ブルアカ少女ノ魔女裁判   作:すーぱーりっかちゃん

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ミカ『戻らないものが、あるんだ』

夜のあいだに、ミカは廊下を三度歩いた。

 

一度目は水を飲むためだった。

 

二度目には、理由がなかった。

 

三度目に、厨房の明かりがついているのを見つけた。

 

配膳口の銀色の板は下りたままで、その手前で、ホシノが鍋を火にかけていた。

 

ホシノ「うへ~。……見つかっちゃったねえ」

 

ミカ「何してるの」

 

ホシノ「お湯。沸かしてるだけだよ」

 

ミカ「こんな時間に?」

 

ホシノ「こんな時間だから、かなあ」

 

湯気が立つまで、ホシノは鍋の縁を見ていた。

 

ミカは調理台に寄りかかった。

 

刃物は、最初から一本もない。

 

棚の上には、昨日の夕食で誰も手をつけなかったパンが、布をかけて置かれていた。

 

ホシノ「ミカちゃん、寝てないでしょ」

 

ミカ「ホシノちゃんも」

 

ホシノ「おじさんは寝たよ。三十分くらい」

 

ホシノ「これでも、寝るのは得意なんだ」

 

白い椀が二つ出てきて、片方に湯が注がれた。

 

それから、棚のパンが半分に割られ、片方だけが皿に載る。

 

ホシノ「はい」

 

ミカ「いらない」

 

ホシノ「そっか」

 

皿は下げられなかった。

 

ホシノは自分の椀に息を吹きかけ、ゆっくり飲んだ。

 

説教が来る、とミカは思っていた。

 

食べなさい、とか。

 

昨日のことは仕方なかった、とか。

 

どちらも来なかった。

 

ホシノ「昨日ね」

 

ミカ「うん」

 

ホシノ「看守さんが言ってたでしょ。事件が起きなきゃ裁判もないって」

 

ミカ「言ってた」

 

ホシノ「おじさん、あれ、覚えとこうって言ったんだ」

 

ホシノ「まだ覚えてるよ」

 

ミカは、椀から立つ湯気を見た。

 

ミカ「……役に立った?」

 

ホシノ「今んとこ、全然」

 

あっさり言われて、ミカは少しだけ笑った。

 

ホシノ「でもさ。ああいうのは、順番の話だから」

 

ホシノ「裁判をどうにかしようとする時点で、もう遅いんだよねえ」

 

ホシノ「昨日のミカちゃんは、遅くなってから、いちばんましなやつを引っぱり出した」

 

ホシノ「あれは、あれでよかったと思う」

 

ミカ「よくないよ」

 

ホシノ「うん。よくない」

 

ホシノ「よくないけど、あれでよかった」

 

二つは同時に立つ、という言い方だった。

 

ミカは、その並べ方を頭の中でもう一度なぞった。

 

ミカ「……ずるいよ、それ」

 

ホシノ「おじさん、説教が下手なんだ」

 

ホシノ「だから、ずるい言い方しか残ってないの」

 

ミカは皿へ手を伸ばした。

 

パンは硬くなっていた。

 

噛むと、顎の付け根が痛んだ。

 

ずっと歯を食いしばっていたらしいと、そのとき初めて分かった。

 

ホシノ「うへ~。よかった」

 

ミカ「何が」

 

ホシノ「明るくなる前に食べる人がいると、朝が来た感じがするじゃない」

 

窓の外は、まだ灰色だった。

 

海と空の境目だけが、少しずつ薄くなっていく。

 

その手前に、風見鶏が立っている。

 

風はある。

 

尾羽は、動かなかった。

 

朝食の席で、最初に声を上げたのはコハルだった。

 

コハル「……あれ」

 

コハル「私の輪、線が増えてる」

 

袖をまくった腕が、卓の上へ差し出される。

 

銀色の内側に、細い黒の線が二本走っていた。

 

ユウカ「昨日は一本でしたか」

 

コハル「一本だった。絶対」

 

ユウカが自分の袖を上げた。

 

二本。

 

ナギサも、ハルカも、ヒナも、順に袖を上げていく。

 

ユウカ「全員、昨日より一本増えています。例外はありません」

 

ユウカ「聖園さんは」

 

ミカは手袋を外し、袖を上げた。

 

三本。

 

二本の者たちの視線が、そこで少し止まった。

 

ミカ「昨日、一本増えたところ、見られてるし」

 

ミカ「今さらでしょ」

 

自分の声が硬くなったのが、自分で分かった。

 

ヒナ「数えるのはいいけど、多い少ないで人を並べないで」

 

ユウカ「並べません。基準のないものを並べても、意味がありませんから」

 

壁際の看守へ、ユウカが顔を向けた。

 

ユウカ「魔女化の進行について、説明を」

 

看守「使用と情動により進行します」

 

ユウカ「上限は。何本で、どうなりますか」

 

看守「回答は用意されていません」

 

ユウカ「用意されていないのですか。それとも、答えないのですか」

 

看守「回答は用意されていません」

 

カヨコ「……同じこと二回言うのが、答えだね」

 

ナギサが配膳口の台車を確かめ、皿を数え直した。

 

ナギサ「配膳は、十二人分でした」

 

ナギサ「昨日と、一つ違います」

 

誰も、それを引き取らなかった。

 

ハルカは、配られたパンに手をつけていなかった。

 

膝の上で、両手が固く重なっている。

 

カヨコ「ハルカ」

 

ハルカ「はい」

 

カヨコ「食べな」

 

ハルカ「……はい」

 

スプーンが皿に当たって、乾いた音を立てた。

 

その音に、ハルカ自身が跳ねた。

 

ハルカ「す、すみません」

 

カヨコ「謝るところじゃない」

 

ハルカ「でも、あの、私」

 

ハルカ「……こわい」

 

小さな声だった。

 

言った本人が、いちばん驚いた顔をした。

 

次の瞬間、食堂の空気が変わった。

 

ミカには、それをうまく説明できなかった。

 

胃の下のあたりに、朝からずっと石のようなものがあった。

 

それが、急に半分の重さになった。

 

なくなったのではない。軽くなった。

 

コハル「……え」

 

コハル「なんで」

 

シロコ「ん」

 

シロコ「息が、しやすい」

 

ホシノが帽子のつばを上げた。

 

ヒナが自分の胸元へ手を当てた。

 

全員が、同じ順番で同じ顔をした。

 

ただ一人を除いて。

 

ハルカの唇から、色が引いていた。

 

両手が震え、椅子の背に爪が立っている。

 

カヨコ「ハルカ」

 

カヨコの動きが、いちばん速かった。

 

背中へ手を回し、体重を受け止める。

 

ハルカ「だい、じょうぶ、です」

 

ハルカ「……あ」

 

ハルカ「線が」

 

袖の下で、輪の内側の線が三本になっていた。

 

ユウカ「今、何をしましたか」

 

ハルカ「な、何も……ただ、怖いって……」

 

ユウカ「口に出した。それだけですか」

 

ハルカ「……はい」

 

誰も、すぐには言葉を続けなかった。

 

ミカは自分の中の石を確かめた。

 

軽い。

 

軽くなった分がどこへ行ったのかは、目の前にあった。

 

ハルカ「私」

 

震えたまま、ハルカが顔を上げた。

 

ハルカ「私、役に立てました……?」

 

その声には、はっきりと喜びがあった。

 

ミカの喉の奥が詰まった。

 

カヨコ「それは違う」

 

カヨコの声は、大きくなかった。

 

カヨコ「あんたが重くなった分、こっちが軽くなっただけ。全部で見たら、何も減ってない」

 

カヨコ「持つ場所が変わっただけのことを、役に立ったとは言わないよ」

 

ハルカ「で、でも、みんなが楽になるなら」

 

カヨコ「ハルカが一人で持つ理由がない」

 

ハルカの口が閉じた。

 

カヨコは、背中の手を離さなかった。

 

アズサ「有用だ」

 

短く言ったのは、卓の端にいたアズサだった。

 

アズサ「恐怖で判断が鈍る場面はある。そこで使えば、全体の判断は上がる」

 

アズサ「ただし、伊草ハルカの消耗が先に来る。使う場面を決めておくべきだ」

 

ミカ「決めない」

 

思ったより強い声が出た。

 

ミカ「そういうのを決めた時点で、たぶん、もう終わりだから」

 

アズサはミカを見た。

 

反論はしなかった。

 

アズサ「……そうか」

 

それだけだった。

 

ヒナ「当面は使わない。それでいいわね」

 

ヒナ「ハルカ。怖いときに怖いと言うのは、やめなくていい」

 

ヒナ「ただ、私たちのために言うのはなし」

 

ハルカが、小さく頷いた。

 

頷きながら、まだ震えていた。

 

その場を動かしたのは、ユウカの声だった。

 

ユウカ「籠のパンが、十七個あります」

 

コハル「……え?」

 

ユウカ「布の下です。十七」

 

全員が籠を見た。

 

カヨコが布を取り、ハルカが数え、コハルが数え直した。

 

コハル「……十七」

 

ユウカ「私は、数えていません」

 

ユウカ「見た瞬間に、そこにありました。数という形で」

 

ユウカは椅子の背に手を掛け、部屋を一度見渡した。

 

ユウカ「椅子、十三。床のタイル、四百八十六。鍵は、十三本のうち、この部屋に四本」

 

シロコが鍵束を出して確かめ、頷いた。

 

ホシノ「うへ~。便利だねえ」

 

ユウカ「便利です。認めます」

 

ユウカ「調査の速度が、はっきり変わります」

 

ミカ「じゃあさ」

 

軽い気持ちだった。

 

場の空気を戻すつもりで言った。

 

ミカ「今、この部屋に人は何人?」

 

ユウカが顔を上げる。

 

口が、途中まで開いた。

 

そこで止まった。

 

ユウカは食堂をゆっくり見回した。

 

一人ずつ、顔をなぞるように。

 

それから、卓の下で指を折った。

 

数えなくていいはずの人が、指を折っていた。

 

コハル「ユウカさん?」

 

ユウカ「……いえ」

 

ユウカ「疲れているんだと思います。昨日から、まともに寝ていませんから」

 

ユウカ「今の質問は、記録しないでください」

 

ノア「はい」

 

ノアの鉛筆は、素直に止まった。

 

ミカは、それ以上聞かなかった。

 

聞かない方がいい種類の沈黙だと、そのときは思った。

 

食器を下げに立ったシロコが、途中で足を止めた。

 

シロコ「……線がある」

 

ホシノ「線?」

 

シロコ「床。人が通ったところに、残ってる」

 

シロコは屈み、何もない床に指を這わせた。

 

シロコ「ホシノ先輩、夜中に厨房行った」

 

ホシノ「うへ~」

 

シロコ「ミカも」

 

全員がこちらを向いた。

 

ミカ「……行ったよ。お湯もらいに」

 

シロコ「三回」

 

ミカは、返事をしなかった。

 

一度目は水を飲むため。

 

二度目には、理由がなかった。

 

理由のない一度が、床の上に線として残っている。

 

シロコ「……ごめん」

 

ミカ「別に。減るもんじゃないし」

 

シロコ「見ないようにする」

 

ミカ「いいよ、そんなの」

 

シロコ「よくない」

 

シロコは、それきり床を見なくなった。

 

正確には、床を見ないように歩くようになった。

 

その歩き方の方が、ミカには少し痛かった。

 

悲鳴が上がったのは、その直後だった。

 

コハル「ひゃっ……!」

 

コハルが椅子ごと後ろへ下がった。

 

両手で顔を覆い、指の間からハルカの方を見ている。

 

ハルカ「え、あ、私、何か」

 

コハル「ちが……違う、ハルカ先輩じゃなくて」

 

コハル「ハルカ先輩の、うしろ」

 

ミカは振り返った。

 

何もない。

 

白い壁と、椅子と、朝の光だけだ。

 

コハル「大きいの。人の形じゃなくて。……手だけ、いっぱいある」

 

コハル「こっち向いてる」

 

ハルカ「……あ」

 

ハルカの顔が、また白くなった。

 

何が見えているのか、本人には心当たりがあるらしかった。

 

誰も、それを聞かなかった。

 

ヒナ「コハル。目を閉じて」

 

コハル「閉じても、見える……」

 

ヒナ「じゃあ、こっちを見て。私の顔を」

 

コハルはヒナを見た。

 

それから、また悲鳴を飲み込んだ。

 

ヒナは、表情を変えなかった。

 

ヒナ「見えた?」

 

コハル「……見えた」

 

ヒナ「言わなくていいわ」

 

コハルは口を押さえたまま、何度も首を振った。

 

コハル「なんで」

 

声が、途中で崩れた。

 

コハル「なんで、私なの」

 

コハル「私、いちばん怖がりだよ。廊下の音でも跳ねるし、暗いのだって嫌だし」

 

コハル「なのに、なんで、怖いものを見る魔法なの」

 

コハル「そんなの、ずっと怖いままじゃない」

 

答える者はいなかった。

 

答えを持っている者が、この部屋にいなかった。

 

ミカは、コハルの隣の椅子に座った。

 

昨日の朝、この子が自分にしたのと同じ順番で。

 

椅子を引いて。

 

手の届く距離まで来て。

 

それから、何も言わずに待った。

 

ミカ「……私、うまいこと言えないんだけどさ」

 

コハル「うん」

 

ミカ「コハルちゃんの魔法、たぶん、いちばん役に立つ」

 

コハル「そんなの、慰めじゃない」

 

ミカ「慰めだよ」

 

コハル「……ミカ先輩、正直すぎ」

 

コハルは少し笑って、それから泣いた。

 

泣いている間、ミカは何も言わなかった。

 

廊下へ出たのは、そのすぐあとだった。

 

昨日ミカが外した居室の扉は、通行の邪魔になるので、廊下の端に重ねて置かれている。

 

壁からは離してある。

 

その一番上が、滑った。

 

ちょうど横を、コハルが通っていた。

 

ミカが動くより早く、ヒナの手が上がった。

 

音がした。

 

鉄が、床ではないものに当たる音だった。

 

扉はコハルの頭の上で一度止まり、それから横へ落ちた。

 

二人の間に、うっすらと光の面が残っていた。

 

すぐに消えた。

 

コハル「ひ、ヒナ先輩……?」

 

ヒナ「……動かないで」

 

ヒナは、自分の手を見ていた。

 

ユウカ「今のは、空崎さんですね」

 

ヒナ「たぶん」

 

ヒナは重なった扉の一枚に手を掛け、少しだけ持ち上げて、離した。

 

鉄が床を叩く。

 

何も起きなかった。

 

もう一度やった。

 

やはり、何も起きなかった。

 

三度目に、ヒナは自分の掌を見てから、手を下ろした。

 

ヒナ「……そういうことね」

 

ナギサ「ヒナさん」

 

ヒナ「私に向かってくるものには、出ないみたい」

 

ヒナ「人に向かっているときだけ、出る」

 

言い方は、いつもと同じ落ち着きだった。

 

落ち着いているほど、ヒナの声は低くなる。

 

ミカは、昨日それを聞いている。

 

ヒナ「よくできてるわ、この島」

 

ヒナ「性格を見て配ってる」

 

コハル「ヒナ先輩、それ」

 

ヒナ「都合はいいのよ。私が最後まで残るなら、全員分張れる」

 

ミカ「やめてよ」

 

自分の声が、廊下に響いた。

 

ミカ「そういう計算、しないで」

 

ヒナ「してないわ」

 

ミカ「してるじゃん」

 

ヒナ「……そうね」

 

ヒナは、否定を続けなかった。

 

それが、いちばん質の悪い肯定だった。

 

落ちた扉は、床で角が潰れていた。

 

もともと、ミカが蝶番ごと外したものだ。

 

端のあたりは、昨日、壁に触れた反響で歪んでいる。

 

ミカはそれを持ち上げようとして、縁に指を掛けた。

 

直ればいいのに、と思った。

 

思っただけだった。

 

左手首が熱くなった。

 

音はしなかった。

 

光もなかった。

 

ただ、手の中の重さが変わった。

 

潰れた角が、まっすぐになっている。

 

握り潰したように歪んでいた端が、傷ひとつない面に戻っていた。

 

外れたはずの蝶番の金具まで、揃っている。

 

コハル「……え」

 

ユウカ「聖園さん。今、何をしましたか」

 

ミカ「……何も」

 

ミカ「元に戻ればいいのに、って思っただけ」

 

ユウカ「検証します。時間をください」

 

ユウカは厨房から木のさじを二本持ってきた。

 

一本目を、自分の手で折った。

 

ユウカ「どうぞ」

 

ミカは折れたさじを持ち、さっきと同じことを考えた。

 

何も起きなかった。

 

輪も、熱くならなかった。

 

ユウカ「二本目を、あなたが折ってください」

 

ミカが折った。

 

乾いた音がした。

 

その音のあとで、さじは折れる前の形に戻っていた。

 

ユウカ「もう一度、同じものを」

 

ミカはさじを折り直し、また戻そうとした。

 

今度は、戻らなかった。

 

三度目も、同じだった。

 

ユウカ「条件が三つ出ました」

 

ユウカ「一つ。あなたが壊したものであること」

 

ユウカ「二つ。戻る先は、壊れる直前であること」

 

ユウカ「三つ。同じものについては、一度きり」

 

ミカは折れたさじを卓へ置いた。

 

自分の口で言った方がいい気がした。

 

ミカ「私が壊したものじゃないと、戻せない」

 

ミカ「私が壊したものを、壊れる直前まで。一回だけ」

 

ミカ「それだけ」

 

言い終えたとき、ミカはもう歩き出していた。

 

誰かが名前を呼んだ。

 

返事をしなかった。

 

渡り廊下を抜けて、医務室の扉を開ける。

 

白い衝立の向こうは、朝の光のせいで、思ったより明るかった。

 

二つ並んだ寝台の片方に、布がかけられている。

 

ミカは、その傍らに膝をついた。

 

昨日、自分が下ろした位置のままだった。

 

髪も、ヒナが直した位置のままだった。

 

ミカ「イロハちゃん」

 

布の端へ、手を置いた。

 

元に戻ればいい。

 

昨日の、十五時十分に。

 

鉛筆を耳に挟んで、備品の場所を気にして、面倒くさそうな顔をしていたところに。

 

左手首は、熱くならなかった。

 

何も起きなかった。

 

ミカは、もう一度手を置いた。

 

位置を変えた。

 

布を外して、置き直した。

 

何度目かで、後ろに人がいることに気づいた。

 

振り返らなくても分かった。

 

サオリは、何も言わなかった。

 

止めもしなかった。

 

入口のところに立って、ただ見ていた。

 

ミカは、手を下ろした。

 

ミカ「……私が壊したものだけ、なんだって」

 

ミカ「私が壊したものを、壊れる直前まで」

 

ミカ「この子は、私が壊したんじゃない」

 

言葉にすると、順序が正しく並んだ。

 

正しく並ぶことが、これほど腹立たしいとは思わなかった。

 

ミカ「じゃあさ」

 

ミカ「私が殺してたら、戻せたのかな」

 

サオリの靴が、一歩分だけ床を鳴らした。

 

それ以上は、近づかなかった。

 

ミカ「近づかないで」

 

サオリ「ああ」

 

ミカ「あと、何も言わないで」

 

サオリ「ああ」

 

言った通りにされると、余計に困った。

 

ミカは膝の上で拳を握り、それから、指の先まで開いた。

 

開いても、掌には何もなかった。

 

泣けばいいのに、と思った。

 

思ったことと、体は関係がなかった。

 

目の奥は乾いたまま、熱だけが残った。

 

左手首の線は、四本になっていた。

 

昼前に、食堂へ全員が集まった。

 

議題は、魔法をどう扱うか。

 

最初の三十分で、話は二度こじれた。

 

申告を義務にするかどうかで、ユウカとアズサが正面からぶつかった。

 

ユウカ「危険の共有と、能力の公開は違います」

 

アズサ「区別している余裕のある状況か」

 

ユウカ「余裕がないときほど、区別が要るんです」

 

どちらも譲らなかった。

 

ホシノが茶々を入れ、カヨコが黙って卓を指で叩いた。

 

ミカは口を挟まなかった。

 

昨日、自分が口を挟んだ結果を、まだ引きずっていた。

 

ナギサ「では、今日はここまでにしましょう」

 

ナギサが言った。

 

それだけだった。

 

ユウカが座った。

 

アズサが顎を引いた。

 

三十分続いた言い合いが、二秒で終わった。

 

ミカは、その速さに何も感じなかった。

 

感じなかったことに、少し遅れて気づいた。

 

最初に気づいたのは、ナギサ自身だった。

 

書きかけの紙の上で、ペン先が止まっていた。

 

ナギサ「……ユウカさん」

 

ユウカ「はい」

 

ナギサ「昨日、棗さんと生塩さんが別れた時刻は、十五時十二分でしたね」

 

ユウカの手が止まった。

 

ミカは顔を上げた。

 

十五時十分。

 

昨日、何度も繰り返された数字だ。

 

法廷で、四回は読み上げられている。

 

ユウカ「……十五時、十二分」

 

ユウカ「そう……でしたか」

 

ノア「私は、十分と申し上げました」

 

ユウカ「はい。ですが」

 

ユウカは、そこで言葉を切った。

 

自分の口から出たものを、自分で聞き返した顔だった。

 

ユウカ「……なぜ、私は今、頷きかけたんでしょう」

 

ナギサがペンを置いた。

 

置く音が、やけに小さかった。

 

ナギサ「十五時十分です。今のは、私が意図して間違えました」

 

ナギサ「試すような真似をして、申し訳ありません」

 

ユウカ「試した」

 

ナギサ「ええ」

 

ナギサは、全員の顔を順に見た。

 

誰の目も、逸らさなかった。

 

ナギサ「私の言葉は、聞いた人の判断に、本来より重い意味を持ちます」

 

ナギサ「私が言ったというだけで、正しさが増えます。中身とは関係なく」

 

誰も、すぐには声を出さなかった。

 

ミカは、昨日の法廷を思い返した。

 

最後に賛成したのは、ナギサだった。

 

あのとき、円の空気が固まったのを、ミカは覚えている。

 

ナギサ「ですから、決めます」

 

ナギサ「これから裁判では、事実の確認と、手続きの進行以外を述べません」

 

ナギサ「意見も、推測も、評価も」

 

ユウカ「……それは、あなたの発言力を、自分で捨てるということですか」

 

ナギサ「はい」

 

ユウカ「不利になります。明確に」

 

ナギサ「なります」

 

ヒナ「ナギサさん」

 

ヒナの声が、少しだけ低くなった。

 

ヒナ「それを言った瞬間から、あなたは誰にも守ってもらえなくなるわよ」

 

ナギサ「ええ」

 

ヒナ「分かってて言ってるのね」

 

ナギサ「ええ」

 

二人の間で、それ以上の言葉は交わされなかった。

 

交わす必要がないらしかった。

 

ミカには、その短さの意味が、半分しか分からなかった。

 

半分は分かった。

 

仕切る側に立った人間だけが知っている重さだ。

 

ミカ「ナギちゃん」

 

ナギサ「はい」

 

ミカ「昨日の朝、言ってたよね。ちゃんとして見せてるんです、って」

 

ナギサの指が、紙の端をなぞった。

 

ナギサ「言いました」

 

ミカ「あれ、謙遜だと思ってた」

 

ナギサ「私も、そのつもりでした」

 

ナギサ「見せていたものが、本当に効いていたのだと分かって……少し、気分が悪いです」

 

ミカは何か言おうとして、やめた。

 

この人に、今、自分の言葉で重みを足すのは違う気がした。

 

場を継いだのは、ノアだった。

 

ノア「私も、申告しておきますね」

 

ノア「一度読んだ文字を、忘れないようです」

 

コハル「忘れない……?」

 

ノア「はい。読んだものが、そのままの形で残っています」

 

ユウカ「確認します。昨日の温室の記録、三枚目の上から四行目を」

 

ノア「『水盤の縁に水滴。床の湿りは中央付近のみ。土は乾いている』」

 

ユウカ「……五枚目の、最後の行」

 

ノア「『十五時四十分。調査開始。終了予定は十八時』」

 

ユウカが紙をめくって、確かめた。

 

二度、確かめた。

 

ユウカ「合っています」

 

ざわめきが起きた。

 

悪い種類のものではなかった。

 

コハル「じゃあ、紙がなくなっても平気ってこと?」

 

ノア「平気とは言えませんが、書き直せます」

 

ホシノ「うへ~。それ、めちゃくちゃ助かるねえ」

 

シロコ「ん。燃えても大丈夫」

 

カヨコ「濡れても、ね」

 

ヒナ「記録係は、正式にノアさんに。異論のある人は」

 

誰も手を挙げなかった。

 

ノア「お引き受けします」

 

ノア「ただ、私の記憶と紙の記録が食い違ったときは、紙を優先してください」

 

ユウカ「なぜです」

 

ノア「私が間違えていた場合に、誰も気づけなくなりますから」

 

ユウカが、小さく息を吐いた。

 

ユウカ「……あなたのそういうところ、昔から嫌いではありません」

 

ノア「知っています」

 

久しぶりに、笑いらしい笑いが起きた。

 

ミカも笑った。

 

助かった、と素直に思った。

 

紙が残らなくてもいい、ということの意味を、そのときは誰も口にしなかった。

 

コハル「ノアさんの字、すごく読みやすいよね」

 

コハル「私、黒板の字とか、いつも半分しか読めないんだけど」

 

コハル「これ、全部読める」

 

ノア「ありがとうございます」

 

ノア「読む人がいる字を書きたいので」

 

ミカは、卓の上の紙を見た。

 

昨日も、同じことを思った。

 

読みやすい、整った字だ。

 

昼を過ぎて、取り決めの第二版ができた。

 

ノアが清書し、全員が順に署名した。

 

一つ。誰も一人にしない。移動は三人以上。二人になった時点で、どちらかが声を出す。

 

二つ。魔法を人に試さない。本人が同意していても。自分に試す場合も、必ず誰かが見ている場所で。

 

三つ。危険な作用だけは共有する。能力の詳細の申告は義務にしない。

 

四つ。使ったら、使ったと言う。輪の線は、毎朝、全員で確かめる。

 

五つ。推測を口にするときは、推測だと断ってから。

 

六つ。医務室と温室には、二人以上で入る。

 

七つ。夜間、廊下の明かりを消さない。

 

署名の途中で、ホシノが手を挙げた。

 

ホシノ「あ。おじさんのも言っとくね」

 

ホシノ「触ると、相手がちょっと眠くなるみたい。ほんの少しだけ」

 

ホシノ「あと、寝てる間は、痛いのが止まるっぽいよ」

 

コハル「そ、それ、すごく便利じゃない?」

 

ホシノ「便利だけどねえ。寝てる人は、何もできないから」

 

ホシノ「使うときは、先に言う。約束する」

 

シロコが、ホシノの袖を掴んだ。

 

昨日の法廷のときと、同じ握り方だった。

 

最後に残ったのは、サオリだった。

 

ユウカ「錠前さん」

 

サオリ「……まだ、話せる形にできない」

 

ユウカ「発現していないのですか。それとも、していて言わないのですか」

 

サオリ「している」

 

ユウカ「では、危険の有無だけでも」

 

サオリ「他人に危険はない。それだけは言える」

 

ミカ「他人には、ね」

 

言ってから、ミカは自分の口を少し憎んだ。

 

サオリは答えなかった。

 

答えないことは、ミカの言ったことを否定しなかった。

 

ヒナ「今日は、それでいい」

 

ヒナ「三つ目の項目は、そのために作ったのよ」

 

ユウカ「……納得はしていません。そのことも記録してください」

 

ノア「記録します」

 

夕方、ミカは医務室にいた。

 

六つ目の項目に従って、扉の外にはコハルが立っている。

 

中を見なくていいと言ったのに、ついてきた。

 

洗い場の水は、思ったより冷たかった。

 

白い布を沈めて、指の腹で押す。

 

温室の床に落としたときについた土が、少しずつ出てくる。

 

水が薄く濁った。

 

二度替えて、三度目でようやく澄んだ。

 

背後で、扉が開いた。

 

コハル「あ、サオリさん」

 

足音が、洗い場の手前で止まった。

 

サオリ「……何をしている」

 

ミカ「見れば分かるでしょ」

 

サオリ「洗っている」

 

ミカ「そう」

 

それきり、会話が止まった。

 

水の音だけが続いた。

 

ミカは布を絞り、広げて、また沈めた。

 

汚れは、もう落ちている。

 

それでも、手が止まらなかった。

 

サオリ「もう、落ちている」

 

ミカ「知ってる」

 

サオリ「そうか」

 

サオリは、それ以上言わなかった。

 

代わりに、洗い場の縁へ手を掛けた。

 

その手が、ミカの視界に入った。

 

右手の手袋。

 

指の付け根の裂け目は、昨日より広がっていた。

 

その下の、手の甲。

 

皮膚が、赤黒く変わっている。

 

火に触れたときのような跡だった。

 

昨日、この人はどこにも触れていない。

 

少なくとも、ミカの見ていた範囲では。

 

ミカ「それ、何」

 

サオリの手が引かれた。

 

遅かった。

 

サオリ「……あとで話す」

 

ミカ「またそれ」

 

サオリは目を逸らさなかった。

 

逸らさないまま、何も言わなかった。

 

ミカは布を絞った。

 

絞りすぎて、指が白くなった。

 

ミカ「あのさ」

 

ミカ「あなたが黙るたびに、私、あなたを疑う理由が一個ずつ増えるんだけど」

 

サオリ「分かっている」

 

ミカ「分かっててやるんだ」

 

サオリ「ああ」

 

その返事だけは、いつも速い。

 

ミカ「……サオリ」

 

名前で呼んだのは、自分でも意外だった。

 

ミカ「早くしてよ」

 

サオリの肩が、わずかに動いた。

 

サオリ「ああ」

 

足音が遠ざかる。

 

扉が閉まる音がして、廊下でコハルが何か言った。

 

ミカは水を止めた。

 

布を絞り、二度振って、皺を伸ばす。

 

洗い場の縁の金具へ掛けた。

 

ここなら、朝には乾く。

 

乾いたら、畳んで、棚へ戻す。

 

棚の段は、きちんと閉める。

 

あの人は、そういうところが、きっちりしていたから。

 

乾いたら、畳んで、返す。

 

返す。

 

その一語のところで、指が止まった。

 

ミカは掛けた布の端をつまみ、まっすぐに直した。

 

それから、もう一度直した。

 

二度目は、直す必要がなかった。

 

白い衝立の向こうは、静かだった。

 

窓の外では、風見鶏が海を向いたまま、動かずにいた。

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