
ミカ「してるじゃん」
ヒナ「……そうね」
ヒナは、否定を続けなかった。
それが、いちばん質の悪い肯定だった。
落ちた扉は、床で角が潰れていた。
もともと、ミカが蝶番ごと外したものだ。
端のあたりは、昨日、壁に触れた反響で歪んでいる。
ミカはそれを持ち上げようとして、縁に指を掛けた。
直ればいいのに、と思った。
思っただけだった。
左手首が熱くなった。
音はしなかった。
光もなかった。
ただ、手の中の重さが変わった。
潰れた角が、まっすぐになっている。
握り潰したように歪んでいた端が、傷ひとつない面に戻っていた。
外れたはずの蝶番の金具まで、揃っている。
コハル「……え」
ユウカ「聖園さん。今、何をしましたか」
ミカ「……何も」
ミカ「元に戻ればいいのに、って思っただけ」
ユウカ「検証します。時間をください」
ユウカは厨房から木のさじを二本持ってきた。
一本目を、自分の手で折った。
ユウカ「どうぞ」
ミカは折れたさじを持ち、さっきと同じことを考えた。
何も起きなかった。
輪も、熱くならなかった。
ユウカ「二本目を、あなたが折ってください」
ミカが折った。
乾いた音がした。
その音のあとで、さじは折れる前の形に戻っていた。
ユウカ「もう一度、同じものを」
ミカはさじを折り直し、また戻そうとした。
今度は、戻らなかった。
三度目も、同じだった。
ユウカ「条件が三つ出ました」
ユウカ「一つ。あなたが壊したものであること」
ユウカ「二つ。戻る先は、壊れる直前であること」
ユウカ「三つ。同じものについては、一度きり」
ミカは折れたさじを卓へ置いた。
自分の口で言った方がいい気がした。
ミカ「私が壊したものじゃないと、戻せない」
ミカ「私が壊したものを、壊れる直前まで。一回だけ」
ミカ「それだけ」
言い終えたとき、ミカはもう歩き出していた。
誰かが名前を呼んだ。
返事をしなかった。
渡り廊下を抜けて、医務室の扉を開ける。
白い衝立の向こうは、朝の光のせいで、思ったより明るかった。
二つ並んだ寝台の片方に、布がかけられている。
ミカは、その傍らに膝をついた。
昨日、自分が下ろした位置のままだった。
髪も、ヒナが直した位置のままだった。
ミカ「イロハちゃん」
布の端へ、手を置いた。
元に戻ればいい。
昨日の、十五時十分に。
鉛筆を耳に挟んで、備品の場所を気にして、面倒くさそうな顔をしていたところに。
左手首は、熱くならなかった。
何も起きなかった。
ミカは、もう一度手を置いた。
位置を変えた。
布を外して、置き直した。
何度目かで、後ろに人がいることに気づいた。
振り返らなくても分かった。
サオリは、何も言わなかった。
止めもしなかった。
入口のところに立って、ただ見ていた。
ミカは、手を下ろした。
ミカ「……私が壊したものだけ、なんだって」
ミカ「私が壊したものを、壊れる直前まで」
ミカ「この子は、私が壊したんじゃない」
言葉にすると、順序が正しく並んだ。
正しく並ぶことが、これほど腹立たしいとは思わなかった。
ミカ「じゃあさ」
ミカ「私が殺してたら、戻せたのかな」
サオリの靴が、一歩分だけ床を鳴らした。
それ以上は、近づかなかった。
ミカ「近づかないで」
サオリ「ああ」
ミカ「あと、何も言わないで」
サオリ「ああ」
言った通りにされると、余計に困った。
ミカは膝の上で拳を握り、それから、指の先まで開いた。
開いても、掌には何もなかった。
泣けばいいのに、と思った。
思ったことと、体は関係がなかった。
目の奥は乾いたまま、熱だけが残った。
左手首の線は、四本になっていた。
昼前に、食堂へ全員が集まった。
議題は、魔法をどう扱うか。
最初の三十分で、話は二度こじれた。
申告を義務にするかどうかで、ユウカとアズサが正面からぶつかった。
ユウカ「危険の共有と、能力の公開は違います」
アズサ「区別している余裕のある状況か」
ユウカ「余裕がないときほど、区別が要るんです」
どちらも譲らなかった。
ホシノが茶々を入れ、カヨコが黙って卓を指で叩いた。
ミカは口を挟まなかった。
昨日、自分が口を挟んだ結果を、まだ引きずっていた。
ナギサ「では、今日はここまでにしましょう」
ナギサが言った。
それだけだった。
ユウカが座った。
アズサが顎を引いた。
三十分続いた言い合いが、二秒で終わった。
ミカは、その速さに何も感じなかった。
感じなかったことに、少し遅れて気づいた。
最初に気づいたのは、ナギサ自身だった。
書きかけの紙の上で、ペン先が止まっていた。
ナギサ「……ユウカさん」
ユウカ「はい」
ナギサ「昨日、棗さんと生塩さんが別れた時刻は、十五時十二分でしたね」
ユウカの手が止まった。
ミカは顔を上げた。
十五時十分。
昨日、何度も繰り返された数字だ。
法廷で、四回は読み上げられている。
ユウカ「……十五時、十二分」
ユウカ「そう……でしたか」
ノア「私は、十分と申し上げました」
ユウカ「はい。ですが」
ユウカは、そこで言葉を切った。
自分の口から出たものを、自分で聞き返した顔だった。
ユウカ「……なぜ、私は今、頷きかけたんでしょう」
ナギサがペンを置いた。
置く音が、やけに小さかった。
ナギサ「十五時十分です。今のは、私が意図して間違えました」
ナギサ「試すような真似をして、申し訳ありません」
ユウカ「試した」
ナギサ「ええ」
ナギサは、全員の顔を順に見た。
誰の目も、逸らさなかった。
ナギサ「私の言葉は、聞いた人の判断に、本来より重い意味を持ちます」
ナギサ「私が言ったというだけで、正しさが増えます。中身とは関係なく」
誰も、すぐには声を出さなかった。
ミカは、昨日の法廷を思い返した。
最後に賛成したのは、ナギサだった。
あのとき、円の空気が固まったのを、ミカは覚えている。
ナギサ「ですから、決めます」
ナギサ「これから裁判では、事実の確認と、手続きの進行以外を述べません」
ナギサ「意見も、推測も、評価も」
ユウカ「……それは、あなたの発言力を、自分で捨てるということですか」
ナギサ「はい」
ユウカ「不利になります。明確に」
ナギサ「なります」
ヒナ「ナギサさん」
ヒナの声が、少しだけ低くなった。
ヒナ「それを言った瞬間から、あなたは誰にも守ってもらえなくなるわよ」
ナギサ「ええ」
ヒナ「分かってて言ってるのね」
ナギサ「ええ」
二人の間で、それ以上の言葉は交わされなかった。
交わす必要がないらしかった。
ミカには、その短さの意味が、半分しか分からなかった。
半分は分かった。
仕切る側に立った人間だけが知っている重さだ。
ミカ「ナギちゃん」
ナギサ「はい」
ミカ「昨日の朝、言ってたよね。ちゃんとして見せてるんです、って」
ナギサの指が、紙の端をなぞった。
ナギサ「言いました」
ミカ「あれ、謙遜だと思ってた」
ナギサ「私も、そのつもりでした」
ナギサ「見せていたものが、本当に効いていたのだと分かって……少し、気分が悪いです」
ミカは何か言おうとして、やめた。
この人に、今、自分の言葉で重みを足すのは違う気がした。
場を継いだのは、ノアだった。
ノア「私も、申告しておきますね」
ノア「一度読んだ文字を、忘れないようです」
コハル「忘れない……?」
ノア「はい。読んだものが、そのままの形で残っています」
ユウカ「確認します。昨日の温室の記録、三枚目の上から四行目を」
ノア「『水盤の縁に水滴。床の湿りは中央付近のみ。土は乾いている』」
ユウカ「……五枚目の、最後の行」
ノア「『十五時四十分。調査開始。終了予定は十八時』」
ユウカが紙をめくって、確かめた。
二度、確かめた。
ユウカ「合っています」
ざわめきが起きた。
悪い種類のものではなかった。
コハル「じゃあ、紙がなくなっても平気ってこと?」
ノア「平気とは言えませんが、書き直せます」
ホシノ「うへ~。それ、めちゃくちゃ助かるねえ」
シロコ「ん。燃えても大丈夫」
カヨコ「濡れても、ね」
ヒナ「記録係は、正式にノアさんに。異論のある人は」
誰も手を挙げなかった。
ノア「お引き受けします」
ノア「ただ、私の記憶と紙の記録が食い違ったときは、紙を優先してください」
ユウカ「なぜです」
ノア「私が間違えていた場合に、誰も気づけなくなりますから」
ユウカが、小さく息を吐いた。
ユウカ「……あなたのそういうところ、昔から嫌いではありません」
ノア「知っています」
久しぶりに、笑いらしい笑いが起きた。
ミカも笑った。
助かった、と素直に思った。
紙が残らなくてもいい、ということの意味を、そのときは誰も口にしなかった。
コハル「ノアさんの字、すごく読みやすいよね」
コハル「私、黒板の字とか、いつも半分しか読めないんだけど」
コハル「これ、全部読める」
ノア「ありがとうございます」
ノア「読む人がいる字を書きたいので」
ミカは、卓の上の紙を見た。
昨日も、同じことを思った。
読みやすい、整った字だ。
昼を過ぎて、取り決めの第二版ができた。
ノアが清書し、全員が順に署名した。
一つ。誰も一人にしない。移動は三人以上。二人になった時点で、どちらかが声を出す。
二つ。魔法を人に試さない。本人が同意していても。自分に試す場合も、必ず誰かが見ている場所で。
三つ。危険な作用だけは共有する。能力の詳細の申告は義務にしない。
四つ。使ったら、使ったと言う。輪の線は、毎朝、全員で確かめる。
五つ。推測を口にするときは、推測だと断ってから。
六つ。医務室と温室には、二人以上で入る。
七つ。夜間、廊下の明かりを消さない。
署名の途中で、ホシノが手を挙げた。
ホシノ「あ。おじさんのも言っとくね」
ホシノ「触ると、相手がちょっと眠くなるみたい。ほんの少しだけ」
ホシノ「あと、寝てる間は、痛いのが止まるっぽいよ」
コハル「そ、それ、すごく便利じゃない?」
ホシノ「便利だけどねえ。寝てる人は、何もできないから」
ホシノ「使うときは、先に言う。約束する」
シロコが、ホシノの袖を掴んだ。
昨日の法廷のときと、同じ握り方だった。
最後に残ったのは、サオリだった。
ユウカ「錠前さん」
サオリ「……まだ、話せる形にできない」
ユウカ「発現していないのですか。それとも、していて言わないのですか」
サオリ「している」
ユウカ「では、危険の有無だけでも」
サオリ「他人に危険はない。それだけは言える」
ミカ「他人には、ね」
言ってから、ミカは自分の口を少し憎んだ。
サオリは答えなかった。
答えないことは、ミカの言ったことを否定しなかった。
ヒナ「今日は、それでいい」
ヒナ「三つ目の項目は、そのために作ったのよ」
ユウカ「……納得はしていません。そのことも記録してください」
ノア「記録します」
夕方、ミカは医務室にいた。
六つ目の項目に従って、扉の外にはコハルが立っている。
中を見なくていいと言ったのに、ついてきた。
洗い場の水は、思ったより冷たかった。
白い布を沈めて、指の腹で押す。
温室の床に落としたときについた土が、少しずつ出てくる。
水が薄く濁った。
二度替えて、三度目でようやく澄んだ。
背後で、扉が開いた。
コハル「あ、サオリさん」
足音が、洗い場の手前で止まった。
サオリ「……何をしている」
ミカ「見れば分かるでしょ」
サオリ「洗っている」
ミカ「そう」
それきり、会話が止まった。
水の音だけが続いた。
ミカは布を絞り、広げて、また沈めた。
汚れは、もう落ちている。
それでも、手が止まらなかった。
サオリ「もう、落ちている」
ミカ「知ってる」
サオリ「そうか」
サオリは、それ以上言わなかった。
代わりに、洗い場の縁へ手を掛けた。
その手が、ミカの視界に入った。
右手の手袋。
指の付け根の裂け目は、昨日より広がっていた。
その下の、手の甲。
皮膚が、赤黒く変わっている。
火に触れたときのような跡だった。
昨日、この人はどこにも触れていない。
少なくとも、ミカの見ていた範囲では。
ミカ「それ、何」
サオリの手が引かれた。
遅かった。
サオリ「……あとで話す」
ミカ「またそれ」
サオリは目を逸らさなかった。
逸らさないまま、何も言わなかった。
ミカは布を絞った。
絞りすぎて、指が白くなった。
ミカ「あのさ」
ミカ「あなたが黙るたびに、私、あなたを疑う理由が一個ずつ増えるんだけど」
サオリ「分かっている」
ミカ「分かっててやるんだ」
サオリ「ああ」
その返事だけは、いつも速い。
ミカ「……サオリ」
名前で呼んだのは、自分でも意外だった。
ミカ「早くしてよ」
サオリの肩が、わずかに動いた。
サオリ「ああ」
足音が遠ざかる。
扉が閉まる音がして、廊下でコハルが何か言った。
ミカは水を止めた。
布を絞り、二度振って、皺を伸ばす。
洗い場の縁の金具へ掛けた。
ここなら、朝には乾く。
乾いたら、畳んで、棚へ戻す。
棚の段は、きちんと閉める。
あの人は、そういうところが、きっちりしていたから。
乾いたら、畳んで、返す。
返す。
その一語のところで、指が止まった。
ミカは掛けた布の端をつまみ、まっすぐに直した。
それから、もう一度直した。
二度目は、直す必要がなかった。
白い衝立の向こうは、静かだった。
窓の外では、風見鶏が海を向いたまま、動かずにいた。